二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

2018年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2018年10月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

秋田県民会館跡・発掘現場に明治の遺構現る

秋田県民会館解体
▲秋田県民会館解体工事 2018.06

秋田県と秋田市が提携して整備する新文化施設建設のため、2018(平成30)年5月に閉館した「秋田県民会館」の解体工事が進んでいる。

秋田県民会館・東海林太郎胸像
▲県民会館下ポケットパーク 2018.06

県民会館の下、東海林太郎の胸像があるポケットパークも建設工事にともない撤去され、胸像はアトリオン一階に一時移転。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲県民会館下ポケットパーク跡 2018.07

当地は佐竹氏の重臣・渋江内膳の屋敷跡のため、県民会館周辺において、埋蔵文化財発掘調査を開始。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲県民会館下ポケットパーク跡 2018.08

柵の外から発掘現場に目を凝らすと、ポケットパーク跡の地層が現れた断面の上に、なにやら煉瓦の残骸が・・・・・・。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査
▲2018.08

アスファルトに覆われていた土中から出現した煉瓦積みは、明治・大正期の文化施設「秋田県公会堂」正門の門柱を支えた土台に違いない。

過去記事で言及したように、ポケットパークの一部にかつて「秋田県公会堂」正門に通じる階段が存在した。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年代の絵葉書

秋田県民会館
▲県民会館下ポケットパーク 2006.05

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年代の絵葉書より(部分拡大)

門柱の上に球形ガラスで覆われたガス灯が乗っている。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂・明治40年頃の絵葉書より(部分拡大)

大小4本の門柱と金属製らしき門扉と両翼の柵。門柱の下部に煉瓦らしき土台。その上部のアクセントも同じ煉瓦のようだ。

ポケットパーク跡の発掘現場では、遠目に大小3本の煉瓦積み土台の痕跡を確認。それを見つけたとき、思いも寄らぬ近代建築遺構の出現に胸がときめいた。

秋田県民会館・埋蔵文化財調査

中土橋通り▲秋田県公会堂と中土橋通り・明治40年代の絵葉書

上掲画像は「秋田県公会堂」裏門と中土橋通り。左手が現在の県民会館入口付近。中土橋通りに大きく突出する第二土塁(土手)に、手前の第一土塁上の樹木が影を落としている。

第二土塁の裏に、秋田の武道館「大日本武徳殿」その奥に「明徳小学校」が並ぶ。

「大日本武徳殿」は戦後、警察の武道場となり、その跡地に「旧・平野美術館」(旧・県立美術館)落成。「明徳小学校」が移転した跡地には「市立図書館・明徳館」が開館する。

以前にも書いたように、中土橋通りに突出した土塁は久保田場内に敵が侵入するのを防いだ要害のなごり。

穴門堀に面した県民会館南側の第一土塁も同様に中土橋通りに突き出し、左右から互い違いにS字型の「互い土手」を形成していた。

上掲の明治写真を撮影したカメラマンは、県民会館南側の第一土塁(S字の下部)上に三脚を据え、見下ろすようにシャッターを切った。

秋田県民会館・中土橋通り
▲県民会館入口と中土橋通り 2008.11

上掲画像右端「旧・平野美術館」(旧・県立美術館)前に第二土塁の残骸が残る。

※中土橋通りに存在した要害と、旧鷹匠町に一部が現存する「互い土手」については巻末の関連記事を参照のこと。

秋田県公会堂
▲秋田県公会堂裏門付近・明治40年代の絵葉書より(部分拡大)

千秋公園へ向かう日傘の女性と紳士、その奥に着物を着た男児。第二土塁の突端で人夫らしき男が腰を下ろして一服している。

横道にそれた話を元に戻すと、上掲画像左手、坂道上の「秋田県公会堂」裏門は正門と柵でつながっていた。

東宮(皇太子時代の大正天皇)御成婚記念事業として、1904(明治37)年に落成した「秋田県公会堂」は、1918(大正7)年4月、惜しくも焼失。

「秋田県公会堂」の正門と内堀側および中土橋通り側に延びる柵は、1918(大正7)年の消火活動で破壊されることなく残る。

秋田県記念館
▲秋田県記念館入り口付近・大正期の絵葉書

「秋田県民会館」入口付近を「秋田県公会堂」焼失後に撮影した写真。右手に「秋田県記念館」(秋田県民会館の前身)。

千秋公園・中土橋通り
▲県民会館入口付近 2007.10

秋田県記念館
▲秋田県記念館入り口付近・大正期の絵葉書より(部分拡大)

昭和初期にJOUK秋田放送局の「ラジオ塔」が設置され、最近まで「秋田県民会館」駐車場と機材搬入口があった付近を拡大すると、すでに裏門は無いが、その奥に「秋田県公会堂」正門が確認できる。

昭和6年頃に中土橋通り側を撮影した写真で、柵が消えていることを考えると、大正末から昭和初期にかけて「秋田県公会堂」正門が撤去されたのではないだろうか。

その後も正門が残ったと仮定すると、大東亜戦争中の金属不足のとき、金属製の門扉と周囲の金属柵が供出され、残って不要となった門柱が撤去された可能性も否定できない。

秋田県公会堂

上掲画像を「人工知能による自動色付け」を施したあと、手動で補正・加筆。まだカラー写真が普及していない時代のため、建物の色彩は想像に過ぎない。

2018年9月20日「秋田魁新報電子版」が「秋田県公会堂」門柱土台の発掘に関する記事を掲載。下記リンク先を参照のこと。

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

秋田大学構内・校章入マンホール蓋・トーロー印

秋田大学構内マンホール蓋
▲穴径 600mm

排水器具メーカー「大阪ドレネージ工業株式会社」(現・ダイドレ株式会社)製の鋳鉄マンホール蓋。

秋田大学構内マンホール蓋

同社マンホールに特有の地紋「四つ剣菱」模様の中央に、蕗の葉に“大学”の文字を配した秋大の校章、その上に小さく、大正時代からつづく同社の伝統的ロゴマーク「トーロー(灯籠)印」がある。

