二〇世紀ひみつ基地

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2011年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年01月

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米国に夢のあかりを輸出した「秋田クリスマス電球」

◆輸出産業界のホープ「秋田クリスマス電球」



昭和39年(1964)早春、造成して間もない秋田臨海工業地帯の一画で、米国向けクリスマス装飾電球を製造する「秋田輸出電球団地協同組合」通称「秋田クリスマス電球」操業開始。

7万9000平方メートルの敷地に独立採算の企業が集まる、平均年齢19歳、女性7割の従業員のほか、内職家庭をふくめ千人以上が関わっていた工場団地は、明るく華やかな企業イメージで、中・高校卒業生の就職先として多大な人気をあつめる。

職場めぐり クリスマス電球の巻
 年々伸びる輸出額
  ◇十七工場から年間六千万個生産

 年末になるとみなさんの家庭にしあわせの灯をともしてくれるクリスマス電球の製造会社「秋田輸出電球団地協同組合」を紹介します。
 秋田湾臨海工業地帯の一角に位置する同工場は県内でも珍しい団地工場で、昭和三十九年三月に東京の十七の会社が共同出資して、豊富な労働市場を持つ秋田市に工場誘致の先端をきって集団移転したものです。
 敷地には十四棟の工場が建っていて、各々の工場が独立採算制で営業しています。
 この工場で製造している電球は着色した卵大の電球と、トウガラシのような形をしたペッパーといわれる点滅式電球など三種類です。
 年間の生産高は約六千万個で、そのほとんどがクリスマス用品としてアメリカに輸出されています。ここで作られた電球がはるばる海を渡ってアメリカの各家庭で静かな聖夜を色彩ることを思うと、同社は楽しい夢をつくるといったところです。
 現在、アメリカで使用しているクリスマス電球の数量は約五億個でそのうち日本からの輸出は二億五千万個ぐらいということです。
 ここで働く従業員のほとんどは市内の出身者で従業員数は五百二十人です。その七割が女性で、平均年齢十九歳という若さが社内を明るいふん囲気と新鮮な意欲で満たしています。新しい会社なので厚生施設の建設にはまだ手がまわりかねていましたが、ことしの八月ごろには約七千二百万円の予算で食堂から娯楽施設を完備した社員寮(百八十人収容)を建てる計画です。
 この会社は県内でも数少ない輸出を主体とした企業であり、今後ますますふえる見込みで将来有望な企業といえます。事実、需要に追いつかず市内の主婦などの内職にも回しているほどです。
 これからもこの工場で生産される明るくきれいな灯が海外のクリスマスの夜を色彩り、家庭にささやかな夢を送り込むことでしょう。
『広報あきた』昭和41年(1966)4月20日号より

クリスマス電球を製造する中小企業が集中していた、東京都品川区で操業する業者22名(当初)が、地方に新天地を求めて組合を結成、集団移転したのが「秋田輸出電球団地協同組合」(秋田クリスマス電球)。

この時代、低賃金労働者が豊富な香港・台湾・韓国らアジア勢が豆電球業界に台頭し、日本製品と競合する状態になっていた。輸出額を維持し価格競争を生きのびるにはコストを引き下げなければならず、その打開策として設備の近代化と工場集団化による生産規模拡大が急がれていた。

しかし、都市部で工場用地を確保するのは難しく、騒音公害も問題になっており、加えて中小企業の求人難は年々厳しさを増すばかり。それら難題を一挙に解決するため、政府の新産業都市構想とも同調して、地方都市への集団移転が一部の業者間で計画される。

当初「秋田クリスマス電球」は山形への移転を計画していたが、それを耳にした県知事・小畑勇二郎は、軌道に乗るまでの1、2年間、工場用地を無償提供することを提示し、誘致に成功したという。

「秋田クリスマス電球」団地と同時代に県内に進出したクリスマス電球製造会社は「堀田電気株式会社秋田工場」(飯田川町)と「坂本電球製作所」(岩城町)。


◆輸出クリスマス電球の隆盛と衰退

東京「品川歴史館」のサイトに、「秋田クリスマス電球」のルーツである、品川の電球産業についての解説があり、秋田についての記述もあった。

品川の電球工業--クリスマスツリー用電球製造--

‥‥前略‥‥
 一般家庭用電球はマツダランプ=東京電気が独占的でしたが、小型電球、特に豆電球は生産設備が小規模でできるため、明治末から大正にかけて、豆電球製造業者が品川・大井・大崎や隣の芝区(現在、港区)に続々と誕生しました。
 豆電球は第一次大戦(1914-1918)以降、欧米諸国に懐中電灯用として大量に輸出されました。クリスマスツリー用電球も「ラッキョウ」とよばれ、アメリカ向けに輸出され、特に果物、花、人形などをかたどった、変形電球(ファンシーランプ)輸出のはじまりでした。

