米国に夢のあかりを輸出した「秋田クリスマス電球」
◆輸出産業界のホープ「秋田クリスマス電球」

昭和39年(1964)早春、造成して間もない秋田臨海工業地帯の一画で、米国向けクリスマス装飾電球を製造する「秋田輸出電球団地協同組合」通称「秋田クリスマス電球」操業開始。
7万9000平方メートルの敷地に独立採算の企業が集まる、平均年齢19歳、女性7割の従業員のほか、内職家庭をふくめ千人以上が関わっていた工場団地は、明るく華やかな企業イメージで、中・高校卒業生の就職先として多大な人気をあつめる。
クリスマス電球を製造する中小企業が集中していた、東京都品川区で操業する業者22名(当初)が、地方に新天地を求めて組合を結成、集団移転したのが「秋田輸出電球団地協同組合」(秋田クリスマス電球)。
この時代、低賃金労働者が豊富な香港・台湾・韓国らアジア勢が豆電球業界に台頭し、日本製品と競合する状態になっていた。輸出額を維持し価格競争を生きのびるにはコストを引き下げなければならず、その打開策として設備の近代化と工場集団化による生産規模拡大が急がれていた。
しかし、都市部で工場用地を確保するのは難しく、騒音公害も問題になっており、加えて中小企業の求人難は年々厳しさを増すばかり。それら難題を一挙に解決するため、政府の新産業都市構想とも同調して、地方都市への集団移転が一部の業者間で計画される。
当初「秋田クリスマス電球」は山形への移転を計画していたが、それを耳にした県知事・小畑勇二郎は、軌道に乗るまでの1、2年間、工場用地を無償提供することを提示し、誘致に成功したという。
「秋田クリスマス電球」団地と同時代に県内に進出したクリスマス電球製造会社は「堀田電気株式会社秋田工場」(飯田川町)と「坂本電球製作所」(岩城町)。
◆輸出クリスマス電球の隆盛と衰退
東京「品川歴史館」のサイトに、「秋田クリスマス電球」のルーツである、品川の電球産業についての解説があり、秋田についての記述もあった。
上掲の輸出個数推移図を見ての通り「秋田クリスマス電球」が操業を開始した昭和39年(1964)は、クリスマス電球の輸出量が急増していた時代。昭和41年をピークに国内生産量の下降に歯止めがかからなかったが、設備の近代化と工場集団化が功を奏して、秋田県内の輸出額は昭和46年まで順調に増加している。
昭和46年(1971)8月、米国大統領リチャード・ニクソンは、金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の導入をふくむドル防衛策を電撃的に発表。俗にニクソン・ショック(ドル・ショック)といわれる、世界経済に多大な影響を与えた事件である。
ニクソン・ショックの後、スミソニアン協定でドルの切り下げ決定、1ドル=360円から1ドル=308円の円高になるが、それでも米国の貿易赤字は止まることを知らず、ドルの固定相場制の維持が困難になり、昭和48年(1973)日本を含む主要国が変動相場制に移行。その直後には一時的に1ドル=260円台の大幅な円高になった。
こうして日本製クリスマス電球は米国市場で割高となり需要が衰退。「秋田クリスマス電球」団地に残った企業は、国内向け弱電部品製造業に転換を図り、約9年間つづいたクリスマス電球の灯は消えてしまう。
昭和49年(1974)、ほとんど使われることがなくなった女子寮を、隣接する「秋田いなふく米菓」へ売却。その資金をもとに、管理機能の合理化・集約化を目的とした「秋田電機センター」を5社合同で建設。竣工にともない不要となった建物に、「大川反簡易郵便局」が入居。
その団地がいつ解散・撤退したかは定かではないが、秋田市営バスの「クリスマス電球前」停留所が「大川反郵便局前」に変更されたのは、昭和64年(1989)。団地が無くなっても停留所の名は長いあいだ残っていたのだろう。
「秋田クリスマス電球」団地に存在した企業で、今も電球製造に関わっていることを確認できたのは、「押野電気製作所」(東京都品川区)、「丸山輸出電球製作所」(東京都江東区)、潟上市天王に「丸山輸出電球製作所二田工場」がある。

