二〇世紀ひみつ基地

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2009年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年07月

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消えた老舗銭湯「辻の湯」新大工町

●  “六道の辻”の湯屋「辻の湯」


06.05

この3月末(2009)に閉湯した、秋田市大町一丁目の銭湯「辻の湯」が、5月の末に解体・整地され、跡地は駐車場へと姿を変えた。

保戸野鉄砲町から通町へと向かう突き当たり、旧新大工町の界隈が藩政時代から“六道の辻”と呼ばれていたことから命名された、江戸末期の開湯という、永い歴史をもつ老舗銭湯であった。“六道の辻”については、改めて記事にする予定。

「辻の湯」の裏通りが下米町一丁目、その南の下米町二丁目は藩政時代から明治初めにかけて料亭と遊郭が建ち並んだ花街だったから、そこの姐さん方も、きっとこの湯屋に通い、昼間からおおいに賑わったことだろう。遊郭がすぐ近くの南鉄砲町に移ったあとも。

「辻の湯」の名称について、平成元年の秋田魁新報の取材記事に、「昭和22年までは「鶴の湯」。この年、火事で焼けてしまい。先代の利三郎さんがゲン直しに看板を変えたようだ。」とある。

しかし、明治41年に刊行された『秋田県案内記』の、旧秋田市内における「洗湯(せんとう)屋」の項目には、「六道辻 辻の湯」の記載があるものの「鶴の湯」の名はない。


明治41年『秋田県案内記』より

そして、先日まで掲げられていた看板は、戦前の書式である“右横書き”、つまり「湯乃辻」であった。



以上のことから、創業時からの名称「辻の湯」が戦前から戦後にかけての一時期「鶴の湯」と改名され、戦後再び復旧したもので、「湯乃辻」の看板は、焼失をまぬがれた戦前からのものか、もしくはそれを復元したものと推測される。

先日まで存在した「辻の湯」の建物は、火災にあった昭和22年以降の建築で、その後に改装しているものの、約60年の歳月を刻んで、年期を感じさせる風情が随所に残されていた。


解体直前 09.05(以下4枚も同じ)










04.09
銭湯ののれんを出れば良夜(りょうや)かな 吉屋信子
10年ほど前まで、通町に面した「辻の湯」の隣りに、湯上がりの常連も晩酌を傾ける「だるま食堂」という雰囲気のよい大衆食堂があって、ボリューム満点の肉鍋、とくに味噌味の肉鍋が旨かった。


●旧秋田市内の老舗銭湯


明治41年『秋田県案内記』より

明治41年に旧秋田市内で営業していた、蒸し風呂を含めた湯屋のなかで、比較的最近まで営業していたのは、「辻の湯」をはじめ、亀ノ丁西土手町「梅の湯」、豊島町「亀の湯」、保戸野川反「杉の湯」の三軒か。

西土手町(有楽町通り)の「梅の湯」は、五丁目橋から有楽町へ曲がった場所にあった、川反の芸者さんたちも常連の銭湯で、廃業後は焼鳥屋などが入居するビルに改築されたが、数年前に解体、跡地に「居酒屋・三昧」がオープン。

豊島町(大町五丁目)の「亀の湯」は、アルカリ性鉄泉の地下水をくみ上げた鉱泉で、タオルが赤褐色に染まったという名湯。ここが廃業するまで、市内には豊島町と南通に、二軒の「亀の湯」が存在したことになる。

保戸野川反の「杉の湯」は金谷旅館の浴場、昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家・ブルーノ・タウトが宿泊した折りに入浴したことで知られている風呂。詳細は以下関連リンクに。


●時代の波に消えてゆく銭湯


銭湯すたれば 人情もすたる
銭湯を知らない子供たちに
集団生活のルールとマナーを教えよ
自宅にふろありといえども
そのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、
ただ体を洗うだけ。
タオルのしぼり方、体を洗う順序など、
 基本的ルールは誰が教えるのか。
われは、わがルーツをもとめて銭湯へ。
詩人 田村隆一
(毎日新聞より)
「辻の湯」の脱衣所にあった、銭湯へのオマージュが綴られたこのポスター、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりらしく、今も全国の銭湯に、場合によっては額装されて掲示されている。

