二〇世紀ひみつ基地

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2010年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年03月

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川口境の工業地帯と牛島引込線と・・・


牛島引込線・太平川鉄橋跡 10.01

過去のエントリーでふれたように、かつて牛島駅から秋田脳病院(現・秋田回生会病院)の脇を通り、太平川を渡り、楢山川口境の工業地帯まで、貨物列車で物資を運ぶ専用引込線(赤色マーキング)が延びていた。


秋田市街図・昭和24年

引込線の終点は、太平川と旭川にはさまれた市内最古の工業地帯。河川に面した川口は古くから雄物川水運による木材の陸揚げ地で、木材業・製材業が栄えた場所。「秋田瓦斯株式会社」(明治44年創業、現・東部ガス)が創業地として川口境を選んだのも、ガスを造るための石炭の運搬に船便を考慮した結果であった。


旭川沿い、川口の材木置場 10.01

久保田城下の南端に位置し、旭川に面して藩の材木場・籾蔵が置かれ、原野と畑が広がっていたこの地の旭川沿いに、明治34年「秋田製材合資会社」が、能代を東洋一の製材王国に育てあげた井坂直幹(水戸出身)と地元資本の協力により資本金5万円で創設、2万3千坪の敷地に、工場、機械室などが建ちならぶ、秋田市内最大規模の工場であった。


書籍広告・明治40年

マークは「◇に秋」、製品にこの焼印が押されて出荷された。住所は秋田市亀ノ町外張南新町、南隣の現東部ガスの場所は川口境。

明治40年、井坂直幹の経営による「能代挽材株式会社」「秋田製材合資会社」「能代材木株式会社」の三社が合併して「秋田木材株式会社」(アキモク)設立。本社を能代に置き、秋田市の工場は秋田支店となる。


秋田木材株式会社秋田支店

右手に旭川と運搬用の川舟。

明治44年、「秋田木材株式会社」は「秋田瓦斯株式会社」(現・東部ガス)設立資本金の半額を引き受け、瓦斯事業に参入。


秋田瓦斯株式会社・川口境

大正4年、「秋田木材株式会社」秋田支店廃止、秋木が出資する「菱秋商店」として再出発。大正8年、「菱秋商店」「進藤挽材精米工場」「鈴木製材工場」を合併、「秋田製板株式会社」を設立。


書籍広告 左・大正7年 右・大正11年

大正15年、「秋田木材株式会社」の電気事業部門を「北海道電灯株式会社」に譲渡、川口境、現在の「秋田サティ」の地に「秋田火力発電所」を新設。同年「秋田瓦斯株式会社」も「北海道電灯株式会社」に吸収合併される。

昭和2年、「秋田製板株式会社」は原料木ならびに製材輸送のため、牛島駅と工場を結ぶ専用引込線を、工費12万7千円を投じて敷設。

昭和3年、「秋田製板株式会社」は財界不況の影響を受け「秋田木材株式会社」(アキモク)に製材権を譲渡。牛島引込線の名義を「秋田運輸倉庫株式会社」に変更。近隣工場の資材・製品を含めて、昭和6年には3万1千543トンの輸送量を記録。

昭和7年9月の新聞記事によれば、「秋田運輸倉庫株式会社」が自社所有の牛島引込線を鉄道省(国鉄)に買い上げてもらおうと、市当局や近隣の商工業者とともに陳情運動を展開するも、数日後「牛島駅引込線の買上は不可能化、但し今後の運動次第で一縷の光明はある」との見出しで、このときは失敗したことが報道されている。

牛島駅の昭和39年度の貨物記録に、東北肥料に向かう茨島引込線の記録があるが、牛島引込線についての記録がないのは、すでに廃線となっていたためだろうか。線路と鉄橋は昭和40年頃まで残っていたと思う。


秋田市街図・昭和24年

昭和24年当時の工場は「秋田製材合資会社」をはじめ「秋田県樽材」などの製材会社、「秋田製鋼」「東部ガス」など。昭和37年になると、「秋田製材」の跡地に「日本パーティクルボード」(昭和40年操業停止)、「秋田製鋼」が「秋田金属工業」と名を変え、引込線の終点のあたりに「日清製粉秋田荷扱所」の名がある。工場のすぐ近くにあって場所柄にぎわっていた銭湯が「石の湯」。

昭和10年頃から操業しているアキモク系の「秋田製鋼」に、昭和21年、秋田工高を卒業したばかりの土方巽(前衛舞踏家)が就職し、勤務のかたわら、市内のモダン・ ダンス研究所に通っていた。


