二〇世紀ひみつ基地

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2010年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年11月

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パッケージでたどる明星チャルメラ45周年

ビートルズが初来日した昭和41年(1966)、明星食品から「明星チャルメラ」(醤油味)が発売される。都内の評判店を食べ歩き、神田の「粋香苑」という店のラーメンをモデルに開発した即席麺であった。その生誕45年目を前にして、内容およびパッケージが大幅にリニューアルされた。



まず最初に目につくのが誕生以来おなじみのキャラクター「チャルメラおじさん」の変貌ぶり。鼻の赤らみが消え、無精髭がきれいに剃られ、草履をスニーカーに履き替えて、ずいぶんと若返った。もうこれは初老を思わせる「チャルメラおじさん」ではなく「チャルメラお兄さん」。先代とは別人の二代目である。

かたわらに居た黒猫の姿も消えた。手描き風のイラストは、 Illustrator で処理したと思われるのっぺりとした描線に変わり、味も素っ気もありゃしない。

基本である醤油味の内容はどうかというと、確かに味は洗練されて旨くなった。しかし、添付のスパイスの内容変更が大きいと思うが、チャルメラ特有の風味が薄らいでしまった。以前のマイナーチェンジでも同様な傾向があったが、ますますオリジナルの味から遠ざかった感じ。売上げの低迷を打開するためのリニューアルが、これではますますファンにそっぽをむかれてしまう。


先代パッケージ

まだ店頭でたまに見かける先代のおじさん。リニューアルされてから、このパッケージの探し求めるマニアが少なからず居たという。



初代パッケージ

味わい深き初代「チャルメラおじさん」。夜泣き蕎麦の屋台を曳くおじさんのズボンには継ぎが当てられ、ほっぺの赤色と無精髭も濃く、地面には影が落ちている。約二百点の候補から選定されたイラストの作者は、漫画家・イラストレーターで今は主に動物画家として活躍する木村しゅうじ。この初代パッケージで当時の味を再現した復刻版を出してほしいものだ。

1980年代




「チャルメラ」以前によく食べていた即席麺といえば「明星ラーメン」。

「日清チキンラーメン」に代表されるそれまでの即席麺は、味付けした麺を油で揚げる製法のため、味のバリエーションがワンパターンだったが、明星食品が粉末化したスープを小袋で添付する方式を開発し、昭和37年(1962)「明星ラーメン」を商品化、その後のインスタントラーメンの発展に寄与したエポックメーキングな商品であった。

「明星ラーメン」のパッケージに印刷されたニワトリがその後、明星食品のロゴマークとなる。

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関連リンク

明星食品



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茎紅(あか)く花より紅く断腸花


秋海棠・雄花

秋海棠(しゅうかいどう)
シュウカイドウ科・ベゴニア属・多年草
原産地・中国・マレー半島

漢語の原名「秋海棠」をそのままに、シュウカイドウと音読して和名とした。江戸時代、中国より園芸用として持ち込まれ、次第に野生化し定着する。

薄紅色のうつむいた花の形姿が、春に薄紅色でうつむいた花をつける、バラ科の落葉低木「海棠」に似ることから、秋の海棠の意でこの名がつけられた。


秋海棠・雌花

別名「断腸花」(だんちょうか)。「断腸」とは「腸(はらわた)がちぎれるほどの耐え難き悲しみ」。中国の伝説では「その昔、恋する思いを遂げることのできなかった女の涙が地にしみこみ、やがてこの花が生じた。艶めかしい美女の顔ような花を断腸花と名づけた」と云い、春の「海棠」とともに「優艶な美女」にたとえて賞美された。



その茎は花よりも赤い。『和漢三才図会』に、「茎の皮を取り去り砂糖に浸して食べる、すこぶる清香である。その花は艶麗で愛すべきものだ」とある。

路傍にうなだれて楚々と咲く「秋海棠」には、しっとりと降る秋雨がよく似合う。


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するな!させるな!こん畜生!!


