「ホテルはくと」は「秋田のハワイ」だった

築四十年近い建物は老朽化が進み、耐震基準についての問題もあり全面改築を決定。秋田わか杉国体にあわせた来年の七月には、十階建の新ホテル「クルーザーバレーホテルはくと」がお目見えする予定だ。
かつての土手長町通りは官庁街で、「ホテルはくと」のあたりには消防庁舎と教育委員会の建物、その向い側一帯は秋田市役所とその関連機関が集まっていた。
昭和四十年、市役所が山王の現在地に移転し、跡地は公売されることになる。落札者は県内の温泉旅館経営者、土地の利用目的は、熱帯植物園をつくるためという。それならば市民のためにもなると、市では色々と便宜をはかったらしいのだが、完成したそれは熱帯植物を取り入れたホテルであった。
昭和四十二年(1967)九月、「ホテルハワイ」竣工。

新聞広告 昭和四十三年(1968)
「ホテルハワイ」竣工の前年には、福島に「常磐ハワイアンセンター」がオープンしている。その大成功に影響されたに違いない「ホテルハワイ」も、「常磐のハワイ」と同様に、庶民には手の届かぬ“常夏のパラダイスへの夢と憧れ”を具現化した、ささやかなバーチャル・ハワイ「秋田のハワイ」であったのだ。

広告 昭和四十三年(1968)
各階の施設にハワイの地名を入れ、お風呂はジャングル風呂。
最初期の広告には、「五階 熱帯植物庭園」とある。
「常磐ハワイ」が温泉で熱帯植物を育てたように、「秋田のハワイ」でも、温水をパイプに流し、ヤシの木を茂らせ、南国の花を咲かせ果実を育てた。
昭和四十七年(1972)、広小路に「ホテルハワイ」駅前店オープン。
昭和五十四年(1979)、矢留町の「ホテルハワイ」を、スーパーストアチェーン「協働社」グループが買収、「ホテルはくと」および、長期滞在者向け「パンションはくと」と名を改めて再スタートする。この時期の「協働社」は東北各地に支店を広げ、創業地である角館にホテル「角館プラザ」を建設する全盛時代であった。

五階 食堂「味処はくと」
傾斜をつけたガラス張りの外観が特徴的な、かつての展望大食堂は、千秋公園が見渡せる展望を売物にしていたが、最近は周囲に建ち並ぶマンションが視界をさえぎっていた。
思えば「協働社」の食堂街にあった日本食堂も「はくと」という名だった。
平成十一年(1999)、「フナコシヤ」の手に渡り現在に至る。
札幌に本社がある「株式会社フナコシヤ」は、秋田市内では山王大通りの「ホテルアルファイン秋田」と、数戸のマンションを経営する宅建業者。その先祖、船越谷永太郎は土崎湊町で回船業を営んでいたが、明治に入って北海道に渡っている。
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