二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

光と闇を結ぶ「通町橋」

20050604141335.jpg
通町橋・明治末から大正初期

木製の橋の右手には白壁の土蔵造り店舗の吉川雑貨店(現須田薬局)、その奥には高砂堂の店舗がみえる。高砂堂が現在の店舗に建替えられる前だから、撮影は大正七年以前。

両手に野菜を沢山入れたコダシ(アケビづるで編んだ買い物カゴ)を持った婦人は、外町(商人・職人町)で買い物をして内町(武家町)に帰るところ。上肴町と通町を廻れば食料品は取揃えることができた。戦前まで、外町の商人は内町から来たお客さんが帰るとき「お静かに」とか、「お平に」と声をかけ、それ以外のお客さんには「おありがとうございます」と使い分けたという。

20050604141347.jpg
部分拡大

日傘をさした婦人たちも買物をして内町に帰るところのようだ。
ひときわ大きい妻入りの建物の屋根には、防火用の天水瓶(てんすいがめ)を支える木枠が二つみえる。ここに置いた瓶に雨水を溜めてイザというときの備えとしたもので、陶器の瓶のほかに木製の樽も利用された。この建物は野口周次郎酒造と思われる。

橋の落成は元禄二年(1689)、外町と内町を結ぶ橋のたもとには番所が建ち、夜間は通行禁止の警戒線が張られていた。また、この橋は五丁目橋とならぶ死刑囚の首晒しの場でもあった。宝暦三年(1753)、親殺しの本宮村多兵衛という男が、ここで鋸挽(のこぎりびき)の刑に処せられている。鋸挽は主人殺しなどの反儒教的犯罪に科される重罪で、罪人を首だけ出して土に埋め、または箱に入れ、わきに鉄と竹のノコギリを置いて希望者に鋸で首を挽かせるという恐ろしい刑罰。江戸時代にはノコギリは見せしめのための小道具となり、二日間晒した後は刑場で磔(はりつけ)にされた。

洪水で何度も流された木橋が、コンクリート製の永久橋になったのは昭和十三年。平成十年には道路が大幅に拡張され、現在の橋が完成した。


大きな地図で見る




通町橋余話・間杉家の悲劇

安永四年(1775)五月晦日、この橋のたもとで一人の青年が切腹して果てた。青年は土崎湊の廻船問屋・間杉五郎八の嫡子・辰蔵、弱冠二十七歳。

さかのぼること数カ月前・・・・・・
参勤交代のため江戸屋敷に在った八代藩主義敦は、久保田までの道中費用が不足し、帰ることができなくなり、一万両用意してくれるようにと久保田の家老に書状を送る。大勢の家来を従える大名行列は大金を要し各藩の財政を圧迫していた。

藩ではさっそく土崎湊の廻船問屋・船木助左衛門と間杉五郎八を呼び寄せ、費用の調達を申し渡すが、一万両といえば現在の十億円にも相当し、いかに富裕な廻船問屋でも簡単には用意できず、船木助左衛門は辞退するが、藩主の書状を見せられた間杉五郎八は「藩の庇護あって今日ある身なれば御受けしなければなるまい」と承諾する。しかし一万両の大金は手元にない。そこで、藩の蔵米を売って金にすることを引き受け、老年の五郎八の代理として長男の辰蔵を大坂に走らせた。やっとの思いで大阪商人と藩米の売買契約を結んだ辰蔵は、代金一万両を先受けし藩の大坂屋敷に渡し、任務を全うし帰国する。

間もなく大坂からは藩米を積み取る船が下ってきた。安永四年五月晦日、五郎八の代理として辰蔵が久保田城に登り催促すると、奉公たちは「米に差支えがあり(米はない)何ともしようがないから、其方の所存によって大坂の商人をほどよく取扱って返すように」と言う。辰蔵は困惑してしまう。米を用意できないとなれば、自分が契約した商人たちに合わせる顔がないし、一万両という大金をつくる当てもない。藩と大坂商人の板挟みになった辰蔵は、藩の奉公たちに裏切られた憤りを抱え、城を下る途中、通町橋で切腹して果てたのであった。まったくひどい話である。藩のために必死で働いた末に裏切りを受けた辰蔵の想いはいかばかりであったか。

間杉家では辰蔵の死を「宿元で病死」と届け、五郎八の奔走の末、一万石余の米と、不足分は金子をもって残らず大阪商人に渡し、違約という恥をさらすこともなく事を済ませたが、一万両は間杉家の借金として残ってしまう。

藩が財政窮迫のとき、頼れるのは藩の保護によって富み栄えている家督商を始めとした富豪たちで、彼らに御用金(謝金)を命じ、上納金(寄付金)を強制的に要求した。しかし「借金」という名目で証文を貰っても、実際には返済しないことが多く、商家には藩からの証文が残るばかり、その代価に名字帯刀を許し士分の資格を与え、御用金の証文を帳消しにする場合もあった。

十八世紀の末までに、廻船問屋・間杉家が藩に用立てた御用金は、合計三万三千七百両余、現在の貨幣価値では三十三億七千万円にも及んだという。さらに、土崎湊に入った船から税金を集める仕事を任されていた中村三右衛門家では、藩に対して拠出した御用金が二十七万両余、現在の二百七十億円にも達したというから、当時の湊商人の並外れた富力と繁栄がうかがえる。

| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

| - | 2013/01/09 11:19 | |















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://20century.blog2.fc2.com/tb.php/85-7e9d020b

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT