二〇世紀ひみつ基地

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2009年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年03月

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秋田における近代スキーの黎明

●秋田スキー事始め

東京高等師範学校教授・永井道明が、秋田市における体育講習会の際、スウェーデンから持ち帰ったノルウエー式(二本杖)スキーを持参し、実演および指導をしたのは、明治四十三年十二月のこと。

明治四十四年一月十二日、オーストリアのレルヒ中佐が、“日本スキー発祥の地”新潟県高田市の金谷山において、陸軍歩兵第五十八連隊の青年将校たちにオーストリア式(一本杖)アルペンスキーを指導をした数週間前のことである。


高田市におけるスキー・左にレルヒ中佐
明治四十四年刊『スキ-写真帖』第十三師団司令部蔵版より


●スキーに魅せられた永井道明

体育研究のため欧米留学を命じられた体育学者・永井道明は、明治四十年から約一年間、ストックホルムに滞在し、スウェーデン体操を研究する。このときスキーの存在を知った永井は、実用的かつ体育学的にも有効なスキーに魅せられ、その技を磨いた。
何と言っても一番感服したのは冬の遊び氷や雪の運動であった。‥‥中略‥‥至る處の湖岸のスケート、山林丘陵のスキー、冬ならでは見ることのできない活動の楽天地である。
 余は此の間に余に取りて最も珍しいスキーを試みた。暇さえあれば、出来さえすれば練兵場の雪の上に瑞典(スウェーデン)の子供達仲間に入れてもらって滑走否・・・・・・多くは転倒・・・・・・した。幸いに身丈が短小なので彼らの歓迎と愛護とを受けた。次の事は其の際生んだ奇談のひとつである。
 或時瑞典第一流の新聞第一ページに余のスキー写真を掲げ、題して「スキー上に於ける日本公使」としてある。これには時の公使(後独逸大使)杉村虎一氏も苦笑された。
‥‥中略‥‥
 他日杉村公使は、スキーのわが国民なかんずく陸軍に必要で有るべきを考えられ、其二三を寺内陸軍大臣に送付せられた。陸軍はこれを雪の高田師団に送って研究を命ぜられた。かの長岡将軍堀内中将などの奨励と相俟って、当時幸いにも同師団滞在中の墺太利(オーストリア)レルヒ中佐の指導に頼りて、スキー練習を開始したのは明治四十四年で、余が明治四十三年秋田を始め山形、岩手、青森等に試みた翌年であった。‥‥中略‥‥余と間違われた杉村閣下が送ったスキーが因をなし、わが国スキーの発祥をなしたのも余よりすれば実に奇跡好運である。而して爾来スキーが真に長足の進歩を遂げ、国際的にも民衆的にも今日の隆昌を来したのを想う時に、世間の事唯々歓喜の外はない。‥‥後略‥‥
『遺稿 永井道明自叙伝』より
明治四十三年、当時スウェーデンの日本公使だった杉村虎一が陸軍省に寄贈した二台の軍用スキー(山地用と平地用)と関連書籍は、新潟の師団に送られ、高田にスキー研究班が組織された。彼らはレルヒが来日する前に独学でマスターしてやろうとスキーを試みるも失敗に終わり、翌四十四年一月十二日からレルヒの指導を仰ぐことになる。


●もうひとつのスキー発祥地・秋田

海外留学から帰国し、東京高等師範と東京女子高等師範の教授を兼任していた永井道明が、明治四十三年十二月、秋田女子師範学校における体操講習会(秋田県教育会主催・十二月二十四日~二十九日)のために来秋。この講習会、前秋田県師範学校長・横山栄次と、秋田市出身で女子体育教育の先駆者であった井口あくりの要請で実現したらしい。


左・大正二年書籍広告 右・永井道明『家庭体操』明治四十四年より

そのとき、永井はスウェーデンから持ち帰ったノルウエー式(二本杖)スキーを持参、体操講習会の合間を見て、自ら実演してみせたほか、希望者にスキーを履かせて指導した。実演した場所として記録されているのは、千秋公園坂下門跡をはじめとして、手形山、楢山運動場(平地)、手形練兵場(平地)。


