二〇世紀ひみつ基地

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2010年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年07月

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ドトリバ踏切のひみつ・金照寺山麓


金照寺境内 08.05

嘉永四年(1627)の「八百萬神(やおよろずのかみ)祈願碑」が入口に建つ金照寺境内は、六月の愛宕神社例祭の露店が並んだ想い出深き場所。境内を分岐する Y字路の左手を進み、信号のない踏切(現在は封鎖)を渡った山麓に愛宕神社が鎮座する。 右手の小道が古くからの登山口。もうひとつの登山口、旧「金照閣」前の温泉坂は昭和初期に造成された新道である。

登山口に歩を進めると、間もなく羽越本線「土取場(どとりば)踏切」にぶつかる。なにか心惹かれるドトリバという響き。


土取場踏切 08.05

「土取場」は文字通り、土砂や粘土を採取した「土取り場」を示す地名。金照寺山麓の場合は正式な地名ではないが、東北地方を中心に全国に数ヶ所「土取場」の地名が現存する。



土取場踏切のむこうに、昔は一帯が土取り場であったことを物語る、崖崩れを防ぐためコンクリート擁壁工事が施された崖がみえる。

擁壁工事が行われる前、この崖は近所の子どもらにとって格好の遊び場であった。度胸比べに急勾配の崖を登ったものの、途中で登ることも降りることもままなくなり、ベソをかきながら兄に助けられたことや、夏の夜、大東亜戦争中に掘られた三つの防空壕を探検したことなどを思い出す。崖の下には乳牛を飼う家があった。


土取り場と防空壕

土取場踏切を渡って金照寺山へ登る坂を八幡坂(はちまんざか)という。佐竹氏の氏神(うじがみ)八幡神社(現・八幡秋田神社)祭典のとき、金照寺山の七つ森まで登った御神輿の御休場が、坂の西側にあったことにちなんで八幡坂と名づけられた。


八幡坂 07.04

坂の右下(南側)が防空壕があった土取り場跡の崖。昭和30年代は舗装されていない八幡坂をチョロチョロと湧き水が流れ、サワガニだったろうか小さな赤い蟹が生息していた。


八幡坂より市街地を望む 1967

昭和五年の『秋田魁新報』に、土取り場の土を取りすぎて、八幡坂登山口が馬の背のように狭隘となり、小学生が転落する事故もあったことから、地区住民が協力して、長さ百間(181.8 m)、幅二間(3.636 m)余りの坂道を造成したという、いかに大量の土が採取されたかがうかがえる記事がある。


楢山愛宕下中町より土取り場跡 10.06


金照閣踏切より土取り場跡(南側) 10.06

土取り場となる前は線路間際まで山が迫っていたと想像される。土取り場の上は住宅地になった。

金照寺山から採取され、馬車や橇で運ばれた粘土質の土は、宅地造成(埋立)、建築の基礎・土壁・土間の三和土(たたき)などの他に、陶器用の陶土としても使われた。

明治四年からの短期間、南秋田郡楢山村の岩取場を徒刑場に指定、秋田監獄(現・秋田刑務所)に収監された軽犯罪者を使役した事が記録されているが、楢山で岩石を採掘した記録が他にみつからないことから、この「岩取場」は金照寺山の土取り場のことと思われる。

罪人たちには浅黄色の袢纏を着せ、手錠または足錠を施し、金照寺山の下川(太平川)に沿った場所に設けた「寄せ場」と称した小屋に住まわせて使役したという。


金照寺山と太平川 09.04


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市内最大の石敢當・移動して右向け右!

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その四



所在地・南通築地(旧楢山本新町下丁)
表記・石散當  高さ・約 81cm
撮影・2008.07

当シリーズ前回の「守る家なき石敢當・埋もれた記憶」の西側、同じ町内の丁字路に建つ、市内では最も背の高い石敢當(いしがんとう)。いちばん背の低い(埋没した)物件と背の高い物件が間近にあるのが面白い。


2005.11

この物件は正面のピンク色に塗装された「翠(みどり)荘アパート」の左手(東側)、三方をブロック塀で囲まれた特設スペースに保存されているため、通り(外から)からは見えない。

大正十四年の調査時には、丁字路の突き当たりの屋敷前に半分ほど地中に埋もれていたという。どのような経緯でそうなったのか定かではないが、もしかして、最初から埋めて設置した例もあったのかも知れない。