2009.10 犬糞禁止系掲示物

思わず二度見してしまった味わい深き傑作。


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寄り添ふて風と遊ぶや秋桜





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秋田のソウルフード「肉鍋」の老舗三店

かつて秋田駅前に存在した伝説的駅前食堂「食堂まんぷく」(通称・まんぷく食堂)の人気メニューといえば、年季の入ったアルミ製一人用鍋で食べる「肉鍋」。戦後まもなくにオープンしたこの店が「肉鍋」を出し始めたのは昭和30年代前後のことらしい。それ以前の一人鍋は「豆腐鍋」で、季節によってはそれに八郎潟産のチカなどの小魚を加えて出したものという。20年代はまだ豚肉も贅沢品だったのだろう。


新聞広告・昭和52年

豆腐に長ネギなどの野菜と出汁昆布が入った「まんぷく」の「豆腐鍋」は、湯豆腐風のなかなか乙な一人鍋で、「肉鍋」の人気に負けず劣らず、酒の肴はこれでなくてはダメだという長年のファンも多かった。予算のないときは安い「豆腐鍋」をおかずに飯を喰い、たまに食べる「肉鍋」はごちそうだったから、それを「B級グルメ」等といわれるとなんだか腹立たしい。

秋田市内で「まんぷく」で出していたような「秋田流肉鍋」を提供する店も少なくなった。それは庶民的な定食屋が少なくなったということ。秋田駅前は今、県外資本のチェーン店を中心に、居酒屋が乱立するばかり、往年の「まんぷく」や金座街の「金萬食堂」のような、安くてうまい気軽に入れる店は再開発以降絶滅してしまった。

というわけで、およそ40年以上つづく「肉鍋」の老舗三店を選んでここに記録しておく。


●「さんや食堂」改め「彌ひら」の味噌味肉鍋


2008.01

すずらん通り(三丁目小路)に昭和21年開業した「さんや食堂」。先ごろ初代のおじいさんが亡くなり、店名を「彌ひら」と改めニューリアルした。なじみ深い「さんや食堂」の名が消えたのがさみしい。最近はずっと昼間の短時間だけ開けていたが、今は夜間も居酒屋として営業している。


2010.09


2008.01

「生そば」と「さんや」の看板は消えたが、「肉なべ定食 食事とそば」の看板は以前のまま。

現在の「肉鍋」は味噌味だけで、ほかの店と比べると具の種類が少ない。アルミ鍋でなくホーローなのが残念。



確認できた具材、豚バラ肉・タマネギ・キャベツ・豆腐・もやし・玉子(半熟)。
「肉鍋定食」680円

2014.12追記・2014年11月頃「彌ひら」(旧さんや食堂)閉店。


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●駅前食堂「春駒食堂」のベーシック肉鍋

かつては末広町の「食堂まんぷく」の向かいにあって、駅前の再開発で現在地に移転した老舗食堂。

「焼麩」の代用にした「ナルト」を除けば、「秋田流肉鍋」の基本に忠実な具材。たまには味噌味も良いが、やはり「肉鍋」は醤油味がいちばん。ささがきのゴボウが良い味を出している。



確認できた具材、豚バラ肉・長ネギ・タマネギ・豆腐・もやし・シラタキ・ナルト・ゴボウ。
「肉鍋定食」650円


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●定食屋「清美食堂」の格安肉鍋

山王官庁街に近い高陽幸町に開業して約40年の庶民的定食屋「清美食堂」。

「肉鍋」は醤油味のほかに味噌味、味噌キムチ味、カレー味、さらには鶏肉の「肉鍋」があり、ほかのメニューも多彩。値段も良心的で食事時は満席になることも。



確認できた具材、豚バラ肉・長ネギ・豆腐・もやし・シラタキ・焼麩・白菜・生卵。
「肉鍋定食」570円

「秋田流肉鍋」の特徴のひとつである、汁のしみ込んだ焼麩がうれしい。ただし、卵がスープにまざると醤油の風味がぼやけてしまう。それにこだわるならば、卵を断るか別容器で頼めばよいだろう。

新国道沿いにかつてあった定食屋では、殻付きの生卵を別の小鉢で出していた。それを鍋にトッピングしたり、すき焼きの要領で具材にからめるなりして、客の好みで食べることができるわけだ。「春駒食堂」のように、もともと卵は別料金だった。


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「清美食堂」は、ご当地B級グルメ「秋田かやき」の参加店。この店の「秋田かやき」が、バリエーションに富んだ各種の「肉鍋」というわけ。

しょっつる貝焼に代表される、郷土の歴史に育まれた「一人鍋のかやき」をベースに、現代的なアレンジも加えて各店が創作する「秋田かやき」。2008年、秋田商工会議所が「横手焼きそば」の成功に習って「町おこし」(飲食業界おこし)の一環として仕掛け、約90店舗の参加でスタートしたが、今では数店を残すのみ。

