2008.07.12 Sat
画伯は鹿嶋神社の生き神様・楢山御船町

鹿嶋祭りが行われる御船町(現・楢山登町)の鹿嶋神社境内に、弘化二年(1845)に建立された「倉稲魂神碑」(うかのみたまのかみひ)があり、市指定文化財に指定されている。地名を御船町というように、当時この付近に旭川の船着き場があり、米俵の積み降ろしの際にこぼれ落ちた籾米を供養するために建てられたもの。地名はその後、追廻(おいまわし)と変わり、現在は登町の一部となっている。
鹿嶋神社の創建は明治十年頃と比較的新しい。町内の家に古くから伝わる鬼面が「社を建てて祀るように」との夢のお告げをされたことから、町内で相談のうえ、手形から稲荷の社殿を貰い受け、天照皇大神、鹿嶋大神、稲荷大神の三神を勧進して創建したと伝えられている。後の世に、この鬼面がひとりの男の人生を変えることになる。

神社正面の神池
●鬼面に魅せられた青年
明治の末、町内の大工の頭領の家に生まれた舟山三朗氏は生まれつき体が弱く、十代に入ってからは腎臓を患い医者も見放すほど。熱にうなされたある夜、青年は鹿嶋神社の鬼面とともに空を飛ぶ夢を見て、目が覚めると熱は下がり病状も快方に向かっていた。これをきっかけとして青年は鬼面への信仰を深めてゆく。

鬼面には龍神の神霊がのり移っていると言い伝えられ、祭りのときも気味悪がってあまりかぶり手がいなかった。そこで舟山氏は「ひとつこの面をかぶって龍神の力で立派な体になろう」と思いたち、十九歳になった昭和二年(昭和元年説もあり)の鹿嶋祭りのとき、はじめて鬼面をかぶり町内の災厄を祓って廻るようになる。はじめの頃は氏が鬼面をかぶると、龍神が憑依するのか、突然暴れだして若い衆四、五人で押さえながら歩いたという。
鹿嶋祭りの鬼の役を務めるようになってからというもの、体調も回復し、好きな絵を描くときもインスピレーションがわくようになった舟山氏は、昭和二年、絵画の道に専念するため上京、平福百穂(ひゃくすい・角館出身・日本画家)の門を叩き、その最後の内弟子となる。東京に居ても鬼面は夢に現れ、秋田市川口の大火も夢のお告げで知らされたと語っている。
初夏の鹿嶋祭りには毎年帰省し、鬼面をかぶり町内を祓って歩く。それは亡くなる前年の平成二年まで、六十三年間休むことなくつづけられた。他の町内では祭りを休止した戦中も、戦後の混乱期も継続できたのは、ひとえに舟山氏の情熱があってこそのこと、祭り自体もとうの昔に途絶えた可能性も高い。
●生き神様になった画伯
祭りの前日、宵宮から舟山氏は神社に籠もり、高清水酒造から届けられた水だけを飲む断食で身を清める。当日は麻の衣を身につけ、神社前の池の中央に植えられた、鬼面の霊が宿るという柳に祈りを捧げて神霊を降ろしたあと、柳持ちと御札配りを従えて、町内周辺の行く先々で頭をたれて待つ人々のあいだを駆けるように祓い清めて廻った。
実際に舟山氏の御祓いを受けて病気が治ったという人は数知れず、鹿嶋祭りの日は市内はもとより県内外から多くの参詣者が訪れるほどの人気で、その姿はまるで「生き神様」の風情。氏のあとを追って東京からも信奉者が団体で訪れたという。

柳の御神木
子どもの頃、舟山氏が扮した鬼を「カシマさん」と呼んでいた。「カシマさん」は心底恐ろしい存在で、それは鬼面の怖さもさることながら、神懸かりになった人間に対する、えもいわれぬ畏怖のような感情だったと思う。そして、子どもらが言うことを聞かなかったり、暗くなるまで遊んでいると「カシマさん来るど」と脅かされる「ナマハゲ的」存在でもあった。
当時、舟山氏は四十代、追廻(旧・御船町)周辺だけではなく、人気のゆえか牛島の近くまで足を伸ばしていたと記憶している。