昭和37年

国道13号線が走る古川添、今は「ラウンドワン」や「トイザらス」など大型施設が並ぶ卸町のあたりはまだ一面の田園。

「ゴミ投棄場」と記したあたりは河川改修で取り残された太平川の旧河道。沼となった河道跡の大きな窪地に、近所の住民たちが大正初期頃からゴミを捨て始める。

ゴミ捨て場の片隅に下鍛治町の佐金商店が焼却炉を建設、可燃ゴミを焼却炉で燃やし、かまどに残った灰はカリ肥料として販売した。最盛期は製造した肥料を船に積み込んで郡部に送ったものだという。戦後になって質の良い肥料が手に入るようになり衰退するが、肥料工場はしばらく操業をつづけ、焼却炉の高い煙突が、ゴミ捨て場のシンボルとして残っていた。

昭和の初め頃、秋田市が借地契約を結び、正式な市営ゴミ投棄場となる。以前はこのあたりも追廻(おいまわし)町内だったため「追廻ゴミ捨て場」と呼ばれ、近隣の工場からも鋳物カスなど不燃物が捨てられるようになる。

大東亜戦争中に金属不足におちいると、永い年月にわたって埋め立てられたゴミが掘りおこされ、金属類は戦争のために再利用された。戦後しばらくは金属類を拾い集め、ゴミ屋に売って内職をする近所の人たちも少なくはなく、捨てられたゴミのなかには貴重な古文書や美術骨董品のたぐいも少なからずあったようで、ある人はそんなゴミ捨て場の様相を、さながら「現代貝塚」と評していた。

戦後の高度成長期には一日8トンものゴミが運び込まれるようになり、投棄量の限界を超えた昭和39年に閉鎖、2万3千平方メートル余りの跡地は宅地として整地、若草団地の名で秋田市都市建設公社から分譲される。

このあたりにはあまり近寄らないようにと親に言われていたが、引込線と工場を結ぶトロッコや広い河原のある界隈は、子どもらにとってとても魅力的な遊び場であった。

東部ガスの近くに大きめの水路が流れていた。その水路に架かる小橋の向こうに住む同級生の話によれば、水路から水死体が上がったのだが、片目が見つからず、夜中に橋を通ると、ときおり片目の幽霊や空中に漂う目玉が目撃されるのだと、まことしやかに話していたが、そんなたわいのない話も現実味をおびて聞こえるほどの闇深き場所でもあった。



界隈の工場のうち、今も残るのは東部ガスのみ。秋田金属工業の跡は「秋田サティ」(平成7年(1995)開業)、明治時代からの製材工場の跡地にはマンションなど集合住宅が建つ。


東部ガス 10.01


秋田サティ 10.01

ゴミ捨て場は住宅街へと変容、昭和55年(1980)、有楽町通りから登町を経て国道13号線の卸団地に抜ける中通牛島線が完工、大型ショッピングセンターも誕生、往年のうらさみしき街外れの風情をしのぶことができるのは、東部ガスの球形ガスホルダーだけだが、太平川・旭川・猿田川の三つの河川の交わる地形がかもしだす、特有の雰囲気はいまも変わらない。


旧追廻ゴミ捨て場付近 10.01


左手に国道沿いの「ラウンドワン」、右手に旧追廻ゴミ捨て場 10.01


旧追廻ゴミ捨て場付近から猿田川と太平川の合流点 10.01


大きな地図で見る

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会社概要-会社案内 [沿革] | 東部ガス



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川反に怪しき“人造人間”現る!


昭和六年 新聞広告(部分)

戦前まで川反五丁目にあった映画館「演芸座」の新聞広告。
ロボット来る!
大実演
当年一歳 身長八尺 重量五十二貫
尖端をゆく グロレビュー 人造人間
関東大震災、そして世界恐慌を経た昭和初期、深刻化する社会不安を背景に、退廃的な「エロ・グロ・ナンセンス」の風潮が広がり、カフェーやダンスホールなどが流行する街角にはモガ・モボ(モダーンガール・モダンボーイ)が闊歩し、新聞の見出しにも「エロ・・・」「グロ事件」などという表現がさかんに使われるようになる。

そんな昭和初期、映画館では映画の合間にレビュー(歌・踊り・寸劇など)を上演するのが慣例となっていて、この「人造人間」の実演も、美人ダンサーとセットでパラマウント社により派遣された出し物であった。

一方、銀幕では、米国の冒険家リチャード・バードの南極探検を、パラマウント社のカメラマンが独占撮影したドキュメント「バード少将南極探検」を上映、大町二丁目「本金」のショーウインドウに、バード少将が探検に使用した装備品の実物と記念品を展示して宣伝に力を入れた。


