二〇世紀ひみつ基地

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東海林太郎・台所町の生家


東海林太郎・明治31年-昭和47年

明治三十一年(1898)十二月十一日、秋田市台所町二番地に生まれ、保戸野尋常小学校、秋田中学校(現・秋田高校)、早稲田大学を経て、大正十一年、満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社。七年間勤務の後、音楽への夢捨てきれず帰国して声楽を学び、昭和八年(1933)にレコードデビュー。約四十年の歌手生活で録音した曲は約千三百曲におよぶ。

東海林太郎の好んで使った「一唱民楽」(一つの歌で民を楽しませる)ということばがある。これは彼が深く傾倒した宮本武蔵の「一剣護民」(一振りの剣で民を護る)に触発されて生まれたことばであるが、その歌に対する情熱は並々ならぬものがある。

新曲が出来あがるとまず、東海林はその歌詞を毛筆で書き写し、解らないことば、納得できない部分があれば、文献をあさり徹底的に調べあげ、矛盾点があれば作詞家に意見することもあった。レコーディングに際しては「勝負は一回しかない」と一発録りにこだわった。

ステージに上がるときは「一尺四方のステージは真剣勝負の道場」との信念のもと、たとえそれが場末のキャバレーであっても燕尾服で正装し、クラシックコンサートでシューベルトを唄う心で、あの直立不動の姿勢でのぞんだ。


東海林太郎の生家

東海林太郎が生まれ育ち、旧制秋田中学校(現・秋田高校)を卒業して上京するまで生活した、千秋公園の麓に位置する台所町の生家。


台所町(現・千秋矢留町)

台所町は、久保田城の厨房を担当した台所衆が住んだ侍町。

鷹匠橋から千秋トンネルに向かい、トンネル手前の信号を左折、台所町の狭い小路を進むと右手に生家跡、そこを通り過ぎて少し歩いた右手に、千秋公園へと向かう八幡坂。


八幡坂

八幡坂は八幡山(後の水道山、今の明徳小学校用地)に通じる坂、少年の日の東海林太郎も、この坂を毎日のように上り、千秋公園に遊んだことだろう。

 郷土に寄する言葉 東海林太郎

 私の故郷の家は、佐竹侯のお城跡の、山のすぐ下にありました。私は子供の時から、よく裏の山へ駆けのぼり高い松の木にのぼっては、脈々として続く奥羽山脈を仰いだり、遙かに男鹿半島を望み、はてしなくひろがる日本海を眺めながら、いつも、聲を限りに歌をうたったものでした。かうして私は殆ど誰からも教わることなく、故郷の四季折々の姿を心に写しては、歌をうたってきました。この懐かしい故郷こそ、私の最初の、そして最大の音楽の先生であったと考えて居ります。
 先年、十幾年ぶりで郷土を訪問して演奏会を開いた時、私は真先にその山に駆けのぼりました。そして今もなほある、あの時の松の木に寄りかかった時、私は幾十年もの間、その松の木と一緒に、そこに立って居った様な氣が致しました。
「故郷は一種のインスピレーションなり。琴線ひとたび之に触るならば無限の妙音を発す」と語った詩人の感慨が、ひしひしと胸に迫ります。
 私の夢を、私の歌を、私のいのちを育んでくれた故郷!

 おばこ唄ふて 寝かされた
 ふるさと恋し 母恋し
 雪の夜更の 子守唄
 おくになまりが なつかしや
  
 胸もさけよと 聲かぎり  
 われは唄はん たからかに
 唄うことこそ わがつとめ
 わが望みなり わが命

昭和十五年「東海林太郎後援会機関誌」より


東海林太郎生家跡


生誕地記念碑

平成三年(1991)、生家は取り壊され駐車場となり、隣地のアパート敷地内に道路に面して銅板の記念碑が建てられている。


生家玄関・復元展示(東海林太郎音楽館)

大町二丁目、榮太楼菓子舗二階「東海林太郎音楽館」に復元展示されている、生家玄関の一部。藩政期の建築という、特徴のある屋根の形状は、往事は中級武家の町だった楢山・築地方面に今もわずかに残る、天に曲線を描く「起(むく)り屋根」。


東海林家の石灯籠

中央図書館・明徳館(明徳小学校跡)の前に、生家の庭にすえられていた石灯籠とケヤキの木が移された。小振りながらも茶人好みの、風情ある灯籠である。


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東海林太郎・生誕地記念碑・周辺

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関連リンク

東海林太郎 ウィキペディア(Wikipedia)

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