舟山氏が霊感によって名付けた鬼面の名は「三吉祥天妙音十羅刹大白龍王女面」(さんきちじょうてんみょうおんじゅうらせつだいはくりゅうおうじょめん)。十羅刹女(じゅうらせつにょ)は、仏教の天部における女性の鬼神で、鬼子母神(きしもじん)と共に法華経の諸天善神。独学で法華経を学んだという舟山氏は、鬼面をかぶり法華経の一節を唱えながら町内を廻った。
鬼面の保存状態を考慮し、晩年は新調した鬼面をかぶったようだが、舟山氏の亡きあと、鬼役を務める人が途絶えてしまう。しかし、現在は鬼役も復活、鬼面の神霊が宿るという御神木の周囲を周回したあと、町内を廻り、鹿嶋神社の御神体「三吉祥天妙音十羅刹大白龍王女面」は、鹿嶋祭りの日に限り参拝者に御開帳されている。

御神木を周回する鬼役

鹿嶋神社神符・新旧比較
右が舟山氏が柳木でつくった筆で描いたものを木版にして刷った以前の御札(モノクロコピー)。左が現在の御札。
現在の御札は戦後まで使われていた古い形式のものを参考にしてつくられたようだが、手刷り版画から味気ないオフセット印刷となり、神気もありがたみも薄められてしまったのは、舟山氏というカリスマの時代が終わりを告げた今、致し方ないことなのだろう。
かつてこの地には、鬼面信仰を基に、一人の霊能力を具えたアーティストを中心に繰り広げられた、たぐいまれな鹿嶋祭りが存在したのだ。

船山三朗画伯顕彰碑
平成九年、鹿嶋神社境内に「船山三朗画伯顕彰碑」を建立。文は平福百穂の御子息・平福一郎氏(故人・元自衛隊中央病院長・河北病院長)。
船山三朗画伯顕彰碑
船山三朗画伯ハ明治四十二年一月十五日秋田市御舟町ニ生マル.宗教心篤キ一家ノ第四子トシテ精神的素質豊カニ成長ス.小学校卒後家業大工職ノ技術習得ニ励ミ 傍ラ被面求道ヲ修業ソノ完遂ニ勉ム.昭和二年十九才生来ノ天分ヲ活カシ絵画ノ道ニ専念スルコトヲ決意シ 縁ヲ得テ郷国ノ先人画家先考百穂ノ内弟子トナル. 爾来師ノ急逝マデ滿五年日夜研鑽百穂ノ秘義ニ参入ス.師ノ没後ハ遺訓ヲ守リ独立画家トシテ一家ヲ成シ名声ヲ挙グ.コノ間引続キ被面求道ニ精進シ大方ノ驚嘆ヲ博ス.カクテ多数苦悩者ノ復興ニ力ヲ致シソノ功績極メテ顕著ナリ.コゝニ記念碑ノ建立ニ当タリ画伯顕彰ノ一文ヲ撰ス平成九年四月吉日 平福一郎款識
●カシマさんは変身ヒーロー(蛇足)
「仮面」は太古から「変身」の道具としてあった。シャーマンは神霊を降ろすために「仮面」をつけ、ときに踊りながらトランス(神懸かり)情態に没入する。我が国でも縄文の昔から呪術的に用いられた「仮面」は、神懸かり的要素を残す神楽や能へと受けつがれた。『仮面ライダー』に代表される、現代の変身ヒーロー達もまた、その流れを汲むモノガタリの主人公である。
等身大変身ヒーローの元祖『月光仮面』、そして『愛の戦士レインボーマン』の原作者・川内康範氏は日蓮宗の寺院に生まれ、「月光菩薩」から「月光仮面」を、「観音経」をヒントに「レインボーマン」を創作する。日本人を憎む秘密結社「死ね死ね団」と戦う「レインボーマン」は「アノクタラサンミャクサンボウダイ」と「般若心経」の一節を唱えて変身するのだった。
これはもともと舟山氏の口から出た言葉かもしれないが、鹿嶋祭りで鬼面をかぶり別人格に「変身」し、悪魔を祓った舟山氏の姿を「被面勧懲」と表現した人がいる。「被面」は面をかぶること、「勧懲」は「勧善懲悪」=「善事をすすめ、悪事をこらしめる」こと。そのありかたはあたかも、仮面をつけることで別人格に「変身」し、悪者と戦う変身ヒーローの姿。ただし舟山氏が相対する敵は、目には見えない形而上的なモノであった。
舟山三朗
日本画家。秋田県秋田市生。十九歳で上京、平福百穂に師事する。帝展、文展、日展など中央展十六回入選。平成三年(1991)歿、八十二歳。年齢が近く、両者とも職人の息子ということもあり、郷土の版画家・勝平得之とも親交が深かった。
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舟山三朗「株上がる」 アルバートホテル秋田 - 館内展示美術品コレクション
| 祭り・民俗・歳時記 | 10:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑


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