品川の輸出クリスマスツリー用電球

 アメリカ向けを主とする輸出クリスマスツリー用電球工業は、零細な家内工業に負うところが大きく、手工業的な技術と低賃金に支えられ戦前から品川区の代表的な地場産業として発展してきました。
 太平洋戦争で工場や機械を失ったところもありましたが、戦後の復興は早く、昭和21年(1946)には、クリスマスツリー用電球の輸出が始まりました。翌年には400万個の輸出が行われたのです。
‥‥中略‥‥
 クリスマスツリー用電球輸出の推移(下表)を見ると、戦後に輸出が再開されて、昭和35年には3億個、昭和41年には4億個をこして最高を記録しています。46年以降は年々減少していったのがわかります。この中で、品川区内の工場での生産量を占める割合は、80%で日本一の生産量を誇っていました。


クリスマスツリー用電球工業の転機

 わが国の産業・経済は、昭和30年代のはじまりとともに戦後復興と決別し、神武景気、岩戸景気と騒がれたころから飛躍的に発展していった。高度成長によって、大都市での労働力の不足や労働賃金の上昇は電球工業界にとって、大きな問題となっていました。低賃金と家内労働を基盤とした零細工場では、大企業との賃金格差が大きく、さらに、台湾・韓国・香港などの国々との価格競争に勝てず、輸出は下降線をたどっていきました。なかには設備を近代化して生産力を高めたり、豊富な労働力を求めて工場を移転させて競争力を高めようとしました。昭和39年には秋田市郊外に新しい設備の工場を建設し、18工場が移転したのですが、必ずしも順調ではありませんでした。工場の地方移転は、秋田県のほかに、茨城県、新潟県、五日市町(多摩地区)等で、区内全工場約360工場のわずか6~7%にすぎなかったのです。品川区には昭和40年(1965)でも162組合加盟工場があり、零細工場としての体質の改善は進みませんでした。しかも、発展途上国の台頭によって価格競争でますますの苦境に追い込まれ、昭和46年には品川区で40工場に激減していきました。
‥‥後略‥‥
品川歴史館・解説シート『品川の電球工業-クリスマスツリー用電球製造-』より

上掲の輸出個数推移図を見ての通り「秋田クリスマス電球」が操業を開始した昭和39年(1964)は、クリスマス電球の輸出量が急増していた時代。昭和41年をピークに国内生産量の下降に歯止めがかからなかったが、設備の近代化と工場集団化が功を奏して、秋田県内の輸出額は昭和46年まで順調に増加している。

秋田県におけるクリスマス電球輸出実績

昭和41年(1966)4億5364万8000円
昭和43年(1968)6億6858万円
昭和44年(1969)7億5236万3000円
昭和45年(1970)7億8574万5000円
昭和46年(1971)10億9012万9000円
昭和47年(1972)9億6627万4000円 この年、団地内7業者が新会社を設立、韓国に進出
昭和48年(1973)1億6639万6000円

昭和46年(1971)8月、米国大統領リチャード・ニクソンは、金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の導入をふくむドル防衛策を電撃的に発表。俗にニクソン・ショック(ドル・ショック)といわれる、世界経済に多大な影響を与えた事件である。

ニクソン・ショックの後、スミソニアン協定でドルの切り下げ決定、1ドル=360円から1ドル=308円の円高になるが、それでも米国の貿易赤字は止まることを知らず、ドルの固定相場制の維持が困難になり、昭和48年(1973)日本を含む主要国が変動相場制に移行。その直後には一時的に1ドル=260円台の大幅な円高になった。

こうして日本製クリスマス電球は米国市場で割高となり需要が衰退。「秋田クリスマス電球」団地に残った企業は、国内向け弱電部品製造業に転換を図り、約9年間つづいたクリスマス電球の灯は消えてしまう。