高度経済成長期が進行するなか、内風呂の普及率上昇による客の激減にはじまり、設備の充実したいわゆるスーパー銭湯の出現、さらには燃料費の高騰などで苦しい経営がつづき、経営者の高齢化もかさなり銭湯は次々に廃業し姿を消してゆく。

昭和39年には44軒を数えた秋田市内の銭湯も、残るのは「星の湯」(南通みその町)と「手形の湯」(手形山崎町)の二軒のみ。

世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。

その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない。


04.03
銭湯の廃業届け菜種梅雨 高杉杜詩花
惜しまれて消ゆる銭湯一葉忌 吉田京子
銭湯の跡地射干(しゃが)咲いてをり 高澤良一


大きな地図で見る
「辻の湯」跡

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恐怖の階段・街角の顔



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花に水、心に音の夜音会


09.06.20

6月21日の夏至を前にして、急に蒸し暑くなった20日土曜日の夕方、サン・パティオ大町の中庭で、毎年恒例のトワイライトリレーコンサートがスタート。いまでは大町の夏の風物詩として定着したこの企画がはじまって、今年で10年目だという。

夜風の吹き抜ける、たそがれ時の中庭に流れる、チアーズの歌心あふれる歌声と演奏が、枯れた花に水を注ぐように心地よく心をうるおす。



毎年楽しみなトワイライトリレーコンサートの初日だけれど、ここ数年、チアーズがオープニングを飾るため、初日でその楽しみの大半が終わってしまう。

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関連リンク

サン・パティオホームページ

チアーズ オフィシャルサイト

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金鳥の夏来たりなば除虫菊


シロバナムシヨケギク・秋田市添川にて

田植えが終わる頃、マーガレットに似て、白く可憐な花を咲かせる、ユーゴスラビア原産のキク科の多年草・シロバナムシヨケギク(白花虫除菊)、通称・除虫菊。

15世紀の頃、捨てられて枯れた花の周囲で、たくさんの昆虫が死んでいるのが発見されたことから、殺虫効果が認知され、主に蚤取粉の原料として使われはじめたという。生花には除虫効果はない。

除虫菊を日本に広め、除虫菊産業界の恩人と称されるのが、和歌山県有田の蜜柑農家に生まれ、紀州蜜柑を海外に輸出する貿易会社を設立し成功をおさめていた上山英一郎。

除虫菊に将来性を感じた上山は、瀬戸内地方をはじめ北海道、朝鮮までおもむき、栽培を奨励する講演会に明けくれ、やがて、その白く可憐な花は日本全国に広がってゆく。

上山は除虫菊の粉末を線香に練り込んだ棒状蚊取線香をはじめ、のちに主流となる渦巻蚊取り線香を開発した、大日本除虫菊(金鳥)の創業者。その詳細は以下関連リンクに。



明治38年に上山がアメリカに輸出したことを皮切りに、除虫菊(干花、粉末)および蚊取り線香など加工品の輸出量は年を追うごとに増加、やがて世界一の生産量を誇る、わが国の重要輸出品へと成長。


海外向けポスター

しかし、第二次世界大戦が進行するなか、その輸出量は徐々に減少、食糧難にともなう食用作物への転作の影響で大きく落ち込み、除虫菊産業は風前のともしび。

以降、除虫菊の主要生産地はケニア高地地方に移り、戦後の日本は除虫菊輸入国となる。

除虫菊の花に含まれる天然ピレトリンには、即効性のある殺虫効果があり、現在市販されている家庭用殺虫剤のほとんどが、天然ピレトリンを手本に科学的に合成した、合成ピレスロイドを使用。

蚊取り線香の成分も同様だが、除虫菊の絞り粕を原料にまぜて、あの特有の香りを維持しているという。また、大日本除虫菊の「天然除虫菊 金鳥の渦巻」をはじめ、100%植物成分を謳う製品が今もまだ健在。



