二〇世紀ひみつ基地

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2010年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年12月

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「県庁橋通り」は県内初の舗装道路?


秋田市・県庁橋通り

大正末から昭和初期の撮影と推定する二丁目小路(現・山王大通り)東端の景観。二丁目橋(通称・県庁橋)を渡った突き当たりに秋田県庁舎が存在したことから、この一画は「県庁橋通り」と呼ばれ、昭和六年には秋田駅前~県庁橋通り間に路面電車が開通する。



正面に秋田県庁舎、その手前に四本のランプポールがみえる二丁目橋(県庁橋)。アールヌーボ調のランプシェードが特徴的な街灯が立つストリートの、左手前から、勧業銀行秋田支店・多可屋(たかや)履物店・成田理髪店・榮太楼菓子店と、モダンな建物が連なり、右手(南側)に、入口にのれんが下がる那波呉服店と那波三郎右衛門家を確認できる。さらに、川反通りをはさんだ東側、現在の川反三丁目公園(那波家の水汲場跡)に、古い蔵を利用した那波酒店が存在した。


二丁目橋(県庁橋)から県庁前通り北側を望む

手前から、榮太楼菓子店・成田理髪店・多可屋履物店・勧銀秋田支店。


榮太楼菓子店・和洋折衷建築(設計・秋田県庁土木部建築技師・高橋松太郎)


那波呉服店


那波三郎右衛門家


●県内初の舗装道路・県庁橋通り洋風道路


県庁橋通り

こちらはモノクロ写真を整版工程で色分解して印刷した、昭和初期頃発行の原色版絵葉書。冒頭の画像よりも後方(西寄り)の交差点から撮影されたものだが、注目すべき点は、道路手前の未舗装道路と舗装道路の境界線が鮮明に写っていること。手前の濃い部分が未舗装道路、その向こうに延びる白っぽい道路が舗装部分である。県庁橋通りが舗装されたのは大正十四年のこと。


県庁橋から一線を画がいて
この秋飾り建つ洋風道路
左側の旧態のこして近代的な面影そえる


市の中央大町の二丁目三丁目を画する二丁目小路、菊花の紋章輝かしい県庁を真直ぐに近代的なコンクリートの県庁橋から一線を画いて・・・・・・更に二丁目橋から大町通りまでは秋田の銀座通りである、未だ工事中でゴタゴタした縄張りやらゴロゴロした工事の石ころ道で車馬の往来も止めているがやがて九月の中旬頃に秋田市唯一の近代的都市道路が出来上がる、南側は昔ながらの那波商店の古い木造建てやら何やらの軒並みで依然たる旧態だが北側は勧銀、たかや下駄店、成田理髪店、榮太楼菓子店など何れも耐火式の堂々たる屋並で一線を引いたように軒をそろえ三間半の道幅は二倍に拡げられて七間の大道路、それには充分な下ごしらえした上にコンクリートでかためその上を最新式のセメント「コールドピンチ」で張ることになっている、新しい洋風の建築軒をそろえ、雨がふってもぬからず風が吹いてもほこりのとばぬ立派な都市道路が二足三足あるけばつきるような距離ではあるが秋田市の真ン中に出来上がるのだ
大正十四年九月『秋田魁新報』より
もともとは幅三間半(約6.3メートル)だった小路の北側部分を撤去し、七間(約12.6メートル)に拡幅・舗装。拡幅された北側にモダンな新建築が並び、南側を占める那波家敷地内の建物はそのまま残った。


勧業銀行秋田支店・ルネサンス様式建築

竣工したばかりの勧銀。道路はまだ工事中。

秋田における舗装道路の歴史について、『秋田県土木史』に
県内における舗装状況については、道路課の舗装台帳によると、最初の舗装は昭和8年(1933)に横手市並びに増田~十文字間でアスファルト系の舗装が行われたことになっている。‥‥中略‥‥秋田市内の道路の舗装は、国道は直轄事業としてコンクリート舗装で着工され、また市内のメインストリート広小路は昭和10年にアスファルト加熱混合式で舗装されている。
『秋田県土木史』より
とあるが、県の記録に残っていない、大正末に実施された県庁前通りが県内初の舗装道であったに違いない。県の中心庁舎である県庁前に延びる道路を、大正十四年十月に予定されていた、摂政宮(のちの昭和天皇)行啓に合わせ、他所にさきがけて舗装したものだろう。


