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歴史遺産「旧秋田感恩講土蔵群」を見る


●今、再びあらわになった歴史的土蔵建築



2004.03 「新政酒造」貯蔵タンク前


2010.08 「新政酒造」貯蔵タンク前

大町六丁目に立つ「新政酒造」貯蔵タンクのうち、北側の二本が撤去され、その裏側に隠れていた土蔵の全貌が久々にあらわになった。


2010.08 手前にタンクの痕跡

この土蔵は北隣の街区公園の地に江戸後期に創設された、窮民・孤児らに救いの手をさしのべ、水害・火災・凶作などの天災に際して被害者を救済しつづけた、日本における福祉 NPO(非営利民間組織)のさきがけと称される「秋田感恩講」が、天保年間に建造した、救済のための備蓄米を貯蔵していた倉庫。昭和三十七年の住宅地図にはまだ「秋田感恩講」と記されているこの土蔵を「新政酒造」が譲り受けて今に至る。

本町六丁目の火除け地に、工費一万貫文(かんもん)の予算で倉庫二棟の建築に着手。建設にあたって、藩から土地・瓦・門・柵などの寄贈を受け、町民有志の献金、木材、石材の寄付、老若男女の労力奉仕などを受けたため、予算の半額で天保二年(1831)に落成。当倉庫に備蓄された米が、のべ数百万人の命を繋いだ。


秋田感恩講・籾貯蔵倉庫(西倉) 大正14年『感恩講誌』より

永い年月の間、壁の塗り替えや屋根の葺き替え、補強を繰り返し、切妻の壁にみえる「感恩講」の文字は売却後に消され、腰回りに張りめぐらされていた黒い腰板も今は無いが、基本構造は創建時のままと思われる。

籾米の貯蔵といっても、米俵が積まれていたわけではない。内部には“田の字型”に仕切られた大きな籾櫃(もみびつ・籾を貯蔵する容器)が三つ、土間に埋められており(落とし込み式)、まず下層に籾米を入れ、その上を覆うように、厚く籾殻が積まれていたという。この貯蔵法は鼠の被害から籾米を守り、土中であることから低温で長期保存するために非常に有効であった。


施物運搬・平福百穂筆
明治三十八年『感恩講図巻 ALBUM DE L'ASSOCIATI0N "KAN-ON-KO"』より

倉庫から施し物を運び出した橇は鍛治町方向へ進行中。

この土蔵の裏(東側)に連なる、現「新政酒造」の土蔵も、おなじく旧「秋田感恩講」の倉庫。


2010.08 旧感恩講倉庫(東倉)

壁から伸びて屋根を支える鉄製もしくは木製の方杖(支柱)は、雪国秋田の土蔵建築に特徴的な耐雪手法。

天保二年に竣工した二棟の倉庫について、『感恩講誌』に「東倉ハ梁間四間桁間八間西倉ハ梁間三間半桁間十二間ナリ」とある。「梁間」は間口、「桁間」は奥行きを表すが、この記事に反して現状では西倉よりも東倉の方が奥行きがある。東倉には屋根の段差がみられることから、最初に建てた土蔵(東倉)が手狭になり、さらに東側にもう一棟を増築し、売却後に連結されたものだろう。


2010.08 旧感恩講倉庫(東倉)連結部分

白壁の中ほどを横切る突起ラインがとぎれている部分が二つの土蔵を連結した個所。この突起ラインの意味については後述する。

昔の空中写真を見ると二つの土蔵は分離しており、鳥瞰すれば今でも連結される前からの二つの屋根を確認することができる。


2006



ブルーマーキング部分が旧「秋田感恩講」敷地、白い部分が現存する旧感恩講土蔵群。


「秋田感恩講」事務所 大正14年『感恩講誌』より

昭和五十一年まで残っていた事務所と土蔵。昭和五十二年、その跡地に街区公園開園。


2010.08 感恩講街区公園(感恩講跡地)


2009.11 感恩講跡地

突き当たりに感恩講街区公園。左手の石垣の上にも土蔵が存在した。ここから川反へ抜ける小路は、感恩講の土蔵が東西に連なる、言うなれば「感恩講小路」であった。


2010.08 旧感恩講土蔵

窓枠の両側に伸びる突起ラインの下、窓枠を除く部分の腰回りに、墨を塗るなどの防水加工を施した黒い腰板を張りめぐらせていた。土蔵の漆喰は水に弱く傷みやすいため、雨水の跳ねっ返りや積雪から壁を守るために腰板をめぐらせる。そのため豪雪地帯では軒下まで腰板で覆っている土蔵がみられる。