LIFE-1952年12月1日

LIFE-1961年11月24日
日本から輸出されたクリスマス電球は、米国の有名家電メーカーからも発売された。

昭和41年発行「秋田市街図」より
右上に八橋陸上競技場、その左手に秋田商業高校、ピンクがクリスマス電球。
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「秋田クリスマス電球」跡
昭和41年(1966)「秋田クリスマス電球」団地内の遊休地に、県内製菓業者の共同出資による「秋田いなふく米菓」創業。その後、施設を拡充して今に到る。
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昭和39年(1964)早春、造成して間もない秋田臨海工業地帯の一画で、米国向けクリスマス装飾電球を製造する「秋田輸出電球団地協同組合」通称「秋田クリスマス電球」操業開始。
7万9000平方メートルの敷地に独立採算の企業が集まる、平均年齢19歳、女性7割の従業員のほか、内職家庭をふくめ千人以上が関わっていた工場団地は、明るく華やかな企業イメージで、中・高校卒業生の就職先として多大な人気をあつめる。
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年々伸びる輸出額
◇十七工場から年間六千万個生産
年末になるとみなさんの家庭にしあわせの灯をともしてくれるクリスマス電球の製造会社「秋田輸出電球団地協同組合」を紹介します。
秋田湾臨海工業地帯の一角に位置する同工場は県内でも珍しい団地工場で、昭和三十九年三月に東京の十七の会社が共同出資して、豊富な労働市場を持つ秋田市に工場誘致の先端をきって集団移転したものです。
敷地には十四棟の工場が建っていて、各々の工場が独立採算制で営業しています。
この工場で製造している電球は着色した卵大の電球と、トウガラシのような形をしたペッパーといわれる点滅式電球など三種類です。
年間の生産高は約六千万個で、そのほとんどがクリスマス用品としてアメリカに輸出されています。ここで作られた電球がはるばる海を渡ってアメリカの各家庭で静かな聖夜を色彩ることを思うと、同社は楽しい夢をつくるといったところです。
現在、アメリカで使用しているクリスマス電球の数量は約五億個でそのうち日本からの輸出は二億五千万個ぐらいということです。
ここで働く従業員のほとんどは市内の出身者で従業員数は五百二十人です。その七割が女性で、平均年齢十九歳という若さが社内を明るいふん囲気と新鮮な意欲で満たしています。新しい会社なので厚生施設の建設にはまだ手がまわりかねていましたが、ことしの八月ごろには約七千二百万円の予算で食堂から娯楽施設を完備した社員寮(百八十人収容)を建てる計画です。
この会社は県内でも数少ない輸出を主体とした企業であり、今後ますますふえる見込みで将来有望な企業といえます。事実、需要に追いつかず市内の主婦などの内職にも回しているほどです。
これからもこの工場で生産される明るくきれいな灯が海外のクリスマスの夜を色彩り、家庭にささやかな夢を送り込むことでしょう。『広報あきた』昭和41年(1966)4月20日号より
クリスマス電球を製造する中小企業が集中していた、東京都品川区で操業する業者22名(当初)が、地方に新天地を求めて組合を結成、集団移転したのが「秋田輸出電球団地協同組合」(秋田クリスマス電球)。
この時代、低賃金労働者が豊富な香港・台湾・韓国らアジア勢が豆電球業界に台頭し、日本製品と競合する状態になっていた。輸出額を維持し価格競争を生きのびるにはコストを引き下げなければならず、その打開策として設備の近代化と工場集団化による生産規模拡大が急がれていた。
しかし、都市部で工場用地を確保するのは難しく、騒音公害も問題になっており、加えて中小企業の求人難は年々厳しさを増すばかり。それら難題を一挙に解決するため、政府の新産業都市構想とも同調して、地方都市への集団移転が一部の業者間で計画される。
当初「秋田クリスマス電球」は山形への移転を計画していたが、それを耳にした県知事・小畑勇二郎は、軌道に乗るまでの1、2年間、工場用地を無償提供することを提示し、誘致に成功したという。
「秋田クリスマス電球」団地と同時代に県内に進出したクリスマス電球製造会社は「堀田電気株式会社秋田工場」(飯田川町)と「坂本電球製作所」(岩城町)。
◆輸出クリスマス電球の隆盛と衰退
東京「品川歴史館」のサイトに、「秋田クリスマス電球」のルーツである、品川の電球産業についての解説があり、秋田についての記述もあった。
品川の電球工業--クリスマスツリー用電球製造--
‥‥前略‥‥
一般家庭用電球はマツダランプ=東京電気が独占的でしたが、小型電球、特に豆電球は生産設備が小規模でできるため、明治末から大正にかけて、豆電球製造業者が品川・大井・大崎や隣の芝区(現在、港区)に続々と誕生しました。
豆電球は第一次大戦(1914-1918)以降、欧米諸国に懐中電灯用として大量に輸出されました。クリスマスツリー用電球も「ラッキョウ」とよばれ、アメリカ向けに輸出され、特に果物、花、人形などをかたどった、変形電球(ファンシーランプ)輸出のはじまりでした。
品川の輸出クリスマスツリー用電球
