二〇世紀ひみつ基地

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2013年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年07月

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千秋公園・貸ボート&カフェ・間もなくオープン

千秋公園貸ボート
2013.06

秋田市広小路「木内」向かいの「ブティック・ナルミ」が廃業後、昨年(2012)の春から一時的に「フルーツパーラ・いちごの木」(雄和に移転)が入居していた空き店舗に、先日から数艘のボートが運び込まれていた。

上掲画像のように、西側の「蛇柳」跡ポケットパークに係留していたデッキを、穴門堀に面した店舗裏側に移動し、ボート乗り場として利用している。

最近、店頭に掲示された求人の貼り紙には「お堀カフェ 千秋公園 お堀のボート」と店名らしき記述が。

どうやら、カフェを兼ねた常設の貸ボート乗り場が近々オープンするもよう。ポケットパークのデッキを使用しているということは、地域活性化の一環として、秋田市も協力しているのだろう。

イベントにともなう一時的復活は数回あったが、この地におけるシーズンを通しての常設貸ボートは、押切商店の「秋田水族館」ボート部(30艘所有)廃業以来、約33年ぶりの本格的復活となる。

千秋公園貸ボート
2013.06


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千秋公園貸ボート
1971 県民会館の土手から第一ホテル・木内を望む


1973.06

20060620222540.jpg
1973.06

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さようなら「やちよ本店」秋田駅前喫茶店

やちよ本店
2013.06 秋田駅前「やちよ本店」

「喫茶やちよ」25日で歴史に幕 常連客、閉店惜しむ

 昭和の雰囲気を残す思い出の喫茶店が、秋田市の繁華街から、また一つ姿を消す。昔から変わらぬ味の洋食とマスターの人柄で親しまれてきた同市中通4丁目の「喫茶やちよ」があす25日、36年の歴史に幕を下ろす。高校時代から通っていたという常連客も多く、「青春の思い出が詰まった場がなくなるのは寂しい」と惜しむ声が上がっている。

 「まだ続けたいという気持ちもあったが、年も年だから、区切りをつけようと思った」。マスターの藤田諭さん(65)が閉店の理由を語る。

 今月16日に店員が短文投稿サイト「ツイッター」を使って閉店を知らせ、17日には店に張り紙をしたところ、常連客らが続々と来店。この週末は久しぶりに店内で再会し、思い出話に花を咲かせる人の姿が目立った。わざわざ東京から駆け付けた人もいた。藤田さんは「同窓会のようなものですよ」とうれしそうだった。

 25日まで通常通り、午前7時半から午後8時まで営業する。妻の節子さん(65)がフォンテAKITAで経営する「パルルやちよ」は今後も営業を続ける。

(2013/06/24 16:19 更新)さきがけonTheWeb より 

やちよ本店

戦後の復興期に秋田駅前に誕生した飲食店の名を引き継ぎ、駅前商店街の一画、末広町で営業していた喫茶店「やちよ」は、1970年代末の秋田駅前南地区再開発にともない、市民市場に近い青木ビルに移転。