屋敷をアパートに建て替えたとき、その場所にあって屋敷を守護していた石敢當を後世に残すため、現在のようなスペースを設けて移設したものだろう。

もともとは北(前)を向いていたが、移設後はスペースの関係で西(右)向きになり、通りにそっぽを向いているため、魔物に対する防御バリアという点ではその役割を果たしていない。

アパートの裏手に、秋田市で最後の一軒となった銭湯「星の湯」がある。


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しもつけの薄紅霞む里の家



後の日に知る繍線菊(しもつけ)の名もやさし 山口誓子

シモツケ(下野)学名:Spiraea Japonica
バラ科シモツケ属の落葉低木

梅雨入り頃、生家の生垣に名も知らぬ薄紅色の小花がほころんでいた初夏の記憶。群れて咲く小花の、ひょろりと長く伸びた雄しべが、遠目にぼんやりと霞んで見える。

シモツケの名は現在の栃木県にあたる下野(しもつけ)の国に産したことにちなむとされ、また、霜が降りたような花の姿から「霜付け」と名づけたともいわれる。

繍線菊(しゅうせんぎく)はシモツケの中国名。戦国の時代、繍線という名の娘の父親が敵の囚人となる。娘は捕らえられた父を救うため牢獄を探すが、すでに病気で絶命していた。父の墓標のかたわらに咲く一輪の花を記念に持ち帰り、父への手向けとして庭に植えた数年後、見たこともない美しい花を付ける。人々は孝行な娘の名前を取って、その花を繍線菊と名づけたという。

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守る家なき石敢當・埋もれた記憶

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その三

所在地・南通築地(旧楢山本新町下丁) 表記・散當石  高さ・数 cm(埋没)
撮影・2006.08

生グレープフルーツのかき氷「生グソ」で有名な和菓子屋「広栄堂」の脇小路、かつては小さな駄菓子屋が店を構えていた小路を突き当たった丁字路にある石敢當(いしがんとう)。

刻まれた文字「散當石」の一部分だけがかろうじて確認できるのみで、ほとんどが地中に隠れているため、その存在に気づくものは少ない。各地に数ある石敢當のなかでも、おそらくもっとも背の低い物件だろう。

往時は下図のように、波トタンの塀を四角く裁断した小窓から、素朴な字体の顔を覗かせる姿が愛嬌を感じさせたものだ。今もその波トタンの痕跡が赤錆色に染みついて消えない。

石敢當に守られていた屋敷が取り壊され、駐車場として整地したとき、突出した石敢當を機材で打ち込んで埋没させたものだろう。完全に埋められなかったのが、せめてもの救いだ。


2008.07

市内に三件ほどある「散當石」の「散」表記について、「敢當石」の「敢」と字形が似ているために誤って彫ったとも、「魔物は石敢當に当たると砕け散る」とされていることから、魔を蹴散らす意味で故意に付けたともいわれている。


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2015.12 追記

「石敢當」の消失を確認。

石敢當跡
2015.12

屋敷跡の駐車場に住宅が建ち、「石敢當」のあった場所はアスファルトで舗装されていた。新たな駐車場の出入口に当たるため、邪魔になった電柱は西側に移動。

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大門の玉椿あり黄金谷・新屋名物

●黄金谷という伝説の地名

旧街道沿いに位置する秋田市新屋表町、惜しくも廃業した「黄金井酒造」周辺の旧地名を「黄金谷(こがねだに)」という。その地名は、蝦夷掃討のため新屋に立ち寄った坂上田村麻呂が、持参した黄金をこの地に埋めたという伝説をもとに命名したとされ、「黄金井酒造」の店名もこの地名にあやかったものであった。

旧「黄金谷」の周辺は醸造に適した良質な地下水が豊富に湧き、古くからそれを利用した醸造業者が集中し今も残る地域。

新屋の「黄金谷」とおなじく豊富な水が湧き、地名に「こがね」を冠した、東京「小金井」の地名起源について、Wikipedia に「「はけ」に沿って黄金(こがね)に値する豊富な湧水があるのを「黄金の井」や「こがね井」と称した」とある。

「はけ」というのは「段丘から清水が沸き出す地形」のことらしく、これは「水捌(は)け」の「はけ」=「とどこおらずに流れるさま」を語源としているとも考えられるが、それが新屋の地形と一致するのは偶然の一致とは思えない。

水道の無かった昔から、町民の日常生活と地場産業を支え繁栄をもたらした、渇水期でも絶えることのない豊富な湧水が、いかに貴重なものであったかを考えれば、新屋の「黄金谷」もまた「黄金に値する豊富な湧水の地」を意味した地名と解釈するほうが妥当ではないだろうか。


