二〇世紀ひみつ基地

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2018年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年02月

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正月の料亭「あきたくらぶ」川反芸者と左褄

あきたくらぶ・川反芸者

昭和30年代の撮影とおぼしき、料亭「あきたくらぶ」の玄関を写した写真。

明治10年代創業の「秋田倶楽部」の別館として、厳選された秋田杉をふんだんに使い、大正時代に建設された、秋田を代表する料亭であった「あきたくらぶ」は、平成15(2003)年に倒産。その跡地は今「はなの夢 ホテルグランティア秋田」となっている。

あきたくらぶ・川反芸者

新年の挨拶に訪れたのか、留袖の芸者さんと振袖姿の半玉 (はんぎょく) さん。関西方面では舞妓ともいう半玉さんは、底が厚い木履(ぽっくり)を履いているため背が高く見える。

「太平山」と「両関」の薦樽(こもだる)六本を三段に重ねた上に鏡餅を載せた、大きな正月飾りが眼を惹く。

酒樽や薦樽の上に鏡餅を載せた正月飾りは、酒を提供する宿屋や料理屋に、幕末頃からつづく風習らしく、今でも老舗料亭や旅館、帝国ホテル・プリンスホテルのような格式のあるホテルでも飾られるが、現在の正月飾りに使われる薦樽は、酒の入っていない飾り樽が多い。

二丁目小路突き当たりの、まんだら小路(現・山王大通り)に、明治初年に創業した料亭「志田屋」も、薦樽は一本だが、今も同様な鏡餅を飾る。

正月の11日頃、鏡餅を下ろして割り、雑煮や汁粉にして食べる行事を鏡開きというが、薦樽(酒樽)の丸い蓋を割ることもまた鏡開き。「あきたくらぶ」でも盛大な鏡開きが開催されたことだろう。

あきたくらぶ・川反芸者

こちらも同年代に「あきたくらぶ」庭園で撮影された写真。

あきたくらぶ・川反芸者

年配の芸者さんの着物は紋付きに波の裾模様がある黒留袖。若い方が色留め袖。どちらも紋付きに、縁起物である乾燥した稲穂のかんざしを挿しているように見えるので、これも松の内の撮影か。

黒を基調とする紋付きの留袖は、花柳界における正月の正装。初出(はつで)を意味する “出” を冠して “出(で)の着物” や “出の紋付” “出の衣装” と呼ばれた。

あきたくらぶ・川反芸者
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

裾の長い “お引きずり” の着物を着る芸者が歩くとき、外出するとき、着物の褄(つま・腰から下のへり)を左手で持ちあげるようにつまむ。この仕草を “左褄(ひだりづま)を取る” という。しろうとの花嫁衣装や遊女は、反対の右手で褄をつまむことから、“左褄(ひだりづま)取る” ことは芸者の代名詞となり、芸者になることを「左褄を取る身となる」かつて芸者であったことを「左褄を取っていた」などと表現する。

 “左褄を取る” 仕草は利き手である右手を空けていた方が、上掲画像のように傘を持つにしても動作が安定し、危機に対して咄嗟な反応をしやすく、立ち振る舞いも優美に見えることから習慣化されたもの。

身を売る遊女が右手で褄を取る(右妻)ことにからめて、左褄は「芸は売っても身は売らない」という芸者のプライドを表している、という野暮なデマがネット上に氾濫し、着付け教室から芸者置屋を経営する店のウェブサイトまでも、もっともらしくそれを解説している現状は、まったくもっていただけない。これはインターネットの普及以降に拡散されたものなのだろう。

上掲画像は『秋田魁新報』に掲載された、元川反芸者・若勇さんが芸者時代を語った連載企画から、昭和39(1964)年の元旦、“出(で)の着物” 姿の若勇さんらが年始回りをする光景。この年代は雪が多かった記憶があるが、路面は乾燥している。

撮影地点は川反通りとすずらん通りの交差点。背景に新屋の銘酒「寳生」の看板が見える「丸彦酒店」側面と、白い欄干に擬宝珠(ぎぼし)がある三丁目橋。川反らしい情緒あるデザインの橋であったが、橋に到るまでのアプローチの勾配がきつく、路面凍結時には滑って危険だったため、橋の手前に手すりが設置されている。詳しくは下記関連記事に。