昭和55(1980)年、旧店舗跡地に竣工した「イトーヨーカドー秋田店」(現・フォンテAKITA)7階に「パルルやちよ」を開業する。

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やちよ本店

やちよ本店

やちよ本店

やちよ本店

やちよ本店

かつては高校生のたまり場、そしてデートスポットであった「やちよ本店」。その壁面を埋めつくす落書きも名物であった。

やちよ本店

やちよ本店

やちよ本店

やちよ本店

幾年のあいだ、幾人もの若者の手によって、地層のように書き重ねられた、青き日のコトバの集積は、現代アートさながら。

やちよ本店

90年代初めの頃「やちよ本店」でバイトをしていたのが、秋田出身のジャズギタリスト・小沼ようすけ。

関連リンク
Yosuke Onuma Official Web Site

やちよ本店トルコライス

「やちよ本店」最後の晩餐はトルコライス。コックさんは「パルルやちよ」に入るというから、人気メニューは是非ともあちらで継続してもらいたい。

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やちよ本店

やちよ本店

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薄型店舗「プラタビル」山王大通り 1970

昭和45年(1970)秋田市大町二丁目「日銀秋田支店」南側、山王大通りに沿った長方形の土地に「プラタビル」竣工。

奥行き2メートルに満たないほどの超薄型ビルであった。

プラタビル
昭和45年11月 新聞広告

まだ二丁目小路(現・山王大通り)の拡幅工事は終わらず、「山王大通り」と命名される前のため「秋田市中央大通りに…」となっている。

近くの秋田市茶町に創業した老舗「三傳商事」が、ナショナル家電を販売する「三傳バザール」を一階に開業。二階は喫茶店「コーヒー・プラタ」。西隣の角地にバイク販売店「モトショップ・ヒラタ(平田自動車販売)」 。向かいには倒産した「山一証券秋田支店」があった。

ちなみに、当時の20形カラーテレビの定価は15万~18万円ほど。公務員の初任給が3万6千円ほどの時代だから、かなりの高額商品である。

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moto works HIRATA 平田自動車販売株式会社

喫茶プラタ
昭和46年 新聞広告

あまりにも狭すぎたこともあってか「三傳バザール」は数年で閉店。その後、一階に名刺・同人誌印刷などを業務とする「プリントショップ・オオガタ」(能代市「大潟印刷」出店)と雀荘が入居。

プリントショップが撤退した跡に、同じ並びの西側から「靴の病院フジイ」が移転する。

 山王大通り
2013.06「プラタビル」跡

昭和43年(1968)激増する交通量に対応するため、二丁目橋から山王十字路間の拡幅工事が始まる。

幅12メートルの二丁目小路(現・山王大通り)北側の土地・建物を買収し、車道幅36メートルに拡幅、四ヶ所(現在は三カ所)に地下道を付設した。

拡幅工事により「日銀秋田支店」横から「當福寺」前まで生じた半端な土地に、薄型の建物が建ちならぶ。

最も奥行きが浅かったと思われる「プラタビル」や、その西隣の「モトショップ・ヒラタ(平田自動車販売)」のように、すでに空き地となった場所もあるが、下掲画像のように、今も数棟の薄型建造物が残っている。

山王大通り
2012.06

「プラタビル」から移転した「靴の病院フジイ」。

山王大通り
2012.06

「靴の病院フジイ」の西隣、「ハンドメイドジュエリー LUCE」。かつては一階にブティック、二階にスナックが入っていた。

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LUCE(ルーチェ)


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「プラタビル」跡

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鼻が赤くなったよ・愛おしき街角の顔

歩行者用押ボタン箱
2013.01

 秋田駅前・中央通り・北側
「Ⅱ」形歩行者用押ボタン箱
(株)京三製作所・昭和62年12月製造

設置から20数年が経過し、劣化が目立つ「歩行者用押ボタン箱」。最近そのボタンに、赤い防水ゴムキャップが付けられた。

歩行者用押ボタン箱
2013.06

アゴのガムテープ補強も大きくなり、「おまちください」と表示される窓(口)をふさいだのと、赤鼻ボタンのせいで、ピエロめいた面持ちとなって愛嬌を増した。

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千秋公園・新緑の候・2013春-初夏

撮影・2013年5月初旬から6月初旬(ほぼ時系列順)

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園
アオサギ・30センチほどの鯉を飲み込んだ直後

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

千秋公園

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第35回「千秋茶会」2013・風薫る千秋公園

第35回「千秋茶会」
2013年6月2日
於・千秋公園本丸

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

千秋茶会

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城下の面影「遺愛の松」名木残影

遺愛の松
2013.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」跡

しばらく見ない間に、亀の町の名木「遺愛の松」が、跡形もなく消えていた。

遺愛の松
昭和47年(1972)吉田直也 『秋田市の木と林と森』より

昭和49年(1974)秋田市指定保存樹 第15号
クロマツ「遺愛の松」推定樹齢400年(保存樹指定時点)

