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平野美術館と大日本武徳殿・千秋公園

日赤跡地周辺の再開発計画の一環として、千秋公園入口の現在地から移転することが決定した平野美術館(県立美術館)だが、まだ老朽化が目立つわけでもない立派な建物を移転させる必要性が感じられず、その新築が永続的な活性化に結びつくとも思えない。

移転に反対していた財団理事会も、いかほど“握らされた”ものか賛成に一転、反対をつらぬき通した役員は脱会。

この時勢、無駄に「箱物」をつくらずとも、当面は「原っぱ」(緑地公園化)にでもしたほうが、よほど気が利いている。

閑話休題


平野美術館(県立美術館)08.10

美術館前の両側の土手は、もともとはつながっていた土手を切り開いたもの。よく手入れされた敷地内の土手は、藩政期の面影を残して美しい。


08.10

美術館の入口から駐車場のあたりは、お堀を埋め立てた造成地であることが、藩政期の地図からみてとれる。


秋田城郭市内全図より

黒い太線が土手、赤色マーキング部分が、埋め立てられ消失したお堀と新道路。上中城から下中城へ降りる坂は、土手に沿って現在の美術館前を土手沿いに通っていた。この坂を「内記坂」というのは、坂の下にかつて岡谷内記の屋敷があったことから。


中土橋界隈・ジオラマ

城郭の裏口にあたる、お堀の中に土を盛った狭い「中土橋」を渡りきると、一の門「中土橋門」にぶつかり、門を抜けて枡形を左に曲がると、二の門「楼門」(ジオラマ中央の白く塗られた二階建て)が行く手をさえぎる。

「枡形虎口」(ますがたこぐち)ともいう「枡形」(ますがた)は、城門などに枡のような四角形を造成することで、曲がって出入りするようにして、敵の直進を防いだ要害のこと。中土橋も緊急の際には土橋を崩し、水を満たして通行できないようにする計画であったという。秋田市登町の旧町名に「虎ノ口」とあるのも、このような要害があった場所を意味する地名。

二つの門をぬけると、左手に渋江家(現・県民会館の高台)、右手に梅津家といった家老クラスの屋敷の板塀が連なり、内堀にかかる橋を渡り、大阪の石段をのぼると、松下門の番所で取り調べを受け、ようやく二の丸に至る。


千秋公園入口・大正初期の絵葉書

中土橋通りをさえぎるように伸びる土手は美術館前へつづき、現在よりも道にはみ出していた県民会館前の土手とで「互い土手」の枡形を形成、ここに二つの門があったことになる。

左手の公会堂(現・県民会館)への登り口、かつては佐竹の家老・渋江家の出入り口であった坂は、藩政期の面影をそのままとどめている。土手の後ろ、現在の美術館の場所に武徳殿、その後ろが明徳小学校(現・市立図書館・明徳館)。


08.11

現在の同地点、右端に美術館前から続く土手の残骸がみえる。


大日本武徳会秋田県支部・武徳殿(明治末)

美術館の場所に存在した武徳殿を、現在の県民会館の高台から見下ろしている。

明治二十八年、武道の振興、教育、顕彰を目的とし設立された財団法人・大日本武徳会の理念は、武徳の涵養と剣術・柔術・弓術など武術の奨励、国民の士気振興。京都の平安神宮境内を手始めとして、各地に武術教育施設として武徳殿を建設。

大日本武徳会の創立者で、幹事長を務めたのが、秋田出身の京都府収税長、鳥海弘毅(とりのうみひろき)。嘉永二年、現在の秋田県岩城町に、亀田藩士の長男として生まれ、小野派一刀流、日置流弓術、大坪流馬術にすぐれた武道者であった。


明治末

県内の二万人を超える武徳会有志による基金をもとに、県内武道愛好家の象徴である武徳殿を、明治三十九年四月、秋田市下中城町五番地に落成。本殿九十五坪余り、第五回内国博覧会における秋田県売店を改築した付属殿は八十八坪。ほかに射的場、体操場、庭園を備える。今でいえば県立武道館、または県立体育館といったところか。

昭和二十一年、武士道精神の解体を目論む米国進駐軍の指令により、大日本武徳会は解散させられた。

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大正期の中土橋・千秋公園入口

関連リンク

大日本武徳会 - Wikipedia

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