ブタの容器に入れた蚊取線香を手にしてでかけた、近くの原っぱでの納涼映画会。蚊帳が吊された開け放たれた寝室で、その香りに包まれて眠った夜の情景・・・・・・。かつては夏の風物詩であった蚊取線香も、エアコンが効いた密封空間の家が多くなった今、もはや前世紀の遺物か。煙のでない電気式の蚊取器には情緒がない。


●広告で見る蚊取線香


「清水桂林堂」明治38年

線香と、いぶして使う袋入り粉末、陶器製「蚊燻器」の広告。


左・大正12年 金鳥印の「大日本除虫菊」
右・大正2年 金鳥印の「上村英 農園部」


猪印の「安住大薬房」大正8年

上山(金鳥)と同時期から蚊取線香ならびに蚤取粉を販売し、昭和に入って海外にも工場・出張所を置く。


月虎印の「内外除虫菊株式会社」大正10年

上山(金鳥)と同じ和歌山県有田市で創業、輸出用のマークは猿印。現在も有田に健在。


左・キング印の「帝国除虫菊株式会社」昭和10年
右・「安住大薬房」の紙巻蚊とりカトール 昭和17年

安住の「紙巻蚊とりカトール」は、粉末を紙でくるんだものか。

「帝国除虫菊」は上山(金鳥)と同じ和歌山県有田市に創業し、同時期から除虫菊加工品を製造。戦後「キング除虫菊工業株式会社」「キング化学株式会社」と名称を変え、平成21年、「白元」と合併。


キング除虫菊工業株式会社 ポスター(戦後)


獅子印の「大同除虫菊株式会社」昭和16年

上山(金鳥)と同じ和歌山県有田市に創業、戦後「ライオンかとり株式会社」と名を変え、その後「ライオン歯磨」の傘下に入り、「ジョンソン株式会社」の子会社を経て「ライオンケミカル」となる。有田市に本社を置き、現在も蚊取線香を製造。



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関連リンク

日本人のオリジナリティ探訪 世界初の渦巻蚊取線香の発明者 上山英一郎

KINCHO大日本除虫菊株式会社 ホームページ

除虫菊の線香:紀陽除虫菊株式会社
蚊取り線香ができるまで

KINCHOの夏☆日本の夏 金鳥の渦巻きプチマスコット

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たそがれのプロフィール・街角の顔



陽が落ちる前の、ほんのつかの間、西日を浴びた壁面にダンディーな左向きの横顔を映し、刻々と表情を変えながら、やがて黄昏に消えてゆく彼が居た。

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マイテーとは何か?・大正の不思議広告



大正元年の秋、秋田魁新報三面に、「マイテー 何か」という、謎の文面の一段広告が掲載され、それから十四日のあいだ、その不可解な広告が延々とつづく。はたして「マイテー」の正体はいかに。






ナポレオンは マイテー人物(マン)
大日本帝国は マイテー邦国(カントリー)
英京倫敦は マイテー都市(シテー)

埃及金字塔は マイテー遺物(ニユメント)
日本富士山は マイテー山嶽(マウンテン)
さて其の次のマイテーは?
最初の掲載から十五日目、皆様ながらくお待たせしました、ようやく「マイテー」の正体を明かす謎解き広告が・・・・・・。



その正体は、秋田市下肴町に煉瓦造りのモダン店舗を構える大島商会特製の「マイテー靴」。

「特色は如何(いかん)」と、また翌日へと広告はつづき、半月にも及ぶ連載広告は完結を迎えた。


靴の需要増加と共に徒に外見を飾れる粗製濫造品の多きに鑑み特約工場を東京に設置し厳重なる監督の下に欧米の最新方式に則り製作せしめたるもの是れ即ち特製マイテー靴なり堅牢にして持久力に富み全くマイテーの名に反かず而も実用を主とせるが故に価格の低廉なる多く他に類を見ず。一度び使用せられなれば二たぴ三たび否な永久にマイテー靴を忘れ給う能わざらむ
明治の創業時から広告を重視した大島商会は、秋田市手形出身の人気文筆家で文明批評家の青柳有美を顧問として迎え、当時としては斬新な経営と広告を展開。この「マイテー靴」のアイデア広告を考案し、広告文を書いたのも青柳有美ではないだろうか。