由緒 藩祖佐竹義宣公が常陸(ひたち)の国より国替えの折りに携えてきた鉢植えの松である説や、藩士小助川某が大阪城夏の陣の際、記念に植えられたものであるとの説が伝えられている。
掲示パネル解説文より

「遺愛の松」とは「佐竹義宣公が愛された松」というような意味だが、命名は戦後のことだと思う。

佐竹義宣が大切に携えてきた鉢植え(盆栽)であったとすれば、身近な城内に置くはずで、後述の新聞記事を見ると、小助川なにがしの記念植樹説のほうが、比較的に説得力があるように感じる。

遺愛の松
2005.05 秋田市南通亀の町「遺愛の松」

よく手入れされた盆栽のように、それは見事な枝振りを見せていた「遺愛の松」も、平成3年(1991)の台風19号で大枝を折られたのを手始めに、樹幹および大枝の腐朽(空洞化)が進み、四方に大きく広がっていた大枝を失い満身創痍。近年は御覧のように無残な姿に変わり果て、いつ指定を解除されてもおかしくない状態となっていた。

路上に大きく突き出して、影を落としていた枝も、電線・ケーブル類増設の障害になるため伐採された模様。

遺愛の松
2005.05「遺愛の松」消失物件

晩期はパネルの後ろに鉄柱が立てられ、空洞化した樹幹をワイヤーで支えていた。

平成25年1月10日発行『秋田市広報』の「保存樹指定解除一覧」に当物件が掲載されているところをみると、撤去は昨年の暮れと思われる。

保存樹指定解除の理由は「樹幹の著しい腐朽」。積雪の影響で倒壊したのか、または、倒壊の恐れがあるため、前もって伐採したのか。
 

▼武家屋敷の「さむらいの松」参勤交代の道筋

クロマツ(遺愛の松)のあった中亀ノ丁上町(旧地名)は、中級家臣が住んだ屋敷町。佐竹氏の参勤交代の際は、久保田城・二の丸から大手門通りに出て、広小路、根小屋町、中亀ノ丁、登町、牛島を経由して江戸に向かった。

昭和4年(1929)の『秋田魁新報』に、中亀ノ丁上町のクロマツ(遺愛の松)のことが写真入りで載っている。

遺愛の松
昭和4年(1929)『秋田魁新報』より

藩政時代の面影が残る旧家の黒板塀に、見事な枝振りのクロマツがよく似合う。

クロマツのある御屋敷を守るお婆さんが、魁新報記者に語ったところを要約すれば……、

佐竹義宣公の時代に大坂夏の陣(家康と秀頼の戦い)に出征した小助川なにがしは、戦功を挙げ五百石加増を賜る。その記念として大阪から鎧櫃(よろいびつ)に入れて持ち帰ったのがこのクロマツ。

クロマツの根元には鎧、兜の類が埋めてあると伝えられ、今も根元三尺は踏まぬようにしている。日露戦争の頃は「さむらいの松」と呼んで、参詣人などもあったようだ。

という面白いお話し。

遺愛の松
2013.05 社団法人「秋田県林業土木協会」敷地内

名木「遺愛の松」のあった庭に残る屋敷神の石祠。ひょっとすると、このあたりに、江戸時代の鎧兜が埋められているのかも知れない。


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保存樹「遺愛の松」跡

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1966「秋田ボウリングセンター」オープン

 ▼楢山に秋田県内初のボウリング場誕生

空前のボウリングブームとなった1960年代後半から70年代前半にかけて、最盛期は秋田市内だけで最大9センターものボウリング場が乱立した。

秋田におけるボウリングブームの先陣を切ったのが、秋田市楢山中町(現・南通築地)に誕生した「秋田ボウリングセンター」。

 楢山裏町の旧家・江畑家の日本庭園跡に、昭和41年(1966)10月「秋田ボウリングセンター」オープン。

秋田ボウリングセンター
昭和41年(1966)8月 新聞広告

商品先物取引の「岡地株式会社」(本店・名古屋)社長・岡地中道が、株式会社「秋田ボウリングセンター」社長に就任、地主の江畑家も取締役として名を連ねた。

当時「岡地株式会社」はレジャー産業に進出、名古屋に「中京ボウリングセンター」を経営、昭和50年(1975)には「鹿沼国際カントリークラブ」(現・南摩城カントリークラブ)をオープンさせる。