最近になって市外で出店する際の「共通秋田かやき」を決めたが、定食屋から民族料理店まで「一人鍋」というキーワードだけではじめた、統一性に欠けるとりとめもない企画だったから、最初から失敗は目に見えていた。なかには「B級」とはとてもいえない高級食材を使った高価な鍋もあった。

最初に「町おこし・飲食業界活性化」ありきの「ご当地グルメ」を成功させるのは難しく、まず長続きしない。B1グランプリに輝き、全国的に名を広めた「横手焼きそば」は「町おこし」として“造られたブーム”ではなく、50年以上の間、市民に親しまれてきた歴史に支えられて、すでに定着していた食文化であり、昔は駄菓子屋でも出されていた安価なおやつでもあったのだから「B級」の名にもふさわしい。

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まんぷく食堂について

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定食屋 清美食堂 - 楽天ブログ(Blog)

秋田県秋田市のご当地B級グルメ一人鍋|秋田かやき

横手やきそば暖簾会
【ご当地B級グルメお取り寄せ】横手焼きそば通販の『林泉堂』

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僕らの奇妙な宇宙船・金照寺山に謎の塔


2007.04

数年前の春先、金照寺山の「三十三観音」が並ぶ山道を歩いていたとき、民家裏手の笹藪のなかに建つ、奇妙なカタチをした物体に目が釘付けになった。その瞬間、この場所で遊んだ遠い日の記憶が少しずつ蘇りはじめた。

今は薄汚れて頭頂の金属部分は朽ち果て、内部のコンクリート骨格があらわになっているが、かつては白いドームと金色に輝くアンテナを備えて、山間の空き地に場違いのように存在した奇妙な物体を僕らは「宇宙船」と呼び、「四時までに宇宙船前に集合」などと、この地のランドマークにしていた。それが建立されたのは昭和29年(1954)のこと。


金照寺山に仏舎利塔
平和の願いをこめて
仏教代表迎え奉安地鎮祭行わる


仏教を通じて世界平和を!とインド、セイロンの仏教代表団は秋田市に贈る仏舎利(おしゃか様のお骨)を捧持して五月十五日来秋、十六日市役所訪問ののち午後一時から金照寺山で奉納式典が厳かに行われた。
仏舎利奉安地鎮祭は宝塔前に祭だんがもうけられ、各地から参加した二百余名の信者の声高らかに読経の中にデパプリヤ氏(インド代表)から藤井日達氏(日本代表)を通じて藤田渓山氏(土崎)に仏舎利が渡され安置された。
続いてインド・セイロン代表の読経、日本側の奉請の後知事代理、市長の平和を願う祝詞がのべられて三時半地鎮祭を終了した。
なおこれを機会に仏舎利塔を金照寺山に建て仏教信徒のメッカとして平和への願望を永久に伝えることになり、塔の高さは八十尺、直径二十間で工費は約一千万円とみられ、秋田仏舎利世話人会が具体案をねることになっている(写真は金照寺山の仮宝塔と祝辞のべる武塙市長)
『広報あきた』昭和29年6月『広報あきた』第60号より
記事にあるように、この仏舎利塔(宝塔)は仮設のものであり、いずれは高さ25メートルほどの本格的な大宝塔を山地内に建立する計画であった。昭和28年の『広報あきた』によれば、七つ森を大宝塔の建立地とする申請があり、秋田市公園審議会が現地調査した結果、市街の展望が妨げられることと頂上が狭いため、隣接した富士見台の市有地を候補地に選定したとある。

記事中に「各地から参加した二百余名の信者」とあるのは、大正時代に藤井日達(1885-1985)によって開かれた日蓮宗系の新興教団「日本山妙法寺」の出家修行者であり、「秋田仏舎利世話人会」は、金照寺山の八幡坂を登った場所に堂宇がある「日本山妙法寺秋田道場」を本拠としていた。


日本山妙法寺秋田道場

妻帯せず、檀家も持たない日本山妙法寺の出家修行者たちは、平和行脚(あんぎゃ)と称するデモンストレーションを中心に活動、黄色の袈裟姿で団扇太鼓を叩きながら題目を唱えて歩き、そのスタイルで各地のデモ行進や座り込みにも参加する。左翼団体と行動を共にすることも多く、仏教左翼などともいわれている。