大正十四年、道路拡幅時点の略図

昭和四十年代初頭、勧銀の建つ北側を取り壊し、二丁目小路を36メートルに拡幅(上図の黄色部分)、現在の山王大通りが完工する。このときも前回と同様に南側は手が付けられていない。拡幅工事を前に、那波三郎右衛門家の通りに面する角地に「升屋」(那波商店呉服衣料品部)が新築された。

拡幅工事を前にした昭和四十年発行の住宅地図で、今は道路となった北側部分を確認すると、西から勧銀・日本タイプ・成田理容所・那波酒店・大同生命となっている。すでに「多可屋履物店」(現・登美屋)は通町に移転。戦時中の企業合同により菓子の製造ができなくなった榮太楼菓子店は、廃業を決意し和洋折衷のモダン店舗を大同生命に売却するが、戦後まもなく現在地の川反二丁目で株式会社として復活した。


2010.10

ケヤキ並木の中央分離帯から左側(北側)路上に、かつて勧銀をはじめとした建物が連なっていた。


2010.11

「那波呉服店」の跡地に「JTB 東北秋田支店」(旧・交通公社)、その東隣の「升屋」は近年、川反三丁目に移転、その跡地に「大和ハウス工業」が秋田支店を新築。


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聴け!“超エレクトロラ”奏でる電気の音楽を!!


●秋田市に“超拡声電気蓄音機”現る!!


久保田城の時代には能楽や町踊りが上覧されたという千秋公園二の丸広場。明治以降は運動場となり、花見時には舞台が設置され、最近は JAZZ フェスの会場となったその歴史的イベント広場に、昭和四年(1929)六月、巨大な電気蓄音機が運びこまれ、秋田魁新報社主催で一夜限りの “大音量レコードコンサート”が開催された。




市民慰安(本社主催)レコードコンサート
いよいよ今晩六時半から公園二の丸で

本社主催市民慰安のレコードコンサートはいよいよ今十四日午後六時半から新緑濃き千秋公園において開催されるのであるが、これに用いる蓄音機は超拡声電気蓄音機にて音響三里四方におよぶ、しかもその高さ一丈余重さ二トンの蓄音機といえばこれに用うるレコードの直径が一間もあり、レコードをまわる針が電柱の太さでもあるかのごとく一般に思われているが事実レコードも針も一般家庭において使用されている蓄音機と同様のものであって只それに電気装置の超拡声器があるため真空管を通じて音響三里にも及ぶものであるが、東京日比谷はじめ各市立公園においてこれがレコードコンサートを催した際はいづれも押すな押すなの大盛況で郡部からも夥しい人出でその帰りのため終列車が急に客車を増結するという盛況ぶりを示しているが、当市においても邦楽、洋楽とりまぜ一般の耳におなじみのもの、若しくは新しいレコードを取り入れ三十六回もあるので、夏の夕の散歩ながらに新緑したたる千秋公園に集まる聴衆は数万を数えるであろう
昭和四年六月『秋田魁新報』より



市民満足
レコードコンサート賑わう


市民慰安の本社主催レコードコンサートは十四日午後七時から千秋公園二の丸に開催されたが定刻前より公園をさして押し寄せた聴衆ひきも切らず定刻すでに二の丸は立錐の余地のなき盛況裡に超拡声電気蓄音機は文字通り三里四方にも及ぶ(もっとも風の加減で聞こえぬ方面もあったに相違ないが金照寺山で聞きとった人さえもある)大音響を発し邦楽、洋楽とりまぜ四十枚近いレコードをかけ聴衆をやんやといわせたこと勿論!八時九時となるに及んで聴衆は二の丸から溢れ土手に駆けあがり木によぢ登るなどあり充分に市民の満足を買って十時頃散会した(写真は人で埋まった千秋公園二の丸)
昭和四年六月『秋田魁新報』より
冒頭の写真では、「超拡声電気蓄音機」の前に市販の大型蓄音機を置いて、その大きさを比較。重量2トン、高さ一丈(約3m)の巨大電気蓄音機の音響は三里(11.78 km)四方におよぶという。

「文字通り三里(11.78 km)四方にも及ぶ」としながら、二の丸から約2.3 km の距離にある「金照寺山で聞きとった人さえもある」というのは矛盾するが、金照寺山では音声を聞き分けることができ、三里四方は誇大表現だが、それほど遠くまで、わずかな音が届いということなのだろう。

自動車などの騒音がほぼ皆無な環境で、市の中心部でさえ夜になると潮騒の音が聞こえた時代の可聴範囲は、現代と比較してかなり広かったものと想像される。それにしても夜十時までの爆音レコードコンサート、今だったら苦情を考慮してとうてい実現できない。


●超エレクトロラはどこから来たのか?

