二〇世紀ひみつ基地

●土地の記憶●歴史●民俗●路上観察●広告●音楽●二〇世紀ノスタルジア・・・秋田市を中心に

2011年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年06月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

歯医者さんの石敢當・中央通りで新発見

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その九


2011.05

当ブログの読者から教えて頂いた、中央通りの丁字路で発見された石敢當(いしがんとう)。今年の3月11日、大震災当日の朝、除雪中に見つけ、ネットで調べているうちに当ブログにたどり着いたらしい。


2011.05

秋田市中央通りの「山内矯正歯科」前、東隣の旧「吹浦帽子店」との境界に設けられた、コンクリート塀の前面に「敢当石」と推察する文字の半分を隠して、コンクリートに同化するように埋め込まれている。

当物件についてはまったくの初耳で、今まで出版された関連資料にも載っていない。


大きな地図で見る

山内歯科は明治時代から続く歴史ある医院。しかし、この物件は御影石製なので、それほど古いものではない。そしてこの地が丁字路になったのも比較的最近のこと。


昭和24年発行「秋田市街図」より

中央通りは狭い小路で、もちろん仲小路通りもまだ存在しない、戦後間もない時代の周辺地図。高度経済成長期に新設および拡幅された道路のおおよそをピンク色でマーキングした。

広小路と中央通りにはさまれた区画は、秋田県庁舎と議事堂など関連機関が占め、中央通り側の一画に秋田警察署が建っていた。


大町から旧秋田県庁舎および議事堂を望む

昭和32年(1957)、県庁舎の三分の二を焼失。
昭和35年(1960)、旧県庁跡地の一角に「秋田産業会館」竣工。
昭和38年(1963)、秋田警察署、現在地に新築。中央通りの拡幅工事始まる。

山内歯科の向い側に小路が開通した昭和30年代後半の頃、新たに丁字路の突き当たりとなった歯科医院前に石敢當が建立され、その後、現在のビルに建て替えたとき、コンクリート塀に埋め込まれたものだろうか。そのビル工事の整地中、石柱の下部を破損したため、このような不自然な形になった可能性もある。

いずれにしろ、道の突き当たりに位置する家を災厄から守ると信じられた石敢當が、未曾有の大震災が東日本を襲う数時間前に日の目を見たことに、深い因縁を感じずにはいられない。


◆付録・旧「土手長町上丁」界隈

昭和初期の地図によれば、「山内歯科」の西隣が洋風建築「八柳写真館」、今の北都銀行本店営業部の場所に「秋田県物産館」とモダンな建物がならび、さらに土手長町通りを隔てた旭川の川岸に、連鎖商店街である「勧工場」(かんこうば)が昭和20年頃まであった。

中央通りの突き当たり、丁字路部分に位置した、その勧工場の商店前に「石将軍」と刻まれた石敢當が存在していたことが記録されている。




県物産館(手前が秋田警察署)昭和初期


土手長町通り・勧工場 昭和初期

_________

関連リンク

山内矯正歯科 石敢当

関連記事

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その一
二〇世紀ひみつ基地 Y字路に謎の石柱・石敢當
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その二
二〇世紀ひみつ基地 赤門前の石敢當・紅色は魔除けの色
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その三
二〇世紀ひみつ基地 守る家なき石敢當・埋もれた記憶
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その四
二〇世紀ひみつ基地 市内最大の石敢當・移動して右向け右!
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その五
二〇世紀ひみつ基地 異色の石敢當・塗り込まれてもなお
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その六
二〇世紀ひみつ基地 十字路の石敢當・眠りから覚めたら・・・
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その七
二〇世紀ひみつ基地 医王院前町の石敢當・ブロック塀と一心同体
街角の文化財・魔除けの「石敢當」その八
二〇世紀ひみつ基地 楢山「石敢當」多発ストリート

二〇世紀ひみつ基地 土手長町官庁街の中心地・秋田県庁舎
二〇世紀ひみつ基地 長町通り「勧工場」
二〇世紀ひみつ基地 ドーム屋根のモダン建築・秋田物産館
二〇世紀ひみつ基地 産館ホールへ行こう
二〇世紀ひみつ基地 消えた帽子店・帽子文化の隆盛とその衰退

| 散歩写真・路上観察 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

約束の花の落ちるとき・旧相互銀行本店

◆銀行の稲荷神社の由来

  
2007.04


2008.05

土手長町通りに面する「北都銀行別館」の庭園に祀られている赤い鳥居の稲荷神社。会社や工場の構内に神社が存在すること自体はさして珍しくないが、これが銀行となると非常に少ない。