平和祈願のため日本国内外に「世界平和塔」と称する仏舎利塔を建立。成田空港建設反対運動に加わっていた昭和42年(1967)、新東京国際空港の滑走路建設予定地に「三里塚平和塔」を建てるが、後に「空港の軍事利用を行わない」との取極め書を交わし撤去。

近年の平和行脚活動を少し挙げると、沖縄の米空軍基地前で基地撤去を求めて座り込み、警察車両の通行を妨げたとして公務執行妨害の容疑で逮捕。自衛隊駐屯地や基地にスピーカーを向け、隊員に「別の職業に就きなさい」と連呼する。中国への謝罪行脚の際、抗日戦争記念館にて日本兵の侵略行為に対する謝罪の叩頭(ひざまずき頭で地面をたたく礼拝)を繰り返す。など、平和活動は結構だが、なんとも理解しがたい行動も少なくはない。

昭和40年代初頭、秋田市が泉字五庵山(通称・天徳寺山)の丘陵地に公営墓地「平和公園」を開設し、その中央広場に、世界の恒久平和を祈念した平和塔(大宝塔)を建設。それに先立つ地鎮祭には、日本山妙法寺の開祖・藤井日達も参加し、建設費として金10万円を寄贈。昭和42年9月、県民からの寄付金をもとに総工費 3.500万円、高さ25.2メートルの平和塔が完成する。


平和公園・平和塔 09.11

もともとは日本山妙法寺が単独、もしくは中心となって建立する計画であった世界平和塔(大宝塔)が、県民の寄付金をもとにした公共の平和塔に変更された要因に、過激化する日本山妙法寺の活動があり、それを懸念する意見や教団による建設に反対する声が挙がったのかもしれない。

見方を変えれば、新興教団のシンボルである平和塔を建設するための土地および資金を、秋田市がご丁寧にも調達して差し上げた結果ともいえる。いうまでもなく、平和塔建立のために浄罪を寄せた人々の大半は、その実態を知らなかったのだから、「平和」という甘い言葉で金を集めた詐欺行為といえなくもない。

日本山妙法寺の「各地の仏舎利塔」を紹介するサイトには、まるで自らの手で建立したかのように秋田の平和塔も掲載されている。

秋田 - 日本山妙法寺と藤井日達聖人:各地の佛舎利塔

平和を名目にして大金をつぎこんだ、このような大仰な宗教的建造物が、はたしてどれほどの意味を持ち、世の平和にむすびつくものだろうか。信者にとっては価値があるものなのだろうが、部外者から見れば、ナンセンス極まりない大いなる虚像である。

いずれにしろ、その建立に至る経緯を知ってしまうと、平和塔を目にするたびにどうしても日本山妙法寺の影がちらつき、不愉快な気持ちになってしまう。

今は金照寺山の笹藪に埋もれて朽ち果て、人々から忘れ去られた、僕らが「宇宙船」と呼でいた奇妙な物体こそ、秋田市街を見下ろす平和公園のシンボルとなっている、あの奇妙キテレツな平和塔の雛形であったのだ。

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日本山妙法寺大僧伽 - Wikipedia

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二〇世紀ひみつ基地 金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山


2010.06

金照寺山にニセアカシアの甘い香りが漂う初夏の頃、山道に点在する観音さんの石像が、ある日を境に真っ白なお札におおわれるのが、子ども心にとても不可思議だった。今でこそ巡礼者も少なく、お札の数は少ないが、当時は石像とセットで建てられた御詠歌の碑もろとも、白い衣装を着たかのように、観音さんは沢山のお札に埋めつくされていた。


2010.06

七つ森の登り口近くに建つ「四恩之碑」。隷書体の題字は土手長町で医院を開業していた書家・赤星藍城(あかぼしらんじょう)の揮毫。

「四恩」とは、衆生・三宝・父母・天皇(原典では国王)に対する“四つの恩”。人間はこの「四恩」を受けると説く“仏の教えを広めよう”との眼科医・堀氏の遺志を継ぎ、その婦人が昭和九年に建立した。

「四恩之碑」建立をきっかけとしてその後、妙覚寺住職を中心に、秋田市内で一月に行われる「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)の三十三観音が安置されている寺院住職らの発起により、金照寺山を三十三観音霊場とする計画が進められるが、不景気な時代だけに建立資金を集めるのに苦労したという。