かつてはその下を腰板が覆っていた、壁を横切る突起ラインを近くで見ると、若干のカーブを描く庇(ひさし)状になっている。これは雨水が腰板の裏に回り込まないように工夫した「水切」とよばれるもの。


2010.08 旧感恩講土蔵・水切

腰板の黒と漆喰の白がコントラストをみせていた土蔵も、いまでは下半身を裸にされ、なんだかしまりがない。



2010.08 川反側から旧感恩講土蔵


2010.08 那波紙店倉庫の腰板

災害や飢饉に備えて籾米を貯蔵した倉庫を「義倉」(ぎそう)または「社倉」という。旧「秋田感恩講」土蔵群は国内に現存する数少ない「義倉」のなかでも規模が大きく、それに加えて、“残された感恩講遺構”としても、保存する価値のある重要物件といえる。


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追記

関連リンクを貼るために、新政酒造のオフィシャルサイトをのぞいたら、専務さんのブログに貯蔵タンクの撤去と旧感恩講の土蔵のことが語られていた。(下記関連リンク参照)現在使われていないその土蔵(西倉)の用途について「公共的な使い方、文化的な用途」も含めて検討しているとのこと。

是非とも無理のない範囲で実現させ、秋田の歴史的遺産である土蔵群を保存・継承する契機としていただきたいものだ。手始めに感恩講時代の外観を復元したらどうだろう。しかし、酒蔵として土蔵を維持しつづけるのもまた、文化的意義のある“活用方法”なのだとも思う。

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関連リンク

感恩講(かんのんこう)|蔵元駄文
新政酒造株式会社オフィシャルサイト

義倉 - Wikipedia
西尾市の文化財 義倉蔵 - 西尾市役所
四国村土佐三崎の義倉 文化遺産オンライン
ひろしま文化大百科 - 福田の社倉
広島県の文化財 - 下筒賀の社倉


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踊るあやたん蔵出し画像&あやたん時計


05.09


05.09

ハードディスクを整理していたらこんな写真が出てきた。

サンパティオ大町の中庭を会場に、土曜日のたそがれどきに始まるトワイライトリレーコンサートの一コマ。

リレーコンサートの最終日にあたる 2005年9月10日、午後7時過ぎ、水玉模様の衣装で華麗にフラメンコを舞う、妙なオーラを放つ女性に目が惹きつけられたが、それが当時 ABS 秋田放送に在籍していた伊藤綾子アナだとは、彼女がフラメンコを趣味としていることをまだ知らなかったので、その場では不覚にも気がつかなかった。

学生時代に習い始めたというスパニッシュダンス歴は長く、昨年(2009)は フラメンコの DVD をリリース。

今春(2010)から「伊藤綾子時計 ~Ayako Ito Clock~」という、あやたんヲタが喜びそうな iPhone 用アプリを配信中。





そんな彼女も早いもので三十路直前、もうすぐフリーになって三周年を迎える。

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関連リンク

[女神のOffトーク]伊藤綾子、靴底減りまくる秋田美人:芸能:スポーツ報知

iTunes App Store: iPhone、iPod touch、iPad 対応 伊藤綾子時計 ~Ayako Ito Clock~

キャスターブログ |日テレ news every.-「ミンナが、生きやすく」-

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路上に白き足跡・足型ストップマークの謎



十数年前の竿燈期間中の夕方、寺町の家々の玄関前に点々とマーキングされた足型マークを指差した観光客から、「このマークは竿燈の立ち位置ですか?」と質問された。「これは子どもの飛び出しを注意するマークです」と答えると、その夫婦づれは「ほう、そうなんですか、はじめて見ました」と、えらく感心していたのだが、日頃あたりまえのように目にしていて、どこでも見られると思っていた路上物件だから、むしろこちらのほうがその反応に感心してしまった。

秋田市の場合、家の出入り口にマーキングされていることが多いが、全国的にみれば、通学路の交差点、横断歩道前、幼稚園や小学校の出入り口などに多く、秋田のように町内会単位で家庭ごとにマーキングする例は少ないようだ。

画像を検索すると、ステッカータイプ、味わい深い手描きのもの、裸足型、肉球型など、そのバリエーションも多彩、なかには“杖を突く腰の曲がって亀”が描かれた高齢者用まであって面白い。



1974年3月の『広報あきた』に
◇ストップマーク作戦
子どものとび出し事故を防止するには、いつでもどこでも一時止まって、安全を確認してから動く習慣を身につけさせることが必要です。そのひとつの方法として「ストップマーク作戦」があります。これは各家庭の敷地内に、白色ペイントで路面に足形と停止線を表示し、子どもたちには道路に出る前、ストップマークで一時立ち止まらせるようにするものです。ベニヤ板などで足形を切り抜いた模型を作り、町内単位で表示をすると効果があります。
とある。これが足型ストップマークに関するいちばん古い記事。

