二〇世紀ひみつ基地

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2008年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年02月

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ラヂウム温泉と霊泉水・千秋公園


勝平得之『千秋公園八景・松下門跡』昭和十二年

千秋公園入口の坂を上った松下門跡の版画は、現在とさして変わらない戦前の風景。ただ、今はないものといえば、左手の鐘楼へと向かう階段の登り口に立てられた、バス停のよう立つ、丸く「温泉」の文字が書かれた赤い看板。

赤い看板がある階段を上ったところに、大正初期、料理屋を兼ねた「ラヂウム温泉」が開業する。


ラヂウム温泉 大正期


『秋田市千秋公園鳥瞰図』(日本弘道会秋田市会発行・昭和十年頃)より


新聞広告 左から大正六年、同七年、同十五年

その温泉は“霊泉水”と呼ばれる千秋公園の地下水を沸かした鉱泉で、水をくみ上げるポンプの音があたりに響いていたという。

かつての「ラヂウム温泉」が現在の「割烹・松下」、今の経営家は大正後期に引き継いで営業を始めたとのこと。


割烹・松下 09.01

手前の建物は戦後の建築だが、その奥に戦前のものと思われる建築が残っている。



かつての旧城地・千秋公園は良質の地下水が豊富に湧いた土地、佐竹氏が城地を選択する際もそれが重要視された。

和洋女子高校体育館裏の遊歩道沿いに湧く“霊泉水”は、これでお茶を入れると他の水は飲めないといわれ、朝夕は順番待ちの行列ができるほどの人気の湧き水だったが、大腸菌が検出されたとかで、残念なことに数年前に封鎖されてしまった。


封鎖された霊泉水

旧水汲み場のある遊歩道に沿って、お堀が水をたたえてていたのは戦前のこと。右手の土手から湧く“霊泉水”が注ぐお堀の水に囲まれて、藩政時代は兵具庫が存在し、大正初期に赤十字病院が建つ。


千秋公園 松下門跡 09.01

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朝顔の底でパンダが笑ってる



某ビルの共同トイレで小用を足しながら下を見ると、朝顔の底でタレ目のパンダが笑ってた。

もともとの小便器の形状が朝顔の花に似ていたことから、男性用小便器のことを「朝顔」という。

このタイプの磁器製目皿(排水穴に置く皿)、「顔にみえるモノ」シリーズとしては古典的なネタなのだが、壁のシミや天井の木目なんかが、顔にみえてしょうがないことがあるように、一度それがタレ目のパンダにみえると、もうそれにしかみえない。


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枝に咲く雪の襟巻きふんわりと


09.01.25

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疋田家の三本松・広小路名物


広小路西端から東を望む・明治末期

秋田市広小路、現在のカトリック教会前のあたりに、「三本松」と呼ばれた樹木が、道路をふさぐようにそびえる姿が目を惹く、明治末期の風景。

藩政時代の地図を照合すると、ちょうど三本松の辺りから、現在のカトリック教会にかけての一帯が、藩の家老・疋田家の広壮な邸宅で、通りの城郭側にお堀を配した東側と比べると、この区画だけ道幅が狭くなっている。


明治元年『秋田城郭市内全図』より

疋田柳塘と松塘の父子はともに、財政に困窮し火の車であった、近世中期の藩政の危機を支えた名家老といわれ、父子ともに詩歌に秀でた文人としても名が知られている。

疋田家は日本画家・寺崎広業(慶応二年~大正八年 )の母の実家でもある。広業を身ごもった母は故あって離縁され、疋田邸で広業を産み、間もなく寺崎家に引き取られ祖母と乳母に育てられた。


寺崎広業『秋苑』明治三十二年 東京国立博物館所蔵

明治十六年、当時二十九歳の犬養毅(木堂)が、改進党機関誌「秋田日報」(秋田魁新報の前身)主筆として、大隈重信の改進党から党勢拡張のため派遣され、数ヶ月間滞在したとき、疋田邸の離れ座敷を止宿とした。家老の邸だけあって、その庭園は広く、数奇をこらしたものであったという。

明治も末の広小路拡幅に際して、疋田邸の一部が削られて道路となり、そのとき三本松も伐採される運命にあったが、その見事な枝振りの古木を伐るにしのびなく思ったのか、県ではそれを広小路に風致を添える街路樹として保存することに。



