金照寺山東部・閉ざされた水道トンネル・一つ森公園
▼裏山の閉ざされたトンネル
▲送水トンネル 楢山側
僕らが裏山と呼んでいた金照寺山東部、現在の「一つ森公園」の麓に古めかしいトンネルがある。今は封鎖されているが、かつては誰もが自由に通行できるトンネルだった。
▲送水トンネル 楢山側
銘板を見上げると達筆で「秋田市と水道 送水トンネル」その右下の銘板に、完成年月である「昭和四十年九月」につづき、管理者の氏名が刻まれている。
あとで説明するが、上掲画像の楢山側がトンネル入口、山向うの横森側が出口だ。
▲送水トンネル 横森側
▲送水トンネル 横森側
横森側出口は下部が堆積した土でふさがれ、まるで遺跡のような風情がある。
▼送水トンネル建設の経緯とその役割
▲金照寺山 送水トンネル工事
時代は高度経済成長期にあたる昭和30年代後半。急速な人口増加、工業団地の整備などにともなう水の需要増に対応すべく「秋田市水道局」は上水道第4期拡張事業(昭和38年4月〜44年3月)に着手。
拡張事業の一環として「仁井田浄水場」から、新設される「手形山配水場」への送水を目的に、金照寺山東部の丘陵を貫いて、送水管を通す(埋設する)ためのトンネルが、昭和40(1965)年9月完成する。
雄物川を水源とする「仁井田浄水場」から「手形山配水場」まで、延長 9,460m、内径 1,000mm の送水管を敷設する大工事。送水用の銅管は馬車で、冬は馬そりで運んだ。
水の流れは仁井田から手形山へ向かっているため、楢山側がトンネル入口、横森側が出口となる。
▼送水トンネルの開放と再閉鎖
開通後は水道局の管理用トンネルとして、常時は施錠されていたが、やがて付近の農家から「トラクターなどの移動に使わせてほしい」との要望が寄せられた。
山向うの田んぼまで農作業に向かうとき、従来の山麓迂回コースと比べ、トンネルを利用すれば大幅な時間短縮となる。
そのような目的ならば特に問題はないだろう、と当局は通行を許可。以降、トンネルは一般に開放され、誰でも自由に往来できるようになった。
裏山(現・一つ森公園)の水道トンネルが開放されたらしい、との噂を耳にして、悪友たちと連れだって探検に出かけたのは中2の頃だったか。
トンネルの両側には当初、一面の田んぼが広がっていて街灯も少なかった。トンネル内に照明装置はなく、夜になると真っ暗闇になる。夏の肝試しには最適な環境で、幽霊に遭遇した、痴漢が出るらしい、などの噂も。
トンネルの闇に隠れてシンナーを吸っていた中学生が補導されたことをきっかけに、近くの学校や保護者が「非行の温床になりかねない」と封鎖を要求。昭和57(1982)年、送水トンネルは再び閉じられることに。
同地区の宅地化も進み、トンネルを便利に使っていた農家が減少したこともあってか、封鎖に反対する声も上がらなかった。
封鎖後の一時期「秋田消防本部」がトンネル内で、煙中救助訓練を定期的に行う。
トンネル封鎖の翌年、昭和58(1983)年3月「一つ森公園」が華々しくオープン。
次回は送水トンネルから北側の、水道道路・水道橋や三日月湖のお話しを。
▲昭和37(1962)年撮影 送水トンネル開通前
▲昭和51(1976)年撮影 宅地化が進む横森地区(送水トンネル出口側)
平成21(2009)年撮影
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