二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

城下の名残「鑑の松」貞節の鑑

●土手の上の老松


 08.10

秋田市矢留町、保戸野新橋のたもと、土塁の上で貫禄のある優美な姿をみせる老松「鑑(かがみ)の松」。

佐竹義宣公が、今の千秋公園に築城、町割りの一環として旭川を大改修し、掘替えの際に出た土で旭川の東岸に、高さ八尺(約2.5メートル)の土手を築いた際に植えられたもので、間近にある「鷹の松」と同様に樹齢三百八十年ほどの老松である。

防御壁として旭川の東岸、内町(うちまち)側に築かれ、松が植えられた土手は、北は千秋中島町の踏切付近から、南は有楽町通り付近まで延々と連なり、土手に沿った町には、土手長町・中島土手町・亀ノ丁土手町などの地名が付けられた。

旭川に接した土手は明治維新以降、徐々に取り払われ、昭和二十年頃までに消滅するが、唯一残ったのがこの「鑑の松」のある土塁。


右・明治元年『秋田城郭市内全図』より
左・正保元年『出羽国秋田郡久保田城画図』より

緑色マーキングのあたりが「鑑の松」の位置。

正保元年(1644)の絵図の保戸野新橋を渡った突き当たり、今の「チサンマンション北高前」の場所に、敵の侵攻を防御する土塁(一文字虎口)がみえる。このような形式の土塁は、外町からそれぞれの橋を渡った突き当たりに築かれていた。

「鑑の松」の東側に藩の「材木場」がある。仁別で伐採され筏に組まれた杉丸太が、旭川を下って陸揚げされた貯木場で、この杉丸太は八幡坂を引き上げ、北の丸にあった大木屋(おごや)で製材され、城内で利用された。


八幡坂・千秋公園


●貞節の鑑(かがみ)として

緑濃き老松が枝を交わし、城下町の風情をただよわせていた旭川東岸の土手のうち、鷹匠町から中島付近までが取り払われたのは、昭和二年の市営住宅建設のためという。

その際に一カ所だけ残された老松は、秋田高等女学校(現・北高)の入口に位置することから「女学校の松」とも呼ばれていたようだが、秋田高女が創立三十周年を迎えた昭和六年に「鑑の松」と命名し、その根本に高橋謙堂揮毫による碑を建立して三十周年記念事業とした。


秋田高女創立三十周年記念 唱歌「鑑の松」

樹齢が永く、常に鮮やかな緑を保つ松の樹は、長寿や女性の貞節・節操の象徴として古くから賛美されてきた。時を超えて緑を絶やさず、この地にそびえ立ち続ける姿に沈黙の教訓を見いだし、“老松を鑑(かがみ)とする”という意味を込めて「鑑の松」と命名され、登下校時などにその前を通るときには、会釈するのが習わしだったという。


秋田高等女学校 明治期

明治三十四年竣工の擬洋風建築。昭和五年十月、校舎の大半を焼失する。初期は旭川側に校門があったため、市街から登校する生徒は、必ず「鷹の松」前を通って通学した。


05.04

よく手入れされた生垣に囲まれた土塁の上の「鑑の松」。あちこちに修復の跡が目立ち、とくに根本から広がる大きな傷跡が痛々しい。

平成二十年四月、秋田北高(旧・高女)で男女共学が始まる。女学生の鑑と讃えられた「鑑の松」も、よもや高女に男子が通学するようになろうとは、夢にも思わなかっただろう。


保戸野新橋から鷹匠橋と鷹匠町のマンション街を望む  08.10


大きな地図で見る

_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 城下の要害「鷹の松」今昔

| 秋田市今昔 | 15:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://20century.blog2.fc2.com/tb.php/553-9027f3c1

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT