二〇世紀ひみつ基地

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2009年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年11月

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三重苦の聖女ヘレン・ケラーの秋田犬

欧米で「Akita」といえば、日本の地方都市の名称である前に「秋田犬」の代名詞。試しに画像検索エンジンで「Akita」を検索すると、まず最初に秋田犬の画像がずらりとならぶ。


Akita - Google 画像検索

一匹の秋田犬がはじめて海を渡った昭和12年(1937)4月、幼いころの病気が原因で眼と耳を患い、光と音を完全に失いながらも、家庭教師アン・サリヴァンによる献身的教育のおかげで奇跡的に障害を克服、社会活動に生涯をささげた、三重苦の聖女ヘレン・ケラーが来日、6月には秋田市を訪れ県記念館において「沈黙と闇を破りて」と題した講演会を開催、会場を埋めた観衆に大きな感動と勇気を与えた。


ヘレン・ケラー

サリヴァン先生とケラー


秋田県立盲唖学校にて

欧米でも広く報道された「忠犬ハチ公」のエピソードを聞きおよんでいたケラーは、秋田に来たからには、どうしても秋田犬を連れて帰りたいと言いだし、同行者たちを困惑させる。それを知った秋田警察署の巡査がプレゼントしたのが、はじめて海外に輸出された秋田犬「神風号」である。



「朝早く眼醒めて見たらこの町の美しい緑が私にはよく分かりました。進歩的な親切な人々のゐる街であるということも私には分かったのでした」・・・・・・、世界の聖女ヘレン・ケラー女史がトムソン嬢を通じて奇跡の講演を試み秋田の印象を県記念館で語った十三日二千余の聴衆はこの苦労を超克して闇の中にあるものに光を与えよと呼びかける聖女を目のあたりに見て感激のたゞ中に涙ぐんだのであったが・・・この聖女と一人の青年巡査との間に明けて十四日国際親善のきくもゆかしい花束が交わされた。ヘレン・ケラー女史はアメリカの自邸に米、英、独、仏四ケの犬をいま飼っているのだが、これはいづれも触感によってその国のアトモスフェイアを知らんとするひとつの方法なのである。女史は県民の熱誠に迎えられこの度来秋、海外にまでその名を知られてゐる秋田犬を一匹ほしいといい出し、通訳の岩橋武夫氏やトムソン嬢が
秋田犬はめったに純粋なのがないそうです、もしあっても本国につれていったら犬が五匹にもなって大変ネ・・・・・・
と再考を促さばこそ、女史は「ぜひ一匹ほしい、日本と米国の人々を結ぶためだ」といっかなきこうともしなかった、そこで岩橋通訳の活躍となったところ「私の純粋秋田犬をあげましょう」と名乗り出たのが秋田署の巡査小笠原一郎君(三〇)である、同君は大館町出身剣道五段錬士という肩書の持主、同君の持っている犬は生後七十五日牡犬「神風」というのである、この話はケラー女史につたえられるや女史はそんなに世界にも有名な犬は只では貰うわけにはゆきませんというし小笠原君は金を貰うつもりなら僕は最初から差上げるなど絶対に言わんとこれまた強硬、結局高橋秋田署長がなかに入って「国際親善のプレゼントに金の話は無用」ということになるらしい、小笠原君に抱かれながら十六日はケラー女史のふところに抱かれてゆくのも知らぬ神風君は赤い舌をぺろぺろ出しては小笠原君にじゃれついていた、同君は「オラ新聞に出るならやんた」と頭をかいてゐたがとうとうキャメラの前に剣道五段氏も処女の如く汗ダクで立たされたものだ、このエピソオドこそ秋田とケラー女史にとって美しいきづなとなるだろう

【小笠原君談】この犬ころはほんものの秋田犬です。国際親善しかもあんなかたにやるのは私としても本望です、この犬ころだって幸福でしょう・・・・・・
(写真は小笠原巡査と仔犬)
昭和十二年六月十五日付『秋田魁新報』より
四匹も犬を飼っているのに、どうしても「秋田犬が欲しい」とだだをこねるケラーと、頑固でシャイな秋田署の小笠原氏をめぐるエピソードが、なんともほほえましい。

このようにして渡米した「神風号」であったが、在米二ヶ月ほどでジステンバーのため息を引き取ってしまう。愛犬を失ったケラーの嘆きはやがて秋田にも伝わり、来日から2年後、ふたたび小笠原氏のもとから贈られたのが「神風号」の兄犬「剣山号」、それから約6年のあいだ彼女にとってかけがえのない伴侶となった秋田犬である。


日米親善の使節として吾が秋田犬が一警官から三重苦聖女ヘレン・ケラー女史の許に贈られ親善佳話を伝えていたがこの神風号は在米僅か二か月にしてヘレン・ケラー女史の許でヂステンバーにかゝりぽっくり死んでしまった、在日本の大きな記念品を失ったヘレン・ケラー女史の嘆きがアドヴァタイザー主筆フライシャー氏から吾が外務省岸秘書官の許にもたらされ更に本県佐々木前知事の所へ伝えられた
‥‥中略‥‥
その後フライシャー氏からもたらされた通信により忘れられぬ秋田犬の思出と女史の切々たる心境を伝え知るに及んで佐々木前知事も日米親善のため又吾が秋田犬の誇りのためとあって再び警察練習所勤務の剣道師範小笠原巡査部長の所へ話し合った、幸い飼育中の剣山号(三歳)が神風の兄にあたるのでこれをケラー女史に贈ることに快諾し近く外務省の指示によって日米親善使節として渡米することになった
‥‥後略‥‥
(写真は剣山号と小笠原氏)
昭和十四年一月十三日付『秋田魁新報』より
「剣山号」が渡米した翌年、小笠原氏のもとに礼状が届く。
剣山号は金色に輝く
 日本の愛の使徒
  ヘレン女史から懐かしい便り
   太平洋の浪荒ぶ時


太平洋の波濤を越え海を渡って三重苦の聖女・ヘレン・ケラー女史に贈られた秋田犬剣山号の話題は国際佳話しとして米国アドバタイザー紙に報じられたが剣山号をめぐる両国親善の書面が十五日ヘレン・ケラー女史から秋田県警察部剣道師範小笠原一郎氏の許に届けられた、欧州動乱の波動から太平洋の波荒れんとするとき国民使節剣山号がもたらす親善の佳話は大きな感動を深めてゐる
‥‥中略‥‥
コネチカットウエストポートに於いて
一九四〇年四月一日
親愛なる小笠原様“剣山号”を私の家に迎えてからもう凡そ一年になります、もっと早く御手紙を差し上げ又美しい彼の写真を御贈りしようと思ったのですが最近まで写真を撮ることが出来なかったのです。
剣山号が相変わらず立派で元気に満ち満ちてゐることは御承知の通りですが実際はまだまだそれ以上です、彼は私の日常生活の一部であります、彼は私が読んだり書いたりしてゐる時陽当たりで金色に耀きながら傍らに座ってゐます、時々立ち上がって如何にも親しそうに私の膝の上に頭を載せかけます、彼はトムソン嬢や私が散歩に連れて出る時が一番幸福です。
当地は冬中深い雪に鎖されてゐました、そして剣山号がその上を転がったり跳ねたりするのを見るのは大変嬉しいことでした、時には丈夫な前足で小川の氷を破って水を飲みそれから雪の中の狐や鹿の足跡を追って行きました、しかし帰って来ると遊んでもらおうといつも鼻や耳や尾でもって私に知らせます。
私はフライシャー氏から貴方が私の為に愛犬を御割愛下さったことを聞いて大へん感動いたしました、そして彼は益々私にとって大切なものとなりました。私は彼のきれいな毛衣や微風にゆれる松の枝のような尾に触れる度毎に貴下に感謝してゐます、私は彼を貴方から贈られた愛犬としてばかりではなく日本国民に対する友情は今尚私の輝かしい記憶に残ってゐますが、同国民からの使者として愛しています、トムソン嬢と共に鄭重なる挨拶と好意とをもって・・・・・・ヘレン・ケラーより
昭和十五年五月十六日付『秋田魁新報』より

ヘレン・ケラーと剣山号(右が礼状に添えられていた写真)
The best and most beautiful things in the world cannot be seen or even touched. They must be felt within the heart.

世界のなかで最も美しいものには、決して見たり触れたりすることはできない。それは心の中で感じられるものである。
ヘレン・ケラー
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関連リンク

Akita Dog (Odate Dog) Standard/HELEN KELLER AND AKITAS
AKITA LEARNING CENTER - Northland Akitas

ヘレンケラー物語

ヘレン・ケラー - Wikipedia
アン・サリヴァン - Wikipedia

ヘレン・ケラー神話/マンガの中の聴覚障害者

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| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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消える昭和・掘端の中華料理店


2003.11

千秋公園の近く、古川掘端通りの掘端に建つ中華料理の名店「萬帝楼」。

少し前に、しばらくの間休業するとの貼り紙が出ていたが、やがてその貼り紙も消え、先日から取り壊しが始まり、更地になってしまった。

昭和46年(1971)の開業というから、40年近くこの場所で営業していたことになる。

閉店の経緯などは下記コメント欄に記載あり。


2009.10 「萬帝楼」跡

正面の新しい建物は、「萬帝楼」の隣りに数ヶ月前にオープンしたハンバーグ&ステーキの店。“穴門の堀” の向こうに和洋女子高校。

商店や民家が建つ掘端は、“穴門の堀”を埋め立てて造成した土地で地盤が弱い。時代をさかのぼれば「古川堀反町」という旧町名が示すように、古川、つまり堀替え前の旭川がこのあたりを南北に流れていて、“穴門の堀”はその古川を利用して造成したものだという。


大きな地図で見る

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映像作家ヴィンセント・ムーン、友川カズキに迫る



フランスの人気映像作家ヴィンセント・ムーンが、感動を覚え注目するアーティストのビデオ・クリップを撮影し、音楽映像配信サイト LA BLOGOTEQUE で公開するプロジェクト The Take-Away Shows に友川カズキが登場。この早春(2009)に来日し、大阪で撮影したものだ。


パート1の冒頭からバックに流れる曲は「海みたいな空だ」。つづいて、かつての遊郭街・飛田新地に建つ料理屋「鯛よし百番」の和室で、最新アルバム『イナカ者のカラ元気』の一曲目に収録されている、稲垣足穂の小品に曲をつけた「星を食べた話」を唄う友川。フラット・マンドリンの伴奏は永畑雅人。


パート2も同じく「鯛よし百番」の和室で、曲は「ピストル」。その歌に永畑のマンドリン、パリ在住スペイン人ギャスパー・クラウスのチェロによるインプロビゼーションがからみ、唄い終わって、いつものようにコップ酒をあおる友川。



パート3は「鯛よし百番」から夜の大阪の町へ出て、エコーの効いた路上に腰をおろし「井戸の中で神様が泣いていた」「絵の具の空」、ギャスパー・クラウスは路上に寝転んでチェロを鳴らす。

対象に肉薄するカメラが捉えた、独特の質感をともなう映像は美しく見応えがある。





大サイズの動画は下記サイトに

Kazuki Tomokawa - Kazuki Tomokawa - LA BLOGOTHEQUE
Kazuki Tomokawa > Videos(歌詞付き)

ヴィンセント・ムーンは、このビデオ・クリップとは別に、友川主演のドキュメンタリー映画 "La Faute Des Fleurs"(邦題:花々の過失)を製作、本年11月に開催される「コペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭」に出品。12月にはギャスパー・クラウスを迎えて、東京で公開記念ライブが開かれる。

飛田鯛よし百番
飛田鯛よし百番 posted by (C)yojibori

いかにもフランス人が好みそうなジャポニスムあふれる、有形文化財に登録されている近代和風建築「百番」。宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルになった目黒雅叙園の縮小版のような、大正時代に建てられた遊郭の豪華絢爛たる内部装飾の一部分は、悪趣味かつチープでもある。その珍景的チープさ加減もまた、この建物の魅力のひとつなのだが。

飛田新地の入口にあたる大門の近くに置かれた、格式の低い遊郭は「一番」と呼ばれ、奥に歩を進め、その番号が増えるほど遊郭のランクも高くなったという。「百番」はステイタスを表す屋号だった。

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Kazuki Tomokawa
友川カズキ・オフィシャルサイト

LA BLOGOTHEQUE
Take Away Shows を配信する、パリ発・音楽情報配信サイト

CPH:DOX 2009:
コペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭
La Faute Des Fleurs(邦題:花々の過失)

飛田 鯛よし百番 - まちかど逍遥
ぐるなび - 鯛よし 百番
鯛よし 百番 - Google 画像検索

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フック船長の紙芝居屋さん

牛島商店街の貸本屋「牛島文庫」は、紙芝居屋を兼ねていたのか、それとも紙芝居を貸し出していたのか、店のわきに紙芝居を乗せた自転車を停め、腰をおろしてタバコで一服するおじさんの姿をよく見かけた。

楢山・牛島界隈を縄張りとするその紙芝居屋は、胸の前にぶらさげた大太鼓を打って、歩きながら子どもを呼び込み、紙芝居中に肝心な場面で入れる合いの手も「ドン!ドン!」と太鼓を鳴らす。



おじさんの片手は戦争で失ったのだろうか(復員兵の紙芝居屋が多かったという)、ピーターパンに登場する海賊のフック船長のような、クルンと丸い金属製鉤手(フック)の義手で、その銀色ににぶく光る片手を器用にあつかうおじさんの存在自体が、紙芝居の登場人物の一人であるかのような不思議な光景が、強く心の片隅にしみついている。

牛島文庫にはもう一人、赤ら顔でアル中気味の紙芝居屋がいたと思う。それがこのフック船長と同一人物であったのかもしれないが、そのへんの記憶が定かではない。

彼らは5円か10円ほどのセンベイや飴を売って紙芝居を見せる。お菓子を買った子どもらは最前列で堂々と見ているが、買えない子どもは後方で遠慮がちに“タダ見”する。人気のあったカタヌキ(下記関連リンク参照のこと)は、今もお祭りの露店で見かける精糖粉を原料にしたものではなく、べっこう飴を板状にしたヌキ飴で、絵柄を壊さずにヌクのは難しかった。


『黄金バット』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より


『ライオンマン』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より


『チョンチャン』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より

街頭紙芝居で演じられたジャンルは、活劇もの、漫画、冒険もの、時代もの、母子もの・・・・・・と幅広く、なかには不気味で猟奇的な内容の物語もあった。

昭和初期の紙芝居黎明期に誕生し、のちにテレビアニメにもなった『黄金バット』にしても、“赤マントをまとった骸骨”という奇っ怪な姿であったし、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』のルーツである、戦前の紙芝居作品『ハカバキタロー』(伊藤正美原作)は、姑にいびり殺され、胎児を孕んだまま土葬された嫁の墓の下で、主人公に成長することになる赤ん坊(キタロー)が、母の死体を食べて育ち、地上に這い出し、やがて姑に復習するという、なんともおぞましき物語。


『母の唄』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より
貰われた家で養父母に虐待される姉弟

紙芝居の起源は、明治時代に見世物小屋で演じられた「立絵芝居」という、紙人形を使った見世物に由来するという。見世物小屋の闇を源流とし、やがて街頭にとびだした紙芝居は、おのずと見世物的かつ大道芸的な泥臭さをともなう、特有な匂いをただよわせていた。

時代が下るにつれその傾向は薄められるものの、幼稚園や小学校で見せられた教育紙芝居とは対照的な内容の街頭紙芝居は、低俗な内容ゆえに当局による取り締まりの対象となることもあったという。


『妖怪大あばれ』 アサヒグラフ別冊『戦中戦後 紙芝居集成』(1995)より

大道を舞台に、正義の味方が活躍する冒険活劇を演じ、ときには混沌と不条理うずまく、この世とあの世の闇をもかいまみせ、異界から訪れたマレビトの如きフック船長の紙芝居屋は『この続きはまた明日・・・』としめくくり、片手のフックをにぶく光らせながら、暮れゆく街並の彼方へと消えてゆくのであった。

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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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朝もやの乳白色に「明がらす」舞う


大館市御成町・山田桂月堂製

子どもの時分、よく手土産にもらった、大館銘菓「明(あけ)がらす」。

明治17年頃、京都銘菓「寒氷(かんごおり)」を手本につくられた、羊羹状で乳白色の半生菓子。当時、桂城小学校の校長であった俳人・羽生竹亭氏が試食し、純白の生地にちりばめられたクルミの断面を、朝もやのなかを飛翔するカラスに見立て「明がらす」の名をつけたと伝えられる。

原料は砂糖と寒天とクルミ、シンプルだが製造には手間がかかり、熟練を要するという、丹念に練りあげられた純白の肌の、凛として上品な甘さとサクリとした特有の歯触り、舌の上でトロリと溶け、ほのかにクルミの香が口に広がる。

その強い甘さが時代に合わず、なかば忘れられた銘菓となったが、渋い抹茶に良く合い、茶席の菓子として好まれている。


秋田市南通り宮田・岡田製菓製

岩手県遠野市にも「明がらす」を名乗る、市内の九軒ほどの店で製造販売している名物菓子がある。こちらも大館と同様にクルミを使うものの、主原料に米粉・澱粉を用い胡麻を加えた雲平(うんぺい)系の餅菓子だが、その断面が大館の「明がらす」とよく似ている。(下記関連リンク参照のこと)。

元祖「明がらす」本舗を名乗り「明がらす」の商標を平成七年に登録している「まつだ松林堂」によれば、明治の初めから「くるみ糖」と称して製造販売していたものを、明治40年、クルミの切り口が明け方に飛ぶカラスの様子に似ていることから「明がらす」と改名したというが、この説明はどうも納得がいかない。

大館の「明がらす」をパクったとは断言できないが、偶然の一致とはとても思えない。いずれにしろ、命名に関しては大館のほうが元祖であり、それを真似た可能性の高い店が元祖を名乗り、その名を商標登録していることは、おかしな話しである。

登録商標といえば、居酒屋フランチャイズチェーンの「養老乃瀧」が、秋田市川反三丁目で古くから「養老乃瀧」を名乗っていた居酒屋を訴え、裁判に負けたか示談になったかはおぼえていないが、のちに「秋田乃瀧」と名を変え、市民の話題になったことを思いだした。

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大館・山田桂月堂

寒氷:お茶の心を込めた手作りの和菓子!吸古堂のお菓子「琳」

遠野の明がらすはまつだ松林堂トップページ

民話のふるさと遠野からの贈り物 “和菓子”わがし

| 食材・食文化 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『なんでも寒天で固める国、秋田』と「あさづけ」

9月12日の午前中から、当ブログへの検索キーワードのうち「秋田 あさづけ」の件数が急上昇、どうやら「@nifty:デイリーポータルZ」の「なんでも寒天で固める国、秋田」(全3ページ)という記事が原因らしく、県北出身の記者は「あさづけ」を知らなかったという。



タイトルにあるように、メインは「秘密のケンミンSHOW」でも紹介された「サラダ寒天」など、寒天系デザートのレポート。

いわれてみれば、ほんとうに秋田には寒天を使った料理やデザートが多い。旅行者の眼を通してあらためてそれを認識させる興味深い記事である。
秋田の人は、宣伝したりアピールするのが苦手なところがある気がして、常々「もったいないなー」と思っていた。
‥‥中略‥‥
寒天も豪華な食材ではない。しかし使い方によっては立派なデザートが出来ることは今回証明されたし、秋田にはその技術を持った人が山のようにいるはずである。

いつか寒天料理が秋田の名物料理として全国に知れ渡る日が来るといいなぁ…と思いながら、残った寒天を食べ続ける毎日だ。
「なんでも寒天で固める国、秋田」より


ハレの日の「べっこう寒天」


寒天・市民市場


あさづけ・米のデザート


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関連リンク

@nifty:デイリーポータルZ:なんでも寒天で固める国、秋田 全3ページ

| 食材・食文化 | 23:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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麒麟ビールの宣伝カーがやって来た!


小玉合名会社秋田支店・大正末頃

飯田川町の小玉合名会社(現・小玉醸造株式会社)の支店として、明治四十一年、秋田市中亀ノ丁(現・南通亀の町)に開設。





前掛けをした社員たちがカメラを向く、洋風建築店舗の前に、ヤマキウ印の味噌樽が置かれ、「太平山」の酒樽を積んだ大八車と、ビールの木箱らしきものを積んだ配送用自動車が停まっている。

明治四十五年の春、この店の前にビール瓶をかたどった麒麟ビールの宣伝カーが停まった。



麒麟ビールの一手販売代理店であった明治屋が、英国から購入したシャーシーにビール瓶形のボディを載せ、配達兼用の宣伝カーとしたもの。

まだ自動車そのものが珍しかった時代に出現した日本初の宣伝カーは、ユニークなボディと、クラクションの代わりにサイレンを搭載したこともあって人々に注目され、その宣伝効果は抜群だったという。

しかし、前方に突き出た部分が運転席からの視界をさえぎる構造に警視庁から注文がつき、瓶の口にあたる部分を切断したため、このボディで走ったのはわずかな期間だったようだ。


改造後

自動車など見たことのない市民が大半だった時代に秋田に現れ、小玉合名会社秋田支店の前に停まった、異様な姿の宣伝カーは、のちに支店長となる少年の目に、まるで機関車のように映ったという。
◎明治屋の自動車
麒麟ビールと洋食品の販賣により名ある東亰銀座の明治屋にては麒麟の大々的販路擴張の爲め自動車(貨物用)を以て再昨日青森市より來たり一昨日より市中を乘り囘し盛んに廣告をなしつゝあるが二十七日當市を發して横手に赴き夫れより湯澤に赴くよし因みに同店にては今囘代理店を醤油店の中龜の町小玉合名會社に定めたるにつき一昨夜三新聞記者及び取引店を倶樂部別館に招待して盛宴を開き同時に其の製造のビールを味わしめたり
明治四十五年五月『秋田魁新報』より



現在の同地点 09.09

前掲画像と同じ場所に郵便ポストがある。

小玉合名会社秋田支店はヤマキウ商店と名称を変え、つい最近まで営業していたが、現在は三菱商事系の酒類卸会社「リョーショクリカー秋田営業所」となった。


大きな地図で見る

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元祖秋田味噌 清酒太平山 小玉醸造株式会社

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花蜘蛛の花に紛れて待ちぼうけ



在来種を圧倒して繁殖する嫌われ者の帰化植物・オオハンゴンソウ(大反魂草)の、もりあがった筒状花の下に身を隠し、脚を広げて獲物を待つハナグモがいた。(画像左上)



植物に同化した透き通る緑色の脚にそっと触ると動きだし、美しい全身を見せてくれた。腹部に宇宙人の顔のような斑点がある(無い個体もある)ことから「人面蜘蛛」などと騒がれたりもするが、さして珍しいクモではない。その斑点のバリエーション(表情)の多彩さは、下記関連リンクでご確認のほどを。



巣を張らず、草や花に身をひそめ、花に呼び寄せられた、ときには自身よりも何倍も大きな昆虫を捕食する彼らは、害虫も良く食べてくれるため、農家や園芸家に大切にされている。

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ハナグモ - Google 画像検索

Misumenops tricuspidatus - Google 画像検索

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秋田 ある食堂の物語・あきこうまえ茶屋



NHK 総合テレビ
2009年10月9日(金)午前0:10~0:30放送
ドキュメント20min.「僕たちの放課後 ~秋田 ある食堂の物語~」

秋田市内の住宅街にある「秋田工業高校」の校門前に、素朴なトタン屋根の定食屋がある。メニューは「から揚げ丼」「たまごかけご飯」など、全て 100円から300円。安くてボリュームのあるメニューは高校生たちから大人気で、朝7時から夜9時過ぎまで、部活や受験勉強に疲れた生徒たちのたまり場となっている。

店主の元会社員・土井卓さん(31)は、20代の時、サラリーマン生活に忙殺され心身ともにボロボロになったときに旅先でこの店と出会った。店のたたずまいが気に入り、引退を考えていた当時の女店主にかけあってこの店を受け継ぐことにした。

今この店は、高校生たちが、恋愛、将来、幸せの意味などを自由に語らう空間になっている。放課後小さな定食屋で店主と高校生の間で繰り広げられる会話をドキュメントし、いまの若者たちの悩める心の内を探っていく。



秋田市保戸野の駄菓子屋「あきこうまえ茶屋」をとりあげた、若手ディレクターが製作する20分間のドキュメンタリー。再放送の日にちは不明だが衛星第2にて放送予定。

全国の秋工OB、子どものころにこの店に通った人たちは必見の番組。新店主の嗜好が反映され以前とはずいぶん雰囲気が変わってしまったが・・・。

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秋田市上空に巨大龍神現る


二丁目橋から北東を望む

2009年9月30日夕刻、秋田市上空に地震雲をも連想させる不思議な雲が見られた。

太平山の方向(北東)から日本海方面(南西)に、見上げれば巨大な龍神の如く、はてしなく放射状につづく厚く巨大な雲海、そして天空を真っ二つに分断した北側には青空がどこまでも広がる。


ランドマーク秋田より南西を望む


ランドマーク秋田より北東を望む




ランドマーク秋田より南西を望む

少し不気味で幻想的な雲海は、刻々と色調を変えながら夜のとばりに消えていった。

同時刻の気象衛星による水蒸気画像がこれ。



マーキングしたあたりが秋田市。日本列島を横断して伸びる雲は日本海を越え、はるか西方までつづく。東北上空の雲が厚い。



この空模様は、低気圧と高気圧のはざまの、気圧の高低差による、この時期に特有な現象で、ちょうど秋田市上空がその境界線だったらしく、いうまでもないが、地震を予兆するとされる雲ではない。

当日は秋田県から岩手県にかけて、陰と陽がせめぎ合うはざまに現れた龍神の如き雲海が目撃され、地震雲に関する画像掲示板やブログをにぎわせ、(下記関連リンク参照のこと)YouTubeにも動画がアップされた。

秋田市
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関連リンク

YouTube - 地震雲? 秋雨前線が作りだす雲の境目 岩手

2009年9月 地震雲掲示板 - 地震雲の写真画像が集まる掲示板

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「秋田 雲 30日」でブログ検索した結果の一部

頑張る!水深委員会 秋田 田沢湖高原からの夕焼けと変な雲・・・・

地震雲? - CROOZブログ-

今日の夕暮れ - くるまと空とノンキ者

素敵な雲と夕焼け - 瞳と優輝と文香のパパのすちゃらか営業日記

MINA TREASURE HUNT: 兆し

ヨッシーらいふ 今日から10月

今日の夕日、すごかった! - ひなぎく日和

前 - サイパン大好き♪別館

HarroPage 9月30日の夕焼け

時々雨、のち晴れ 高積雲ての?

秋の空 - F・UNIAN放送室

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つりばなのはぜて赤き実夕間暮れ


ニシキギ科ニシキギ属ツリバナ(吊花)の実
藩廟の跡・千秋公園にて

赤く熟したツリバナの実が割れて、今にも落ちそうな赤い実をぶら下げる秋。


ツリバナの花

五月頃に開く、すこし紅をさした淡緑色の花は気品があり、秋にはぜる赤い実とともに、茶席を彩る茶花として好んで用いられる。

吊り下がって咲き、実をつけるその姿から、ツリバナの名がつけられた。


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新しき朝を報(しら)せよラジオ塔

■昭和の近代化遺産「ラジオ塔」の時代

●千秋公園に謎の塔



千秋公園入口の秋田県記念館に隣接する花園を写した昭和初期の写真。惜しくも焼失した秋田県公会堂の跡地を整備した花園で、右手にみえる建物が記念館の側面。

一見なんの変哲のない光景ではあるが、ベンチの向側、柵で囲まれた花壇らしき場所の中央に、屋根のある塔のようなもの建っているのが気になる。まるで地下室の換気塔のような謎の構造物は一体・・・・・・。



その謎を解く鍵をみつけたのは、平成十四年に出版された『目で見る秋田・男鹿・南秋の100年』という、昔の写真を集めた書籍。


『目で見る秋田・男鹿・南秋の100年』(株式会社郷土出版社)より

解説に「千秋公園でのラジオ体操(秋田市・昭和9年)写真は朝のラジオ体操をする愛国女学館(現和洋女子高校)の女学生」とあり、千秋公園を背景に、隣接した愛国女学館の生徒たちが輪になってラジオ体操をする、その真ん中に例の謎の構造物が建っている。

先に掲げた画像の反対側から撮影したこの写真を見て、以前にどこかで耳にした「ラジオ塔」という言葉が頭に浮かんだ。

まだラジオが普及していない時代、戦前唯一の放送局であった日本放送協会(NHK)が、野外に設置した聴取装置をラジオ塔という。正式名称は「公衆用聴取施設」。

昭和五年、大阪中央放送局(NHK)が天王寺公園に設置したのが第一号で、野球の実況中継のときなどは、ラジオ塔の周囲に人垣ができ、一球一打に歓声があがったという。

昭和七年、全国のラジオ聴取者数が百万人を突破、その記念事業の一環として各地の有名公園、広場、神社境内、役場前などにラジオ塔の建設を開始、アジア・南洋など海外の植民地にも設置され、終戦までにその数四百基を超えた。


●秋田に於けるラジオ塔

ラジオ塔に関する資料は少なく断片的、ましてや秋田の物件に言及した文献となればなおさらのこと。当時の新聞で調べようにも、設置日が判らなければ手のつけようがない。

NHK が設置したものならば、秋田のラジオ塔のこともすぐ判るだろうと、渋谷の放送センターにメールで設置日を問い合わせると、数日後、秋田放送局から返信がきた。しかし、送られてきた資料は秋田放送局の開局に関するもので、ラジオ塔に関することは一言もふれられていない。

おそらく担当者はラジオ塔を、楢山にあったNHKの「電波塔」と勘違いしたのだろう。もはや死語中の死語である「ラジオ塔」という言葉を知るのは、よほどの年配者か自分のような物好きぐらいのものだから、そんな間違いも致し方がない。

かさねて調査を依頼すれば、回答が得られた可能性もあるが、こんなことで手を煩わせるのも気の毒に思い、自力で調べることにした。

あたった資料は、秋田放送局が開局し、ラジオ聴取者数百万人突破記念として全国にラジオ塔の設置がはじまった昭和七年から、ラジオ塔のもとでラジオ体操をする写真が撮影された昭和九年までの秋田魁新報と、調査開始後にその存在を知った、日本放送協会発行の『ラヂオ年鑑』、この年鑑は戦前のラジオ史を調べるうえでの基本資料であった。