千秋公園坂下門跡

永井道明によるスキーの実演と指導は、高田市におけるレルヒによる指導に先立つ、前年の歳末に行われたのだから、秋田こそが“スキー発祥地”といえそうだ。ところが、永井(秋田)、レルヒ(高田)以前の日本スキー史をさかのぼると、以下のような記録もある。

■明治四十一年、札幌の東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)予科のドイツ語講師・ハンス・コラー(スイス人)が、母国からスキー一台を輸入し学生等ともに試乗、ハンスはスキー術に未熟で、履いて歩く程度だった。

大正時代、「スキー発祥地は札幌か高田か」をめぐって論争が起こったが、正式なスキー術を導入し、全国普及の契機となった高田を発祥地とすべき、との結論にいたり高田に軍配が上がる。

理解ある師団長(長岡外史)の下、陸軍が主体となりスキーを組織的に導入した高田では、レルヒの初指導から間もない、明治四十四年二月、日本初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」の設立、競技会の開催など、スキーが着実に定着し、全国へ普及してゆく端緒となったという意味では、新潟の高田(現・上越市)が“スキー発祥地”の名にふさわしい。


高田市におけるスキー
明治四十四年刊『スキ-写真帖』第十三師団司令部蔵版より

北海道および、まだスキー用具も満足になかった秋田には、それを受け入れる体制がなく、永井道明の来秋がスキーの普及に結びつくには至らなかった。

それでも、本場仕込みのスキー術に熟練した人物が、スキーを指導した例として、千秋公園および手形山は、“秋田のスキー発祥地”であることは言うに及ばず、雪国に点在する“日本スキー発祥地のひとつ”ということができよう。


●平野政吉のスキー道楽

そのほか、土地の富豪が道楽としてスキーに乗った例として、青森の豪商・野村治三郎が明治三十七年、ノルウェーからスキー二台を輸入し試乗(野辺地に「スキー発祥の地碑」あり)。

永井道明が秋田にスキーを持って来た明治四十三年、秋田市大町の大地主の息子・平野精一(三代目・平野政吉)が十五歳のとき、ノルウェーからスキー用具一式を取り寄せて滑ったことを自ら語っている。その日付はわからないが、平野は秋田でスキーを履いて滑った初めての人物かもしれない。


●その後の秋田スキー史

■明治四十五年一月、新潟県高田市における三週間のスキー講習会に、降雪地師団専修員として、歩兵第十七連隊の村野誠一中尉を派遣、レルヒの指導でスキー術を習得。

■明治四十五年二月、オーストリア人クラッツアーを横浜から招き、小坂鉱山においてスキー講習会開催。

■明治四十五年二月、高田市でレルヒから指導を受けた、歩兵第十七連隊の村野誠一中尉を指導者に、秋田市で十五日間にわたりスキー講習会を開く。森正隆県知事は、スキー講習会が始まった二月十四日付で各学校・役所に宛てて「スキー及び相撲」を奨励する訓令を出す。

この講習会は連隊だけではなく、希望があれば学生など一般人にも門戸を解放、県内の各学校、電灯会社、大林区署から各一名ずつ、計二十数名の民間人が参加。レルヒのプログラムに従い、講習、学科、実技指導が行われた。

実地講習の場所は、千秋公園と金照寺山。最終日の二日間は、木曽石経由で前岳に宿泊し、夜明けに下山する、有志による太平山への一泊行軍で締めくくられたが、これは積雪が少なく満足のいく結果ではなかった。

■大正元年十二月、先のスキー講習会参加者を中心に「日本スキー倶楽部秋田支部」結成、秋田県知事が支部長に就任。

■大正二年二月、高田市で「第一回全国スキー大会」開催。秋田県から煤賀儀八郎(旭北小学校教員)、三浦弥(秋田中学校)、武藤鉄城(秋田中学校)の三人が出場。雪質の違いに苦しむも、煤賀は長距離で六等、武藤は長距離で八等、短距離で四等に入賞する。