秋田大学構内マンホール蓋
▲穴径 300mm


| 散歩写真・路上観察 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

秋田オールドカーミーティング '18・フェアレディの系譜

あきたオールドカーミーティング2018
2018年08月19日
秋田市・エリアなかいち

2007年からつづく、旧車オーナーによる集会「あきたオールドカーミーティング」。約100台が展示された今回のテーマ展示が「ダットサン」ということで、博物館級の稀少車輌 DC-3 をはじめ、ダットサン(日産)歴代の名車が集合した。

あきたオールドカーミーティング
▲ダットサン スポーツDC-3

日本初のオープン・スポーツカーとして、1952(昭和27)年発売、1954(昭和29)年の製造終了までわずか50台を限定生産。

当時の価格83万5千円。公務員の初任給が7千5百円ほどの時代に、月給約10年分に相当する超高級車であった。

あきたオールドカーミーティング
▲ダットサン スポーツ DC-3

あきたオールドカーミーティング
▲初代 ダットサン フェアレディ

あきたオールドカーミーティング
▲2代目 ダットサン フェアレディ

あきたオールドカーミーティング
▲ダットサン フェアレディZ

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング
▲1962型 ダットサン小型トラック キャブライト A120型

車種の詳しい解説は下記関連リンクに。

あきたオールドカーミーティング


▲旧車による刑事ドラマショー第1回目

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

あきたオールドカーミーティング

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

秋田駅前「緑屋ビル」のレトロ・アーケードゲームが話題に

2018年8月中頃から、秋田駅前「緑屋ビル」に関する記事へのアクセス数が急増。何かあったのかと調べてみると、10,000件以上リツイートされた、下記 Tweet が発端と判明。

「緑屋ビル」一階のリサイクルショップ 「グリーンライフ」内に、ストリートファイターIIを初め、1990年代を中心とした、ちょっとレトロなアーケードゲームが無造作に置かれていることがマニアに話題になった。

 「グリーンライフ」店長が設置の経緯を語っている取材記事は下記関連リンク先に。

秋田駅前「緑屋」ゲームコーナー
▲筐体はセガ ブラストシティ

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

2018夏の金農フィーバーと103年前の「秋田中」準V

◎平成最後の夏は“金農の夏”として記憶される

2018年8月21日
第100回 全国高校野球選手権記念大会
決勝戦 金足農 対 大阪桐蔭

金足農業高校決勝戦

試合開始1時間ほど前に「エリアなかいち」内のパブリックビューイング会場に到着するも、大型ビジョン前は、すでに立錐の余地もない状態。平日だからと甘く見すぎていた。

会場を埋める観客に加え、在京テレビ局からwebメディアまで、マスコミ各社の取材陣も目立つ。

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

決勝戦当日のたそがれ時、大会の余熱を映したように燃える空。

◎103年前の第1回大会「秋田中学」準優勝

1915(大正4)年8月「第1回全国中等学校優勝野球大会」(のちの夏の甲子園)が大阪府豊中グラウンドで開催され、決勝に進出した「秋田中学」(現・秋田高校)は「京都第二中学」と対戦し、延長13回の激闘の末、2対1で惜敗。

第1回大会地方予選・東北大会は「秋田中学」「秋田農業学校」(現・大曲農業高校)「横手中学」(現・横手高校)の秋田県勢3校だけで戦われた。

第1回大会地方予選、参加校はわずか73校。
予選を勝ち進んだ10校が大阪の本大会に進出。

第100回大会地方予選、参加校3,781校。
甲子園の本大会に56校が出場。

大会規模にこれほどの大差があることを前提にすると、今夏の金農の決勝進出は、秋田球界にとって“前代未聞の快挙”と称賛されてしかるべき結果であったことは言う迄もない。

それでは、103年前の第1回大会で秋田県民はどれほど盛り上がったのか。

まだラジオ局も開局していない時代、試合結果を速報するメディアは新聞だけ。特派員からの電報(短信のみ)か速達郵便、もしくは派遣した記者が汽車で帰社するのを待つしかなく『秋田魁新報』に対戦結果が載ったのは決勝戦の翌々日、8月25日のことであった。

どんなに遠隔地の試合であろうと、一球一打に一喜一憂しながら、リアルタイムで観戦できることが当たり前な現代と違って、これでは盛り上がりもなにもありはしない。

秋田中学校準優勝▲大正4年8月25日付『秋田魁新報』より

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

金足農業高校決勝戦

決勝戦は大差で優勝を逃したものの、至福の時間と醒めやらぬ興奮の余熱を胸に残して、金農の夏が終わった。

展開が“漫画チック”ともいわれた、その活躍を映画の惹句風に表現すると。

“輝く星”と命名された稀代のスター吉田輝星(こうせい)を主役に、エリート軍団に立ち向かう雑草軍団の快進撃。前代未聞、空前絶後、手に汗握る100年に一度の感動巨編。

限度を超えた連日の連投が、吉田投手のこれからの野球人生に悪い影響を与えないことを祈るばかり。

追記:2018年8月19日に YouTube にアップした「金足農業ベスト4進出の歓喜・エリアなかいちPV 」の視聴回数が2週間後に14,000回を越えていることを確認、注目度の高さを再認識させられた。

| 秋田市今昔 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |