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平成二十五年「土崎湊祭り・御幸曳山・戻り曳山」点描

平成二十五年(2013)七月二十一日(日)
土崎湊曳山祭り(通称・浴衣祭り、かすべ祭り)
御幸曳山(みゆきやま)戻り曳山(もどりやま)
土崎神明社・例祭
曳山奉納・二十五町内+土崎神明社鎮座四百年記念「復元曳山」

土崎港曳山祭り

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平成20年7月21日 土崎神明社例祭 土崎港祭り

御幸曳山(みゆきやま)出発地の穀保町(こくぼちょう)と国道付近。


土崎港祭り2013【21日】一

穀保町(こくぼちょう)に集合した曳山と御神輿渡御、御幸曳山(みゆきやま)出発まで。同じ投稿者による続きは以下にリンク先に。

土崎港祭り2013【21日】二 - YouTube
土崎港祭り2013【21日】三 - YouTube
土崎港祭り2013【21日】四 - YouTube

以下は前日の宵祭りの様子

土崎港祭り2013【20日】一 - YouTube
土崎港祭り2013【20日】二 - YouTube
土崎港祭り2013【20日】三 - YouTube
土崎港祭り2013【20日】四 - YouTube
土崎港祭り2013【20日】五 - YouTube

土崎港曳山祭り

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土崎港曳山祭り 2013.7.21 相染町

相染町の戻り曳山。ドンドコドッケ(盆踊り)、演芸、音頭上げ。

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土崎神明社鎮座四百年記念「復元曳山」高さ十メートル

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土崎神明社鎮座四百年記念「復元曳山」高さ十メートル。
夜の「ふれあい曳山」で、電線地中化された駅前通りを運行。

土崎港曳山祭り

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鎮座四百年記念「復元曳山」


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ホントは怖い与次郎稲荷伝説・エリアなかいち

▼与次郎のキャラ化にたまげる

与次郎稲荷

秋田市中通一丁目地区(日赤・婦人会館跡地)市街地再開発事業「エリアなかいち」のオープンにあたり、昨年(2012)7月にマスコッ卜・キャラクタ一に就任した、飛脚の白狐 ・与次郎。

やけに眼光鋭く、とげとげしい表情は、与次郎の“恐ろしい祟り神”としての一面を表しているかのようで、どうも親しみを持てない。

以下に記すような、“内に深い闇を秘めた伝説の主人公”である与次郎を公共施設のマスコットとして起用、二次元にとどまらず、着ぐるみ化されることを知ったときは正直魂消(たまげ)た。 文字通り“魂が消え入る”思いがした。

選考にあたって当事者たちは「与次郎稲荷伝説」の詳細を検討したのか?。おそらくは「殿様に寵愛され、飛脚として活躍した忠義の狐」程度の感覚で、安易に選定したのだろうが、「与次郎稲荷伝説」はそんなに単純で甘いお話しではなく、客寄せのためにキャラ化するには、あまりにもヘヴィな存在なのである。

与次郎は鳥居と標縄(しめなわ)で区画された神域に、そっと祀(まつ)っておけばよいものを・・・。

 

▼与次郎稲荷伝説とは?

秋田・山形両県に、新旧さまざまなバージョンの「与次郎稲荷伝説」があり、子ども向けの紙芝居や絵本はもちろん、市の広報誌なども残酷な場面をカットしているが、今回は原型を維持している物語を転載する。

昭和十一年当時、千秋公園本丸「八幡秋田神社」の宮司・山本富治氏が語った伝説を『月刊秋田』が採録したもの。

旧字体を新字体に、難解な語句を原文を損ねない程度にわかりやすい表現に書き替え、一部の用語については註釈を加えた。

「伝説の与次郎稲荷」

八幡秋田神社 社司 山本富治氏談

▼藩祖怪夢にうなされる

佐竹義宣公が、水戸から秋田へ御入国なされたのは慶長七年のことでしたが、初めは仙北郷六郷に居られ、後に土崎港の御仮城に移られ、久保田城の落成を待って慶長九年の八月にいよいよ御入城になったのであります。

しかし、御入城間もなく、夜な夜な怪夢にうなされ、一夜も安々と眠りに就くことが出来ませんでした。御自身が蟇目の法(ひきめのほう)などを修せられましたが一向にその効き目がなく、臣下らが額をあつめて思案にくれて居りました。

※蟇目の法(ひきめのほう)妖魔降伏のため弓弦を打ち鳴らす呪術

▼老狐の哀訴

ところがある日のこと、義宣公が連夜のお疲れでうとうとして居られたとき、御庭前に一匹の痩せた老狐が姿を現し、おそるおそる訴えて申すには、

「拙者、三百余年来この神明山に住んで居た狐であるが、この度殿様がここに御築城なされたために、住み処を失い路頭にさまよう他ない、願わくは憐憫を垂れ、少しの土地を割(さ)いて安住の場所を賜(たまわ)らんことを」

と云うのでありました。物に動じない義宣公は、うなづきながらその訴えを聞いて居られますと老狐はさらに語を継いで、

「寛仁大度(かんじんたいど)な我が君にして、幸いにこの老狐の願いをお聞き入れ賜(たまわ)らば、永く御城地の守護となり、且つ、一廉(ひとかど)の御用向きをも果たしますほどに・・・」

と、幾たびも首(こうべ)を垂れるのであります。

※寛仁大度(かんじんたいど)寛大で慈悲深く、度量の大きいこと

▼与次郎稲荷取立の事

その訴えを聴かれた義宣公は、いとも憐れに思い召され、かつ又老狐の申し出を興あることと微笑み給い、

「かねてより狐は神通自在の術ありと聴くが、いかなる御用を勉むるぞ」

と問われた。

「さればでござる、急遽の御用には、飛脚となって江戸表まで往復六日を限り、相違なく果たし申さん」

と答えるのであります。

よって義宣公は大いに喜び給い「城北の茶園を住居とせよ」と即座に御許しを給い、今後、江戸表の飛脚に取立てつかわす旨の御沙汰を給わったのであります。そして、かつて水戸に在りし日、茶畑守に与次郎という忠実なる僕(しもべ)があったことを思い出され、その名を与次郎と授けられました。

▼忠勤の狐、与次郎の活躍

当時は御遷封後間もないことでありましたから、江戸の上屋敷に種々の御用があって、煩雑に飛脚を出さなければなりませんでした。そんな時には藩公自ら御庭前に立って

「与次郎!与次郎!」

とお呼びになると、声に応じてどこからともなく旅装束に身を固め、香の字印の袢纏(はんてん)を着た佐竹家の御飛脚が、その御前にひざまづいて居るのであります。それに御文箱を渡すと、うやうやしく押し頂いて首にかけ、一礼して去るのでありますが、六日目には屹度(きっと)江戸表からの復命をもたらし帰り、かつて一日も間違えた事がありませんでした。

それが慶長九年から八月から、同一四年まで六ヶ年続いたので、殿様にはことのほかこの与次郎を寵愛されたそうであります。

※香の字印の袢纏(はんてん)
佐竹家の替紋(かえもん・非公式家紋)である「花散里」を染めた袢纏 

与次郎稲荷

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▼与次郎の遭難

その頃、山形の六田村に間右衛門と云う飛脚宿がありました。その間右衛門なる物が、考えるに近ごろ佐竹の飛脚が一向に泊まらなくなった。噂に聞けば佐竹の飛脚は、非常な足早で恰度(ちょうど)飛ぶようだということであるから、ひょとしたらただの人間ではないかもしれないと、そこで、村の手前の渡し船に乗る船頭が気をつけて見ていると飛脚が乗っても船は少しも動揺せず、船足も沈まない、ハテ合点がいかぬと、早速その事を間右衛門に報告する。間右衛門が仲間の谷蔵と呼ぶ猟師に相談すると、それは狐に違いあるまい、その奴をひとつ捕まえてやろうという良からぬ謀議をこらしたのであります。そこで狐の大好物である鼠の油揚げを餌とした罠仕掛けをして佐竹様の飛脚の来るのを待ち受けて居りました。

▼健気なるその最後

それとも知らぬ与次郎は、例によって殿の名を受け、六田村の渡し場付近くさしかかると、油揚げの香がぷんぷん鼻を突く、が、さすがは神通力を得た老狐の事ゆえ、うっかりそのたくらみには乗りません、早くもこれは我が身を殺害せんとのたくらみであると悟ったが、しかし、すでに正体を看破された上は、一度は必ず危害を免れる事は出来まい、死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありと聞く、この所は覚悟をきめる時だと観念して、そばの並木に殿から預かった大事な状箱を掛け、自身は進んでその罠にかかって、あえない最期を遂げたのであります。まことに気の毒なことでありますが、しかし又健気な態度でもあります。

▼白狐空を飛ぶ

待ち伏せていた間右衛門や谷蔵等は「してやったり」と棍棒を振りかざして現れ、滅茶苦茶に罠にかかった与次郎を叩き殺してしまったが、それは狐ではなくて、立派な人間、しかも佐竹家の紋印付きの袢纏を着た飛脚なので、これは一大事と一旦こそこそ家に逃げ隠れましたが、やがて半信半疑で恐る々々忍び寄ってみると、東天の白む頃、今まで立派な人間の姿であったのが、ついに狐の本体を現し、しかもその体内から一匹の白狐が飛び出すよと見る間に、並木に掛けたる状箱をくわえて、空中南を指して飛び去ったのであります。それは与次郎の霊が、江戸上屋敷へとこの箱を届けたのであります。

さほど不思議を眼前に見ながらも、凡夫のこととて、なお畏(おそ)れることを知らなかったために、この人々はやがてとんだ災難に遭って、まことにあさましい最期を遂げるのであります。

▼悶死するもの相次ぐ

間右衛門、谷蔵等は、そういう不思議を不思議とも思わず罠にかかった狐の屍体を持ち帰り、それを料理して飽くまでむさぼり喰ったのでありますが、間もなく六田村の男女が、続々乱心狂気し、あるいは自ら指を噛み切り、あるいは石をもって歯を打ち毀(こわ)し、あるいは自ら目を潰すなど、泣き叫び狂い廻るさま、目も当てられぬことが一ヶ月にわたり、その内死する者が十七人にも上りました。そのなか、首謀者の間右衛門、谷蔵の悶死のさまは、酸鼻の極みだったと云うことであります。

この事がいつしか江戸表に伝わったために、将軍家は代官旗本の杉本官太夫を特に下向せしめ、与次郎の霊を鎮守とし、八幡様として祀(まつ)らしめた。それから村もようやく鎮静に帰ったそうであります。

▼与次郎稲荷縁起

さて、義宣公は与次郎の死を深く悼み給い、城内の御小屋の山に与次郎神祠を建立されて、厚くその霊を祀(まつ)りされた、これが与次郎稲荷様の起源であります。飛脚役たる御足軽や小人衆がこの稲荷様を信仰されたのは当然でありましょう。 現在は、千秋公園県社八幡秋田神社の末に稲荷神社がありソレを通称与次郎稲荷さんと申します。また楢山登町にも与次郎稲荷さんがあります。

昭和十一年八月発行『月刊秋田』(編集発行人・鷲尾よし子)


▼山形の伝説・誰が与次郎を殺したか・与次郎隠密説

一方、山形の伝説は秋田の伝説を手本に、近年、脚色を加えて創作されたもので、与次郎と村娘との悲恋と、与次郎の正体に関するエピソードが盛り込まれている。

与次郎を殺害した飛脚宿の主人・間右衛門の一人娘・お花は与次郎に恋心を寄せていた。父親の殺害計画を耳にしたお花は、悲しい胸のうちを訴え「速く逃げて」と懇願する。それを聞いた与次郎はお花に自分の正体を告げ死を覚悟。父親らの手によって殺された、与次郎の亡骸(なきがら)を葬ったあと、お花は行方不明になる。

そして、与次郎の正体は幕府に対する佐竹氏の隠密、つまりスパイであったが、幕府側の隠密のたくらみによって殺害されたというお話し。

‥‥前略‥‥  その頃、佐竹公があまり栄えていくので、幕府は不信の目を光らせ、隠密を放って秋田の様子を探らせようとしました。しかし、白狐の与次郎は、身を変える事が自在なので、幕府の様子をいち早く察知してただちに殿様に知らせます。幕府から秋田に向かった隠密は秋田藩の手にかかって殺され、一人として報告を持ち帰る者がなかったのです。

 ますます不信の目を光らせた幕府は、たくさんの隠密を、あの手、この手で送り出しました。隠密たちも色々考えたすえ、ついに与次郎に目をつけるようになってきました。「あやつは、まるで風のようだ。一日百里の道を飛ぶとは、人間業ではない。」「それに不思議なことに出発する時と、帰る時の姿を見た者はない。」「さては怪しいやつ。その正体を暴き出せ。」

 隠密組一団は、黒覆面に身をかため、一路羽州街道を北進して、山形城を過ぎる頃に、茶屋の店先で、「与次郎はたびたび六田郷の間右衛門宿屋に泊まる」という話を耳にしました。隠密たちは、早速集まって相談をはじめました。「よし、六田郷の宿屋を狙って、謀るならばたとえいかなるやつとはいえども、討てぬことはあるまい」と着々計画を進めました。

 一行は間右衛門宿屋に来ました。「どうだ亭主、こちらにとっては大切な客だろうが、我らは、あの与次郎を討ち取らないと江戸に帰れない。是非力を貸してくれ。」といって、亭主の前に、チャリン、チャリンと小判の音をさせました。「やってみましょう。」小判に目がくらんだ間右衛門は、与次郎を討ち取る計画に加わったのです。‥‥後略‥‥
滝口国也著・東根市民話の会発行『北村山地方の民話』より

事細かに描写された与次郎伝説の形成には、“飛脚に関わるなんらかの史実”が存在したことを思わせる。

事件が発生した時点で殺害された当事者を「狐」に置き換えて祀(まつ)り、出来事を伝説として後世に伝えなければならなかった理由は、当時は最大のタブーだった徳川幕府がからんでいると考えるのが妥当。

山形の伝説のように、与次郎が幕府に対する佐竹側の隠密であったことが露呈し、幕府側の主導であやめられたとする説がある一方、与次郎が佐竹氏の隠密であることがバレそうになり、佐竹氏がやむを得ず第三者の手を借りて与次郎を抹殺。その罪をつぐない、怨念を鎮(しず)めるために、弥次郎を手厚く祀(まつ)った、とする説もある。

