茶町の老舗・三傳

三浦傳六商店・茶町菊ノ丁
明治末から大正期の撮影と思われる、旧茶町菊ノ丁、現在の大町二丁目、ニューシティービル裏の一角に存在した、秋田の典型的な切妻の町家「三傳本店」。
破風下の三段化粧梁、二階左手に施された「うだつ」が、ひときわ眼を惹く立派な造りで、屋根には防火のための天水瓶が上がっている。
弘化四年(1847)、茶町菊ノ丁に茶紙荒物商として創業。現在は新屋に本拠を移し、総合商社として営業をつづけている。
外町を焼き尽くした明治十九年の大火・俵屋火事で類焼、再建した店も、明治三十八年、大町二丁目と茶町菊ノ丁のほとんどを焼く大火で焼失するが、このときは土崎湊上酒田町の支店(明治二十年開業)をそっくり菊ノ丁に移すことで、いち早く店を開くことができた。これが画像の店舗。

書籍広告 左・明治二十年 右・大正十一年
数字の「五」をデザイン化した鼓型の家印は「五体に通じて動かざること山のごとし」という意味があるという。
営業品目をみると、茶・紙・砂糖・畳表・小間物など、この時代になっても、藩政期に茶町で専売を許可された商品がそのまま受け継がれているのが面白い。自動車を取り扱う以前、昭和初期までの主力商品は砂糖であった。

Fig. 331 Front to Fig. 332
Bruno Taut『Houses and People of Japan』(1937・初版) より
上の画像は、建築家・ブルーノ・タウトが昭和十年五月に秋田市を訪れ、版画家・勝平得之の案内で市内の建築物を見て回った際、タウトの助手兼通訳を務めていた上野伊三郎が撮影したもの。
この時点で「三傳本店」は東隣の上肴町、「仏壇の升谷」の向かいに移転し、画像の物件は同族会社である「三浦屋」が利用していた。

Fig. 293 Front to Fig. 294
Bruno Taut『Houses and People of Japan』(1958・再版) より
こちらは戦後に勝平得之が撮影した「三浦屋」(旧三傳本店)。このときすでに「三浦屋」は廃業し同社経営の「秋田合同倉庫」となっている。
現在の「三傳商事」の営業品目は、紙・包装資材・生活雑貨・食品・建材・石油など。そのほか「秋田日産自動車」をはじめとする関連グループ企業も数多い。
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三傳商事株式会社
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