二〇世紀ひみつ基地

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クルスは何を語るのか

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三枚の真鍮板を貼りあわせて造られた古色を帯びたクルス・・・、これは私の父が、昭和三十三年ころ、千秋公園西側の崖で拾ったもの。

藩士、重臣を含めて、久保田城内(千秋公園)には多数のキリシタンが居たことが記録されている。
一例をあげると……。
耶蘇会派の宣教師が東洋における布教の状況を本国に報告した『日本耶蘇会年報』によれば、佐竹義宣の第二婦人・西の丸殿は熱心なキリシタンであった。身分が身分であり洗礼を受けることができなかったが、マリアの御絵の前にひざまづいて熱心に祈り、日曜日や祝祭日には、キリシタンの女中を招いて祝宴を設け、異教徒には信仰をすすめ、仏僧から迷信的な箱(?)を贈られるとそれを火中に投ずるのであった。

ある日、義宣からお寺に参詣するように言われ、腰元のキリシタン女中を伴って行ったはよいが、「万物の長である人間が木石を拝む理がない」と、仏を拝むこともせずに義宣の怒りを買い城内から追い出されてしまうが、西の丸殿はこれで離婚ができ洗礼が受けられると喜んだというから、呆れてものが言えない。希望どうり離縁された西ノ丸殿は、念願の洗礼を受け、京都の信者と結婚したという。

かつて千秋公園から発見されて、記録に残っているキリシタン資料が二つある。明治二十四年頃、公園改修の際に、百軒長屋の南端から掘りだされた「マリヤの石膏像」と、明治三十一年に霊泉(茶室「宣庵」の池)付近のモミの木の空洞に隠されていた純金製「メダイユ(メダル)」。これらは城内にいた信者が、徳川幕府によるキリシタン禁制の詮議が厳しくなり、発覚を恐れて秘匿したものといわれるが、このクルスもひょっとして、そんな因縁をもつ時代をさかのぼるキリシタン資料なのかも知れない。

| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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