レコードコンサートをさかのぼる六月初旬の『秋田魁新報』によれば、この「超拡声電気蓄音機」は「超エレクトロラ」と称する世界に三台しかないもので、五月一日より日比谷公園における東京市役所主催のレコードコンサートをはじめとして、全国各地を巡回中とのこと。

エレクトロラ(正確にはエレクトローラ)は米ビクター社製の電気蓄音機の名称。東京市内の日本ビクター契約販売店が当時『朝日新聞』に出した広告に「謹告 昨年夏皆様に御目見得し其甚大なる力に対し御好評を博しました日本ビクターの超エロクトロラが又参りました。東京市主催で五月一日から左の日割りにより市民緒彦の慰安レコード演奏会が催されます。入場無料」とあり、五月一日の日比谷新音楽堂を皮切りに、上野公園動物園、本所錦糸公園と場所を移しながら、九日間連続の野外慰安レコード演奏会が東京市主催で開催されることが予告されている。

「昨年夏皆様に御目見得し・・・」とあるように、超エレクトロラが日本初公開されたのが、前年の昭和三年七月三十日に開かれた東京市主催の「納涼音楽の夕べ」だったようで、そのときの広告文に「ビクター会が超エレクトロラと同社のオルソフォニック・レコードを使用、実演、肉声、其儘をお聴かせ致します。」とある。

以上のレコードコンサートに使われた「超エレクトロラ」についての情報は極めて少ないが victor-victrola.com のサイトにこんな画像があった。



引用元はこちら
The Victor-Victrola Page

説明によると、1926年(大正十五年)、ビクター・トーキングマシン社が電気蓄音機の販売促進を目的に、カナダ・トロントに設置した巨大ホーンだという。

昭和二年(1927)ビクター・トーキングマシン社が100%出資して「日本ビクター蓄音機株式会社」を設立。千秋公園二の丸に持ち込まれた「スーパー(超)エレクトロラ」は、日本ビクターが電気蓄音機とビクターレコードの普及宣伝を兼ねて、地方自治体や新聞社に貸し出したものであった。

誕生して間もない電気蓄音機をはじめて聴く市民にとって、電気の力で音楽を奏でる大音量の超エレクトロラは物珍しい超ハイテク装置。物見高い市民らはそのうわさを聞きつけ、またその大音量に誘われて千秋公園へと集まり、二の丸広場と周囲の土手を埋めつくした。


●[付録]蓄音機の時代

1877年(明治十年)、トーマス・エジソンが円筒の錫(すず)箔に録音する円筒式蓄音機を発明。フォノグラフ(邦訳・蓄音機)と命名されたそれは一台で録音と再生ができる画期的な器械であった。

1885年(明治十八年)、グラハム・ベル社が錫箔のかわりに蝋(ろう)を塗った蝋管式蓄音機・グラフォフォンを開発。

FONOGRAFO THOMAS EDISON (1898)


the Edison Concert Phonograph 1899

米国でのエジソン式円筒型蓄音機コンサートのポスター。電気を使わないアコースティック蓄音機は結構大きな音を出す。その音をさらに増幅させるために特大のラッパが取り付けられ、聴衆は耳を澄まし息を呑んで聞き入った。


大道の蓄音器屋台 明治三十九年(1906)

境内で蝋管式蓄音機を聴かせる蓄音器屋。拡声ラッパは人寄せのために少しだけ鳴らしたもので、客は二銭ほどの料金を払い、蓄音機のサウンドボックスから導かれた聴診器のようなゴム管のイヤホンを両耳に入れ、主に浪曲を楽しんだ。まだラジオもなく、劇場に足を運ばなければ浪曲を聴くことができなかった時代のハイカラな商売である。

1887年(明治二十年)、エジソンのライバルであった発明家エミール・ベルリナーが、平円盤式レコードとそれを再生する蓄音機・グラモフォンを製作。円筒式レコードに比べ収納しやすく、安価に原盤からの大量プレスが可能となった。この円盤式レコードが現在のCDの原型。

