消えた「亀の湯」と雷風義塾の碑

秋田市亀ノ丁に戦後間もなく開湯した銭湯「亀の湯」が、南通りの道路拡幅を期に、従来の銭湯からの脱皮を図って「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルを建てたのは、今から約二十五年前。
番台に代わってフロントを置き、水温の違う三つの浴槽、サウナ、コインランドリー、二階には入浴客が気軽に食事のできる割烹を開き、隣には広い駐車場も作った。
まだ「健康ランド」的温泉施設の無かった時代、このような形式の銭湯は珍しく、オープンからしばらくの間は、斬新な銭湯として賑わったものだが、最近は客数も激減、原油価格の高騰も手伝って、赤字経営が続いていたという。
どこの銭湯でも同じ問題を抱えながら、かろうじて営業を続けている現状のなか、従来の銭湯よりも設備が充実していた「亀の湯」の場合、維持費も馬鹿にならなかったことだろう。

一階に入居していた「ホビーショップK2」は、道路をはさんだ真向かいのビルに移転。
「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルは消失し更地になったが、それとともにもうひとつ消えたものがある。それは、ビルの左下に写る「雷風義塾址」の石碑。

「雷風義塾」とは、秋田が生んだ国学者・平田篤胤(あつたね)の門人・小野崎通亮、井口糺らが始めた、平田学を中心にした学塾で、秋田勤皇派の本拠地でもあった。
「雷風義塾址」は、篤胤の終焉の地と同じ南通りにあることから、全国から訪れる篤胤ファンが立ち寄る遺蹟のひとつであったが、銭湯の経営者が個人で建立したものであったため、残念なことに銭湯とともに姿を消してしまったのである。
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亀の湯跡
「亀の湯」が存在した町を旧町名で亀ノ丁新町という。この通りは明治三十年代に開通した新道で、その際に「雷風義塾」のあった屋敷は分断されたため、実際の塾跡地は道路をはさんだ南側ということらしい。
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