アメリカ向けを主とする輸出クリスマスツリー用電球工業は、零細な家内工業に負うところが大きく、手工業的な技術と低賃金に支えられ戦前から品川区の代表的な地場産業として発展してきました。
太平洋戦争で工場や機械を失ったところもありましたが、戦後の復興は早く、昭和21年(1946)には、クリスマスツリー用電球の輸出が始まりました。翌年には400万個の輸出が行われたのです。
‥‥中略‥‥
クリスマスツリー用電球輸出の推移(下表)を見ると、戦後に輸出が再開されて、昭和35年には3億個、昭和41年には4億個をこして最高を記録しています。46年以降は年々減少していったのがわかります。この中で、品川区内の工場での生産量を占める割合は、80%で日本一の生産量を誇っていました。
クリスマスツリー用電球工業の転機
わが国の産業・経済は、昭和30年代のはじまりとともに戦後復興と決別し、神武景気、岩戸景気と騒がれたころから飛躍的に発展していった。高度成長によって、大都市での労働力の不足や労働賃金の上昇は電球工業界にとって、大きな問題となっていました。低賃金と家内労働を基盤とした零細工場では、大企業との賃金格差が大きく、さらに、台湾・韓国・香港などの国々との価格競争に勝てず、輸出は下降線をたどっていきました。なかには設備を近代化して生産力を高めたり、豊富な労働力を求めて工場を移転させて競争力を高めようとしました。昭和39年には秋田市郊外に新しい設備の工場を建設し、18工場が移転したのですが、必ずしも順調ではありませんでした。工場の地方移転は、秋田県のほかに、茨城県、新潟県、五日市町(多摩地区)等で、区内全工場約360工場のわずか6~7%にすぎなかったのです。品川区には昭和40年(1965)でも162組合加盟工場があり、零細工場としての体質の改善は進みませんでした。しかも、発展途上国の台頭によって価格競争でますますの苦境に追い込まれ、昭和46年には品川区で40工場に激減していきました。
‥‥後略‥‥品川歴史館・解説シート『品川の電球工業-クリスマスツリー用電球製造-』より
上掲の輸出個数推移図を見ての通り「秋田クリスマス電球」が操業を開始した昭和39年(1964)は、クリスマス電球の輸出量が急増していた時代。昭和41年をピークに国内生産量の下降に歯止めがかからなかったが、設備の近代化と工場集団化が功を奏して、秋田県内の輸出額は昭和46年まで順調に増加している。
秋田県におけるクリスマス電球輸出実績
昭和41年(1966)4億5364万8000円
昭和43年(1968)6億6858万円
昭和44年(1969)7億5236万3000円
昭和45年(1970)7億8574万5000円
昭和46年(1971)10億9012万9000円
昭和47年(1972)9億6627万4000円 この年、団地内7業者が新会社を設立、韓国に進出
昭和48年(1973)1億6639万6000円
昭和46年(1971)8月、米国大統領リチャード・ニクソンは、金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の導入をふくむドル防衛策を電撃的に発表。俗にニクソン・ショック(ドル・ショック)といわれる、世界経済に多大な影響を与えた事件である。
ニクソン・ショックの後、スミソニアン協定でドルの切り下げ決定、1ドル=360円から1ドル=308円の円高になるが、それでも米国の貿易赤字は止まることを知らず、ドルの固定相場制の維持が困難になり、昭和48年(1973)日本を含む主要国が変動相場制に移行。その直後には一時的に1ドル=260円台の大幅な円高になった。
こうして日本製クリスマス電球は米国市場で割高となり需要が衰退。「秋田クリスマス電球」団地に残った企業は、国内向け弱電部品製造業に転換を図り、約9年間つづいたクリスマス電球の灯は消えてしまう。
昭和49年(1974)、ほとんど使われることがなくなった女子寮を、隣接する「秋田いなふく米菓」へ売却。その資金をもとに、管理機能の合理化・集約化を目的とした「秋田電機センター」を5社合同で建設。竣工にともない不要となった建物に、「大川反簡易郵便局」が入居。
その団地がいつ解散・撤退したかは定かではないが、秋田市営バスの「クリスマス電球前」停留所が「大川反郵便局前」に変更されたのは、昭和64年(1989)。団地が無くなっても停留所の名は長いあいだ残っていたのだろう。
「秋田クリスマス電球」団地に存在した企業で、今も電球製造に関わっていることを確認できたのは、「押野電気製作所」(東京都品川区)、「丸山輸出電球製作所」(東京都江東区)、潟上市天王に「丸山輸出電球製作所二田工場」がある。

LIFE-1952年12月1日

LIFE-1961年11月24日
日本から輸出されたクリスマス電球は、米国の有名家電メーカーからも発売された。

昭和41年発行「秋田市街図」より
右上に八橋陸上競技場、その左手に秋田商業高校、ピンクがクリスマス電球。
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「秋田クリスマス電球」跡
昭和41年(1966)「秋田クリスマス電球」団地内の遊休地に、県内製菓業者の共同出資による「秋田いなふく米菓」創業。その後、施設を拡充して今に到る。
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