三本松の後ろのひときわ太い樹木は、樹齢数百年の樅(もみ)の木で、内部が空洞化し枯死状態となったため、大正五年に伐採され薪木にされたことが、当時の魁新報に載っている。

右手の背の高い電信柱の後ろが「木内商店」。三本松の後ろ、古川掘端町角地の商店から突き出た看板の文字は、かろうじて「風間洋服部」と読める。大町二丁目の呉服店「風間商店」の洋服部か。


広小路東側から三本松を望む・明治末期(部分)


広小路西端から東を望む・大正期の絵葉書より

左角地に、秋田における本格的百貨店のはしりであった「新田目本店」。この三階建て洋館が落成したのは大正九年だから、すでに樅の木はなく三本松のみ。

広小路から三本松が消えたのは、はたして何時のことか。昭和初期に撮影された写真には写っていないことから、大正末から昭和初年頃までに伐採されたものと推察する。


広小路西端から東を望む 08.09


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疋田家「三本松」跡

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銅像 寺崎広業
寺崎広業「月光燈影」島根県立美術館
寺崎広業「溪四題」独立行政法人国立美術館
寺崎広業の大幟・山ノ内町(長野県)文化財

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お堀に囲まれた洋館・秋田赤十字病院


日本赤十字社秋田支部病院

旧藩時代は兵具庫(武器庫)が並んでいた、周囲をお堀で囲まれる風致に恵まれた旧城地に、大正三年七月一日「日本赤十字社秋田支部病院」が開院する。これが初代の秋田赤十字病院であり、東北北海道地区で最初の赤十字病院だった。

日本赤十字社が佐竹家所有の土地を市から無料で借り受け、明治大正に活躍し、東京駅や日本銀行の設計者として高名な辰野金吾に設計を依頼。辰野は県民会館の前身にあたる「秋田県記念館」の設計顧問として参加しているが、正式な設計者として名を残しているのは県内でこの物件のみと思われる。

敷地面積約七二〇四坪、建物総坪数一八二〇余坪、建設費十一万九千六百円(教員の初任給十円ほどの時代)。建築請負人は「秋田県記念館」と同じく市内の堀井永助。

中央と左右に円型ドームを配したベランダ付き木造二階建、辰野金吾が同時期に設計した東京駅を彷彿させるルネッサンス洋式建築。旧鷹匠町側の外堀に土橋を築き、病院への出入り口とした。



辰野金吾設計・東京駅・大正三年竣工



当初は病床数七五、内科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科を設け、看護婦養成所、看護婦寄宿舎を併設。

初代院長として京都大学出身の山内半作(当時三十五歳)を招聘、医局は京大学閥を中心に構成された。秋田の外科を築いたといわれる山内半作は、京大時代の明治四十三年に、日本で初めての臓器移植(自家腎移植)の動物実験を行った人物としても知られ、秋田時代は川反芸者に良くもてたという。


千秋公園より赤十字病院および鷹匠町方面を望む

設備の整った病院が少なかった時代に誕生した赤十字病院には県民の期待が寄せられ、診療を開始すると、午前七時の受付開始というのに六時頃から、市内はいうにおよばず郡部からも、外来患者が続々とつめかけて終日混雑したという。

ちなみに、当初の入院費(食事代を除く)は、特等室(一人部屋・副室付、夜具・黄八丈)二円五十銭。一等室(一人部屋、夜具・黄八丈)一円五十銭。二等室(二人部屋、夜具・銘仙)一円。三等室(五~八人部屋、夜具・木綿)六十銭。

まだ社会保険制度がなく、教員の初任給が十円ほどの時代の入院費である。夜具(布団)の生地が黄八丈・銘仙・木綿とランク付けされているのが面白い。


病室 昭和九年頃


レントゲン室 昭和九年頃


「鷹の松」と赤十字病院(人着印刷)


現在の同地点 08.12



現在の同地点 08.11


昭和三年・秋田市街図


藩政期の兵具庫付近・ジオラマ


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初代「秋田赤十字病院」跡

かつての外堀の記憶が地形に刻まれている、初代「秋田赤十字病院」跡地。明治三十年代、秋田高等女学校(現・北高)の建設候補地になったが、当時は外堀から腐臭が漂っていたため敬遠され、最終的に中島の現在地に校舎が建てられることに。


●その後の秋田赤十字病院

昭和十四年、秋田支部病院を秋田市東根小屋町、県立秋田中学跡地に新築移転。


第二代「赤十字病院」東根小屋町(中通小学校向かい)

