二〇世紀ひみつ基地

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本丸に旗はためきて明日の空



千秋公園本丸に鎮座する秋田八幡神社の裏、霊泉台の台地に残る三角形のコンクリート土台。切断された鉄柱の痕跡が残るこの土台の上に、「気象信号標」のヤグラが建ち、天気予報の旗がハタハタとはためいていたのは戦前のこと。

勝平得之の版画に、その信号標が描かれた作品がある。


勝平得之『千秋公園八景・蛇柳夜景』昭和十年

広小路から“穴門の堀”越しに千秋公園を望む風景の右上方、こんもりとした高台に描かれた三角形の旗が、霊泉台にあった信号標である。

ラジオなどのメディアが充分に普及していなかった時代、「気象信号標」は、庶民が明日の天気を知るための重要な手段であった。

明治22年(1889)、秋田県山本郡能代港町に、船舶の安全航行のため暴風警報信号標を設置。これが本県に於ける最初の予報信号標。
明治30年(1897)10月、秋田測候所が秋田市長町(県庁前)に暴風警報信号標および地方天気予報信号標を設置。
明治36年(1903)9月、暴風警報信号標および地方天気予報信号標を秋田市の千秋公園地内に設置、夜間の信号は電灯とする。長町の旧信号標は廃止。

平地の長町ではポールを高くしても見える範囲が限られたため、標高約40メートルの霊泉台に移設。最初は丸太を立てた信号標で、昭和に入ってから鉄骨のヤグラに切り替わったらしい。


明治40年頃

御隅櫓に通じる多門長屋跡の向こうに、縞模様にペイントされた信号標の丸太製ポールが建つ。



現在の多門長屋跡。木々の生長が時の流れを実感させる。



信号標の下には用具をしまう小屋。


『秋田市千秋公園鳥瞰図』(日本弘道会秋田市会発行)より

信号標に使用される旗の種類は以下の通り。形と色の組み合わせで気温・風向き・天候をあらわし、右図のようにそれらを組み合わせて掲示する。


信号標一覧

また、台風などを警告する「暴風警報信号標」の場合、赤球または赤円錐を掲示、夜間は電灯をこれに代えた。


暴風警報信号標『千葉県管内気象年報 明治四十三年』より

日中に掲示された赤球は、直径2メートルほどのカゴに赤い布を貼ったもので、この赤球や夜間の電灯は遠く土崎港からもよく見えたという。


八幡秋田神社 明治40年頃

八幡秋田神社側から見た木製信号標に、暴風を警報する赤球が掲示されている。




「雨を忘れた夏-今日も又晴の千秋公園の天気予報-」
昭和13年8月『秋田魁新報』より

これが、今も残るコンクリート土台の上に建っていた信号標の鉄製ヤグラ。

昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争開戦により気象報道管制施行。軍事機密となった天気予報の一般への発表が禁止され、千秋公園の高台にはためく旗は姿を消す。

金属不足におちいった大東亜戦争末期、おなじく千秋公園内にあった佐竹義尭公の銅像や時鐘と同様に、信号標の鉄柱も供出されたに違いない。


鉄柱の残骸

市街地の気象信号標について、『秋田県気象百年史』によれば、「昭和27年12月1日 木内デパート屋上で天気予報標識の掲示が始められた」とあるから、戦後になってもまだ必要とされていたのだろう。当時の木内デパートは戦前からの二階建てだが、まだ周囲に高層の建物がなく、高いポールを立てれば、ある程度の遠望がきいたと思われる。

千秋公園霊泉台に残る「気象信号標」の残骸は、天気予報と庶民の歴史を今に語りつぐ、忘れられた近代化遺産モニュメントである。




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| 秋田市今昔 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

こういう歴史的遺産に何かしらの標柱や説明の看板などがないのが残念ですね。

| around30 | 2009/12/06 23:04 | URL |















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