すずらん通り
▲川反通りから三丁目橋を望む 2019.01

「あきたくらぶ」と川反芸者に関しては下記関連記事を参照のこと。

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広告で見る「大島商会」店舗の変遷

「旧大島商会店舗」移築保存決定記念号

大島商会
▲旧大島商会店舗 2010.08

五丁目橋から横町通りを通過し新国道に抜ける都市計画道路・川尻広面線の道路拡幅工事の進展にともない、解体の危機にさらされていた、秋田市大町六丁目の旧「大島商会」店舗が、所有者である菓子舗「高砂堂」の塚本家から秋田市に寄贈され、移築保存されることが決まった。 

秋田市下肴町に明治34(1901)年竣工の同店舗は、市内に現存する煉瓦造りの建造物としては最古とされ、平成12(2000)年、国登録有形文化財に指定される。

当初は商業施設としての活用を念頭に売却先を探していた。店舗としては非常に魅力的な物件であり、たとえばカフェなどの出店を計画する飲食業者や、賃貸を目的とした不動産屋が、移転用地を確保して購入できたとしても、専門業者による解体・復元に要する費用は莫大なものとなるため二の足を踏み、なかなか話がまとまらなかった。

移転先の候補にあげられているのが、大町一丁目「秋田魁新報社」跡地の一角で、「サンパティオ大町」に隣接する、現在は市有地となっている部分。間近には復元された明治期建築の呉服店「旧金子家住宅」、そして同じ通りの大町三丁目に「赤れんが館」(旧秋田銀行本店) と、すでに2件の有形文化財がある、移転候補地としては最適なロケーション。

現在、花屋「花京都」が入居しいてる、旧「大島商会」店舗の、かつてのテナントをあげると、70年代は焼肉「平壌園」80年代に入って居酒屋「南蛮亭」そのあとに食事&喫茶「ボデゴン」と続いた。時代をさかのぼって昭和20年代、建物の所有者である「高砂堂」が短期間、喫茶店を経営していたこともあるとのこと。

▼広告で見る「大島商会」店舗の変遷・明治から大正まで

大島商会
▲明治35(1902)年 新聞広告

上掲画像は『秋田魁新報』に掲載された「大島商会」開業時の広告。開業日は明治35(1902)年5月29日(木曜日)。

前にも書いたように、当初は委託品を販売する委託商として営業を開始。広告文には開業当日に用意した委託商品として次の品目をあげている。

◎目下委託せられ開業当日よりの販売品は左の如し
◎各地産漆器◎秋田産精製漆◎秋田八丈◎地織縞木綿◎亀田ぜんまい織

汁椀・重箱・菓子器などの漆器と精製漆。「秋田地織」として県外にも販路を広げた「亀田ぜんまい織」秋田特産草木染め絹織物「秋田八丈」と、洋館店舗には不釣り合いな手工芸品がならぶ。漆職人が漆器に塗るために使う精製漆にどれほどの需要があったのだろう。

徐々に品物を増やし、この年には舶来自転車の委託販売も始め、やがて「委託商」のフレーズが広告から消えるのだが、委託商として商売を始めた理由は、店舗の建設費がふくらみすぎて、資金不足に陥ったためと推測する。

‥‥前略‥‥又当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて 幾分か御目新しき所も可有之(これあるべし)と存候(ぞんじそうろう)に付 開業当日より御散策方々賑々(にぎにぎ)しく御枉駕(ごおうが)の上 御遠慮なく陳列諸品 御熟覧被下(くだされ)御購求の程 偏(ひとえ)に奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)‥‥中略‥‥

秋田市下肴町
委託商 (K)商会主 大嶋勘六

古めかしい候文(そうろうぶん)が時代を感じさせる文中に「当商会の建築は秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて」とある。商店としては初の煉瓦建築だった可能性は高いが、商店以外で秋田初の煉瓦建築とされるのは、明治23(1890)年、土手長町の秋田県庁舎に隣接して創建された県会議事堂である。

大島商会
▲明治35(1902)年

上掲の新聞広告と同じイラストを使用した広告。

瓦屋根の上に避雷針。二階にバルコニーと看板。中央の石積アーチ玄関の他に、今は封鎖されてショーケースが置かれている両側の石積アーチ部分も、このイラストを見る限り、当初は出入口として使われていたようだ。

大島商会
▲2004.03

大島商会
▲明治42(1909)年 広告より

明治40年代に入ると写真を使った広告が登場。

店頭に人力車と自転車。横町通りを寺町方向へと歩を進める着物に洋傘(日傘)の婦人たち。洋傘は「大島商店」の取扱商品であったから、三人の婦人は撮影のためのエキストラなのだろう。