●大門の玉椿と椿印醤油

明治から大正期に出版された案内記に、河辺郡新屋町の名物として「大門の玉椿」の名が散見する。


明治四十年『秋田繁栄誌』より


大正四年『秋田興業銘鑑』より
▲大門の玉椿 町の中央に県内に有名なる椿の大木あり。大門彦右衛門氏の椿にして梵天の如く繁茂せる玉椿の古樹あり。この玉椿は二百余年を経たる稀代の珍木として知らる。同家は加賀より移住せる古き家系を有し古来酢、醤油醸造業にして名木の名を採り醤油の名称を椿印として各官衛に納め遠く北海道に販路を有し博覧会品評会等に於いて受賞する事十数回に及び酢は祖先累代の業にして家伝を得たるものなりと。
大正四年『秋田興業銘鑑』より
黄金谷(現・新屋表町)の「黄金井酒造」斜め向かいに店を構える、大門彦右衛門家の庭から道路をおおう丸い樹冠を張りだし、「椿印」ブランドの由来になった直径約60センチの名木「大門の玉椿」。通行人の雨宿りの傘となり、日陰に馬を休めたその名木は、昭和25年頃、樹齢約300年を迎えた冬、降り積もった濡れ雪の重みに絶えきらず倒壊する。


新屋表町「大彦商店」玉椿の跡

玄関に「ツバキ醤油」「山吹酢の素」のホーロー看板。その向こうにある玉椿は、枯れ死んでしまった玉椿を偲び、跡地に植えたものという。


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ここでいうタマツバキ(玉椿)は、ニシキギ科の常緑低木であるマサキ(正木・柾)のことで、タマツバキはその地方名(方言)。

常緑で光沢のある卵形の厚い葉はツバキに似て、刈り込みに強いことから庭木や生垣に用いられる。夏に開花する薄緑色の花は小さくて地味だが、晩秋から冬にかけて熟し、はぜた実の明るい朱色が白い雪と対比して印象深く、こんもりとやわらかな雪が積もった日、マサキの葉を耳に、朱い実を眼にして「雪うさぎ」をつくって遊んだことが思い出される。


マサキ - Wikipediaより

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新屋鹿嶋祭りのあと・浜辺にて



祭りのあと、雄物川河口近くの浜辺に流れ着いた、人々のツミケガレを背負わせて川に流した鹿嶋人形の断片。

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赤門前の石敢當・紅色は魔除けの色

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その二


所在地・南通築地(旧築地下本町)
表記・石敢當  高さ・約33cm
撮影・2006.08

築地の丁字路に建つ石敢當(いしがんとう)。もともとは方尖形の端正な姿であったが、降り積もった雪に埋もれた数年前の冬、除雪ブルドーザーのブレードがその一部をえぐるように傷つけてしまう。それ以降、積雪期になるとコンクリートブロックによる防御が施され、昨年はそれに加えて目印の棒が立てられるなど、所有家に大切にされていることがうかがえる物件である。


雪囲い 2009.12

石敢當は設置した家の敷地内にあるのが普通だが、この物件は例外的に敷地から離れた市道上に電柱と並んで建っているため、除雪用ブルドーザーによる被害に遭いやすい。


2005.03

近所の人たちに「赤門」と親しまれた江畑家の冠木門(かぶきもん)。ブロック塀になる前は、おなじく築地にある本家の「赤門」(下記関連リンク参照のこと)と同様の黒板塀が、武家屋敷にふさわしい落ちついた風情をみせていた。屋敷の裏に「赤門荘」という名のアパートがある。

耐水性と耐光性に優れ、木材を保護することから、寺社建築などに使われた紅色の顔料を紅殻(べんがら)という。原料となる酸化鉄を含有する粘土の主要産地がインドのベンガル地方であったことからベンガラの名で呼ばれ、その色が「血の色・強い生命力」を象徴することから、古代より「魔除けの色」とされ、縄文土器や古墳の壁画の彩色に用いられてきた。

魔除けの紅殻で彩られた「赤門」、そして門前に建立された魔除けの石敢當。呪術的な意味合いを秘めた二つの物件があいまって、今も門前に強力なバリアを形成しているのかもしれない。


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つぎはぎ地蔵・廃仏毀釈の産物


07.04

明治初年の仏教排撃運動、いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で、多くの石仏が首を切断されるなどの被害にあった。

