二〇世紀ひみつ基地

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「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

「二〇世紀ひみつ基地」通算エントリー1,000回突破記念
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▼「大堰端暗渠」を歩く・藩政期から現代まで

▼古地図に見る藩政期の「大堰端」

久保田城下絵図
「久保田城下絵図」寛保2(1742)年頃

秋田市中心部にあたる「久保田」の東端を南北に流れる「大堰」に沿った片側町を、俗に「大堰端」(おおぜきばた)という。

現在の明田地下道付近から南通築地→楢山を経て太平川に到る「大堰」の竣工は江戸中期。手形方面からの排水路と農業用水路を兼ねた。

羽州久保田大絵図
「羽州久保田大絵図」文政11(1828)年頃

古地図を見てのとおり、当時の秋田駅前・駅裏の周辺は一面の沼地で、水路で北側は手形地区→旭川へつながり、南側は「大堰」を経て太平川にそそぐ。

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「長野沼」「黒沼」などと称された沼地は開田により徐々に面積を減らし、幕末の頃には完全に水を落として田地となる。「大堰」の東側も田んぼが広がっていた。

秋田市全図
「秋田市全図」明治37(1904)年発行

この地図が発行されたときはまだ、秋田駅周辺と「大堰」の東側は、南秋田郡広山田村。明治38(1905)年8月、秋田駅周辺・宮田・愛宕下など広山田村の一部が秋田市に編入される。


 ▼「石川達三」少年「大堰」で溺れる・明治末期の「大堰端」

 三歳から七歳までの幼少期を「大堰端」に近い楢山裏町で過ごした、芥川賞作家・石川達三(1905~1985)の回想録には「大堰」にまつわる記述が多く、往時の様子を知る貴重な資料となっている。

 洪水をおこした川までは、私の家から僅か六七十メートルの距離だった。両岸を雑草に掩(おお)われた流れの速い小川で、川の名は誰も知らなかった。川沿いに一筋の道があって、川をも含めてこのあたり一帯を、私たちは(大堰ばた)と呼んでいた。秋田の市街地はこの川で終っていて、向う岸はもうひろびろとした田圃だった。田圃は冬になると氷結して、凧あげのために一番都合のいいグラウンドになった。

‥‥中略‥‥

 上の兄は魚釣りを覚えて、夢中になっていた。一度、雪どけの水の増した大堰ばたで、七寸ばかりもある綺麗な魚を釣りあげて、得意になって帰って来た。見たことの無い魚だった。兄はその名をミゴイと言っていたが、今から思えばウグイであったらしい。それを兄は父の酒の肴にあげると言った。母がわたを抜いて串に刺し、塩をふって炉ばたの灰の中に刺したが、魚はまだ死ななかった。火熱を感ずると忽ちはげしくはねて、串は灰の中に倒れ、母は洗ってまた火にかざした。私はこの魚の美しさと、強烈な生命力とに、一種のおそれと同時にあわれさを感じながら、焼かれて行く魚の苦しげな喘ぎを見つめていた。一つの生命が死んで行く過程を、これほどまざまざと見たことは始めてだった。

‥‥中略‥‥

 同じ夏の、ひどく蒸し暑い日のことだった。上の兄は学校へ行き、私と下の兄とだけが残されて、退屈していた。下の兄が数え年の七歳、私が五歳である。二人はただ目的もなく大堰ばたの方へ歩いて行った。友達は誰も居らず、鳥海山の山伏も通らず、お伽噺のなかの狐や狸も出て来なくて、何もすることが無かった。子供の頃には一日のうちにこういう時間がたくさん有った。大堰ばたの水は流れが止ったように淀んでいて、岸には雑草が茂り、日ざしはじりじりと照りつけていた。そのとき兄は水面に近く、鮒を見つけたのだった。