当時、秋田中学校の四年生だった、秋田市豊岩生まれの武藤鉄城は、著作も多い考古学・民俗学者でありながら、スポーツセンスに優れた文武両道の人で、大正十二年には、ラグビー、スキー、ホッケーなど西洋近代スポーツ普及を趣旨とした「秋田運動倶楽部」を結成、のちにラグビーとスキーの功労者ととして、県体育功労賞を受賞している。


秋田市のスキー風景・大正期

一本杖と二本杖が混在するスキー風景を写した、「秋田市付近のスキー」とキャプションが付けられた、手形山と思われる写真。


●新聞広告にみる秋田スキー黎明期


新聞広告 大正二年一月


新聞広告 大正二年一月


新聞広告 大正二年十二月

教員の初任給が十円ほどの時代、輸入スキーの価格は五円から八円と高価だったが、スキー人口が増え始めると、ほぼ半額の国産品が造られるようになり、大正二年頃から県内でも、曲木家具で有名な秋田木工などが製造が始め、さらに安価に販売するようになった。

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関連記事

二〇世紀ひみつ基地 昭和30年の秋田市と平野政吉のこと

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日本スキー発祥記念館

スキーの歴史(世界と日本の歴史年表・年譜)

スキー発祥の地碑 - 青森県野辺地

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昭和30年の秋田市と平野政吉のこと

昭和30年の秋、全国の映画館で映画の前に上映されたニュース映画。(現在、動画配信元が公開を停止中)

冒頭のタイトルバックは、土手長町通りの消防署(現・ホテルはくと界隈)火の見櫓から、左下に秋田市役所の明治建築を俯瞰した市街。

夜明け前、秋田駅からあふれ出て市場へと向かうガンガン部隊(行商人)の群れで始まり、市場の青空マーケット、農協倉庫、大町三丁目の町家・醤油の田中太吉商店、大町一丁目の平野政吉邸、藤田嗣治画伯の大壁画とつづき、田圃の中の八橋油田で終わる。

なかでも興味深いのは、まだ60歳前後の平野政吉(1895~1989))の姿。本金(現・イーホテル秋田)から俯瞰で、大町一丁目の平野本邸をとらえるカメラは室内に移り、真贋取り混ぜた膨大なコレクションに囲まれた三代目・平野政吉。つづいて、下米町の平野家米蔵に眠る、藤田画伯の手になる門外不出の大壁画「秋田の行事」。


●奇人・平野政吉スピード狂時代

平野家は佐竹氏にともない水戸から秋田に来た米穀商、もともとは米町で営業していた。終戦後の農地解放までは、300町歩の水田と600人の小作人をかかえる大地主で、金融業(質屋)も営む。精一(幼名)は、その三代目として明治28年に誕生。

三代目・平野政吉にまつわる枚挙にいとまがないエピソードから、若き日のスピード狂時代のことを。

15歳のときの毎月の小遣いが75円、教員の初任給が約10円の時代である。この頃から、安い物は10銭ほどで買えた浮世絵版画を蒐集し始め、輸入車のオートバイを東京の代理店から取り寄せ、フルスロットルで乗り回し市民を驚かす。これが秋田で最初のオートバイという。

大正2年、今度は自動車に熱中、まだ国産自動車が販売される前、東京帝大の博士に設計を依頼して造らせた、秋田初の自動車を購入、舗装されていない道路を土煙をあげ、フルスピードで脱兎の如く走り回った。手漕ぎボートしかなかった時代、秋田で最初のモーターボートで、秋田市の中心部を流れる旭川で轟音としぶきをあげて操縦。

オートバイ、自動車、モーターボートの全てを赤色にペイントし、白文字で大きく「HIRANo」と入れた。「o」だけを小文字にしたのは、大文字だけをフランス語読みで読めば「いらん」つまり「問答無用」という意味だとか。

さらに、乗り物に乗るときの服装も赤一色に統一、その奇人変人ぶりに「キ記だ!」「平野のあんちゃ、とうとう乗物バカになってしまった」と噂され、秋田市でその名を知らぬもののいない名物男に。