昭和六年 新聞広告(部分)




同時上映は「怪騎手」「里見八犬伝」「トーキー漫画」(アニメ)など、子どもらが喜びそうなプログラムが組まれているが、「演芸座」でそれを実際に見た、楢山生まれの新聞記者・洞城庄太郎氏が、幼い日の記憶をもとに随筆をしたためている。
‥‥前略‥‥
正月特別番組の時は演芸座から横町、五丁目橋まで長い行列になって入場を待つ観客が立ち並び、この中にはきれいに着飾った若い娘さんたちもおり、桃割れを結ったお嬢さんも多く並んでいたものだ。

私が始めて活動写真を見たのは昭和二、三年のころで学校から優待券をもらってバード少佐であったか、アムンゼンかの「南極探検」を入場料三銭で見た。幕間に舞台の上下から二基のロボットが出てきて「だってあわずにゃいられない(中略)オッケー、オッケー、ザッツオッケー」と人造人間特有の声で歌ったので、驚いて帰ったのを覚えている。
‥‥後略‥‥
洞城庄太郎『秋田の昔有情』秋田文化出版・昭和59年刊
「演芸座」と「南極探検」「ロボット」「ザッツ・オーケー」の組み合わせからしてこれは、昭和六年の記憶に間違いないだろう。映画館の闇の中から突如として現れたロボットの姿は当時の子どもの眼に、新聞広告の宣伝文のように、ずいぶんとグロテスクなものに映ったようだ。

ロボット特有の機械的な声で歌ったという曲が、昭和五年発売の流行歌「ザッツ・オーケー」。先端をゆくロボットと芸者歌謡風の曲という、なんともナンセンスかつミスマッチな組み合わせが、いかにも昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」な時代の退廃的なムードを醸し出していて面白い。
だって逢わずにゃ いられない
思いいでくる 二人なら
明日という日も 待ちかねる
そんな心で 別れましょう
いいのね いいのね 誓ってね
オッケー オッケー ザッツ・オーケー


ザッツ・オー・ケー(THAT'S O,K,) 河原喜久恵

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関連リンク

リチャード・バード - Wikipedia

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| 興行・見世物・映画 | 22:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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秋田劇場に「飛び出す活動写真」現る


大正十三年 新聞広告
世界の大驚異
不思議な眼鏡を通して画面実物が客席に飛出す一大大発明!

映画界の大革命

飛び出す活動

御客様方にもれなくこの不思議な眼鏡を差上升
ジェームズ・キャメロン監督の最新作『アバター』で話題になっている3D映画の原点といえるアナグリフ式立体映画が、大正十三年(1924)八月、秋田市柳町の秋田劇場にて公開された。

観客は受付で片目に青セロファン、片目に赤セロファンが貼られた紙製の眼鏡を受け取り、暗闇の客席で楽団の奏でる音楽と、活動弁士の解説とともに初めての立体映画を体験した。

五本立ての同時上映作品は牧野省三監督の明治維新劇『燃ゆる渦巻』(マキノ映画製作所)、細山喜代松監督の『浜田刑事』(日活京都撮影所)、米国映画『男装令嬢』、SF チックなタイトルの『第三恐怖の未来』も洋画だろう。

米国におけるアナグリフ式立体映画の商業的初公開は1915年(大正四年)だが、大正十二年(1922)、本格的な立体劇映画作品『The Power of Love』が、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルの劇場で初公開された。秋田劇場で上映された『飛び出す活動』はこの作品だったのかもしれない。いずれにしろ日本で始めて公開された立体映画だった可能性が高い。


秋田市柳町「秋田劇場」

アナグリフ式立体映画の詳細と、昭和十一年に秋田市十人衆町の映画館「旭館」で上映された立体映画については下記関連記事に。

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| 興行・見世物・映画 | 23:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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安住アナ●●●●の恐怖を語る

TBS ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」が配信するポッドキャスティングの、2010年02月07日放送分は、仙台出張帰りにふと立ち寄った某秋田郷土料理店での恐怖体験を語る、久々の秋田ネタ「怠けてません」。今回もすこたま笑わせてくれる。

2010年02月07日「怠けてません」

ちなみにこれまでの秋田ネタは

2008年03月02日「秋田・ファンキーボウル」

2009年05月10日「秋田キングタクシーの落胆」


秋田市大町五丁目・ファンキーボウル前 04.03

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関連リンク

TBS RADIO 954 kHz > 安住紳一郎の日曜天国

AKITA DINING なまはげ 仙台店 / sendainamahage.jp

| 読む・観る・聴く | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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