自家用車が急増し、交通戦争といわれるほど交通事故が多発した1960年代末から70年代初頭のころ、どこかで考案されたストップマークが、口コミで全国に広がったものなのではないだろうか。だから統一した規格があるわけでなく、各地で形態が異なり、実施する団体もさまざまで、まったく存在しない地方もあるのだろう。

秋田市のように町内会単位で自主的に「ストップマーク作戦」が実施された場合、町内の児童数にも関係することなのだろうが、熱心に作戦に取り組んだ地区に足型マークが集中し、反して作戦に無関心だった地区にはまったく見られないという、分布のかたよりが生ずるわけである。



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関連リンク

路上足型研究所
本邦唯一の路上足型専門サイト

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二〇世紀版「金照寺山」案内記


太平川より百石橋と金照寺山を望む 05.05

●金照寺山縁起

金照寺山は楢の木が多く、一時期は楢の伐採地でもあったことから、古くは「楢山」と呼ばれていた。この「楢山」を起源とする地名「楢山村」は天正十九年(1591)の文書にその名が残るほどの古い地名。

慶長七年(1602)、八幡坂の北側平地のあたりに、佐竹氏の転封にともない常陸から「天徳寺」(佐竹家菩提寺)が移される。以降「楢山」は「天徳寺山」と呼ばれるようになるが、寛永元年(1624)「天徳寺」は総門を残して全焼、その後現在の泉へ移転再建される。

明暦年間(1655-7)、焼失した「天徳寺」跡地に角館から真言宗「金照寺」を移し、佐竹氏の祈願所としたことにちなみ今度は「金照寺山」の名が付けられた。この「金照寺」も明治元年(1868)の火災により焼失、その後、神仏分離で廃寺に。「金照寺」の住職が祭主を務めていたのが「愛宕神社」。現在の「金照寺」は楢山三枚橋にあった末寺の正覚院を、「金照寺」の名を惜しみ、昭和になって移転改称したものという。


金照寺境内 08.05

明治末期、「金照寺山」を公園として整備する計画を時の県知事が推進、千秋公園を設計した公園設計のパイオニア・長岡安平に設計を依頼するが、さまざまな障害がかさなり結局計画は頓挫。長岡の手による「金照寺山公園」設計図がどこかに保存されているはず。


●封鎖されたもうひとつの一つ森

「金照寺山」といえば「一つ森公園」の通称でおなじみの、金照寺山東部公園を連想する人が多いと思うが、昭和61年に「一つ森公園」が開園する以前は、奥羽本線の西側が中心地で、東側は「裏山」や「向かい山」と呼ばれた未開の地であった。

そのころ「一つ森」の名で親しまれていたのは、冒頭の画像に見える電波塔のある標高39メートルの台地。太平川を眼下に市街地、遠く男鹿半島を一望におさめる見晴らしの良い丘だったが、昭和50年、国鉄が「一つ森」にマイクロ回線用の電波塔と無線中継所を建設、周囲は金網で囲まれ、想い出の場所は永久に封鎖されてしまう。

丘の中央に盛り土がひとつあったことから「一つ森(盛)」と名付けられたようだが、その墳丘状の盛り土が古墳の可能性があったため、中継所の工事を前にして発掘調査を実施。その結果、建物の形跡が見つかったほか、数枚の寛永通宝、江戸期の陶器の破片などが発掘され、人工的な地形であることが確認されたものの、古墳をしめす証拠は発見されなかった。


ソフトバンクテレコム(株)金照寺無線中継所 10.06


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●金照寺山頂上・七つ森


七つ森より太平山を望む 10.06

古くから五月の節句には、市街に点在する鯉のぼりを眺めながら宴を開く人々でにぎわった、標高56メートルの「金照寺山」頂上「七つ森」。山伏(修験者)の墓と伝えられる「七つの盛り土」があることから「七つ盛り」=「七つ森」と呼ばれ、古い資料には「山伏塚」の名がみえる。


七つ森 10.06

南方から西方にかけての眺望がとくに良く、放課後や休日には子どもらの声が響き、四季を問わずにぎわいをみせていた「七つ森」界隈も、裏山に「一つ森公園」が開園したことも影響して、今では休日でも人影もない。周囲には住宅もずいぶん増えて、繁茂した木々が眺望を妨げ、市民の散策地として親しまれた昔の面影はない。


