二〇世紀ひみつ基地

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消えた維新の名残・陸軍用地標石

●明治維新を語る道端の標石


2009.03

秋田市千秋久保田町の結婚式場「秋田セントポール教会」附属レストラン「フォンテーヌ」南隣の空き地に、つい最近まで「陸軍用地」の文字とその右上に「三一」と番号が刻まれた、高さ三十センチほどの石柱が道路のある西側を向いて設置されていた。

かつてこの石柱の道路をはさんだ西側に、久保田城の外堀が水をたたえていたことから、外堀の東側の旧町名を手形堀反(ほりばた)町という。詳細は下記関連記事に。




2006

手形堀反町の西側は久保田城郭であったが、明治四年の廃藩置県の後、明治政府は諸大名から土地を取り上げ、久保田城は兵部省所轄の軍用地となり、藩主は東京への転居を命じられる。

その石柱は国有の軍用地(久保田城址)と民有地との境界を示すために設置された、数十基の標石のうち、ただひとつだけ残されたと想像される歴史的遺産であり、廃藩置県までここから西側は佐竹氏の所有地であったわけだ。

軍用地時代の久保田城址は管理する者もなく荒れ果て、一時は県庁が置かれ、県庁移転後は住む者もなく廃墟と化していた本丸の久保田城も明治十三年七月に炎上、現存する御物頭御番所、城門などの一部を残して焼失する。

明治二十三年、陸軍は久保田城址と附属地を佐竹家に四千五百円(小学校教員の初任給五円ほどの時代)で縁故払い下げを決定。同年、秋田市が城址の一部を借り受け公園とする。

◆千秋公園(久保田城址)小史
明治二十五年、 羽生氏熟(後の秋田市長)をリーダーとする旧藩士によるグループ「有終会」が、桜の苗木千本余りを寄付植樹。
明治二十九年、秋田市から秋田県へ公園を移管、東京から著名な造園家・長岡安平を招き、県立公園として三年計画で造園を開始。
明治三十四年、大館出身の漢学者・狩野良知が、長久を祝する語「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)」から、秋田の永い繁栄を祈って「千秋園」と命名。
昭和二十八年、再び秋田市に移管。
昭和五十九年、旧久保田藩佐竹宗家十五代・故佐竹義榮(よしなが)氏の遺族が、公園用地として貸与していた約十五万平方メートル(県民会館・明徳館・国学館・和洋女子高などの敷地は除く)を市に寄贈。


●消えた道路と標石

区画整理事業の進展で旧堀反町通りは宅地となり、かつて外堀が存在し、最近まで住宅や商店が密集していた西側に新道路を造成中。


都市計画道路 千秋久保田町線(駅方向を望む)2010.03



約百四十年間、人知れずこの地にあって、変わりゆく風景を記憶してきた「陸軍用地」の標石が、ついこの間まで存在した空き地の周辺では、結婚式場「セントポール教会」の付属施設が、この九月のオープンをめどに工事中である。


「陸軍用地」標石跡(矢印)手前に新道路 2010.04


大きな地図で見る
「陸軍用地」標石跡

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関連リンク

秋田市-秋田駅西北地区土地区画整理事業

都心に残された旧陸軍標石

陸軍用地 石 - Google 検索

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