謎かけの惹句を仕掛け、数日後に謎解き広告を載せる、このようなタイムラグ広告は、せわしなく情報があふれかえり、埋もれるスピードも早い現代では考えられない、ゆるやかなる時代の広告表現といえよう。


旧大島商会店舗 正面入口の石積アーチと要石が重厚にして優美

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もうすぐ夏祭りの季節



牛島商店街に貼られた三皇熊野神社祭典のポスター。早いもので今年もそんな季節か・・・・・・。本年度の日程は七月十一日(土)、十二日(日)。詳細は以下関連リンクから。

この祭典ポスターの曳山写真は当ブログが提供。発行されてしばらくなる、三井生命のPR誌『ベクトルライフ』六月号にも、ブログに掲載済みのものだが、馬口労町の草市で撮影した写真を提供しているので、手に取られる機会があればご覧下さい。



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百年目の自転車遠乗会そして百哩大競走



今日の秋田魁新報にこんな記事が載っていた、とのメールに添付されて、六月十一日の朝、この画像が送られてきた。

下肴町の大島商会が明治四十二年六月六日の日曜日に開催した、自転車遠乗会のことを「秋田の今昔を紹介するウェブサイト」で知り、この六月六日に、百年前と同じコースで遠乗り(サイクリング)を再現したという。

明治の世に遠乗会を企画した大島商会店主・大嶋勘六氏も彼の世から、その姿を目を細めて見守っていたのではなかろうか。


大島商店前に揃った自転車遠乗会会員たち
明治四十二年・書籍広告より

さて、大島商会はこの自転車遠乗会をさかのぼる、明治三十五年の秋、「自転車百哩大競走」なる、秋田市を早朝に出発し、海岸沿いを本荘まで南下、山越えの道を内陸に進み、浅舞、横手、六郷、大曲を経て秋田市に帰着する、100マイル自転車レースを開催。道路が整備された現代でも相当過酷な、各地から集まった猛者が参加した耐久レースだった。

この秋の同日、それと同じコース約200km を自転車で走り抜ける“復刻版百哩大競走”、いや、タイムを競うわけではないので、“復刻版百哩チャレンジ”を企画している方がいるので、いずれまた紹介するつもり。


旧大島商会店舗

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蔦の絡まる壁面に・街角の顔



お口からヨダレが出てますよ

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いかつい壁面桜色・街角の顔



四角四面でいかつい顔が、ほんのりと桜色

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えごの花踏みしめて行く野辺の道


エゴノキ エゴノキ科エゴノキ属

その実を口にするとエグイことから、エゴノキと名づけられた、甘い芳香を放ち、地に顔を向けて咲く白く清楚な花。

エゴノキの実がエグイのは、発泡作用があり石鹸の原料でもあるサポニンが含まれているため。まだ青い卵形の小さな実をつぶして、石鹸代わりにしたことから「シャボンの木」とも呼ばれた。

また、サポニンには魚毒性があることから、エゴノキの実や根を水中でつぶし、川魚を麻痺させて捕獲する、毒流し漁に用い、弾力性が強い枝を火であぶって曲げ、カンジキをつくったという。


千秋公園・秋田八幡神社にて





落花もまたおもむきがある。こぼれ落ち、白々といちめんに敷つめられて、なお香り立つ花の、枝に咲くときよりも印象的な、その情景を詠んだ俳句も少なくはない。
えごの花ながれ溜ればにほひけり 中村草田男
えごの花歓声のごと坂に散る 桜井博道
えごの花散り敷く水に漕ぎ入りぬ 大橋越央子
えご散るや咲くやしづかに山の音 渡辺桂子
えご散るや田水はつねに新らしき 松村蒼石
えご散れり森の出口の明るさは 原柯城