七つ森 昭和40年代中期


七つ森 昭和40年代中期


七つ森 昭和40年代中期


七つ森・なべっこ遠足(築山小学校) 昭和30年代


七つ森より裏山を望む 昭和40年代中期

カップルの向こうの白い崖が、奥羽線(明治35年開通)の工事により削られた裏山(現・一つ森公園)の岩肌。


秋田駅より金照寺山を望む 10.07

左(東)が一つ森公園のある裏山、奥羽線をはさんだ右(西)に「七つ森」がある。もともと連続したひとつの山だったが、奥羽線の開通で分断され現在の山容になった。


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●富士見台・大平のスキー場・城南中学校


富士見台・登り口の三十三番観音 10.06


富士見台・三十三番観音 07.04

「七つ森」の南側の丘を「富士見台」というのは、出羽富士(鳥海山)がよく見えたことからの命名だろう。

「富士見台」の南が「大平」(おおひら)。夏は芝生の原、冬はA級スキー場として人をあつめたこの丘をならして、昭和41年、上北手中・仁井田中・四ッ小屋中の三校を統合した城南中学校創立。

「富士見台」にある札打ちの三十三番観音像(十一体)のうちの何体かは、もともと大平(おおひら)にあって、校舎の造成のために移設したもの。開校して間もなく、四十代の教員が死亡、病魔に冒される教員もあいつぎ、学校を建設した業者が倒産と、不可解な不幸がかさなるのは、観音様を移動した祟りではないかと噂されたという。しかし、昭和10年代に建立された観音像の移動がこの現象の原因とはとても考えられない。

もしかして大平(おおひら)の丘は、七つ森のように古代の塚・墳墓のたぐいだったのではないだろうか。造成中に遺跡が発見された場合、法律上、工事を一旦止めて調査しなければならないが、竣工の遅れを嫌って届け出を怠ったり、無かったことにして事を進め、記録に残らない遺跡は数知れない。

父親の転勤で秋田に来て、城南中に通っていたタレントの「山瀬まみ」は、慣れない雪国での生活を、なにかの番組でおもしろおかしく語っていた。地吹雪舞う田圃道を歩きつづけ、やっと到着した丘の上の学校につづく坂道は、テカテカに凍結して登ることがままならず、冬の登校にはとにかく苦労したらしい。彼女のお父さんはその当時、森永製菓の社員で、広小路にあったマルサン内の森永レストランに勤務していたらしく、現在は湘南平塚でレストラン&バーを営んでいる。


富士見台より城南中学校を望む 昭和44年

現在は手前の旧グランドの場所に新校舎が建つ。


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●金照寺山南部の変遷


金照寺山南部 1962(昭和37年)

山のふもとおよび大平(おおひら)の西側の谷間・熊沢は一面の田圃。金照寺山を越え裏山(現・一つ森公園)へと向かう踏切を渡るとキリスト教墓地。奥羽線はまだ単線。


金照寺山南部 1975(昭和50年)

昭和41年、大平(おおひら)に城南中学校創立。
昭和46年、楢山城南新町に秋田運転区(現・秋田車両センター)開業。
昭和50年8月、奥羽線・四ツ小屋~秋田間複線化、裏山(現・一つ森公園)へ向かう踏切は跨線橋に。
田圃は次第に宅地化が進み、熊沢にも住宅が建ち始めた。


金照寺山南部 2006(平成18年)

平成4年、城南中学校新校舎落成。一面の田圃だった南部は完全に住宅街と変貌。岩取り場の上など、金照寺山も宅地化が進んでいる。熊沢も同様で、その奥にあった底無し沼も埋め立てられて宅地に。その上の傾斜地はかつて高井南茄園の農園だったが、この界隈のことはいずれまた。


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井戸替えの水神さまと七夕と


新屋の湧水

かつては五百カ所を越える共同湧水と井戸が存在したという秋田市新屋の湧水。その湧水もいまは数えるほどで、飲料に適した水も少なくなった。

月遅れの七夕である八月七日は「井戸替え」の日。この日は井戸や湧水の水を抜き、きれいに掃除したあと、新屋日吉神社の神官が新調した「水神御幣」を水口に祀(まつ)り、一年のあいだ水が涸れることのないようにと水神さまに祈願した。


新屋の水神御幣


新屋の水神御幣

「井戸浚(さら)え」とも称した「井戸替え」は、水による禊祓(みそぎ・はらえ)にまつわる、盂蘭盆ともつながる七夕行事のひとつで、新屋の「水神御幣」に使われる五色の紙は、七夕に願い事をしたためて笹竹に飾り、翌日の早朝に穢(けが)れとともに川に流す「五色の短冊」に通じる。