昭和49年(1974)、ほとんど使われることがなくなった女子寮を、隣接する「秋田いなふく米菓」へ売却。その資金をもとに、管理機能の合理化・集約化を目的とした「秋田電機センター」を5社合同で建設。竣工にともない不要となった建物に、「大川反簡易郵便局」が入居。

その団地がいつ解散・撤退したかは定かではないが、秋田市営バスの「クリスマス電球前」停留所が「大川反郵便局前」に変更されたのは、昭和64年(1989)。団地が無くなっても停留所の名は長いあいだ残っていたのだろう。

「秋田クリスマス電球」団地に存在した企業で、今も電球製造に関わっていることを確認できたのは、「押野電気製作所」(東京都品川区)、「丸山輸出電球製作所」(東京都江東区)、潟上市天王に「丸山輸出電球製作所二田工場」がある。


LIFE-1952年12月1日


LIFE-1961年11月24日

日本から輸出されたクリスマス電球は、米国の有名家電メーカーからも発売された。


昭和41年発行「秋田市街図」より

右上に八橋陸上競技場、その左手に秋田商業高校、ピンクがクリスマス電球。


大きな地図で見る
「秋田クリスマス電球」跡

昭和41年(1966)「秋田クリスマス電球」団地内の遊休地に、県内製菓業者の共同出資による「秋田いなふく米菓」創業。その後、施設を拡充して今に到る。

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The Yule Lights Collection
MADE IN JAPANをふくむ、クリスマス電球コレクション

Old Christmas Tree Lights™ Introduction Page
MADE IN JAPANをふくむ、オールド・クリスマス電球コレクション

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昭和の名曲「自動車ショー歌」をCoba-Uがリメイク


Drive Japan応援ソング 「Coba-UのDrive Heart」

クルマ離れが進む若者にもっとクルマを好きになってもらおうとの趣旨で、国内自動車メーカー8社により結成された共同プロジェクト「Drive Japan」を応援するために制作されたメッセージソング「Coba-UのDrive Heart」は、小林旭の往年の名曲にして迷曲「自動車ショー歌」をエレクトロポップにリメイクした平成の「自動車ショー歌」。

唄うは自称レゲエ・ ドール(レゲエ+アイドル)Coba-U(コバユー)。オリジナル曲と同様に各社の車名がダジャレで織り込まれている。




「自動車ショー歌」小林旭

さすが昭和ナンセンスソングの名盤!。語尾をしゃくりあげて唄う高音のアキラ節がシビレる!。それに加えて歌詞と映像・画像をシンクロさせた動画編集がお見事。

作詞・星野哲郎、作曲・叶弦大。ちなみに、小林旭の代表曲「昔の名前で出ています」も星野・叶コンビによる楽曲。

昭和39年(1964)10月リリースするも、一番の最終フレーズ「ここらで一発シトロエン」が、民放連が定めた要注意歌謡曲指定制度基準のエロ・グロ条項に抵触し、放送禁止処分。間もなく歌詞を「ここらで止めてもいいコロナ」に書き替えてレ再レコーディング、再発売。

たちまち大ヒットするも、ブランド名・製品名が羅列されているため、NHK ではもちろん放送禁止(のちに一部で解禁)。民放でも自動車メーカーが番組スポンサーの場合、字幕スーパーを流さないこともあったという、ちょっびり不遇な楽曲であった。

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関連リンク

Drive Heart | Drive Japan

Coba-U Official Site |コバユー オフィシャルサイト

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秋田駅前・歳末暮色2011




路上投影ムーヴィング・イルミネーション














モリタカバン・モリちゃんランドセル


秋田西武


新装開店・アンサナ(加賀谷書店となり)

秋田駅前のバー&ダイニング | アンサナ[ANGSANA]

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朝刊の「Xmas ぬりえ」にワクワクした昭和30年代の師走


昭和39年(1964)12月11日 広告

師走の声を聞くころ『秋田魁新報』朝刊に掲載される、毎年恒例「おたのしみXマスぬりえコンクール」の全面広告がたまらなく好きだった。

今すぐにでもぬりえ部分を切り抜いて、色鉛筆で塗りつぶしたい気持ちをおさえながら紙面に目を落とす。

ぬりえコンクールに応募した記憶はない。やがて来るクリスマスが、とりわけて楽しみだったわけでもないが、単色ながらも華やかなクリスマス・ムードにいろどられた紙面に心が躍った。