関連リンク
岡地株式会社|商品先物取引のリーディング・カンパニー

上掲画像左側の求人広告の、面接場所に指定されている「ならやま荘」は、江畑家が屋敷を利用して一時期営んでいた貸席の名称。

秋田市土手長町に擬洋風建築の秋田県庁舎(明治13年開庁)を建てたことで知られる建築官・戸崎清蔵(久保田藩士1826-1901)が、明治26年に手がけた、釘を使わない総秋田杉の名建築を利用して営業した「ならやま荘」。今はどれほど原形をとどめているか定かではないが建物は現存し、記事作成時点、Googleマップにもその名がみえる。(下記マップ参照)

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02Bowling
昭和41年(1966)10月 新聞広告

秋田ボウリングセンター
秋田ボウリングセンター

・鉄筋二階建て
・延べ面積3.340平方メートル
・駐車場約1.000平方メートル
・総工費3億円

 ・料金
 AM9:00~PM6:00 200円(学生150円)
 PM6:00~PM9:00 250円

・ピンセッター
 二階 AMF(エーエムエフ)82-70型 20レーン
 一階 Brunswick(ブランズウィック)A-2型 12レーン

・バッテングマシーン 3打席

・ビリヤード
 4つ玉8台
 ポケット(ローテーション)2台

一階にレストラン「クレール」

秋田ボウリングセンター
秋田ボウリングセンター

当初、ボウリング場は不健全な遊技場として、中学生は父兄同伴でも入場を禁じられていた。

しかし、禁じられれば、なおさら入ってみたくなるのが心情。放課後に連れだって、高校生や大人のプレイを眺めるのが常だった。

人気の無い場内のかたすみに瓶入りコカコーラの自販機があって、先輩からタダで出す方法を伝授されたこともある。

 

 ▼市民市場二階に「秋田ファミリーセンター」オープン

 秋田ファミリーセンター
昭和42年(1967)10月 新聞広告

 「秋田ボウリングセンター」開場の翌年、同社は「秋田市民市場」二階に「秋田ファミリーセンター」をオープン。

深夜24:00までの営業が売り物で、三階に土崎の料亭「池鯉亭」経営のレストラン「ニューカープ」を併設した。

07Bowling
昭和42年(1967)10月 新聞広告

秋田ボウリングセンター
昭和43年(1968)2月 新聞広告

09Bowling
昭和44年(1969)2月 新聞広告

 規模の大きなセンターでは連日大会が開催され、賞品のトロフィーや楯に名前を彫って納める、貴金属店や印章店もブームの恩恵を受けた。

昭和44年(1969)「秋田ボウリングセンター」の東隣に、江畑家経営の「北日本コンピュータサービス」創業。

関連リンク
 北日本コンピューターサービス株式会社

 ▼新会社「秋田ロイヤル・レーン」発足

昭和44年(1969)株式会社「秋田ボウリングセンター」を、株式会社「第一ホテル」(本社・東京)が買収。

「秋田ボウリングセンター」「秋田ファミリーセンター」両施設を「第一ホテル」から賃借経営する新会社「秋田ロイヤル・レーン」発足、昭和45年(1970)1月から新体制で営業を始める。

秋田ボウリングセンター
昭和45年(1970)1月 新聞広告

川口大助(秋田市長)辻兵吉(商工会議所副会頭→会頭)大内正見(金萬)中塚富之助(魁新報社文化部長→秋田放送常務取締役)等々、そうそうたるメンバーが並ぶ経営陣は、「秋田第一ホテル」(現・秋田キャッスルホテル)が入居した「秋田ビル」の発起人と一部重複する。