秋田市中通五丁目(旧・土手長町末丁)界隈には、かつて多くの医院が軒を連ねていた。北都銀行別館の建つこの地にも、明治から大正時代にかけて内科医院が存在し、今に続く稲荷神社はその家を守る屋敷神であったが、終戦後同家は秋田を離れることに。跡地を銀行に売り渡すに際して同家は、いくつかの要望を提示。そのひとつが、この稲荷神社を守り祭祀を継続することであった。


秋田相互銀行本店

昭和26年(1951)、秋田相互銀行本店を土手長町末丁に新築移転。


北都銀行別館(旧・秋田相互銀行本店)2011.05

昭和57年(1982)、通りに対して斜めに配置したユニークな設計の新本店ビル落成。

平成元年(1989)、普通銀行化にともない、秋田あけぼの銀行と改称。
平成5年(1993)、羽後銀行と合併し北都銀行と商号を変更。秋田あけぼの銀行本店(旧・秋田相互銀行本店)は北都銀行別館となる。
平成21年(2009)、荘内銀行と経営統合、持株会社としてフィデアホールディングス株式会社を設立。

土手長町末丁に相互銀行本店が移転して以降、経営母体が変わっても、前地権者との約束通り、毎年5月には役員が参加して稲荷神社の祭事が執り行われてきた。


◆約束の花の名は・・・

そしてもうひとつ、前地権者からのつよい要望により残されたのが、医院の庭を造園した当時「秋田市に一本しかない珍木」といわれ、御主人がこよなく愛したというクロフネツツジ。







和名・クロフネツツジ(黒船躑躅)
英名・Royal azalea(ロイヤル・アザレア)
分布・中国北部、朝鮮半島、シベリア

江戸前期に朝鮮から黒船に乗って渡来したという大輪のツツジ。いかつい和名とは裏腹に、気品ある薄桃色の花は「ツツジの女王」と称される。他のツツジ種にさきがけて開花し、秋田市ではゴールデンウィークの前後に見頃となる。

新本店ビルを建てたとき、クロフネツツジは東側(旧店舗裏手)から、少庭園が整備された西側に移植された。


北都銀行前バス停 2007.05

緑に囲まれた銀行敷地内のバス待合室。その裏手にクロフネツツジの薄桃色がチラリと見える。手前の黄色はヤマブキの花。

昭和58年(1983)、庭園の緑と調和した近代的ビルは、秋田市役所が企画した、第一回「都市景観賞」(昭和57年度)を受賞。

平成23年(2011)早春、「北都銀行別館」から「ほくと相談プラザ」転出。貸ビル「北都ビルディング」への改装工事にともない、庭園の西側で駐車スペースの造成が始まり、クロフネツツジを含む樹木群が忽然と消滅。


2011.05


2011.05


2011.05


庭園より西側を望む 2007.05


庭園より西側を望む 2011.05

平成23年(2011)6月、「北都ビルディング」(旧北都銀行別館)に「日本政策金融公庫・国民生活事業」入居。


見納め花 2010.05

今にして思えば、見納めとなった昨春のクロフネツツジは、自らの運命を悟ったかのように、例年になく沢山の花を咲かせて、その終焉をあでやかに装っていた。


大きな地図で見る
_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 今は幻の「殻堀橋」
二〇世紀ひみつ基地 伝説の大イチョウ・座頭小路
二〇世紀ひみつ基地 幻の仁別川の流れを辿る
二〇世紀ひみつ基地 皇室御用達の宿・アキタニューグランドホテル
二〇世紀ひみつ基地 蔦のからまる医院・座頭小路
二〇世紀ひみつ基地 蔦のからまる医院・消えたレトロ建築

二〇世紀ひみつ基地 うぎんのコロちゃん
二〇世紀ひみつ基地 相互銀行のターちゃん

| 散歩写真・路上観察 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

大震災を黙示するかの如く・秋大モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その8


阿部米蔵「雨露と土」昭和46年(1971)タイル壁画・秋大教育文化学部

秋田大学教育文化学部3号館の新築に際して、附属する60周年記念ホールに、当時美術科の教授であった阿部米蔵がデザインした壁画が設置された。

壁画に描かれたものは波濤と廃墟、日輪(太陽)さえも寿命を迎えたかのように侵蝕されている。諸行の無情を感じさせるその壁画は、未来を担う若者を教育する場にはふさわしくはない“ただならぬ暗さ”をただよわせている。