金照寺山の某所に建つこの地蔵さんは、首をもがれたふたつの石像の、頭と胴体を無理矢理接合した物件。

地蔵さんの頭部は錫杖(しゃくじょう)の角度からみて立像だが、その胴体は座像。座っているのか立っているのかわからない、頭でっかちなアンバランスさが、哀しくもあり可笑しくもある。胴体のほうは地蔵さんではなく、観音さんだったのかも。

あきらかに石質の異なる頭部と胴体を接合した地蔵さんはよく見かけるが、これだけ違和感のある物件は珍しい。

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本丸の桜花のもとの花七輪



「(千秋公園)本丸の名花」のキャプションが添えられた、大正のはじめころに発行された絵葉書より。

地形から察するに撮影地点は本丸の西側、與次郎稲荷神社裏手に違いない。この地点から右手に眼を向けると「秋田招魂社」が鎮座し、正面のゆるやかな坂道を右折して百軒長屋跡を進めば、当時の女学生が、その情緒ある風情から「しんみりが岡」と名づけたという御隅櫓跡に至るわけだ。

左手にのれんの下がった茶店(料亭)が建つ。大正期に本丸に存在した料亭といえば「小田久亭」、それが昭和に入って「柏木」と変わり、廃業して今は民家。公園内に民家や料亭が存在する理由は、千秋公園が佐竹家所有地だった時代に契約を結んだため。

盛りを過ぎた桜花のもと、七人の川反芸者が桜をあしらったおそろいの着物姿で写っている。



一番手前が貫禄充分な芸者さん、仲良くお手々をつなぐ中央の二人は幼さの残る半玉(はんぎょく)さん、そして右手の三人はまだ幼い見習いの下地っ子(したじっこ)。

半玉さんは関西でいう舞妓さんのことで、玉代(ぎょくだい)つまり料金が芸者さんの半額だったことからの命名。「雛妓」とも表記し「おしゃく」さんと呼ばれたた半人前の半玉さんは、十八から二十歳前後で一人前の芸者さんに昇格する。




撮影地点 2009.05


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二〇世紀ひみつ基地 千秋公園・秋田招魂社

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港(port)の働き者


 logicoo 社製ワイヤレスマウス附属 USBレシーバ

ふだんは暗くて狭い穴(USB ポート)の中で無線関係の仕事をしてます

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顔に見えるモノ(ひみつ基地内タグ検索)

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cafe みきょう・川反発祥老舗喫茶店

















アーチ状の洞窟のような白壁の階段を上った店内は、アーチ曲線をあしらった白壁に陰影を落とす自然光が心地よく、螺旋階段を上った中二階、個室風の小部屋、調和のとれたインテリアなど、随所にセンスと遊び心を感じさせるやすらぎの異空間。

川反五丁目、のちの美経(みきょう)小路に昭和28年創業の老舗珈琲店。川反時代のことは下記関連リンクに。

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2015.08 追記

2015年6月「cafe みきょう」閉店。その後、階下のブティック「pour deux(プルドゥ)」が経営を引き継ぎ「cafe pour deux(カフェ プルドゥ)」と名を改めて、2015年8月オープンした。


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川反みきょう小路・今は淋しき片側小路


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第三十二回「千秋茶会」千秋公園野点

第三十二回「千秋茶会」平成二十二年六月六日
於・秋田市千秋公園本丸



















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川反みきょう小路・今は淋しき片側小路


美経小路・川反五丁目 06.09

南側が駐車場になり、片側だけの小路になって久しい川反五丁目(秋田市大町五丁目)美経小路。駐車場とビルとなった南側に存在した新美経小路も含めて、美経小路は川反最大規模の小路であった。この地に、江戸末期から営業していたのが「北潟屋」という味噌醤油醸造元。


昭和5年・6年 新聞広告

「北潟屋」は戦後、その敷地の一角で「美経」というフランス風のシックな喫茶店をオープン。「美経」の「美」は純真、「経」は「宇宙」、合わせて「広きマコト」をあらわすとのこと。

オーナーの趣味が高じて誕生した喫茶店だったが、当時はまだ珍しかった、東京の老舗コーヒー店から直送した豆を使う本格派コーヒーは通をうならせ、客が自由にレコードを選んでかけられるのも好評だったという。


昭和34年 雑誌広告

その後「北潟屋」の跡地に美経小路、つづいて新美経小路がオープン。




昭和34年 新聞広告(部分)