2007.04




2007.04

三十三観音像のうち約半数が建立された昭和十一年六月、観音さんの縁日にあたる十八日に第一回の巡礼が行われた。
郊外金照寺山の観音初順礼
     善男善女に賑はふ

金照寺山の観音初順礼は十八日うす曇りの空の下に約五千人の善男善女をあつめ盛大に行われた。朝から梅雨をふくんだ曇天であったが市内、近郷町村から参詣にあつまった善女人の数夥しく金照寺山はどこもかしこも大賑ひ、午前十時より市内寺院住職により厳かに読経あり、完成仏体の開眼式をあげ、補陀寺住職導師のもとに三十数名の衆僧により読経、山の周囲から御詠歌の声が流れ、いたるところ香煙たちのぼっている。参道から七つ森下には腰掛け茶屋が立ちならび、又、高井農園のいちご畑には数百人を入れて非常なる賑やかさ、かくして、金照寺山は新霊場地としての名実全くととのへ、午後からも続々と参詣人があった。
昭和十一年六月十九日『秋田魁新報』より
三十三体が揃った翌昭和十二年六月十八日、曹洞宗大本山総持寺貫首・伊藤道海禅師を招請し、四恩碑前にて完成供養の大法要を営む。
‥‥前略‥‥この日午前十時より三十三観音各札番より選ばれた稚児の巡礼により数千人の善男善女がその後につゞき御詠歌を誦し同山一体はさながら人波を描き出し道路も車馬通行止めの雑踏ぶり、‥‥後略‥‥
昭和十二年六月十九日『秋田魁新報』より



2010.06

厳冬の一月十六日未明から翌朝にかけて秋田市内の寺院を巡る「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)は、平安時代後期に成立し、江戸時代に庶民のあいだで爆発的に流行した「西国三十三番札所巡礼」を縮小コピーしたバーチャル巡礼であったが、「金照寺山三十三観音巡礼」は、それをさらに縮小化したミニ巡礼。当時の一月十六日の札打ちと同じく、金照寺山でも参拝者を目当てにした、腰掛け茶屋など飲食の屋台も並んで客をもてなした。

ときには吹雪舞う厳冬の暗夜、20キロ以上の道のりをひたすら歩きつづける(今は歩く人はいないが)札打ち(久保田三十三番札所巡礼)にくらべ、足腰の弱った老人や婦人にも気軽に巡礼ができることもあって、当時の新聞記事が語るように、金照寺山の三十三観音は多くの参拝者をあつめる人気の巡礼スポットであった。

秋田市における現在の「札打ち」は、主に死者の冥福を祈る追善行事であり、打つ(貼る)札(ふだ)に近親者の戒名を書くのが通例になっているが、本来の札所巡礼は巡礼者が観音菩薩との結縁(けちえん)を願い、木製の奉納札を堂宇に打ち付けたことに由来する。


天保十一年『西国順礼道中細見大全』より

上図のような奉納札に、参拝年月日、同行者の人数、国名(住所)、氏名、祈願などを記した木札を堂宇に打ち付ける。その風習は貴重な建造物を傷めるため、のちには紙札に取って代わり、現在は箱に納めるようになった。

「西国三十三番札所巡礼」をモデルにした「久保田三十三番札所巡礼」、さらにそれをミニチュア化して、一日に数千人を集めた「金照寺山三十三観音巡礼」の初期においても同様な意味合いの巡礼が行われたものだろう。それがいつの間にか「死者の追善供養」に限定されるようになるのだが、それは意外に最近のことなのかもしれない。

「観世音菩薩」の「観世音」とは「世の音(衆生の声・願い)をよく観る」ということ。慈しみに満ちあふれる寛大な心で、苦しむ者が祈りを捧げれば、時に応じて三十三の姿に変身して救いの手を差し伸べ、苦難除去・病気平癒・子授け・願望成就・開運授福などの現世利益をもたらし、霊魂の成仏・罪障消滅・極楽往生を約束するという、なんでも揃う仏像界のデパートのようなありがたい存在。

そんな観音さまは当然に庶民の人気(信仰)をあつめ、三十三体の観音像を巡る「三十三番札所巡礼」に参拝すると、現世で犯した罪業がことごとく消滅し、極楽往生をとげることができるとされ、江戸時代に大ブームとなる。それは信仰心と遊び(行楽)が織りなす「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」という物見遊山の旅でもあった。