前置きが長くなってしまったが、まず、ラジオ塔建設に至るまでの経緯を、秋田魁新報の記事からピックアップする。
ラジオ塔建設促進運動が盛りあがった昭和七年五月、秋田市商工会議所のメンバーが、当時秋田放送局の上部組織であった仙台放送局を訪問しラジオ塔の誘致を陳情。

同七年十月末、建設地が明徳小学校に近く授業に差し障りがあるのではないか、また、計画中の教育会館の建設にも支障をきたすと、県学務課から建設中のラジオ塔に対して抗議。

同七年十一月十四日、「新風景ラヂオ塔」のタイトルで写真掲載。キャプションに「県記念館花壇に新設された秋田市新風景ラヂオ塔は来る二十日頃から散歩の人々にお早うからお休みなさいまでの御愛嬌をふりまくことになった」とある。

同七年十一月二十日、ラジオ塔建設を記念して、隣接する記念館内において UK 子供大会開催、市内の小学校児童の唱歌、児童劇などが中継放送される。
以上の記事から、千秋公園のラジオ塔は昭和七年の十一月初旬頃に竣工、二十日頃から放送を開始したことが判明。ちなみに JOUK 秋田放送局の開局は同七年二月二十六日。


音で見る野球
秋中と郡山中学の野球試合を聴かんものと早朝から賑わった記念館構内のラヂオ塔付近
昭和八年 秋田魁新報より
ラジオ塔のある花園の木陰に集い、秋田中学(現・秋田高校)が出場した全国中等野球大会(現・高校野球大会)に耳を傾ける市民。

昭和八年十二月末の時点で県内のラジオ聴取世帯数八千七百七、普及率5.5%。これは聴取料金を支払った聴取世帯の数だから、実数はもっと多かった。


秋田放送局のコールサイン JOUK が刻まれていたラジオ塔プレート想像図

昭和七年に設置された仙台局管内のラジオ塔は、秋田市千秋公園のほか、福島市・中央公園、盛岡市・物産館前、山形市・雁島公園の五基。様式は各施設同一で、基礎コンクリート造、角灯籠型、高さ九・三尺(281.8 cm)。

昭和十五年度の県内の増設分は、土崎港町・土崎公園(神明社境内)、能代港町・能代公園、大館郵便局前の三基。昭和十八年になると仙台管内の総数は二十五基、県内の増設分は、花輪町公会堂、船川郵便局前、矢島町役場前。


●ラジオ塔のさまざま


兵庫県明石市に現存するラジオ塔 (c) OpenCage

明石市に残るラジオ塔は秋田の物件に近い角灯籠型だが、スピーカーがあった部分は空洞で、それを覆っていたと思われるシェードもない。

国内に十数基のラジオ塔が現存し、なかには復元し放送を流しているものもある。群馬県前橋市中央児童遊園の物件は、近代化遺産として国の登録有形文化財に指定されている。現存物件の画像などは下記関連リンクに。  


左 奈良猿沢池畔・木造燈籠型ラジオ塔
右 札幌中島公園・軍艦マスト型ラジオ塔
『ラヂオ年鑑』より

『ラヂオ年鑑』から形式の例を挙げると、角燈籠型、春日燈籠型、木造燈籠型、神燈型、木造ボンボリ型、石燈籠型、ミゼット型、軍艦マスト型など、素材および形状も様々で、塔というよりも、まるで四角い小屋のような素っ気ない外見の木造箱型ラジオ塔も。

ラジオ塔には、側面のスイッチを押して電源を入れる「スイッチ付」、一定時間を経過すると自動的に電源が切れる「自動スイッチ付」、放送開始時間から終了時間まで流れつづける「スイッチ無し」の三種があったようで、千秋公園の物件は「スイッチ無し」だったと思われる。


●役割を終えて

終戦後、ラジオの普及とともに役割を終えた各地のラジオ塔は次々に消えてゆく。昭和25年、記念館の花園に初代の県立児童会館竣工、このときラジオ塔も撤去されたのだろう。




09.07

現在は秋田県民会館とその駐車場となったこの地に、朝にラジオ体操の輪がつくられ、スポーツ中継に歓声がわきあがり、音楽に心和ませ、終戦の年には陛下の玉音放送に耳を傾けたであろう、朝な夕なに人々が集う、ラジオ塔と呼ばれた昭和の放送モニュメントが存在した。


大きな地図で見る
「ラジオ塔」跡

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