昭和十八年、秋田支部病院を「秋田赤十字病院」と改称。
昭和四十三年、中通地区に新築移転。


第三代「赤十字病院」中通一丁目

昭和四十九年、仲小路をはさんだ北側、秋田保健所跡に「秋田県交通災害センター」開院。秋田県が整備した施設を赤十字病院が運営、両施設の三階を渡り廊下で結んだ。


「秋田県交通災害センター」中通一丁目

平成十年、秋田市上北手に新病院開院。

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梵天奉納祭・平成二十一年度

梵天(ぼんでん)奉納祭
秋田市広面字赤沼 太平山三吉神社里宮
平成二十一年一月十七日

奉納が始まる午前十時頃には雪も止み、青空も顔をのぞかせる好天だったが、奉納が終わった途端、雪が舞い始める。


















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札打ちの大喧嘩・レジャーとしての札打ち


二十六番札所・當福寺

一月十六日の深夜、日にちが変わって十七日は「札打ち」、正式名称「久保田三十三番札所巡礼」の日。今は自家用車を使い、順番もさして気にしない向きも多いが、以前は全行程を徒歩で必ず順番通りに巡礼した。

厳冬の夜、一番札所の泉から、手形、広面、楢山、牛島、川口境、寺町を経て、三十三番の八橋まで、五時間から八時間をかけて歩く。とくに手形から楢山にかけては田んぼの畦道がつづき、吹雪になると雪明かりだけの道を、前をゆく行列の背中を目当てに歩いたと聞く。

大正時代の魁新報に「札打ち」の賑わいと、その道筋で起こった傷害事件を伝える記事がある。




本日の札打ちは近来にない人出で未明から市内、市外の善男善女真ッ黒になって雪崩の如く各寺院を流れ市内寺町などは上へ下への大賑わいだったが殊に人出盛った午前七時頃寺町當福寺に意外な椿事が演ぜられた。市外八橋の一団に加わっていた同所渡邊●●(三三)が、々土崎港将軍野一団中の石田●●と當福寺境内で出会い、ちょっとした言い争いから渡邊が石田の持っていたパンを奪って屋根の上に投げつけ、こんなパン何だい!と罵ったのが石田の憤怒を買い、石田は前後も忘れて札打ちに持って来た頑丈な金槌で渡邊の前頭部を力まかせに一撃したので渡邊は血に染まって昏倒したが急報によって大工町派出所から警官急行して逃亡中の加害者を捕らえ得たが可成りの重傷らしく秋田署では目下取調中
大正十五年一月『秋田魁新報』より(名前は伏せ字にした)
札打ちの夜は各所に食べ物や酒の屋台が出た。大人は酒を飲み、女子どもは甘酒や汁粉を飲んだりと、冷え切った体を暖めたものだろう。朝になると腹もへり、八橋の茶屋や蕎麦屋も繁盛した。とくに札所が集中する寺町は出店が並び、お祭りのような賑やかさで、お祭り気分で酒を飲み、騒ぎだす異装の若者集団のことなども記録されている。當福寺での喧嘩も、酒の上でのいざこざだったのではないだろうか。

厳冬期の苦行をともなう死者への慰霊と供養である「札打ち」は、その家族のみならず、親戚縁者がうちそろい、お祭り好きの若者なども巻きこんだ、“寒中恒例のレジャー”という一面もあった。江戸時代に一大ブームとなった「西国三十三番札所巡礼」や「お伊勢参り」が「神仏の光を仰ぎ観る」=「観光」というレジャーでもあったように。


二十六番札所・當福寺

二丁目小路(現・山王大通り)のつきあたりに位置した當福寺の境内を貫通して、新国道に抜ける道路が戦前に貫通、さらに戦後の拡幅工事で再び大きく削られて、その敷地は時を経て大幅に縮小された。

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雪車の芸者さん・冬の秋田風俗


大正時代の絵葉書から

これからお座敷に出かけるところだろうか、雪車(そり)に乗る川反の芸者さんと、雪駄を手にした印半纏姿の車夫。

秋田の人力車夫たちは降雪期になると雪車を押して客を運んだ。これはいわゆる「箱橇」(はこぞり)のことだが、戦前の記録をみると、「雪車」と書いて「そり」と読ませている。