『北村山地方の民話』に収録された与次郎伝説の全文、および、与次郎とお花の悲恋を中心に創作されたコミック「昔ばなし絵巻 与次郎狐」が以下関連リンク先にあり。

関連リンク
與次郎稲荷の伝説(山形県東根市)
昔ばなし絵巻 与次郎狐


▼各地に点在する“狐飛脚”伝説

民俗学者・柳田国男の『狐飛脚の話』(『定本柳田国男集』第22巻)によれば、秋田の他に米沢、鳥取、松江、鎌倉などにも、狐に飛脚の役を担わせる話があるという。

そのなかで与次郎稲荷伝説に酷似しているのが、鳥取の「桂蔵坊」伝説。

昔、鳥取にお城があった頃、池田の殿様に仕える「桂蔵坊」と名乗る狐がいた。桂蔵坊は若侍に化けるのがうまく、江戸まで3日で行き帰りできるすぐれた術を持っているため、殿様に大変かわいがられていた。 ある時、桂蔵坊は殿様から言いつかった仕事で江戸に出向いた。お城からほど近い百谷の村にさしかかったところ、香ばしいよい匂いがしてくる。ふと見ると道の脇で焼きねずみを罠に仕掛けている百姓がいたので、侍に化けてわけを聞いてみたところ、畑を荒らす狐を退治するために罠を仕掛けているとのことだった。 江戸で用事を済ませた桂蔵坊がその村を通りかかると、あの焼きねずみがよい匂いを放っている。罠が仕掛けられていると知りつつも、匂いに釣られ我慢ができなくなった桂蔵坊は焼きねずみに飛びつき、挟まれて死んでしまった。池田の殿様は桂蔵坊をたいそう哀れがり、お城に中坂神社を造り桂蔵坊を祀ってやったということである。

Wikipedia には「江戸時代後期に著された『鳥府志』(岡島正義著)に、桂蔵坊の伝説は池田光仲の代の出来事であるとの言い伝えが紹介されている」とある。

池田光仲が家督を継いだのは寛永9年(1632)。秋田の与次郎狐の話は慶長年間(1596~1614)の出来事とされている。鳥取の「桂蔵坊」伝説は秋田の「与次郎狐伝説」に影響を受けた可能性もある。


▼与次郎の怨念と御霊信仰・祟り神としての与次郎

他の「飛脚狐」類型説話に見られない、「与次郎稲荷伝説」のきわだった特徴が、殺された与次郎狐による「祟り」を事細かに記述し、とりわけて強調している点。

六田村に「狐憑き」と表現するにふさわしい惨状をもたらした与次郎狐の怨念を鎮(しず)めるため、その御霊(みたま)は六田村に隣接する蟹沢村の八幡宮に祀(まつ)られた。ここは与次郎の終焉の地と伝えられ、近年、境内から与次郎の墓石が発掘されている。

「御霊(ごりょう)信仰」とは、非業の死をとげた者の怨念が、天災や疫病を引き起こしすと信じられていた時代、恐るべき「怨念」を「御霊」として鎮(しず)め、祀(まつり)りあげることで、一転して守護神となるとした信仰。その怨念(霊力)が強ければ強いほど、パワーある守護神に転化するとされた。

佐竹氏が与次郎狐の御霊を城内にかくも手厚く祀(まつ)り、代々の藩主が江戸参勤の折に、山形の与次郎狐を祀る社(やしろ)に参拝・祈念した行為は、「御霊信仰」に基づくものであったすれば、少しは納得がいく。

「与次郎稲荷伝説」が一種の「御霊信仰説話」だとしたら、祟り神としての与次郎狐によ残虐性を強調した場面こそが、物語の最も重要な山場ということになる。肝心なその部分をカットすることは“物語を殺す”行為に他ならない。

関連リンク
御霊信仰 - Wikipedia 祟り神 - Wikipedia


▼足軽の町「登町」与次郎稲荷神社由来

久保田城内北の丸、金乗院の境内に祀(まつ)られていた「与次郎稲荷」を、江戸時代中期に足軽衆が勧請(かんじょう)、北の丸八幡坂下り口の足軽番所内に祀(まつ)る。

勧請(かんじょう)とは、神仏の分霊(わけみたま)を別の場所に請じて祀(まつ)ること。この時点で城内(現・千秋公園)に、二つの「与次郎稲荷」が存在した。

諸藩の大名飛脚は下級武士である足軽衆の中から、特に健脚の者が登用された。飛脚の与次郎狐を足軽衆が守護神として熱心に信仰したのもうなずける。

明治五年、足軽番所内の「与次郎稲荷」は、小人衆との誘致合戦の末、足軽衆の街・楢山登町に移される。

こびと【小人】武家に使われた走り使いの者。江戸時代には職名となる。
広辞苑 第六版 (C)2008 株式会社岩波書店

登町の地名起源は「幟(のぼり)町」。佐竹氏の旗印が染め抜かれた幟旗(のぼりばた)を支え持つ旗持(旗組)足軽が居住したことに由来する。

与次郎稲荷
「関ケ原合戦絵巻」より 石田三成軍勢・旗持足軽

軍勢を指揮する大将の馬に随行する、戦国時代の旗持足軽。飛脚と同様に健脚と体力を必要とする役職で、江戸時代に入ると参勤交代の大名行列に随行するようになる。

明治五年建造の登町「与次郎稲荷」は現在、八幡秋田神社の所有となっているが、神事は行われていないようで、建物も老朽化が進んでいる。

与次郎稲荷
2008.06 楢山登町 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2008.06 楢山登町 与次郎稲荷神社