飲み屋街に喫茶店と甘味処があるのが面白い。喫茶店「美経」の創業は昭和28年のはずだが、昭和34年の上掲広告文に「甘くただようコーヒーの香りは八年間の実績」とある。計算が合わないのは、「六」を「八」と誤植したためか。
「美経小路」昭和34年当時
バー 裏窓・バー ミンク・鍋料理 好の家・小料理 天狗・バー ボルドー・喫茶バー アイリス・バー トップ・バー エレガ・バー メッカ・焼とり 福田屋・喫茶バー シャドウ・バー サヴォイー・バー ドリーム・おでん 高砂・クラブ ファンタジー・コーヒー店 美経・甘味の店 幸枝・なめこ汁お茶漬 なめこ・スタンドバー クラウン・バー ママ・バー 我が家・小料理 とら新・小料理 八重子・バー ラスト・小料理 小ばと・てんぷら 天広・バー 車・バー 松帆・バー ゼロ
「美経小路・新美経小路」昭和50年当時
アカシア・ポニー・モンプティ・紫・くつろぎ・めぐろ・木馬・ボルドー・とんかつや・ひとみ・福田屋・あざみ・エルモア・紫野・なるこ・京の竹・エレガ・北国・花びし・義江・くまん蜂・灯・杉・リーフ・みんく・裏窓・かおる・松帆
銀猫・再会・シャドウ・もんしぇりー・バイロン・麻美・ガーネット・紬・和子・湊・花・ゆめ・ドリーム・ハスラー・ブーケ・がらんす・高砂・左近・ファンタジー・バーディ-・グランバス・モノポリ・みっちゃん・ブラウン・ママ・我が家・公爵
1970年代には約60軒の飲食店が軒を連ねた美経小路とその周辺も、大半がビルと駐車場に変容、小路とは名ばかりの寂しい小路となった。

美経小路に創業した喫茶店「美経」はその後、東邦生命ビル地階、秋田名店街の一階を経て仲小路に移転、「cafe みきょう」の名で今も営業をつづけている。


06.03


04.09


04.09


04.04


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みきょう小路

cafe みきょう・川反発祥老舗喫茶店


川反五丁目雪景
戦前の川反五丁目



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Y字路に謎の石柱・石敢當

街角の文化財・魔除けの「石敢當」その一

●ゴミ置き場の陰で・・・・・・


理髪館のあるY字路 2004.05

以前記事にした、旧楢山桝取町の「理髪館のあるY字路」の、三叉路が分岐する地点に設けられたゴミ置き場を裏から覗くと、廃材や石にまぎれて、高さ40cmほどの石柱が鎮座している。


2007.12

それは自動車の衝突を防ぐため、Y字路や小路の角などに置かれた「車除け石」にも似ている。しかし、これが建てられた幕末から明治期にかけて、自動車などあるわけもなく、それならば何を目的としたものかというと、「車除けの石」ならぬ「魔除け」のために建立された「石敢當」(いしがんとう・せきがんとう)と呼ばれる石柱なのだ。


所在地・南通宮田(旧楢山桝取町)
表記・敢當石  高さ・約44cm
撮影・2003.11

正面から見ると「敢當石」の文字を確認できるのだが、現在は上の画像のように金網とネットでさえぎられてしまい、まともに見ることができない。

「石敢當」または「敢當石」などの文字が刻まれた石柱が建立された場所は、丁字路、Y字路、曲がり角などの突き当たり。災厄、病魔などの魔物は道路を人が歩むように進み、突き当たりに出会っても曲がらずに直進をつづけ、人家があれば侵入すると信じられていたらしく、そのような場所に災厄を防ぐことを目的として建立され、秋田では「ウケイシ」(受け石)とも呼ばれていた。

もともとは中国を起源とする道教がもたらした風水の風習で、江戸中期のころ日本に入り、“石に神霊が宿る”とする日本古来の信仰とあいまって定着。

中国、台湾、シンガポール、日本などに分布し、国内では沖縄がもっとも多く、今も増殖しつづけているので把握はできないが、その数一万基以上といわれている。石材店や表札屋が「石敢當」を制作し、新築時に施工業者がサービスとして設置する場合もあり、素材は石に限らず、プラスチック製パネルやシールなども用いられるほど、魔除けの獅子・シーサーとともに、沖縄では「石敢當」の風習がいまだに色濃く息づいているのだ。