1895年(明治二十八年)、ベルリナーは円盤式レコード及び再生装置の製造・販売をするためにベルリナー・グラモフォン社を設立。


ビクター・トーキングマシーン社の初期蓄音機で聴く、ベルリナー・グラモフォン社製レコード。

ベルリナー・グラモフォン社を母体として、英国グラモフォン(現・EMI、HMV)と米国ビクター・トーキングマシン社が誕生。1910年(明治四十三年)頃までには円筒式に替わって円盤式レコードが市場を制す。


蓄音機広告
右・明治三十八年 左上・明治四十年(部分)左下・大正十年

「三光堂」は東京浅草に明治三十二年開業の日本初の蓄音機専門店。


Victor Studio 1921

当初のレコードの録音は、ご覧のようなラッパ状の集音器を使用していた。集音器の奥に取り付けられた振動板がレコード原盤に直接カッティングする方式。

1924年(大正十三年)、マイクロフォンを使用した電気録音方式が開発される。

1926年(大正十五年)、ターンテーブルを回すモーター、真空管増幅器とスピーカで構成された電気蓄音機が発売される。

1929年(昭和4年)、経営不振に陥っていたビクター・トーキング・マシーン社を RCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)が買収、RCA ビクターが誕生する。

秋田において超エレクトロラによるレコードコンサートが開催された時代に輸入された初期の電蓄(電気蓄音機)は、小学校教員の初任給が四十五円ほどの時代、ラジオ付きで約三千七百円というから、土地付きの家がゆうに三軒は建つほどの兆贅沢品。

一方、手巻きゼンマイのアコースティック式蓄音機は、日本ビクターが国内生産した卓上蓄音機・ビクトローラーが、昭和四年頃に九十円から百五十円ほどで買えた。これでも庶民にとっては手の届かない贅沢品。数年後には電蓄の値段もアコースティック式蓄音機なみに安くなるが、戦中は贅沢品として規制されたため、日本で電蓄が本格的に普及するのは戦後のことであった。


●名器クレデンザで聴く超絶的コルネット

円熟期のアコースティック式蓄音機のなかでも“究極の蓄音器”と称され、今でも根強い人気があるのが米国ビクター社製「ビクトローラ・クレデンザ」。

後期の蓄音機は、ラッパ状のホーンに取って代わって、キャビネットのなかにホーンを収納した内蔵型となる。クレデンザの複雑に折りたたまれた、音道の長さ1.8メートルほどの木製ホーンは、後に JBL社やアルテック社など有名メーカーから発売されたスピーカーの原型となった。


『Popular Science』1925年12月号より




Carnival of Venice • Del Staigers, Cornet (Victrola Credenza)

1926年(大正十五年)製の名蓄音機・クレデンザで聴く、1929年(昭和四年)録音の「ヴェニスの謝肉祭」。

電気蓄音器のような音量を調節するツマミはなく、前面の扉を開閉することで音量を調整。一回ゼンマイを巻くと、20分ほどの連続演奏が可能。当時の蓄音機用 SPレコードの最大収録時間は約4分30秒。蓄音機の鉄針の寿命は SPレコード四枚ほど。交換をおこたると高価なレコードを痛めてしまう。サウンドボックス(ピックアップ)から出る音を効率よくホーンに伝えるために、上記カラーイラストおよび動画のように、上蓋を閉めるのが正式な鑑賞法だ。

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たけやの「学生調理」・調理パンのロングセラー



ソース風味の魚肉ソーセージフライ・サラダ・ナポリタンスパゲティの三品をコッペパンではさんだ、たけや製パンの「学生調理」。たけやの調理パンといえば、まずこれを思い浮かべる県人も多いことだろう。

1970年代初頭にはすでに存在したと記憶している「学生調理」。そのユニークな名前は、中高生をターゲットとして開発され、主に学校の購買部に卸した商品であったことに由来するのではないかと想像する。

もうひとつ、忘れがたき調理パンといえば、これも同時代からある、スパゲッティサラダを使った「サラダパン」。



コッペパンと具材の相性が良く、シンプルでさっぱりとした味と食感の「サラダパン」が大好きで、「学生調理」や「やきそばパン」などと一緒によく食べた。

調理パンは賞味期限が短いため生産数が少ない。とくに「サラダパン」をこのごろ見かけないので、とっくに生産中止になったとばかり思っていたのだが、午前中のスーパーの棚にそれを見つけたときには、久々に旧友に出逢ったような、ちょっとした驚きとなつかしさにとらわれてしまった。たったひとつだけ残されていた、パッケージデザインもそのままの「サラダパン」は、昔と変わらぬ青春の味がした。