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追記
2013年12月、楢山登町「与次郎稲荷神社」解体され更地に。
 

▼千秋公園本丸・与次郎稲荷神社の由来

嘉永2年(1849)、久保田城内北の丸、金乗院境内の「与次郎稲荷」を保戸野金砂町の金砂山「東清寺」竜聖院(現・金砂神社)に移す。

明治25年、明治維新の廃仏毀釈により廃寺となった「東清寺」から、旧城地(千秋公園)の現在地に移す。

川反二丁目で「本県和洋洗濯元祖 清光堂」の看板を掲げて洗濯屋を営んでいた、「与次郎稲荷」の熱心な信仰者・伊藤吉五郎氏が私財を投じ、篤志家の協力をえて再建。初期は小さなお堂だったが、昭和元年に現在の神社を建立。

与次郎稲荷
2009.05 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

伊藤吉五郎氏は自ら祈祷(きとう)も行ったようで、その孫が日蓮宗総本山身延山久遠寺で法華経の修業をして帰郷、以降、神仏習合の祭祀を行うようになる。

千秋公園の様子を伝える大正三年の『秋田魁新報』に、「与次郎稲荷神社」のことを、

白髪の老翁詰めて居り吉凶禍福(きっきょうかふく)を卜(うらない)居るが就中(なかんづく)縁談の卜(うらない)は最も多しとか

と書いてあるが、この「白髪の老翁」が吉五郎氏であろう。

さかのぼる明治四十五年の『秋田魁新報』読者欄に、

秋田公園「與次郎稲荷」祈祷灸点部員は当村に出張し村内の患者に灸施をなしつゝあるが第一歯痛打ち身疝気小児の寝小便その他諸病に速効あること実に驚き申し候(そうろう)兎角(とかく)灸点部の手術とは申しながら與次郎稲荷神社の霊験に依るものと推考(すいこう)仕候(つかまつりそうろう)

と、「与次郎稲荷神社」の「祈祷灸点部員」による地方出張のことが紹介されている。「秋田公園」とは「千秋公園」のこと。

与次郎稲荷の信者で結成された稲荷講の中から、お灸の心得のある者が、祈祷とお灸を施しながら、「与次郎稲荷神社」のお札などを配り、布教に努めたものだろう。吉五郎氏も同行したのかもしれない。

「稲荷の占い」で思い起こすのは、江戸時代に流行した「稲荷下(さ)げ」のこと。「狐下(さ)げ」とも称したそれは、巫女・修験者などの民間宗教家、いわゆる霊能者が、稲荷神の使わしめである狐を我が身に降ろし、託宣(たくせん)や占い、祈祷などを行なっていた。

たくせん【託宣】 神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣
広辞苑 第六版 (C)2008  株式会社岩波書店

ちなみに「勝手な言い分をくどくどと、気ままに言いたてる」ことをいう「御託(ごたく)を並べる」の「御託」は、「御託宣」の略語。

その内容はさておき、吉五郎氏の活躍した明治・大正期は、庶民信仰としての与次郎稲荷信仰が最も活性化した時代と言えよう。

現在も伊藤家が「与次郎稲荷神社」を守っているが、神事・祭事については隣接する「八幡秋田神社」の宮司が担当している。

与次郎稲荷
2004.01 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社
 

▼神道系、仏教系・二種類の稲荷神社

稲荷神社の狐は神の眷属(けんぞく)、いわば「神霊と人を結ぶ神の使い」。稲荷信仰には神道系と仏教系があり、祀(まつ)られる主祭神が全く異なる。

神道系稲荷の主祭神は、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)に代表される、五穀・稲作を司る食物の神。同じ食物神である豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)保食神(うけもちのかみ)なども稲荷神として祀(まつ)られる。京都の「伏見稲荷大社」が、日本全国の神道系稲荷神社の総本社。