「秋田第一ホテル」および、商業施設「秋田プラザ」が入居する「秋田ビル」内に 「秋田ロイヤル・レーン」がボウリング場を造る計画もあったが実現には到らなかった。

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秋田ボウリングセンター
昭和45年(1970)3月 新聞広告

中山律子
昭和47年(1972)1月 新聞広告

ブームの最盛期に当たる昭和47年(1972)1月、プロボウリング界の女王・中山律子来秋。

昼は男鹿市船川港の「男鹿シーサイドボウル」で、夜は「秋田ボウリングセンター」で、指導およびチャレンジマッチをこなす強行スケジュール。

各テレビ局がボウリング番組を放映するなか、美貌と実力を兼ね備えた中山律子は、一躍国民的人気者となり、ボウリング人口の向上に大きな役割を果たす。

本人が出演したシャンプーのCMの「律子さん、律子さん、さわやか律子さん」というCMソングも印象的であった。

 

 

関連リンク
中山律子 - Wikipedia

 

▼「秋田ボウリングセンター」跡地に「ト一屋サニーガーデン」オープン

昭和48年(1973)のオイルショック以降、ボウリングブームは一気に沈静化。嵐のようなブームが去ったあと、市内に最大9センターあったボウリング場は駅前の「金萬ボウル」のみとなり、県内の各センターは公民館、美術館、スーパーストアなどに転身していく。

昭和51年(1976)4月、「秋田ボウリングセンター」を改装して、スーパーストア「ト一屋サニーガーデン」オープン。

ト一屋サニーガーデン
昭和51年(1976)4月 新聞広告

ト一屋11番目の新しい店の誕生です。レンガ色の屋根にはしゃれた時計台。広く明るいフロアは新鮮な商品でいっぱい

★しゃれたお店も同時オープン★

●ウインドベーカリー ぷーどる
目の前で焼きあがるこうばしい香り。オーブンフレッシュの焼きたてパンで、手作りの味をお楽しみください。

●アイスクリームショップ イレブン
コーヒー、生ジュース、ハンバーガー、ホットドック、サンドウィッチの軽食コーナー。手軽に楽しめるしゃれた味。

●ファーストフードショップ スノーピア
味いろいろ、好みさまざま。16種のファッショナブルなアイスクリームが、その日の気分にぴったりフィット!

創業15周年を迎えた「秋田ト一屋」が満を持してオープンした新店舗。

二階に貸ホール、催事場、料理教室を設置。夜9時までの10時間営業、直営のファーストフードやウインドーベーカリーを併設した新店舗は、当時の地元スーパーとしては画期的なものであった。

市内に11店舗、その後は男鹿、五城目と店舗を拡大していった「ト一屋」も破産し、現在はディスカウントショップの「ドジャース商事」が経営を引き継ぐ。

ト一屋・楢山店
2012.05 ト一屋・楢山店(旧・ト一屋サニーガーデン)


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ト一屋楢山店・旧秋田ボウリングセンター

江畑家・赤門
2013.05 江畑家(ならやま荘)赤門

「ト一屋」の裏通り。江畑家の向こう(西隣)が「ト一屋」。

ト一屋・楢山店
2010.06 ト一屋・楢山店(旧・秋田ボウリングセンター)

ボウリング場時代のカマボコ屋根建築がそのままの姿で残る「ト一屋」側面。

今は駐車場になっている手前の角地にも、つい最近まで、黒板塀で囲まれた江畑家の屋敷があった。その南側角地(現・ト一屋駐車場)は「秋田相互銀行楢山支店」跡地。

黒板塀
2010.05 江畑家の黒板塀(消失物件)

秋田ボウリングセンター
2009.11 広告入り街区表示板 楢山登町(消失物件)

設置から50年弱の年月を経て、ヴィンテージ・ジーンズのように寂びた味わいのある街区表示板。

一般の広告看板ならば、広告主が廃業した時点で撤去されるのが普通だが、街区表示板広告の場合は長くその名が残る。ただし、当物件を掲示していた建物は数年前に解体、街区表示板とともに消失した。

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