県民会館の土手から西を望む・大正期

「秋田県民会館」南側の土手に立ち西方を眺めている。時代は大正末から昭和初期頃だろう。
今同じ場所から撮影するとこのような風景になる。

07.11
土手に植栽されたツツジが生長して視界をさえぎり、古川堀反通りが見えない。ツツジは「花いっぱい運動」の一環として昭和三十三年(1958)に植樹されたもの。ツツジが咲く初夏は色とりどりの花で彩られるが、それ以外の季節は繁茂する枝葉が景観を損ねる存在となる。年間を通してみるならば、隣の「平野美術館」敷地内に残る本来の土手のように、何も植えない草だけの土手のほうが美しい。
この土手は戦前まで子どもたちに「決闘の土手」として知られ、決闘に臨んでは「記念館(県民会館の前身)の土手で待っている」というのが決まり文句だったという。容易に逃亡することができない地形が真剣勝負に適したのだろう。
戦前から戦後、室内スケート場ができるまで、穴門の堀が厳冬期にスケートリンクとして利用され、昭和四年(1929)の「北日本氷上選手権」では、スケート競技のほかに、アイスホッケー(札幌師範対秋田中学校)の試合も行われている。

木内と県会議事堂
広小路に白壁の店舗を構える「木内商店」、その後ろ、現在の高層マンション付近にある洋風建築は、明治二十二年(1889)、県庁舎の隣に竣工した秋田初の煉瓦造り二階建の「秋田県会議事堂」。

古川堀反町
古川堀反町通りに目を移すと、ウナギの寝床のように長い、茅葺き屋根の「土屋旅館」。その左隣が、大正末から昭和初期まで営業していた「カフェー平和」と思われる。「カフェー平和」は貸ボートもやっていた。

新聞広告 大正十五年
古川堀反町通りの後方、中央やや左寄りに特徴的な屋根をみせているのは、大町二丁目の「日本銀行秋田支店」。さらにその右手にかすんでみえる日銀に似た屋根は、茶町菊ノ丁の「第四十八銀行」(現在の秋田銀行大町支店)。

日本銀行秋田支店
大正六年(1917)開設された初代「日本銀行秋田支店」の様式建築。戦後になって解体され、昭和二十七年(1952)、現在の重厚な店舗が竣工する。
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