家庭用の箱橇と違う点は、乗り込みやすいように前方が開閉式なっており、人力車のように風雪を避ける幌が取り付けられていること。体を覆う毛布も用意されていた。


○箱橇にも色々ある。まづ人力車に代る客用箱橇は雪国の駅々で客を待っている。箱の入口は半開きとなって、乗るのに都合よく出来ている。雪の降る日は幌をかける様になっているから、戦後派達のアベックにはこれが好まれる。引張る人力車と違い、氷る雪上を滑るのであるから速力も早く、これを押す車夫も亦楽である。箱を黒漆で塗った真鍮の金具付の豪華な橇は町医者の乗物である。火急を要するものは二人引と言うのがある。犬橇はもうみられないが、各家庭には、乳母車代用の箱橇がある。子供達は雪帽子(ボッチ)をかぶり雪靴(ヘトロ)をはき、玩具の様な箱橇を押して雪の中をかけ廻る。『橇に眼(マナ)コない馬(ンマ)コならよけて行け』と童謡を歌い乍らせまい雪路を我物顔に遊ぶので、人々はこの小さい暴君のために路をさけ譲歩せざるを得ないのである。
勝平得之「画文集」・文化出版より

大正時代の絵葉書から

秋田倶楽部(後の「あきたくらぶ」)の池に架かる橋を、雪車に乗って倶楽部本館へと向かう芸者さん。車夫は洋服に帽子をかぶっている。後ろにみえる建物は、数年前まで存在した倶楽部別館で、本館跡に戦後建設されたのがアキタニューグランドホテル。今の「ホテル グランティア」と「華の湯」の一帯。


書籍広告・明治四十年

大正七年の魁新報によれば、秋田市内における人力雪車の挽子(車夫)数は、まだ秋田市に属していない牛島町の同業者を含めて約二百七十名。料金は悪路と夜間は二割増しとなるが、規定料金を守らず不当な料金を要求する業者がいることが問題にされている。


大正時代の絵葉書から

こちらは北海道は小樽の、人力車の車輪を外して橇を取り付けたようなスタイルの雪橇。秋田では「押す橇」なのに対して「引く橇」であるのが興味深い。橇の場合、押す方が効率的だと思うが、同じ雪国でも“所変われば品変わる”である。

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ドーム屋根のモダン建築・秋田物産館


秋田物産館(昭和初期の絵葉書より)

大正十四年、秋田市土手長町中丁(現・中通三丁目)、現在の北都銀行本店営業部の地に、産業の振興を目的とした「秋田物産館」竣工。十月十五日のオープンの日、宮城・岩手における陸軍大演習統監を終た摂政宮(のちの昭和天皇)が物産館をご覧になった。

左手前の建物が昭和六年竣工の秋田警察署、角を左折すると今の中央通りだが、まだ道幅が狭く、駅方向に直進すると十七連隊にぶつかる。昭和三十年代に警察署があった北側を取り壊し道路を拡幅。

物産館の向かい、旭川沿いに軒を並べていたのが「勧工場」(かんこうば)と呼ばれた名店街。この写真絵葉書の発行元である「光文堂書店」という絵葉書屋も、この勧工場で営業していた。詳細は文末の関連記事リンクに。

建坪二七五坪、鉄筋コンクリート煉瓦仕上げ。工費約四十六万二千円(教員の初任給が四十円ほどの時代)。地下に事務室、一・二階が陳列室、三階の一部に貴賓室、屋上付き。

県の山田技師が、伊藤忠太博士(代表作・築地本願寺)の指導で設計、仙北郡角館町の菅原組が施工にあたった。屋上のある建物がまだ珍しかった当初は“超モダン建築”として人気を集め、郡部から弁当持参の見物客が絶えなかったか。



道を行く風呂敷包みを携えた三人の女学生。このセーラー服は「聖霊高等女学院」(現・聖霊女子短期大学付属高等学校)の夏服だろう。

大正十二年九月一日正午前に関東地方を襲った関東大震災以来、鉄筋コンクリート建築の耐震性が注目され、それ以降徐々に鉄筋コンクリートを使った建物が増加する。秋田市においても、物産館に先立つ大正十四年中に、二丁目小路(現・山王大通り)に勧業銀行秋田支店、山口銀行秋田支店が鉄筋で竣工している。


秋田物産館(絵葉書)

人着(人工着色)による印刷。昭和六年竣工の秋田警察署がまだ建っていない。

中央にそびえるドーム屋根が印象的な秋田物産館だが、“ドーム屋根の物産館”で思い出されるのが、チェコの建築家ヤン・レツルにより設計され、大正四年オープンした「広島物産陳列館」。秋田の物産館はこの建物に少なからず影響されたに違いない。