大正3年、秋田に初めて飛行機が来て空を舞って以来、飛行機に夢中になった青年は、自動車の前に本物のプロペラを取り付けて走らせ、飛行士への夢を募らす。

大正6年、「飛行士になって後世に名を残す」との書き置きを残して東京に出奔。日本帝国飛行協会で操縦を学ぶ。

平野政吉
▲所沢飛行場に於ける平野氏

大正13年、軍の払い下げで購入した百二十五馬力の複葉機を、強風のなか制止を聞かず操縦中、木更津沖に不時着、九死に一生を得、秋田で療養生活を送る。
 

●米蔵の大壁画

なんでも「いちばん」にならなければ気が済まず、人を驚かせることが大好きだった男が、映画撮影のため秋田を訪れた、“世界一の絵描き”を自称する藤田嗣治に「それならば世界一の絵を・・・」と迫り、やがて完成したのが、平野政吉美術館の目玉として展示されている「秋田の行事」。

米蔵をアトリエに15日間で完成した、長さ20.5メートル、畳64枚分の壁画に平野が支出した金額は50万円、当時、家百軒はゆうに建つ金額だったとか。

秋田の行事
▲秋田の行事

平野は「秋田の行事」ばかりではなく、全国都道府県の風俗壁画を藤田に描かせ、レールを敷いた長屋形式の美術館を建てて展示し、トロッコに乗せて観覧させる計画だったというから驚く。そんな夢のようなお話も、実現しかねないほどの富豪であった。

昭和42年、永年の念願だった美術館が千秋公園入口に竣工、米蔵を壊して運ばれた壁画は、大きすぎて美術館の入口から入らず、できたばかりの壁をくり抜き、約一週間をかけて展示された。

平野政吉に関するエピソードの数々は、平成14年に出版された『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』渡部琴子(新潮社)に詳しい。

当初は「藤田美術館」とする計画だった名称が、最終的に「平野政吉美術館」となったことで、絵描き(藤田)とパトロン(平野)の間に亀裂が入り両者は絶交するが、その経緯については、藤田側の証言と、平野の言い分に食い違いがある。その点を補完する意味でも、同時期に出版された『藤田嗣治「異邦人」の生涯』近藤史人(講談社)を併読することをおすすめしたい。


▲一丁目小路・平野本邸勝手口

大町一丁目の角地にあった平野本邸と土蔵は駐車場に、藤田画伯が壁画製作中に止宿した鷹匠町の平野別邸跡地にはマンションが建ち、今はそのコレクションの一部と美術館だけが残された。


「平野本邸」跡

▼平野政吉、始めて飛行機を見る 

秋田県立美術館 -

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城下の名残「鑑の松」貞節の鑑

●土手の上の老松


 08.10

秋田市矢留町、保戸野新橋のたもと、土塁の上で貫禄のある優美な姿をみせる老松「鑑(かがみ)の松」。

佐竹義宣公が、今の千秋公園に築城、町割りの一環として旭川を大改修し、掘替えの際に出た土で旭川の東岸に、高さ八尺(約2.5メートル)の土手を築いた際に植えられたもので、間近にある「鷹の松」と同様に樹齢三百八十年ほどの老松である。

防御壁として旭川の東岸、内町(うちまち)側に築かれ、松が植えられた土手は、北は千秋中島町の踏切付近から、南は有楽町通り付近まで延々と連なり、土手に沿った町には、土手長町・中島土手町・亀ノ丁土手町などの地名が付けられた。

旭川に接した土手は明治維新以降、徐々に取り払われ、昭和二十年頃までに消滅するが、唯一残ったのがこの「鑑の松」のある土塁。


右・明治元年『秋田城郭市内全図』より
左・正保元年『出羽国秋田郡久保田城画図』より

緑色マーキングのあたりが「鑑の松」の位置。

正保元年(1644)の絵図の保戸野新橋を渡った突き当たり、今の「チサンマンション北高前」の場所に、敵の侵攻を防御する土塁(一文字虎口)がみえる。このような形式の土塁は、外町からそれぞれの橋を渡った突き当たりに築かれていた。