えごの花が落ちれば、もうすぐ梅雨だ。

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第三十一回「千秋茶会」千秋公園

平成二十一年六月七日
秋田市制百二十周年記念 第三十一回「千秋茶会」
於・秋田市千秋公園本丸











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公孫樹様専用・通り抜けの穴


大橋屋旅館 09.05

通町橋のたもとに建つ、“小便小僧”モニュメントの向かい、大橋屋旅館の庇に穿たれた、公孫樹(いちょう)の通り抜け穴。改築の際、門前の公孫樹をそのまま保存するために開けたものと想像される。

もともとは外町の職人町・大工町(通町)で営業していた旅館で、大正7年、かつては秋田市の官庁街であった土手長町に移転。

公孫樹のために四角く穴の穿たれた庇の上に、木製で年代物の旧称“大橋旅館”の屋根看板が上がるが、戦後の“左横書き”なので、それほど古いものではない。

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秋田銀行の新制服がビミョーな件



雑記帳:ドン小西さんデザインの大胆制服 秋田銀行 - 毎日jp(毎日新聞)

ドン小西がデザインしたという、秋田銀行の新しい制服。まるでどこかの百貨店の包装紙のような派手な配色のブラウスが、落ち着きのない印象を与えて、銀行の制服としてはビミョー。

それを見越してか、あらかじめ無難な無地のブラウスも用意しているというから、結局はそれに落ち着くのではなかろうか。

※追記

全てのバリエーションの画像が掲載されている、秋田銀行の WEBサイトをみると、このブラウス以外は全体的に地味な感じで、組み合わせは自由に選べるとのこと。

女子事務服の改定|ニュースリリース|秋田銀行




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永遠の昭和の子ども・ヤン坊マー坊50周年

今日6月1日は気象記念日。明治8年6月1日、日本初の気象台として東京気象台が設置され、気象ならびに地震の観測が開始されたことを記念し、明治17年に制定される。

この日はまた、ヤンマーの双子キャラ「ヤン坊マー坊」がブラウン管にデビューした「ヤン坊マー坊記念日」。



民放テレビの草創期、昭和34年6月1日の夕方、「ヤン坊マー坊天気予報」の放映がはじまり、この(2009)6月1日で50周年を迎えた。

番組を提供する、発動機メーカー・ヤンマーの社名の由来は、オニヤンマから。豊作のシンボルであるトンボが社名候補だったが、すでに商標権が他社に取得されていたため、トンボの王様・オニヤンマにちなんでヤンマーと命名。

もはや国民的ミミタコソングといえる「♪ボクの名前は・・・」ではじまるCMソングは、当時の宣伝部長が作詞、作曲を、美空ひばりの「リンゴ追分」、水前寺清子の「365歩のマーチ」、小林旭が歌い、出演したヤンマートラクターのCMソング「赤いトラクター」などを手がけた米山正夫が担当。

中邨靖夫が19歳から描きつづけたアニメーションは、昭和34年の第一作目から年4本、合計200本を超える。

同社では誕生50周年を記念し、50年間の変遷を振り返る「ヤン坊マー坊天気予報」記念バージョンを放映するほか、WEBサイトでも配信。50周年スペシャルコンテンツの「ヒストリー」にて、第一作目からの厳選したムービーを視聴できる。



上段が昭和34年(1959)の第一作、下段が昭和43年(1968)カラー放送第一作目。ずいぶんスマートな体型の初代ヤン坊マー坊が登場する、第一作目のまるで童謡のような、のどかなテンポのCMソングが、なんとも牧歌的。

我が家にテレビジョンがやってきた、忘れもしないあの日以来、唯一の民放テレビ局だった ABS 秋田放送11チャンネルから流れる「ヤン坊マー坊天気予報」は、あのCMソングともに、夕刻の茶の間にとけこんで、生活の一部になっていた。

茶の間に鎮座したテレビジョンの前で、CMさえも見逃すまいと真剣にブラウン管を見つめていた遠い日々から数十年、ヤン坊マー坊の二人は、今も変わらず昭和の子どものままに、やんちゃな姿をテレビジョンに映しつづけている。

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関連リンク

ヤンマー広場|ヤンマー株式会社

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