広島物産陳列館(大正初期の手彩色絵葉書より)

広島物産陳列館、広島県商品陳列所、広島県産業奨励館と名称を変えた建物は戦後、「原爆ドーム」というもうひとつの名で世界的に知られる戦争遺跡となった。


原爆ドーム(wikipediaより)

終戦を前にした一時期、防空本部となった秋田物産館は、戦後の二十二年、屋上部分に三階を増築し、県土木部や教育庁が間借りするが、この頃になると老朽化が目立ち始め、三階を増築したのも屋上からの雨漏りを防止する目的もあったのだという。


三階を増築した戦後の物産館

同じ土手長町通りの秋田県庁が焼失し、山王へ移転した空地の一角に、昭和三十五年「秋田産業会館」オープン。役割を失い空き家になった物産館を博物館にする運動もあったが、それも実らず、往年のモダン建築は公売にかけられることに。

土地付きの物産館を八千七百万円で落札した、横手市に本店を置く「羽後銀行」は物産館を解体後、本店を新築移転、現在の「北都銀行本店営業部」の建物で昭和三十九年業務を開始。同じ頃、増田町出身の漫画家・矢口高雄は、羽後銀行の支店に務めながら趣味で漫画を描き、コミック誌『ガロ』などへ投稿をつづけていた。


北都銀行本店営業部(旧羽後銀行本店) 08.12

北都銀行本店営業部の場所は“秋田市役所発祥の地”。明治十二年に開設された南秋田郡役所の擬洋風建築庁舎に、同二十三年四月、初代の秋田市役所が誕生するが、同三十八年焼失。それ以降の市役所庁舎については下記関連記事リンクに。


初代秋田市役所(南秋田郡役所)


大きな地図で見る

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山王大通りの無人ホテルをポラロイドで


旧三井アーバンホテル

昭和63年(1988)山王大通りにオープンし、市内のビジネスホテル乱立による近年の競争激化により、平成18年(2006)に撤退した「三井アーバンホテル」の閉鎖された無人ビル。

西隣で営業していたガソリンスタンドも、地下道工事の支障になるためか、中央道(地下道)が着工した頃に撤退したため、周辺は閑散とし、ホテル一階にはコンビニもあって、数年前の夜でも明るかった街並が夢だったかのように暗い。



閑話休題

今回使用したポラロイド風画像を作成したのは「Poladroid」というフリーソフト(ドネーションウェア)。使ったのは Mac版だが Windows版もある。



起動してデスクトップに現れたポラロイドカメラに、加工するファイルをドラッグ&ドロップし、しばらくするとシャッター音とともにカメラから印画紙が飛び出す。本物のポラロイドフォトのように、最初は何も写っていないが徐々に画像が鮮明になり、ドラッグして振ると現像時間も少し短くなる。

現像が仕上がると効果音が鳴り、赤いチェックマークが付けられ、 JPEGファイルとして保存される(Macでは /Users/ユーザ名/Pictures)。同じ画像を使っても仕上がりはランダムに変化するようだ。

まだベータ版で多少不安定な部分もあるが、ポラロイドのアナログな味わいを再現して遊び心に満ちた、バーチャルポラロイドカメラである。ダウンロードは以下 Poladroid project から。

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関連リンク

Poladroid project | download area

Flickr: be Poladroid !
Flickrの「Poladroid」グループ

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初代ホテルハワイ

二〇世紀ひみつ基地 ホテルハワイの廃業とホテル街となった広小路

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ホテルハワイの植物園・昭和40年代

廃業した「ホテルハワイ」の創業者社長が、現在の「ホテルはくと」の地を、公売で秋田市から購入したとき、土地利用目的を「熱帯植物園」とし、市のほうでも便宜を図ったというが、結局は熱帯植物を配したホテルハワイが開業(詳細は下記関連記事に)。ホテル建設を決定する以前には、同地に集合住宅を建設する計画もあって、それを予告する新聞広告を出している。