「鑑の松」の東側に藩の「材木場」がある。仁別で伐採され筏に組まれた杉丸太が、旭川を下って陸揚げされた貯木場で、この杉丸太は八幡坂を引き上げ、北の丸にあった大木屋(おごや)で製材され、城内で利用された。


八幡坂・千秋公園


●貞節の鑑(かがみ)として

緑濃き老松が枝を交わし、城下町の風情をただよわせていた旭川東岸の土手のうち、鷹匠町から中島付近までが取り払われたのは、昭和二年の市営住宅建設のためという。

その際に一カ所だけ残された老松は、秋田高等女学校(現・北高)の入口に位置することから「女学校の松」とも呼ばれていたようだが、秋田高女が創立三十周年を迎えた昭和六年に「鑑の松」と命名し、その根本に高橋謙堂揮毫による碑を建立して三十周年記念事業とした。


秋田高女創立三十周年記念 唱歌「鑑の松」

樹齢が永く、常に鮮やかな緑を保つ松の樹は、長寿や女性の貞節・節操の象徴として古くから賛美されてきた。時を超えて緑を絶やさず、この地にそびえ立ち続ける姿に沈黙の教訓を見いだし、“老松を鑑(かがみ)とする”という意味を込めて「鑑の松」と命名され、登下校時などにその前を通るときには、会釈するのが習わしだったという。


秋田高等女学校 明治期

明治三十四年竣工の擬洋風建築。昭和五年十月、校舎の大半を焼失する。初期は旭川側に校門があったため、市街から登校する生徒は、必ず「鷹の松」前を通って通学した。


05.04

よく手入れされた生垣に囲まれた土塁の上の「鑑の松」。あちこちに修復の跡が目立ち、とくに根本から広がる大きな傷跡が痛々しい。

平成二十年四月、秋田北高(旧・高女)で男女共学が始まる。女学生の鑑と讃えられた「鑑の松」も、よもや高女に男子が通学するようになろうとは、夢にも思わなかっただろう。


保戸野新橋から鷹匠橋と鷹匠町のマンション街を望む  08.10


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モータープールのあるジオラマ


秋田駅東口

ヘリコプターからチルト and シフトレンズで撮影したような、ジオラマ風(ミニチュア模型風・箱庭風)写真を、画像処理ソフトで模倣するには、被写界深度が浅くなるように周辺部をぼかし、彩度とコントラストを上げればよい。しかし、問題はそれにふさわしい素材探し。


秋田駅東口

高所から俯瞰できるロケーションの良い撮影スポットは少ない。俯瞰した写真よりも平地で浅い角度で撮った写真のほうが、むしろジオラマ風に仕上がる場合もある。天候と太陽の角度による陰影も仕上がりに強く影響する。


秋田駅前緑屋付近

手軽にジオラマ風写真を作成できる Tilt Shift Maker という Web サービスもある。(下記関連リンク参照のこと)



元画像に合わせてピントの位置および幅を変更することが可能、デフォルトで彩度を上げるようになっている。素材によっては意外に雰囲気のあるジオラマ風画像が得られることもあり、これはこれで面白い。


Tilt Shift Maker 作例・千秋公園二の丸

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関連リンク

tiltshiftmaker.com - Transform your photos into tilt-shift style miniatures

無料で簡単!箱庭写真 tilt shift maker - [CG・画像加工]All About

Flickr: The Tilt-shift Miniature Fakes Pool

Tilt-Shift Photography | Miniature Faking | Tilt-Shift Photoshop Tutorial | TiltShiftPhotography.net

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二〇世紀ひみつ基地 マンションのあるジオラマ

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マンションのあるジオラマ



秋田市手形字中谷地「サンデュエル手形」付近


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OPENERS - ミニチュアのようなリアルな写真――本城直季写真展「small planet」

【写真展リアルタイムレポート】本城直季「small planet」、「クリテリオム67」

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