一方の仏教系稲荷の御本尊は、インド伝来の荼枳尼天(だきにてん)。死者の心臓や肝を喰う鬼女神として恐れられたが、大日如来が化身した大黒天によって善神になったとされる。日本に入ってから狐を介して稲荷信仰と習合し、「剣と宝珠を手に、または稲穂の束を担いだ天女が白狐にまたがる」神像で表現されるようになった。仏教系稲荷で名高いのは愛知県の「豊川稲荷」(曹洞宗)、岡山県の「最上稲荷」(日蓮宗)。

関連リンク
(10)狐信仰とそのイコノグラフィー - 山田維史の遊卵画廊
稲荷神 - Wikipedia
伏見稲荷大社
豊川稲荷公式ホームページ
最上稲荷山妙教寺
荼枳尼天と稲荷―古寺散策

▼附録「与次郎稲荷」きつね尽し

与次郎稲荷
与次郎稲荷願文

「与次郎稲荷伝説」をもとに幕末の頃に創作されたものか、与次郎狐が殿様へ居住地を所望して提出した嘆願書とされるもの。与次郎の名が与えられる前であるため署名は「玉」。

右肩に「乍惮奉願上候私事数百年来当地住居罷在候所此度御城地御取立に付住居地所無之候何卒御慈悲以住居地拝領披仰付披下度奉存候 八月八日 玉」と解読文が添えられている。願文を印刷・軸装したものを伊藤吉五郎氏が発行、信者に頒布した。

秋田藩士・石井忠行(1818-1894)が明治時代に著作した『伊頭園茶話』に、「古くより金砂東清寺所持を長山盛晃(伝左衛門)写をもて、小野崎通亮写したるをかりてここに写。」として、この願書の模写が掲載されている。その模写の写真は文章も書体も同じだが、行数が多い書状形式であることから察するに、上掲画像の願文は吉五郎氏が発行する際、軸装用に編集したものと思われる。

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

大正十五年、川反五丁目の劇場「演芸座」にて、「与次郎稲荷伝説」を題材にした狂言「怪異劇・秋田巷談・与次郎稲荷」を上演。 主演の市川紅三郎は黎明期の活動写真でも活躍した革新歌舞伎役者。「与次郎稲荷神社」稲荷講が後援し、幕間には客席に紅白の餅が撒かれた。

 與次郎稲荷  今晩から演芸座

演芸座に開演中の革新歌舞伎市川紅三郎一座は時節柄木戸も大勉強で初日来大入りつゞきで賑わって居るが本日替わり狂言はその初日より観客に期待された怪異劇秋田巷談「與次郎稲荷」を上演するとあるが夕五時開幕本日序幕は太守佐竹義宣公より白狐が城内に住むを許されるくだりより佐竹騒動に入り江戸表まで往復六日の與次郎稲荷狐の有名な飛脚まで上場で狂言は毎晩つゞきで当日は俳優一同千秋公園の與次郎稲荷に参詣して大車輪で演ずる由なるが與次郎狐は市川紅三郎が力演でなお当狂言中は講中の後援あり毎夜紅白の餅撒きなどある由で珍しい狂言なれば評判であろう
大正十五年四月『秋田魁新報』

与次郎稲荷
 昭和七年にも、「与次郎稲荷伝説」を題材にした狂言が、秋田市亀之丁西土手町(現・有楽町通り)の「演舞場」に於いて上演されている。

与次郎稲荷
2009.11 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

「与次郎稲荷神社」境内で最も古い狐の石像。万延二年(1861)に保戸野の「東清寺」境内に奉納されたものを現地に移したもので、当初は小さなお堂の前に、この一対の狐が鎮座していた。

