二〇世紀ひみつ基地

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内堀と鐘つき堂のある風景


勝平得之『千秋公園八景・雨の内濠』昭和十二年

県民会館の裏に残る千秋公園の内堀と、その上の鐘楼。内堀の水面は鷹匠町方面へつづき、柳越しに土手長町の火の見櫓がみえる。水上を這うように伸びる松は今も健在。

久保田城の時鐘の歴史をひもとくと、寛永十六年(1639)、第二代藩主・佐竹義隆が、二の丸の東側、現在の佐竹資料館の裏付近に設置したのが最初で、明治の廃藩後、寺町、土手長町と移転した鐘楼は、明治二十五年、再び旧城地・千秋公園の霊泉台下に戻る。


内堀と鐘楼 明治末から大正初期頃


鷹匠町から鐘楼を望む 大正末頃

慶応二年(1866)に改鋳された時鐘は、心に染みいる音色の名鐘だったという。しかし、大東亜戦争時の金属資源不足により、昭和十八年に供出、市民に時を告げ、心を和ませた時鐘は小坂鉱山で溶かされ、殺戮のための砲弾と化す。

昭和二十三年、当時の林金属工作所社長と兄弟が、艱難の末に鋳造した時鐘を秋田市に寄贈。

鐘を鋳造するとき、高貴な方が使う銅鏡など、日用品を混入するしきたりが古くからあり、このときは秩父宮から銅製の表彰盾と一輪挿しを拝領して製作、以前のような余韻のある美しい響きを取り戻すことはかなわなかったものの、平和への祈りをこめて「平和の鐘」と命名されて復活する。

昭和四十三年、木造鐘楼の老朽化により時鐘を降ろし、再び鐘の音が途絶える。

昭和四十八年、市民の募金活動で得た資金をもとに、鉄筋コンクリート二層建ての新鐘楼を建築、「千秋の鐘」の名で再復活。

藩政時代から鐘守を勤める吉敷家は現在で七代目。廃藩置県後の土手長町時代には、一軒から一銭五厘の鐘つき代を貰いに市内を集金に歩いたとのこと。まだ時計の普及していない時代、時鐘は時を知るかけがえのない存在であった。



中二階のある三階建て木造鐘楼の時代、吉敷家はその階下を住居としていた。昭和のはじめ頃ここで、鎌を振り回す暴漢に主人が襲われる傷害事件発生、加害者を取り調べ、理由を問い詰めると「鐘の音を聞くのが嫌いだったからやっつけた」と自供したという。

老朽化した鐘楼を取り壊したあと、吉敷家は下の内堀近くに移転、そこから新設された鐘楼へ通うための階段も整備され、雨の日も豪雪の日も、一日も休むこともなく、朝晩、鐘を撞きつづけている。


09.03

現在の鐘楼は木造時代よりも高層だが、樹木の成長により、勝平得之が『雨の内濠』をスケッチした位置からその姿を望めるのは、木々が葉を落とした時期だけ。

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