各種パンのなかでも人気が高かったこれらの調理パンは早めに売り切れるため、終業ベルが鳴った瞬間から、購買部に向かって走り出す争奪戦がくり広げられたものだ。

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横町のモダン理髪店跡・レトロ看板建築


2005.11

商店と飲食店が並び、往時は買い物客でにぎわった商店街、秋田市横町通り(五丁目小路)に建つ端正な看板建築、旧「石田理髪店」。一階部分は店舗用に大幅に改装され旧態を失ってしまった。

昭和四年十月の『秋田魁新報』に「横町の石田理髪店新築」の記事あり。大理石の洗髪台や舶来の鏡を設置した、内外装を凝らしたモダンな床屋であった。

明治三十年代に間近の本町五丁目で開業したようで、明治三十八年刊行の『秋田市営業家明細案内』の本町五丁目(現・大町五丁目)の項に「衛生理髪所 石田床」の名がみえる。


2005.11

関東大震災後、昭和初期に流行した店舗兼住宅・二階建ての看板建築は、突起のない平坦な造りのファサード(建物正面)に左右対称の装飾を施しているのが特徴。

古代ギリシア・ローマ建築を起源とするペディメント(三角形の装飾)をあしらった、ルネサンス様式の窓。屋根板の下と両角の柱にも、左官職人が腕をふるった装飾ががある。


2006.09

ガラス部分が庇(ひさし)のように上方に開くことで、雨の吹き込みを防ぎ、天候にかかわらず通風を確保することができる、縦二連の「滑り出し窓」は、突起のない看板建築に有効な構造。

中央部に店名を記した文字看板があったことを物語る、点々と残る釘跡と文字の形跡。その上に看板を照らしていたランプの残骸。


石川書店・大正十年頃

旧「石田理髪店」と同じ設計者が手がけたものか、大町二丁目の「石川書店」旧店舗に、同じ様式の窓が使われていた。


石川書店・大正十年頃


2008.06

昭和モダン建築と伝統的土蔵建築のコントラストが印象的な屋並も、五丁目小路の道路拡幅(都市計画道路・川尻広面線)のため、いずれ消滅する運命にある。

今(2010)から二十年ほど前、旧理髪店の一階部分を改装、西隣に建つ蔵との隙間で営業していた「木村商店」が入居するが、平成二十一年の暮れに明け渡された。

西隣の蔵を改装した家電販売店「マルシバデンキ」が現役の時代、蔵の外観は看板とアーケードに隠れていた。その後はラーメン屋など数店が入居、現在は蔵のおもむきを活用した、イタリア料理を提供するしゃれた居酒屋となっている。




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消えた昭和の灯・横町“すきま店”の終焉


2010.11

最近は夕刻から店を開く横町の木村商店のシャッターが降ろされたまま、閉店時も外に出ていた年季の入った陳列台も撤去されていた。気になって近所の人に尋ねたら、木村のおばあちゃんは至って元気だが、販売不振を理由に先ごろ店を畳んでしまったという。


2003.07

裸電球のもと、果物・菓子・おにぎり・パン・弁当などが所狭しと並ぶ小さな店。横町の名物店であった、24時間営業の木村商店のことを、僕らは「すき間みせ」と呼んでいた。

病弱な夫に代わって家族を支えるため、理容店と蔵のあいだのすき間(画像右手部分)を借りて、小さな露店を開いたのは戦後まもなくの頃。当初は深夜まで営業したわけではなく、売れないために店を開けていたら、次第に閉める時間が遅くなったというが、それが功を奏した。

ほとんどの商店が夕方には店を閉め、深夜営業のコンビニなどあるはずもない時代。夜遅くまで営業する小さな露店は、徐々に川反で働く人たちに知れ渡り、深夜になると仕事帰りのホステスや従業員、タクシーの運転手らがひっきりなしに訪れるように。ホステスへの差し入れに使うのか、高級メロンの箱がいつも棚の上に鎮座していた。


2005.10 バナナとスルメがいつもあった店頭


2005.11

やがて、夜から早朝までおばさんが店に立ち、昼は息子さんたちと交代する24時間営業体制に。70年代の最盛期には一日の売上げが30万円になったこともあり、中央の雑誌やテレビの情報番組で「日本でいちばん坪単価の売上げが高い店」として取り上げられたこともあったが、その後のコンビニの普及が影響して客足が遠のき始める。