応募資格・・・幼・小学生に限る
◇商品◇
入選54名(参加店賞)
佳作90名
努力賞100名
広告掲載店
靴とカバン「まるい」おしゃれの店「マスコット」秋田駅前中央通り(廃業)
きたる二十二日市内サンタ配達します「おもちゃのライト」秋田名店街(廃業)
Xマスケーキ「あさり製パン・あきた製パン」(廃業)
クリスマスの夜は楽しいアイスクリーム「○〆鎌田」(現・KAMADAスマイルコーポレーション)
Xマスケーキ「かおる堂」本町四丁目「ポンドール」秋田名店街
くりすますけーき・24日・夕べ サンタさん通町を行く!!「勝月」通町
Xmasバイキング「アキタニューグランドホテル」(廃業)
デコレーションケーキ「杉山博進堂」馬口労町(現・博進堂)
クリスマスデコレーション「三浦商店」金座街・ステーションデパート・秋田港名店街(土崎)(廃業)
全店クリスマスセール「本金」大町二丁目(本金西武を経て廃業)
ショートケーキ 洋菓子「青木堂」上通町青木小路(現・青木堂オーブンベーカリー)
クリスマスケーキ「翁屋開運堂」川反四丁目橋角
クリスマス用品・おもちゃのデパート病院「ポパイ」駅前平和通り(廃業)
Xマスケーキ「スゞヤのパン」大町二丁目(ガトースゞヤを経て廃業)
Xマスケーキ「たけや製パン」
デコレーションケーキ「秋田榮太楼」
クリスマスプレゼントはことしもキノウチのオモチャを「木内」3階玩具売場(一階のみで営業)
Xmasケーキ お菓子は「光月堂」長野下新町(南通)


秋田名店街一階「おもちゃのライト」。おなじく名店街の「ポンドール」は「かおる堂」の洋菓子ブランドだった。給食用コッペパンを市内小学校に納めていた「あさり製パン・秋田製パン」は翌40年、臨海工業地帯に県内製パン業者が出資する協同組合「秋田第一製パン」を創設する。


オリンピック料理のバイキング(全席予約制)
メキシコ・フランス・ハンガリー・カナダ
当店のオリンピック村派遣コックによる食べ放題のクリスマスパーテー
大人 ¥ 1,300
小人 ¥ 600(小学生まで)
年末、クリスマスのご贈答に 若どりの丸焼(箱入リボン飾り)¥ 600
グリル部では恒例のクリスマスランチ ¥ 400
アキタニューグランドホテル
同年秋に開催された東京オリンピックの、外人記者クラブ調理部員として、「あきたくらぶ」(アキタニューグランドホテル)支配人および調理師が東京に招かれている。

オリンピック村で提供した各国料理のバイキングをはじめとするメニューは、さすがに県内有数の皇室御用達ホテルだけあって高価。ラーメン一杯が35円ほどの時代、ニューグランドホテルのグリル部は、庶民にとってあこがれのハイソサエティなレストランであった。バイキング料理やビアガーデンを、秋田にはじめて導入したのも同店に違いない。

クリスマスイブ直前になると、魁新報社主催の「クリスマスこども大会」が県民会館で開催された。小学生以下が対象だったと思うが、音楽・バレエ・腹話術・映画などのほかに、サンタの扮装をした秋田市長が登場するプレゼント抽選会など、子どもたちに人気の恒例行事だった。

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ブログ内検索はGoogleカスタム検索で

Googleカスタム検索の検索結果に、いつの間にかサムネイルが追加されて、ちょっと見栄えが良くなっていた。


「木内」検索結果

当ブログ内記事を検索するには、右フレームの「ひみつ基地をさぐる」からどうぞ。



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昭和のサンタクロース・川反散歩


2011.12

川反五丁目「半兵ヱ」川反四丁目橋店

おまわりさん、ドロボウですよ!
ドロボウにしか見えないのは、背負ったリュックのせいだ。

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二〇世紀ひみつ基地 レトロ映画ポスター観賞会 in 川反

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アイドル酒場 AKB23・川反散歩


2011.12

川反四丁目、キャバクラ「アイドル酒場 AKB23」

正確にいえば、キャバクラと居酒屋の中間的な、「ガールズ居酒屋」または「ガールズバー」に分類される、近ごろ都会で増加中の新業態店。



店名の AKB は AKITA(秋田)KAWABATA(川反) BIJIN(美人)の頭文字、23 は平均年齢らしいが、実態は AKITA(秋田)KAWABATA(川反) BUSU(ブス)とのうわさあり。