耳や口が損傷し、セメントで補修している。「東清寺」は神仏習合の寺院で、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となった。その時、境内の地蔵とともに打ち壊されたものだろう。

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
2012.09 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
2008.11 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社 万延二年奉納狐像

与次郎稲荷
与次郎稲荷・土人形

秋田市内の旧士族の家の神棚に祀(まつ)られていた「向かい狐」。すすけてずいぶん古く見えるが、明治から大正期の作か。

前掲の「与次郎稲荷伝説」にある、飛脚の与次郎の袢纏に印された佐竹家の替紋(かえもん)「花散里」が描かれていることから、「与次郎稲荷神社」が頒布したものに違いない。

与次郎稲荷
2011.06 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

与次郎稲荷
2011.08 千秋公園本丸 与次郎稲荷神社

宝珠をくわえる狐。首に巻いた手拭いは、竿燈の差し手が鉢巻にする豆絞り。与次郎稲荷を町紋とする鉄砲町竿燈会では、竿燈の初日、「与次郎稲荷神社」に参拝するのが恒例となっている。

与次郎稲荷
与次郎稲荷御影

「与次郎稲荷神社」が信者に頒布した御影(ごえい)。紋付きの御状箱をくわえて雲に乗る与次郎狐の優しい顔は、エリアなかいちのキャラとは対照的。

秋田市鉄砲町生まれの版画家・勝平得之は、この御影を参考に鉄砲町の町紋をデザイン。鉄砲町と与次郎稲荷に直接的な関係は無いようだ。

与次郎稲荷 与次郎稲荷

与次郎稲荷
2012.07 2012与次郎駅伝

与次郎稲荷
2012.09 秋田市広小路東電前

与次郎稲荷
2012.10 エリアなかいち

与次郎稲荷
2013.05 エリアなかいち

平成25年(2013)4月、秋田市文化団体連盟から寄贈された、イラストと同様に目つきが怖い与次郎石像。

設置して間もなく、樹脂製のヒゲがへし折られる被害が四件ほど相次ぎ、最終的に画像のような、みすぼらしいゴム製のヒゲが新調された。

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青信号が見えない信号機・手形休下町

視覚制限灯器
2013.06 奥羽本線 下中島踏切

秋田市千秋中島町「北高」前を東に進行し、坂を上った地点にある「下中島踏切」から、踏切を渡った「東中」前交叉点に設置された信号機に目を向けると、「赤信号」と「黄信号」は良く見えるのだが、「青信号」だけが、まるで停電したかのように真っ暗。

視覚制限灯器
「下中島踏切」より「東中」前交叉点

視覚制限灯器

交叉点に近づくにつれ、見えない「青信号」は徐々に明るさを増す。

視覚制限灯器

見えない「青信号」の正体は「視覚制限灯器」。

箱形フードに角度を付けた羽板を横に並べることで、一定距離まで近づかないと「青信号」の光が遮断され、見えない仕組みになっている。

交叉点が隣接している地点では、奥の「青信号」に気をとられて、手前の「赤信号」に気づかずに進行し、衝突事故を起こす確率が高いことから、近年になって設置されたもの。

踏切と信号機が近い当物件の場合も同様に、交叉点の「青信号」に引っぱられ、一時停止せずに踏切に進入することを防止する目的で使われている。


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路上の「阿部貞」物件・昭和の痕跡

木製電柱痕
2013.06 秋田市大町

かつて、そこに立っていた木製電柱の痕跡。

縁石と舗装のコントラストを背景に、かすかに年輪が残る、寂びた風情の電柱痕跡に、雑草の緑が彩りを添える。

このような断裁された電柱類の痕跡を「路上観察学会」は「阿部貞」と分類した。昭和の猟奇犯罪「阿部定(あべ・さだ)事件」にちなんだ命名である。

木製電柱痕
2012.08 秋田市大町

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