楢山の裏町という小路
楢山裏町
旧楢山本新町、通称・楢山裏町、現在の地名は南通築地。
楢山本町(通称・表町)と、その北側の楢山本新町(通称・裏町)は、藩政時代は徒士衆(かちしゅう・徒歩で従事する下級武士)の屋敷町であり、本町を表御徒行(おかち)町、本新町を裏御徒行(おかち)町とよんだ。それを略した表町・裏町という呼び方が、通称として後世まで残った。
下級武士の町も、幕末には中堅クラスの武士が住むようにる。江畑家もそのひとつ。
江畑家・薬医門
佐竹武士であった江畑家の朱塗りの薬医門。
明治二十六年に建てられた邸宅は、総秋田杉の釘を使わない名建築。戦後の一時期は「ならやま荘」という名で貸席を営んでいたが、最近は門が閉じたままで内部を見ることができない。
江畑家の広大な日本庭園の一部をつぶして、秋田ボウリングセンターがオープンしたのが昭和四十一年(1966)。ボウリングブームが去って廃業したあと、建物を改造してト一屋が入った。
もともとこの辺りに住んでいた身分の低い徒士衆の家では門を造ることは許されず、七〇石以上でなければ板塀も建てることができなかったため、家のまわりは、ウコギやユキヤナギ(コゴメバナ)などの生垣で囲った。下級武士が住んだ楢山方面には、今も生垣のある古い家が残っているのはそのため。
そんな裏町も、最近は空地も目だち、だいぶ様子がかわってしまったが、それでも屋敷町のおもむきを今に残し、どこかなつかしさをおぼえる小路である。
江畑家の黒塀を右手に、東に進んだ角地に、石川達三旧家の標柱(地図上の水色ポイント)がある。
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2009.02 追記
石川達三旧家の標柱は撤去された。
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またまた懐かしい通りです。大きなお屋敷がたくさんあった記憶があるのですが、空地も目立つようになったのはちょっと寂しいですね。ちなみに私の生家の生垣もユキヤナギでした。今はもうないけれど懐かしい風景を見ていると道をたどって家にたどり着けるような気がします。