熱帯植物園への夢は形を変えて、昭和46年4月、大森山に温室を備えた 5.500坪の「ハワイ植物園」をオープン。


新聞広告 昭和46年




大森山の「ハワイ植物園」、はたしていつ頃まで営業していたのだろう。

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ホテルハワイの廃業とホテル街となった広小路

昭和42年(1967)9月、通町橋のたもと「ホテルはくと」の地で、秋田のバーチャルハワイとして誕生した「ホテルハワイ」全店が、この元日で営業を停止した。

市内のビジネスホテル乱立を考えれば、老朽化した施設で、今までよく営業していたと思うが、多少は予想していたとしても、年末に突然解雇を言い渡された従業員にとっては青天の霹靂。




左にホテルハワイ駅前店 09.01

かつては秋田の中心商店街だった広小路も、近年はホテル街の様相を呈している。


08.12

左から廃業した 「ホテルハワイ駅前店」、その後ろの黒いビルが、昨年8月オープンの「コンフォートホテル」。その向かいに「秋田ビューホテル(秋田西武)」。

アトリオンの隣、マルサンショッピングセンター跡に建つベージュ色のビルが、最上階に温泉がある「ドーミーイン秋田」。

ここには写っていないが、木内隣の「秋田キャッスルホテル(旧・第一ホテル)」、秋田駅に隣接した「ホテルメトロポリタン秋田」を含め、広小路だけで六棟のホテルが存在し、さらに「YES そうご電器」(旧・三浦書店)跡地にも、かなり前からビジネスホテル建設地の看板が立っているが、こちらはなかなか工事が始まらない。

アトリオンの裏側、中央通りには「リッチモンドホテル 秋田」が竣工、間もなくオープンの日を迎える。

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ホテルハワイ営業停止、全3店に閉店の張り紙|さきがけonTheWeb

コンフォートホテル秋田 ホテル予約 チョイスホテルズジャパン

中通温泉 こまちの湯 ドーミーイン秋田 | HOTEL&SPA

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秋田ビューホテル|ホームページ

ホテルメトロポリタン秋田

リッチモンドホテル 秋田駅前
中央通り

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慈愛と異様・無名の現代アート


09.01

秋田市山王、秋田消防署脇の遊歩道にある、ハイハイする赤ん坊をかたどったブロンズ像の冬支度。その風体がすさまじくビンボー臭い。

胴体をタオルでぐるぐる巻きにした上に、コンビニ袋で包み紐で縛り、頭は手ぬぐいで頬被りし、これもコンビニ袋をかぶせるという念の入りよう。頭のボリュームからして、ひょっとして毛糸の帽子の上に頬被りしているのかも。

命のない彫像に感情移入し、防寒対策をほどこすという慈愛の行為は、お年寄りが地蔵さんに、“寒かろう”と、手縫いの着物を着せ、手編みの帽子をかぶせる心情と共通するものがあるが、この物件は“包帯で巻かれた嬰児”、もしくは“いざりの乞食”を連想させるような、ただならぬ異様さをただよわせている。

強引に付会すれば、これもひとつの“無名のアーチストによる作為なき現代アート”だ。そのタイトルは「包み隠された堕天使」とでもしようか。

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城下の要害「鷹の松」今昔

●要害としての「鷹の松」

土手長町通りを千秋トンネル方向に北進し、通町橋前を過ぎて間もなく、高層集合住宅の建ち並ぶ旧鷹匠町(現・秋田市千秋矢留町)のマンション街を背景に、行く手をさえぎるかのように「鷹の松」がその姿を現す。


鷹の松 08.11

水戸から国替された佐竹義宣公が、久保田の神明山、今の千秋公園に築城、町割りの一環として旭川を大改修し、掘替えの際に出た土で旭川の東岸に土手を築いた際に植えられた、樹齢三百八十年ほどの黒松で、木の根元には第六代秋田市長・井上廣居が私費で建立した石碑が建てられている。

この地が藩の御鷹師衆、いわゆる鷹匠たちが住む鷹匠町であったことにちなんで、今は「鷹の松」と命名されているが、もともとこの黒松に固有の名はなく、近くに市役所が建った明治末期から「市役所の松」などと呼ばれていた。

「鷹の松」の周辺が藩政期にどのような風景だったのか、明治元年の「秋田城郭市内全図」で見てみよう。この図は明治三十一年に出版された『秋田沿革史大成・下巻』の付録で、明治元年の地図を基に、それ以降にできた公共機関を点線で囲んで加筆している。