大島商会

店頭で一人だけカメラに眼を向けている着物姿の男性は、同商会主人・大嶋勘六氏か。

現在は瓦屋根がトタンに吹き替えられ、二階のアーチ窓はセメントでふさがれている。金属製バルコニーおよびアーチ窓に附属する観音開きの鉄扉は消失。金属類は経年劣化に弱いため、度々補修しない限り、竣工当時の姿をとどめることは難しい。

バルコニーの下、店舗前の道路に突き出して設けられた木製の軒は、北陸・山陰・東北地方の雪国にかつてみられた「小店」(こみせ) 。雨露をしのぎ、積雪時には軒下が通路となる、今でいうところのアーケードで、各々の商店で高さを揃えた「小店」を造った。写真右手、 西隣に連なる切妻造りの商店にもそれが続いている。秋田では「こもせ」とも呼ばれ、地方によっては「雁木」(がんぎ) ともいう。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工

大島商会
▲建物側面のアーチ窓 2018.12

側面に残る鉄扉は劣化が激しく今にも崩れ落ちそう。

大島商会
▲建物背面のアーチ窓 2014.07

背面のアーチ窓には鉄扉の蝶番(ちょうつがい)の痕跡が残る。

大島商会
▲明治44(1911)年 広告より

明治末期になると、煉瓦造りの洋館には不釣り合いだった「小店」は廃止され、バルコニーの下、アーチ玄関の両側に新たにショーウィンドウを設置することで、よりモダンな佇まいとなる。バルコニーに掲げられていた「洋品雑貨」の看板は屋根下に移動。

解像度が低く質の悪い凸版印刷のため、拡大すると網点が目立ち、細部は不鮮明だが、バルコニーの下に「OHSHIMA&CO.」などと書かれた横文字の看板が並び、手前のショーウィンドウには紳士物の帽子が飾られ、入口付近に商品の乳母車が見える。

画像右手、建物の裏にちらりと見える切妻屋根の日本家屋は経営者の自宅とのこと。

大島商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大嶋商会
▲大正5(1916)年 広告

こちらの広告写真は、卒業アルバムや美術工芸印刷などに使われるコロタイプ印刷のため、上掲画像よりは解像度が高く、拡大すると細部がある程度確認できる。

冬期の撮影か、側面のアーチ窓から煙突が屋根に延びる。

大嶋商会

大嶋商会

男鹿石と推定されている重厚な石積アーチ玄関の両側に置かれた、ショーウィンドウの展示品は、手前に靴と洋傘、右に紳士用の帽子各種。玄関の上にブラケットライト。

大嶋商会
▲上掲画像を「人工知能による自動色付け」で加工後、修正加筆

大島商会
▲2008.07

欧米のデパートメントストアを手本に、当時はまだ珍しかったカタログによる通信販売、商品切符(商品券)の発行、今でいうところのポイントカードの発行など、先進的な経営とモダンな店舗で、明治から大正・昭和初期にかけて名をはせた「大島商会」。

取扱商品は、帽子・靴・鞄・洋傘・化粧品・文房具・眼鏡・時計・スポーツ用具・煙草・乳母車・舶来自転車 等々。そのほか、春慶塗・樺細工・自社ブランドの銘菓・八郎潟産佃煮など秋田の特産・名産品も販売。

土手長町中丁に「大島商会東店」を開設、土手長町上丁・広小路角の初代「秋田ビルディング」(新田目本店跡) に支店、秋田駅構内に旅行用品とお土産品を扱う売店を置き、駅のホームでは名産品の立ち売りもして、一時は土崎駅にも出店する。

「大島商会」の主力商品は紳士用帽子。明治から昭和初期にかけて、子供から老人まで、ほとんどの男性が外出時に帽子をかぶっていたことは、過去記事「消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退」に書いたが、その帽子ブームの時代と「大島商会」が存在した時代が重なる。

過去記事から帽子の広告を再掲。

大島商会▲大正10(1921)年 新聞広告

今年の秋は何(ど)んな帽子が流行(はやる)んでせう?
大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります

数ある同商会の広告のなかでも、コピーとレイアウトのバランスが絶妙でイラストもまた味がある、お気に入りの一点。

「大島商会の店頭を御覗(おのぞ)き下されば直(すぐ)御理解(おわかり)に成ります」の「店頭」は、まさに上掲画像の“帽子が陳列されたショーウィンドウ”の光景である。

大嶋商会

「大島商会」に関してはネタが尽きないが、同商会が主催した自転車遠乗会(サイクリング大会)、自転車競争(ロードレース)などの関連記事は下記リンク先に。

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