土崎港で旧暦七月七日に行われた、大正時代の七夕のようすを伝える記事がある。
井戸さらえを一般に行われ、又桐の葉に七夕、天の川と書して河流に泛(うか)べ、婦人は早暁河水で髪を洗う習慣もあるため、雄物川畔は大した賑かさを呈したりき
大正六年『秋田魁新報』より
このように、年に一度井戸を清掃する「井戸さらえ」つまり「井戸替え」は七夕の行事として一般に定着していた。五色の短冊のかわりに、桐の葉に文字を書いて川に流すのが面白い。婦人が川で髪を洗うのは禊祓(みそぎ・はらえ)であり、男たちは川水を浴びて身を清めたものだろう。

昭和に入って新屋に新河口が開かれて以降、往時は七夕の行事で賑わいをみせた、土崎港に注ぐ雄物川旧河口は大きく姿を変えた。

月遅れの七夕が行われる八月は稲の成長期であり、その生長に欠かせない降雨を願う「水神祭」が執り行われた時期ともかさなり、「七夕の日は雨が降る」または「七夕の日に雨が降ると良い」「七夕の日に雨が降ると疫病が発生しない」などと言い伝えられてきた。

中国の伝説では、天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に一度のランデブーをする日として、アジア各地では七夕に雨の降ることを嫌うが、日本においては、七夕の雨は穢(けが)れを祓(はら)い、農作物や稲を育てる恵みの水として歓迎されてきた。

日本の七夕行事は、大陸から「星祭」としての七夕(しちせき)の風習が伝わり、それが民間に浸透する以前の、農耕儀礼的な「水神祭」の旧態を色濃く残している。

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ウインクする仏陀・街角の顔


10.07

眉間に白毫あり

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竿燈まつり点描・平成二十二年度











35℃の猛暑を記録した8月6日はヒロシマ原爆記念日、県民会館の国旗も半旗に。
































戻り竿燈(町内竿燈)川反

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四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃


勝平得之『四丁目橋夕景』昭和初期

空の青さと夕陽の赤紫色が共演する夕刻のひととき、写真用語でいうマジックタイムの、土手長町通りから見た四丁目橋界隈。

紺色に染まる光景のなか、人力車が客待ちする橋のたもとの建物から長く伸びる電灯の陰を、人影と重ねて描く演出が印象的。得之の初期作品に特有の、ジオラマのなかの風景のような、どこかノスタルジアを感じさせる版画作品である。

橋の向こう、川反五丁目の角に建つ半円アーチ窓を連ねた復興式の洋風建築は、大正十四年落成の菓子店「開運堂」。二階に喫茶室を併設したモダンな店舗である。


開運堂 大正14年

大正二年には、秋田に初登場という金銭登録機(レジスター)を設置。菓子業界では秋田初の蒸気汽罐(ボイラー)を工場に導入したりと、「開運堂」主人はハイカラ好みの人だったようだ。

同社の公式サイトに「弊堂は、その川反四丁目橋角に、天保十年(1839)創業・・・」とあるが、当時の川反は片側町で、旭川側は物資の荷揚げ場で家屋はなかったはず。別の資料には、明治五年に下肴町で開業、同十年に三丁目小路の東北角に移転、この地で俵屋火事(明治19)に遭い、川反四丁目橋角に移転、とある。明治五年に菓子屋に転業したのかもしれないが、いずれにしろ川反に店舗を構えたのは明治以降のことに違いない。



明治40年 書籍広告

川反側から見た明治期の店舗。左手に曲がれば四丁目橋、右手が川反通り。

明治三十五年の取扱商品は「蕗漬け」「滋養ビスケット」「食パン」「のし林檎」「滋養飴」など。今の店名「翁屋開運堂」は、上掲広告文にある代表銘菓「翁糖」から命名されたようで、以前に店頭で見た記憶があるが、今は(2010.07)は同店の公式サイトにもその名はない。

後継者が絶えた「開運堂」は「株式会社かおる堂」グループの経営となり、昭和五十四年、同地に「川反八番館ビル」を建設、しばらく一階で営業をつづけた後、楢山登町の現在地に移転する。


四丁目橋夕景 10.07


川反五丁目「川反八番館ビル」 10.07

旧「開運堂」店舗は今、外装のホーロー看板と、昭和20~30年代のレプリカ映画ポスターが目を惹く、昭和レトロ居酒屋「半兵ヱ」川反店。


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四丁目橋界隈

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