経営は県内で飲食店を展開するアジマックスグループ。


2012.07.31

秋の観月会ならぬ夏の観ケツ会ww

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アジマックスグループ お客様相談室

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オンライン地図をかなもじ表記する「かなまっぷ」の試み

2011年11月末、ゼンリンデータコムが実験的地図サービスを公開している「いつもNAVIラボ」において、注記をすべてひらがなで表示する「かなまっぷ」を公開した。

将来的には子供向け地図や学習用コンテンツ、旅先の地名の読み方を確認する際に活用されることを目的に開発中という。秋田でいえば「及位・のぞき」など、国内には難解な地名が多いので、これは使えそう。
かなまっぷについて
    「かなまっぷ」とは、地図の注記をひらがなに変換した地図です。
    「かなまっぷ」の変換は一般的な辞書にて自動で行っているため、誤ったよみがなになっている箇所がまだ多くございます。皆様のお住まいの地域やご存知の地名でもし誤りがございましたら「このあたりの正しいよみがなを投稿する」というリンクからご指摘いただけますと幸いです。
    ※投稿いただいた正しいよみがなの修正対象はこの「かなまっぷ」のみとなります。
さっそく秋田市楢山周辺を検索してみると、すぐに間違いを発見。



築山小(ちくざんしょう)が「つきやましょう」。その隣の長泉寺(ちょうせんじ)が「ながいずみじ」。表町のト一屋(といちや)が「ほくいちや」。そのほか・・・

中通小(なかどおりしょう)=「ちゅうどおりしょう」
秋田和洋女子高(あきたわようじょしこう)=「あきたかずひろじょしこう」
平野政吉美術館(ひらのまさきちびじゅつかん)=「ひらのまさよしびじゅつかん」
木内(きのうち)=「きうち」
彌高神社(いやたかじんじゃ)=「やこうじんじゃ」
久保田城御隅櫓(くぼたじょうおすみやぐら)=「くぼたしろこすみろ」
竿燈大通り(かんとうおおどおり)=「さおとうだいどおり」
太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)=「ふとへらやまさんきちじんじゃ」
日吉八幡神社(ひえはちまんじんじゃ)=「ひよしやはたじんじゃ」
八橋陸上競技場(やばせりくじょうきょうぎじょう)=「はちきょうりくじょうきょうぎじょう」
クルーザーバレー八橋=「クルーザーバレーはちばし」
新政酒造(あらまさしゅぞう)=「しんせいしゅぞう」
金照寺山(きんしょうじやま)=「きむあきらてらやま」
萬雄寺(ばんゆうじ)=「よろずつよしじ」
宝袋院(ほうたいいん)=「たからふくろいん」
弘願寺(ぐがんいん)=「ひろしねがいいん」
声体寺(せいたいじ)=「こえたいじ」
蓮住寺(れんじゅうじ)=「はちすじゅうじ」
鱗勝院(りんしょういん)=「うろこかちいん」
浄願寺(じょうがんじ)=「きよしねがいじ」

金照寺山が「きむあきらてらやま」ww
浄願寺を「きよしねがいじ」って読むと、まるでキリスト教会みたい

ざっと目を通しただけでもこれだけの間違いが。上記地名の一部を「このあたりの正しいよみがなを投稿する」で指摘(反映するまでは時間がかかる)したが、次々と現れる誤記を訂正していては切りがないのでやめた。

地名の読みに関しては、国土地理院のデータベースか、日本郵政の郵便番号データをもとに作成しているのか、ほぼ正確だが、交差点名・施設名などに間違いが目立ち、とくに寺社名が使えない。

アルファベットだけで表記する英語の単純さと比べ、日本語は「訓読み」の他に三種の「音読み」(呉音・漢音・唐音)と、音読みと訓読みを組みあわせた「重箱読み」「湯桶読み」がある複雑な言語。その重層的構造がおくゆかしい日本文化を形成しているわけだが、漢字をひらがなに表記することのむずかしさがここにある。「かなまっぷ」が正式公開されるには、気が遠くなるほどの時間と、多くの協力者が必要だ。

まだまだ完成にほど遠い地図サービスだが、地名に関しては正確だと思われるので、読みの分からない地名を調べるには重宝するだろう。

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かなまっぷ | いつもNAVI ラボ

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