沖縄、鹿児島、宮崎が県別現存数のトップ3。それに次ぐ第四位が秋田の約三十基。そのほとんどが秋田市内にあり、なかでも旭川から東側に位置する内町(うちまち)の、中級・下級武士が住んだ楢山、南通築地地区に集中している。同じく武家屋敷の保戸野地区にも多かったが、屋内に保管されているものを除き、今は野外に現存しない。

秋田に限っていえば、建立年代は幕末から明治期までだが、なかには近年沖縄から導入された新しいものも数件ある。

大正期の調査で、市内に四十七基を記録した「石敢當」は、住宅の新築、板塀からブロック塀への転換、道路整備などで一時は二十基ほどに激減。しかしその後、道路工事で地中から発見された物件・屋内に保管されていたものを再建した物件・近年になって新たに建立された物件なども含めて、現在は約三十基が確認され、その他に中通と築地にかつて存在した二基が秋田県立博物館に保管されている。


●なぜ秋田市に多いのか

中国と直接交流があった沖縄や九州地区に「石敢當」が集中しているのは納得できる。しかし、なぜ遠く離れた北国の秋田市にこんなにも多いのか、はたしてどんな想いをこめて「石敢當」を建立したのかと、辻々に建つそれらを観察する者は、さまざまに思いを巡らせてきた。その疑問に対して、元国立公文書館長で石敢當研究者の小玉正任(秋田出身)がひとつの仮説を発表した。
 市内の旧武家屋敷に石敢當が多く造立されていることについて、筆者は次のような仮説をたててみた。
 藩が藩校の教授として招いた儒学者の中に、石敢當についてとくに造詣の深い学者がいて、折にふれ石敢當の話をしたので、受講した藩内の若い武士の頭にそのことがうえつけられ、これらの人々、あるいはその話を伝え聞いた子弟・邸に出入りしたものが後年、多発した洪水や伝染病に困って石敢當を立てたのではないかと考えたのである。そしてこの秋田藩に出仕した学者は大窪詩仏ではなかろうか、と。‥‥中略‥‥ではどうして秋田の武家屋敷にかくも多くの石敢當が立てられたのか、それは、先述の詩仏による教授の結果、藩士の頭の中に石敢當というものが知識とてうえつけられた。だが、これだけでは大量に立てることには結びつかない。そのための別の要因が発生したと考えられる。それは天保四年に大飢饉があり、明治には大洪水(十一年、二十五年)、俵屋火事(十九年)、コレラ・チフス・天然痘(十八、十九、二十、二十一年)と災害、疫病が多発し甚大な被害をうけた。このことがきっかけとなり、強力な災厄防護・厄除けを求めて、知識として眠っていた石敢當造立を武家屋敷の当主たちが思いつき、造立ブームがおきたのではなかろうか。‥‥後略‥‥
小玉正任『民俗信仰 日本の石敢當』慶友社 2004年 より
秋田市に於ける「石敢當」の謎を解く説得力のある仮説である。謎解きのキーマンとなった人物は、江戸時代後期の儒学者で漢詩人・大窪詩仏(1767~1837)。久保田藩校・明徳館で教授を務めたこともある詩仏は「石敢當」についての造詣が深かったらしく、長野県南佐久郡佐久穂町に詩仏の書を刻んだ、高さ150cmの「石敢當」が残っている。(下記関連リンクに写真あり)

秋田市内に残る「石敢當」は丁字路に多く、三叉路に現存するのはこの物件のみ。近年沖縄からもたらされたものを除く「石敢當」は、後世まで保存されるべき文化財的価値の高いものだが、このようにないがしろにされている物件も少なくはない。

しかしこれも考えようで、人目に付く場所で邪魔者扱いを受け、他物件のように撤去の憂き目をみるよりも、物陰で人知れず存在できるこの場所は、保存を考慮すればさして悪い環境ではなく、少なくともこの場所がゴミ捨て場の役割を終えるまで、Y字路に建つ「石敢當」は安泰なわけである。

理髪館の消えたY字路・楢山桝取町
2014.12 理髪館解体と石敢當の露出



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石敢當 - Wikipedia

NPO信州ふるさとづくり応援団 東信支部 | 信州の石敢當
大家詩仏の書を刻んだ石敢當

大窪詩仏 - Wikipedia

大森林造 大窪詩仏の詩と書をあじわう - hc_storia

相和石材・沖縄二大魔除け、シーサーと石敢當を製作、販売。通販。

渡名喜島の石敢當

沖縄の石敢當

中国の石敢當

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日本の石敢當―民俗信仰日本の石敢當―民俗信仰
(2005/03)
小玉 正任

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