2008.05


2009.04

今(2010)から二十年ほど前、隣接した旧理容店の一階を借り、壁を取り払って店舗を拡張するが、夕方から一人で店を切り盛りしていた最近は売上げも激減。昨年の暮れ、借りていた隣地を明け渡し、戦後間もない当初の小さな“すきま店”に回帰してから約一年後の静かな終焉であった。

数年前の新聞記事で、この店を「死ぬまでつづけたい」と語っていた、もうすぐ卒寿(90歳)を迎えるおばあちゃんにとって、人生を共に歩んだこの店を閉じることは、とてもつらい決断であったに違いない。永いあいだお疲れさまでした。

店の灯は消えても、裸電球の灯る横町の小さな店の想い出は、幾星霜、川反界隈を往き交った多くの人々の心に、いつまでも灯りつづけて消えはしない。


2009.08


2009.08


2009.12 最後は“すきま店”に回帰


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協働社の残像があるコンビニ跡


2010.11

2009年1月に倒産したホテルハワイ駅前店前で営業していたサークルK広小路店が閉店。駅前のローソンと比較すると客の入りが悪く、それに加えてホテルの閉鎖も影響したものと思われる。

コンビニのカラフルな外装が取り払われたその下から、地層の断面に眠っていた遺物のような「協働社」のロゴが出現。



当店舗は「協働社グループ」(1997年倒産) から靴販売部門を独立させた「協働シューズ」が経営した、カジュアルシューズショップ「アルク」で、1994年3月にオープンしている。

この地で営業していた「金田菓子店」が「金田酒店」と変わり、1976年には安藤物産が、宝石店「すず本」とファッションサロン「ロマンシャンゼリゼ」を開業。成金趣味的で派手な外装の店だった。

ちなみに現存する旧「協働社」系の靴店は、増田町の「協働サンシューズ」と、土崎の「協働サンシューズ土崎店」の二店。もともとは「協働社」の支店だったのだろう、今でも浅利社長が考案した、おなじみのうさぎのマークを掲げている。


協働サンシューズ土崎店 2007.03

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末廣カップラーメンに吾作ラーメンを想う


10.10.27

数日前、サンクスに入ったら、入口に面したいちばん目立つ特設コーナーと、高級カップ麺の棚が赤と黄の「末廣ラーメン」カラーで埋めつくされていた。話題性を期待できる商品だけあって、サークルKサンクスの力の入れようがうかがえるディスプレーぶりである。


秋田駅前店


とかち麺工房「末廣ラーメン本舗」店主監修

食した感想は、この手の再現商品にありがちなことだが、ある程度オリジナルの味を再現しているものの、店舗で味わう満足感には遠くおよばず、もう一度食べたくなるほどのリピート性に乏しい。

再現ラーメンをコンビニ向けに製造している「とかち麺工房」による、独自製法の氷結乾燥ノンフライ麺は好みの分かれるところで、300円弱も出せばもっとおいしいカップ麺がざらにあるのだから、最初は話題性でそこそこ売れるだろうが、価格を下げて在庫処分されるのも時間の問題かもしれない。

今度は末廣の「黒い焼飯」を再現したらどうだろう。あれはラーメン以上にやみつきになる味だ。

京都の老舗ラーメン店のノーハウを買い、秋田向けにより濃厚な味付けにしたという「末廣ラーメン本舗」の味を再現した、ポーク味のしょっぱい醤油スープを味わっていたら不意に「吾作ラーメン」のことを思い出した。

濃厚な醤油味のスープにチャーシュが乗って、元祖秋田ラーメンともいわれた能代発祥「吾作ラーメン」。新国道の東北電力に近い山王店はかつて食事時には行列ができる人気店で、最盛期には北隣に「SL寿司・吾作」を開業。模型の蒸気機関車で注文した寿司が運ばれてくるユニークな寿司屋も、ラーメンと同様に家族連れの客で繁盛していた。店舗を改装し食券式にした頃から味が落ちて急激に客足が遠のき、競合店が増加した今ではその影も薄くなってしまった。


70年代初頭に流れていたなつかしの TVCM「ラーメンじいさん今日も行く 吾作ラーメン大繁盛」

下記にリンクしたオフィシャルサイトで歴代の CM を見ることができるが、なかでもこのアニメ CM が印象深い。

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