巡礼のための大量のガイドブックや御詠歌集が出版され、やがてそのブームは全国に広がり、各地に「三十三番札所」が誕生。秋田では「久保田三十三番札所巡礼」のほかに、県内全域に広がる「秋田六郡三十三観音巡礼」があるが、こちらの成立年代は長久年間(1040-1044)と古く、その後七百年余のあいだ途絶え、巡礼がブームとなった江戸中期に復活したもの。


『西国三十三所御詠歌』より




2007.04



保戸野鉄砲町の石工・三浦善一氏が「四恩之碑」の聖観音を手始めに、金照寺山三十三観音像のうち十五体を彫刻。昭和五十三年に秋田市の「技能功労者」に選ばれた名工だけに、見る者の心がほころぶ、作者の人柄がうかがえる、やさしいお顔の観音さんが多い、

建立者は資産家の婦人などの個人、各寺院の檀家有志、観音講などのグループ。著名な建立者を少し挙げると、本間金之助(本金)夫人、河村周吉(河周)婦人、笊町の花巻家、大堰端の湊家など。女性名が多いのは、金照寺山三十三観音の信仰が婦人を主体として行われたことのあかしだ。

建立から七十年以上の時を経て石像の風化が進み、宅地の造成などにより何体かは移動。誰かが持ち去ったのか、行方不明となっている石像も数体ある。


八番欠番・土台石だけが転がっている 2010.09


番外「善光寺」2010.09

三十三番目の観音像の近く、七つ森へ向かう自動車道に沿った民家の庭に、番外の「善光寺」阿弥陀如来の石像がある。阿弥陀さんを中心にして両脇に観音菩薩と勢至菩薩を配した立像は昭和十二年の建立で、裏に那波家をはじめとして十数名の建立者名が刻まれて、その隣には観音像と同じく御詠歌の碑が建つ。

三十三番の近くにあるということは、「三十三観音巡礼」を終えたあと、参詣者たちはこの阿弥陀如来像に立ち寄り、バーチャル「善光寺詣り」で巡礼を締めくくり、清々しい心持ちで家路についたものだろう。

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永泉寺公式ホームページ 『秋田三十三観音』

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大町二丁目交差点・二丁目小路変遷



昭和七年頃の二丁目小路(現・山王大通り)と大町通りが交わる地点。カメラマンは大町二丁目に立ち三丁目方向にレンズを向けている。

左手に「木内雑貨店」大町支店。この場所に木内の支店があったのは、昭和六年頃から二十年前後にかけての短期間。その裏(南側)に木像三階建ての「三浦旅館」が建つ。

左端の電柱に「大町停留所」の文字。昭和六年、秋田駅前~大町二丁目間に路面電車開通。当時はまだ市電ではなく、土建屋の栗原源蔵が経営する秋田電車株式会社が運営していた。



パラソルが飾られたショーウインドー、タバコ看板、「井筒ポマード」の電柱広告。「三浦旅館」の南隣に、味噌醤油醸造元「田中屋」の切妻屋根と、現在は県立博物館に所蔵されている名物看板がみえる。

右手に目をうつすと、秋田に於ける初期鉄筋コンクリート建築「山口銀行秋田支店」。電柱の建つ交差点の手前(北側)に「三光堂書店」の一部らしきものがわずかにみえる。大町通りをはさんだその左手(東側)、自転車に乗る人物が写る区画はご覧のように道幅が広い。

戦後は「二丁目橋通り」とも呼ばれた二丁目小路はもともと、隣接する一丁目小路や三丁目小路(すずらん通り)と同じ、幅6メートルほどの小路であった。大正末期、二丁目橋から「勧業銀行秋田支店」前までの道路を約12メートルに拡幅。


秋田市街図・昭和三年頃 マーキングが撮影地点

交差点以西は従来の道幅で、上掲市街図のように西端の寺町で行き止まりだったが、昭和十年、當福寺境内を貫通して新国道に結ぶ新道路(県道秋田停車場線)が開通。このときの延長工事で二丁目小路の道幅が約12メートルに統一されたと思われるが定かではない。同十年、牛島町から茨島・川口町を経て、田園の中を保戸野表鉄砲町の旧国道(羽州街道)に至る新国道が開通、昭和十七年には表鉄砲町・土崎間が開通する。


二丁目小路開通改葬供養(昭和10年)『當福寺小史』より

道路用地となった當福寺境内の墓は北側に移転改葬。新道の完工後、路上で供養の儀式が執りおこなわれた。撮影地点は當福寺の裏手あたり、道路には砂利が敷き固められているようだ。今はビルが建ちならぶ界隈には画像のように田圃が広がっていた。

昭和四十三年、市内の交通渋滞緩和を目的に、二丁目小路(二丁目橋・山王十字路間)を36メートルに拡幅する工事が始まる。山王十字路から ABS 秋田放送前に至る八橋中央線は、さかのぼる二十七年にすでに現在の幅員で完工していた。

昭和四十六年に完工した秋田駅八橋線(通称・山王大通り)の拡幅工事により取り壊された北側の六十七戸のうち「勧業銀行秋田支店」は二丁目橋の東側に、「三光堂書店」は中央通りに移転。


山王大通り・當福寺前 2008.05

拡幅工事のために取り壊された建物は二丁目小路の北側のみで、南側はそのまま。戦前・戦中は「木内雑貨店」大町支店、戦後は「野口時計店」があった東西に細長い土地には今、一階に日焼けサロン、四階に「Live Space 四階」がある「サンケン北日本ビル」。「三浦旅館」跡は「升屋(那波)駐車場」。醤油の「田中屋」跡地が「協働大町ピル」。「山口銀行秋田支店」跡が「三田商店秋田支店」(旧・三田火薬銃砲店)となっている。


10.06 日銀秋田支店前交差点


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二〇世紀ひみつ基地 大町通りを俯瞰する(其二)・戦前風景

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楢山「石敢當」多発ストリート

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その八

楢山の築山小学校旧校門(現グランド)から西に進み、登町に突き当たる通りは、四基の石敢當(いしがんとう)が集中する石敢當多発ストリート。

まずは東から、前回、シリーズその七「医王院前町の石敢當・ブロック塀と一心同体」で紹介した物件。



所在地・楢山本町(旧楢山医王院前町)
表記・敢當石  高さ・約31cm
撮影・2006.07


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次に、その西隣、かき氷と大福餅の名店「斎藤もちや」のある小路を南進した突き当たり、屋敷の跡地に建つアパートの前にある石敢當。



所在地・楢山本町(旧楢山末無町)
表記・石敢當  高さ・約36cm
撮影・2010.05

隷書体で刻まれた「石」の「口」の上に「一」が追加されている。石敢當の「石」の「口」の上に「点(、)」が打たれている物件をよく見かけるが、これは単なる「飾り」で、さして深い意味はないようだ。


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次は聖霊学園前を南下した楢山広小路を突き当たった地点に建つ、新しい石敢當。



所在地・楢山南中町(旧楢山笊町)
表記・石敢當  高さ・約23cm
撮影・2005.03

沖縄旅行で見た石敢當に感化されて設置した、平成初頭生まれの物件。

ここを南に曲がると笊町(ざるまち)通り。藩政時代、この一帯は足軽の居住地。貧しい武士であった足軽たちが内職でザルを造っていたことから生まれた町名で、明治末期まで二軒のザル屋が残っていたらしく、笊町から牛島橋通りに移転した竹細工屋が戦後も残っていた。


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最西端の四番目は楢山登町の曲がり角にある物件。左上部分が少し欠けている。



所在地・楢山登町
表記・敢當石  高さ・約21m
撮影・2005.03


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旭川の東側、武家町であった内町(うちまち)には丁字路が多く、十字路は少なく、交差点が少しずれて配置されている。これは外敵の侵入に備えたもので、敵の視界をさえぎり前進スピードを鈍らせる効果がある。

界隈の地理に不案内な人は、複雑で分かりづらい道筋だというが、外敵を迷わせるために設計した、城下町に特有の街並なのだからそれも当然。



そのような要害としての城下町の特徴を良く残しているのが、四件の石敢當が集中するこのストリート。上掲地図のマーキングように、南北に延びる小路のほとんどが十字路で交叉せず、少しずらした“かぎ形”に配置され、その突き当たりに石敢當が建立されている。丁字路の多さ、それが内町に石敢當が多いことのひとつの要因である。

それに対して職人と商人が住んだ、旭川をはさんだ西側の外町(とまち)、現在の大町界隈は、物流をスムーズにするため、道路が碁盤の目のように配置され、突き当たりや袋小路が少ない。

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