秋田城郭市内全図より

左手に掘替え工事で造成した人工の運河・旭川。右手に古い旭川の流れ(仁別川)を利用して造成したという外堀が、藩の兵具蔵(武器庫)を囲む。太い黒線が土手。

現在道路となっている部分(ピンクライン)まで外堀が迫り、その水面に接して赤丸で示した「鷹の松」の土塁が西に張り出し、その手前、旭川の土手から東に突き出した土塁(青丸)とセットで、「食い違い虎口(こぐち)」を形成している。「食い違い虎口」とは、曲がって出入りするように造成することで、敵の視界をさえぎり直進を防ぐ要害のこと。


出羽国秋田郡久保田城画図・正保元年(1644)

「鷹の松」の西、旭川に架かる保戸野川反橋は幕末以降の架橋。藩政期にこんな所に橋があったら防衛上の弱点となり、「食い違い虎口」が意味を成さない。「鷹の松」の南、土手長町上丁に藩政期、今の総合庁舎にあたる御会処が存在し、明治に入って監獄(刑務所)となり、監獄が川尻に移った跡に秋田市役所が落成する。



現代の風景に藩政期のお堀の水を注いでみた。左手前に「鷹の松」と同じ高さの土塁が存在し、通行人はその土塁と「鷹の松」にはさまれた狭い道をぐるりと曲がって鷹匠町方向に進んだ。


●街並は変われども

明治三十七年一月発行の「秋田市全図」では、青丸で示した土塁は交通の障害になったとみえて消滅しているが、まだ「鷹の松」は外堀に接したまま。それ以降に「鷹の松」東側の外堀の一部を埋め立てて道路が完成、しかし現在よりは道幅が狭い。


明治末頃



「鷹の松」を支える土盛りの周囲に、写真に写る石垣が築かれたのは、手前に市役所庁舎が落成した明治四十二年。右手に古い旭川の流れ(仁別川)を利用して造成したという外堀。その外堀の曲線に沿った堀端に鷹匠町の家並みが続く。


大正三年以降



大正三年七月、藩政時代は兵具蔵があった外堀で囲まれた場所に、大日本赤十字社秋田支部病院(初代の秋田赤十字病院)オープン。建設の際に外堀の一部が埋め立てられた。

拡大してみると外堀に新たに掛けられた病院へと続く土橋と石門が見える。手前には秋田高等女学校(現・北高)の生徒と思われる、風呂敷包みを抱え日傘をさした袴姿の女性二人。

この周辺の外堀が埋め立てられ宅地と変容したのは昭和初期、かつての外堀の堀端に連なる鷹匠町はそのころから、素封家の別邸や旅館が連なる一等地となる。


●伐採の危機を乗り越えて

戦後になると、土塁を囲む石垣は崩れ、よじ登って遊ぶ子どもも多く、次第に荒れ放題になっていた「鷹の松」を、市では昭和四十六年の春、根回りを固め石垣を積み直す保護工事を行う。60センチほどであった石垣を約1メートルに積み上げ、根本には芝生を植え、周囲に垣根をめぐらして現在の姿に。

「鷹の松」はもともと敵の侵入に備えた要害の一部だったのだから当然のことだが、交通量が急増した昭和四十年代には、見通しが悪く通行の障害との理由から、撤去の声が度々上がるようになる。しかし、昭和四十九年、市の保存樹に指定され伐採の危機をまぬがれた。

平成十七年七月、枝の付け根部分から大きく折れ曲がり、枝先が地面にまで垂れ下がり、保戸野川反橋に抜ける市道の片側が通行止めに。


応急処置後 05.07


大きく湾曲し応急処置を施した枝の付け根 05.07

湾曲の原因は古木に特有の内部の空洞化。空洞化により付け根部分に大きな亀裂が入り、枝の重量を支えきれずで垂れ下がってしまったわけ。空洞部分に活力剤を注入し、曲がった枝をクレーンで吊り上げ、支柱で支える修復作業の後、重くなった枝の剪定も行われ現在の姿に。


06.10

数カ所に立てられた支柱で支えられたうえ、ワイヤーで吊られた枝、コモの包帯でぐるぐる巻きにされた太い幹。負担を軽減するために全体的に剪定され、鷹が舞い降りたようにしな垂れていた、かつての枝振りの見事さと重厚感に比べれば若干見劣りする。

どの建物よりも高く、遠くからもよく見えて、ランドマーク的存在であっただろう「鷹の松」の周辺は近年、高層集合住宅の建ち並ぶマンション街に変容、仰ぎ見る対象としてあった「鷹の松」も、住民の多くにとって、高層から見下ろす存在となった。


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平成二十一年 元旦

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