秋田高女(秋田北高)・かつての女学校も今は
保戸野の土手より対岸の秋田高女(現・秋田北高)を望む。初代校舎の正門は旭川側を向いていた。
▲2011.08 保戸野の土手より北高を望む
明治三十二(1899)年、高等女学校令の施行により、道府県に最低一校の高等女学校設置義務が規定される。 明治三十四年(1901)、秋田市中島に「秋田県立秋田高等女学校」創立。遠方からの入学者のために寄宿舎を併設。
尋常小学校(義務教育)および高等小学校卒業後、男子は旧制中学校など、女子は高等女学校などに進むことになるが、家庭の事情で義務教育にさえ通えない子どもが多かった時代、進学できるのは富裕層の子女だけ。とくに女子の進学率は極端に低く、高女に入れることがステータスとなる時代であった。
▲大正二年十月「秋田高等女学校運動会」体操風景
明治末から大正・昭和初期にかけての女学生の服装は、髪を洋風の束髪に結いリボンを結び、着物に海老茶色の袴、カバン代わりの風呂敷包みをかかえ、洋靴に黒いハイソックスを履く和洋折衷スタイル。
体育の授業や運動会では、ズボン状で足もとを紐で括る“括り袴”を着用したが、大正末の頃になると徐々に洋風の運動着がみられるようになる。
▲大正十三年五月「秋田高等女学校運動会」ダンス風景
着物に袴姿の生徒の中に洋風運動着の生徒がまじる。運動着もジャンパースカート風やワンピースなどさまざま。
昭和三年(1928)セーラー服を制服として制定。
秋田高女のシンボル「あげまき」のワンポイント刺繍がオシャレだが、なぜこの位置に?
昭和五年(1930)十月、火災により擬洋風建築の初代校舎焼失。 昭和六年(1931)新校舎落成。
▲二代目校舎(昭和六年~昭和四十年)
中央エントランスおよび階段にコンクリートを用いて防火ゾーンとした木造二階建て新校舎。旧校舎の正門は北西を向いていたが、新校舎は南西向きに変更。つまり画像の左手奥を旭川が流れていることになる。
昭和二十三年(1948)、学制改革により新制高等学校に転換、「秋田県立秋田北高等学校」と改名。 平成二十年(2008)四月、男女共学が始まり、百余年におよぶ女学校としての歴史に幕をおろす。
詩人で書家・国文学者の尾上八郎(尾上柴舟)作詞、「春が来た」「春の小川」「朧月夜」など、唱歌の名曲を手がけた岡野貞一作曲による校歌は、昭和七年から歌い継がれてきた歌詞の「我等乙女」の部分が「我等若人」に書き換えられて、かつての麗しさを損なってしまった。
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