その壁画が完成して40年後に東日本を襲った未曾有の大震災。大津波に破壊された三陸の光景と壁画の光景がダブって見える。

壁画に描かれた“波濤”は大津波、“廃墟”は鉄骨だけ残った三階建てのビル、そして“侵蝕された太陽”は爆発して煙を上げる原発を象徴しているかのようだ。

秋大の記念ホールに黙示的・予言的なモニュメントを残した阿部氏は、2011年5月3日、大震災を見届けるように逝去された。


南三陸町防災対策庁舎
Copyright 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
鉄骨だけ残った防災庁舎をモニュメントに 南三陸町長が意向

 宮城県南三陸町の佐藤仁町長は11日、津波で3階建ての鉄骨だけが残った町の防災対策庁舎について「個人的な思いだが、この災害を二度と忘れないためのモニュメントとして残すことができれば」との意向を示した。共同通信の取材に答えた。

 庁舎は阪神大震災を受け、震度7の地震にも耐える防災の拠点として建てられたが、屋上を越える津波が押し寄せた。

 佐藤町長は「賛否両論がある」と断った上で「最後まで町民の命を守るために働いた多くの職員が亡くなったり、行方不明になったりした。献花台や慰霊碑を設け、町の将来を担う人への教訓にしたい」と述べた。
2011.4.11『MSN産経ニュース』より


大きな地図で見る
_________

関連記事

二〇世紀ひみつ基地 その名は知らずとも・・・追悼・阿部米蔵氏

阿部米蔵によるパブリックアート・その1
二〇世紀ひみつ基地 中通タマゴ公園のひみつ・遊びの彫刻

阿部米蔵によるパブリックアート・その2
二〇世紀ひみつ基地 団欒の群像・秋田駅前モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その3
二〇世紀ひみつ基地 自由の群像・八橋陸上競技場前モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その4
二〇世紀ひみつ基地 交通安全のモニュマン・山王大通り

阿部米蔵によるパブリックアート・その5
二〇世紀ひみつ基地 千秋公園の水鳥モニュメント二題

阿部米蔵によるパブリックアート・その6
二〇世紀ひみつ基地 成長の群像・明徳小学校モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その7
二〇世紀ひみつ基地 天地を結ぶアンテナ・和洋女子高モニュメント

関連リンク

【東日本大震災】鉄骨だけ残った防災庁舎をモニュメントに 南三陸町長が意向 - MSN産経ニュース
【東日本大震災パノラマ Vol.45】命の限り叫び続けた防災放送の女性職員 南三陸町 - MSN産経フォト

| 散歩写真・路上観察 | 23:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

その名は知らずとも・・・追悼・阿部米蔵氏

阿部 米蔵氏(あべ・よねぞう=県文化功労者)

 3日午前7時29分、老衰のため秋田市の病院で死去、99歳。自宅は秋田市泉馬場2の37。葬儀は8日午前11時から同市泉北1の8の15、ベルコシティホール秋田で。喪主は長男功(こう)氏。

 由利本荘市(旧岩城町)出身。彫刻家。元秋田大教授。新制作協会会員として中央でも高い評価を得た。後進の指導に尽力し、長年にわたり県美術展覧会(県展)の運営委員を務めた。85年県文化功労者。
(2011/05/04 00:13 更新)「さきがけonTheWeb 訃報」より
その人の名は知らずとも、秋田市民ならば、誰もがその作品に接したことがあるだろう。


阿部米蔵「プレイ・スカルプチャー」昭和31年(1956)通称・タマゴ公園


阿部米蔵「団欒の群像」昭和36年(1961)秋田駅前広場


阿部米蔵「自由の群像」昭和36年(1961)八橋運動公園


阿部米蔵「少女と鳥」昭和36年(1961)千秋公園二の丸


阿部米蔵「交通安全のモニュマン」昭和39年(1964)山王大通り


阿部米蔵「三愛のモニュマン」昭和41年(1966)和洋女子高校

_________

関連記事

阿部米蔵によるパブリックアート・その1
二〇世紀ひみつ基地 中通タマゴ公園のひみつ・遊びの彫刻

阿部米蔵によるパブリックアート・その2
二〇世紀ひみつ基地 団欒の群像・秋田駅前モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その3
二〇世紀ひみつ基地 自由の群像・八橋陸上競技場前モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その4
二〇世紀ひみつ基地 交通安全のモニュマン・山王大通り

阿部米蔵によるパブリックアート・その5
二〇世紀ひみつ基地 千秋公園の水鳥モニュメント二題

阿部米蔵によるパブリックアート・その6
二〇世紀ひみつ基地 成長の群像・明徳小学校モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その7
二〇世紀ひみつ基地 天地を結ぶアンテナ・和洋女子高モニュメント

阿部米蔵によるパブリックアート・その8
二〇世紀ひみつ基地 大震災を黙示するかの如く・秋大モニュメント


| 散歩写真・路上観察 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |