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三吉神社里宮から太平山を望む


勝平得之『太平山遠望』昭和十四年

薄紫に染まった空色は、朝焼けだろうか、得之は赤沼の三吉神社里宮の高台に立ち、東方にそびえる、たおやかな稜線の太平山を眺めている。

勝平得之と親交のあった相場信太郎が、『勝平得之物語』(秋田文化出版社・昭和52年)に、「この絵は千秋公園の高台より写生したもの」と注釈し、さらに、没後20周年記念製作『勝平得之全作品集』(秋田文化出版社・平成4年)にも、同様に誤った記述が受け継がれているのはいただけない。

当時の千秋公園東側直下に、このような広大な田圃は存在せず、太平山の前方にあるはずの鉱山専門学校が描かれていないことなど、いくつかの矛盾点があることから、この「千秋公園説」は推定に過ぎない誤解と断言してもよい。


三吉神社里宮から太平山を望む 07.10

得之が描いた戦前の風景と比べると、周囲の樹木はいちじるしく生長し、柵はつくり替えられ、太平山を遥拝するためのステンレス製ミニ鳥居が新たに置かれている。





上記画像は昭和初期の撮影と推定される写真。得之の版画にあるような柵、右手には杉の木がある。しかし、灯籠の形状は石灯籠ではなく、鉄製の誰也(たそや)灯籠で、その手前には金属製の手水鉢が置かれている。



現在、三吉神社里宮の石段を上った両側に、得之の版画に描かれたものと同様な石灯籠がすえられているのだが、得之がスケッチした時点で、この石灯籠が拝殿の前に置かれていたのだろうか。日中戦争の金属資源不足で、鉄製の灯籠が供出され、その変わりに石灯籠を拝殿前に移動した可能性もある。



こちらは前掲画像よりも古い、大正末頃の撮影と思われる写真。拝殿前の誰也灯籠は、鉄ではなく木製で、金属製の手水鉢もまだない。


07.10

現在の社殿は昭和五十二年(1977)に改築されたもの。正面向拝は太平山の山容を写しとった造りになっている。戦前の写真と比較すると、改築の際に周囲の樹木を伐採して建物を拡張したことが見てとれる。

天明元年(1781)、秋田蘭画の作者・曙山として知られる八代藩主・佐竹義敦が、赤沼の高台、現在の三吉神社里宮の地に、太平山を遥拝する雪見御殿を建てる。

当時、秋田駅周辺から広面の一帯は、長沼、手潟(手形の地名起源とされる)、赤沼、鍋沼、蓮沼など、広大な湖沼、潟と葦原が広がる地帯であり、赤沼周辺は、夏は湖水に太平山の影を映し、冬は雪見を楽しむ絶景の地であった。赤沼は赤土の沼の意で、沼の所々から赤色がにじみ出ていたという。

ある日、義敦が沼に船を浮かべて盃を傾けていると、その杯に太平山が映った。杯を飲み干した義敦は雪見御殿に飲山亭と名付け揮毫した。その扁額が里宮に残されている。

雪見御殿は、わずか四年で廃止、後にこの地には藩主の祈願所・太平山遥拝所が設けられ、これが今の里宮の始まりとなった。

広大な湖沼地は江戸初期には埋立てが始まり、完全に消滅したのは幕末のころとされている。

湖沼を干拓して造成された田圃も、戦後になって高度経済成長期となるころから宅地化が進み、昭和四十七年(1972 )、かつて赤沼とよばれた沼の中心点のあたりに、秋田大学医学部の建物が竣工すると、そのテンポにさらに拍車がかかり、今ではわずかな田圃が残るのみとなっている。


三吉神社里宮から太平山を遥拝する 07.10

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10.17 追記

勝平の『太平山遠望』と同じ光景の写真があったので掲載する。



確かに石灯籠は勝平の版画と同じ場所に存在していた。金属製の手水鉢も石製に変わっているのは、やはり金属の供出があったためか?。杉の木の茂り具合をみると、昭和初期と推定した前掲の写真よりも、こちらのほうが古く感じられるは、枝を剪定したためと思われるが、時代の前後についてはまだ結論できない。

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