‥‥中略‥‥

 私は一度、大堰ばたで死にそうになった。助かったのがむしろ不思議なくらいだった。
 秋の雨のあとであったろうか。大堰ばたは水がふえて、とうとうと流れていた。私はもっと年上の子供たちや兄たちと、その川を越えて向うの田圃の方へ遊びに行くところだった。一枚の板を固定した橋がかかっていた。幅一尺にも足りない板であった。水はこの板の上を乗り越えて勢いよく流れていた。みんな下駄をぬいで両手に持ち、ひとりずつそろそろと板の上を渡って行った。そして私の番が来た。
 足をひたすと水は氷のように冷たかった。水の勢いが強くて、足もとが掬われそうだった。私は用心しながら五尺ばかり進んだ。そのとき足がすべった。板には水あかがついてぬるぬるしていた。私はたちまち流れに落ちた。水游ぎはまるで知らない。しかも着物を着たままであった。この小川は下流でもう一つの川と落ちあい、そこは深くて、いつも渦を巻いていた。そこに落ちたら絶対に助からないと、いつも話に聞いていた。
 流れが早かったために、私は沈むひまもなく押し流された。うつ伏せになって、手足をばたばたさせながら流れて行った。そのとき何かが手に触れた。溺れる者はわらをもつかむと言うが、私は本能的に左手にふれた物を掴んだ。それは岸に生えた長い雑草であった。水かさが増していたために、岸の草の葉が水びたしになっていた。それがたまたま手に触れたのだった。その草は幸いにもひどく丈夫で、根が強かった。私は両手で草の葉にむしゃぶりつき、物凄い勢いで岸に這いあがった。どうやって上ったか、何も覚えていない。上ると同時に立ちあがって、わっと泣いた。左手にふれた数本の雑草が、私の命を助けてくれた。天命と言うか何と言うか。奇蹟的な幸運だった。
 しかし私が這いあがったのは、向う岸だった。私は性懲りもなく、つい今しがた足をすべらしたばかりの細い板を、今度は逆にわたって、無事にこちらの岸についた。それは私の愚かさであろうか、向う見ずであろうか。それとも積極性であろうか。私はもう泣いてはいなかった。そして、誰にも助けられないで川から這い上ったことに、多少の誇りを感じていた。‥‥‥あのときが、一つの運命の岐れ目だった。お伽噺にある(水の神様)が、すでに死ぬべかりし私の命を助けてくれたようだった。

石川達三『私ひとりの私』昭和40年(文藝春秋社)より

「大堰」まで「私の家から僅か六七十メートルの距離だった」とあるが、実測では約100メートル。「大堰」の川魚は上流の旭川から来たものだろう。

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石川達三 - Wikipedia

▼ドブ川となった「大堰」を暗渠化

秋田市街図
「秋田市街図」昭和41(1966)年発行

魚が泳ぎ水量の豊富な「大堰」の清流も、戦後の経済成長期に入る頃から、宮田地区の宅地化にともなう生活用水の流入で水質がいちじるしく悪化。夏は悪臭を放ち、蚊やハエの発生源となるドブ川と化し、下水道工事の進展により水位が低下した。

昭和40年代、市は環境衛生の向上と、土地の高度利用を目的に「大堰」を暗渠化。その跡に歩行者・自転車道を整備する。
 

▼「大堰端暗渠」を歩く

大堰端
大堰端暗渠ライン

「大堰端暗渠」をたどる散策のスタート地点は「明田地下道」の南側。地下道が開通するまでは「開かずの踏切」と呼ばれた「明田踏切」付近。

かつては沼地の南端であった「明田地下道」は、地盤が軟弱な上に地下水が湧き出る難工事となり、着工から5年以上の歳月を経てようやく完工、昭和55(1980)年4月に開通した。

さて、これから「大堰端暗渠」を上流(北)から下流(南)へと歩く。

大堰端・暗渠
2012.05

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠

人家のあいだを進む。

大堰端・暗渠
南(下流)から北(上流)を望む

人家を抜けた地点を逆方向から撮影。後方に建物が建ち、今は不要となった「車止め」がある。

ふり返ると、そこにも「車止め」。自動車等の乗り入れを制限する「車止め」は地盤が弱い暗渠に特徴的な物件だ。

大堰端・暗渠

秋田市街図
「秋田市街図」昭和41(1966)年発行

この区域に相当する地図上に「大堰」が描かれていないのは、堰幅が細かったためと思われるが「大堰」上に不自然に引かれた区界線が水路の存在を示している。

地図を見ての通り、以前は「大堰」を境にして東西の地名が異なっていたが、新町名では「大堰端」から「南大通り」に抜ける西側道路(明治以降の新道)を境界にした東側地区がすべて「南通宮田」、西側地区が「南通築地」となった。


大きな地図で見る

大堰端・暗渠

旧町名では、暗渠(大堰)の右側(西側)と左側(東側)は別の町名だったが、今はどちらも「南通宮田」。

大堰端・暗渠

「車止め」を越えると、いよいよ「大堰端」。

暗渠化前、木橋が架かり、大木が茂っていた地点。今は切り株だけが残る。

大堰端・暗渠

「大堰端」に入ってすぐ、西側に見えるのが「秋田県豆腐会館」。

秋田県豆腐会館
秋田県豆腐会館 2013.05

「秋田県豆腐油揚商工組合」が、昭和38(1963)年に設立。豆腐をかたどった格子状ファサードが特徴的な昭和レトロ建築。

大堰端・暗渠

「宮田・みやた」という地名が語るように、暗渠(大堰)から東側(右側)は、かつて一面の田んぼだった。

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠
秋田南中学校

昭和53(1978)年「北光ランプ」跡地に、秋田市南中町から「秋田南中学校」を新築移転。

大堰端・暗渠
北光ランプ

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南中グランド・旧「宮田グランド」
南中グランド(旧・宮田グランド)

南中の南隣に位置する同校のグランドは昔「宮田グランド」と呼ばれていたが、その時代から南中のグランドで、同校の野球部の練習などにも使われていた。

かつては「大堰」側(上掲画像)に木橋の入口があり、学童野球大会や市主催の盆踊り大会が開かれるなど、市民に親しまれ、行事がないときは、近所の子どもらの遊び場となった。

「宮田グランド」の南側一帯は「瀬川木材」の大きな製材工場、グランド東側には国鉄アパートが連なっていた。そのアパートの数棟は改築され「JR東日本社宅」として今も残る。

湊家
湊家・薬医門 2013.04

南中の向いにある、明治初期に造られた湊家の薬医門は「大堰端」に残る最古の建造物。

戦前は本金・辻兵・平野政吉らと並ぶ大地主。昭和初期、邸内に開設されたテニスコートは「湊コート」と呼ばれ、当初は数少ない常設コートであったため、テニス大会の会場にもなった。

戦後は知的障害者の福祉向上に尽力。同家が所有する横森(金照寺山)の別荘および土地、約3000坪が寄付され、昭和37(1962)年「若竹学園」が開設される。

湊家

大堰端・暗渠

 大堰端・暗渠
「桝取橋」跡

枡取橋
「桝取橋」昭和30年代・秋田駅方向を望む

「大堰」に架かる「桝取橋」を東に渡ると、右手に旧・楢山桝取町。武士の給料であった扶持米を計量する役職の「お桝取職」が住んだことに由来する町。その右手に「理髪館と石敢當のあるY字路」。

枡取橋跡
理髪館と石敢當のあるY字路

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「桝取橋」跡をY字路方向へ渡らず「大堰端」を南に少し直進すると、暗渠は90度の角度で左折、「大堰端」に別れを告げ、桜並木の遊歩道に入る。「大堰端暗渠」をたどる散歩も、もうすぐゴールだ。

大堰端・暗渠

大堰端・暗渠
「一本橋」跡

「大堰」が暗渠化されるまで、この地点に「一本橋」という名の小さな木橋が架かっていた。

「一本橋」跡を北へ左折すると、さきほどの「理髪館と石敢當のあるY字路」に通じ、南に右折すると楢山寺小路を経て百石橋に到る。

大堰端・暗渠
2012.04

「一本橋」跡から、春爛漫の遊歩道を望む。桜並木は「大堰」の暗渠化にともない植樹されたもの。

「自転車及び歩行者専用」標識後方の青い機械は水門バルブの開閉台。大雨で太平川が増水したとき、暗渠への逆流を阻止するためにバルブが閉められる。

大堰端・暗渠

突き当たりが「大堰端暗渠」のゴール地点。

大堰端・暗渠

太平川にそそぐ「大堰端暗渠」。その向こうに羽越本線鉄橋。

久保田城下絵図
「久保田城下絵図」寛保2(1742)年頃

右上に「桝取橋」その下に「一本橋」そして太平川に架かる「百石橋」。

太平川
2004.04 対岸から「大堰端暗渠」を望む

前出の回想録で石川達三が「この小川は下流でもう一つの川と落ちあい、そこは深くて、いつも渦を巻いていた。そこに落ちたら絶対に助からないと、いつも話に聞いていた」と記した地点である。

「大堰端暗渠」東側(画像右側)の、昔日の面影を残す緑地は、羽越本線が通るまで、藩政期の文人サロン「濯纓楼」跡がある袋小路とつながっていた。

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大堰端
大堰端暗渠

「大堰端暗渠」のゴール地点から太平川の土手を西に進むと、県内有数の桜の名所「太平川の桜並木」にたどり着く。

太平川桜並木
2012.04 太平川桜並木

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