二〇世紀ひみつ基地

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2008年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年08月

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桜田淳子が天使だった時代・阿久悠物語

●夢みる天使

昭和47年(1972)7月19日、秋田県民会館を会場に、日テレ系のオーディション番組「スター誕生!」秋田大会の収録が行われた。

当日は約700人の秋田予選を通過した14人が出場、7人ずつ2週分(7月30日・8月8日放送分)を、竿燈や秋田音頭など郷土芸能を織りこんで収録するのだが、スタッフと番組の企画者であり審査員もつとめていた作詞家の阿久悠は、県民会館の客席に座り収録開始を待つ、秋田市新屋に生まれ、西中に在学中のひとりの少女に注目していた。
‥‥前略‥‥
「あのこ、音痴でさえなければ合格させたいね」と、ぼくはプロデューサーに言った。ごくごく普通の中学生たちの緊張のない語らいと書いたが、その通りでありながら、実に見事に背後からの視線を受けとめている少女が一人いて、それが桜田淳子だったのである。彼女は白いベレーをかぶっていた。そして本番で彼女は、けして上手ではないが音痴でもなく、圧倒的に人の目を惹いて合格した。
 そのデビュー曲に、第一印象を伝えようとして書いたのが「天使も夢みる」で、白いエンゼル・ハットで愛らしく世に飛びだす。そして、第三弾で、これまた初会の思い入れそのままに「わたしの青い鳥」というのを書いた。
‥‥中略‥‥

ようこそ ここへ クッククック わたしの青い鳥…

 この時代、まだ、「幸福」とか「夢」とかが、言葉として存在した。青い鳥や天使に仮託する幸福や夢は、実態がないだけに尊さと有り難さがあった。逆にいえば、姿かたちがあってはいけないもので、そのために青い鳥や天使たちを仮のものとして探していたのである。人間は利口で、姿のある幸福や夢がいかがわしいものであることを知っていたのである。
 その頃の幸福は十人十色、一人一人が微妙に色の違う、鳴き声の違う青い鳥を求めていたため、それぞれがそれぞれなりに幸福であった。
 だが、今は幸福や夢は心ではなく形だといい、ハンドバックやブーツが幸福ジルシだと叫んでいる。

阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社 より
同じ年に東京で開催された第4回決勝大会(9月放送)の投票は、客席に陣取るプロダクションのスカウトマンが手にする、社名を記入したプラカードを上げることで獲得の意思を表明するという、人買いのような形式。


「スター誕生!」第4回決勝大会

このとき、彼女に対して番組史上最高の25社(34社説もあり)がプラカードを上げ、最優秀賞を獲得。その後、所属プロダクション(サンミュージック)も決まり、同年10月に上京、デビューを目指してレッスンに励む。


●アイドル誕生

昭和48年(1973)2月25日、「天使も夢みる」(作詞:阿久悠 作曲:中村泰士)でビクターレコードから歌手デビュー。当日は彼女がプロ歌手として始めてステージに上がる「スター誕生!」の放送日(ABS 日曜 AM11:00-11:56)とかさなり、秋田魁新報のラテ欄下には、全五段の新聞広告が掲載され、そのデビューを華々しく告知した。


1973年2月25日 秋田魁新報

右に「秋田県レコード商組合が推薦します。」とあり、その下に県内のレコード店の名前が列記されている。



キャッチフレーズが「そよ風の天使」。番組で視聴者から募集して決まったペットネームは「そよ風ジュンちゃん」。

阿久悠が秋田県民会館で彼女を見たときの印象をそのままに、白い帽子をトレードマークに売り出し、たちまち人気アイドルに。「スター誕生!」から生まれた同世代アイドル、山口百恵・森昌子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。

彼女が予選のときから被っていた白い帽子を、所属事務所は「エンゼル・ハット」と命名、帽子会社とタイアップし、これもヒット商品となる。

同年5月、セカンドシングル「天使の初恋 」リリース。8月にリリースしたサードシング「わたしの青い鳥」がヒットし、日本レコード大賞最優秀新人賞、日本歌謡大賞放送音楽新人賞を受賞。その後もヒットチャートのベストテン常連に。



二十歳頃からドラマ、映画、舞台にも進出。昭和55年度・文化庁芸術祭賞優秀賞。(ミュージカル「アニーよ銃をとれ」における演技で)。昭和61年度・芸術選奨文部大臣新人賞。昭和62年度・菊田一夫演劇賞(舞台「女坂」の演技で)などを受賞。


●地に落ちた天使


順調な芸能活動を続けていた平成4年(1992)、霊感商法で有名な韓国のカルト教団「統一教会」の合同結婚式に参加することを記者会見で表明。姉夫婦(現在は脱会)の影響で19歳頃から入信していたことを明かす。この数日前には元新体操選手・山崎浩子も同様の会見を開いていた。教団がタレントを広告塔として送った記者会見であった。

それ以後芸能界から姿を消す、いや消さざるを得ない状態に自らを追い込んでしまう。純粋とは罪なものである。当時、こともあろうに……と嘆いたファンも多かったと思う。
‥‥前略‥‥
 君がデビューして間もない頃、中村泰士さんとこんな冗談を言い合ったことがあるのです。
“あの天使も天使でなくなる時が来る”
“人間が天使の顔をしていられるのもほんの短い季節の間だけなのだ”
“しかし、あの娘を堕天使にしようとする奴を見つけたら、二人でいって撲(なぐ)ろうか。それは、宿命や約束事と無関係に、正直な感情だから”
‥‥後略‥‥

1976 『月刊 you』(月刊阿久悠) 第2号
「阿久悠からの手紙・桜田淳子の巻」より
デビュー時から作詞家として支え続け、例の記者会見では複雑な思いを抱いたに違いない阿久悠が、自ら制作するフリーペーパーに掲載した、娘に対する父親のような心情があふれる公開書簡である。この時点で、「撲(なぐ)りに行く」相手がカルト教団になろうとは、夢にも思わなかっただろう。


●TV ドラマ「阿久悠物語」

桜田淳子のため約124曲という多くの詩を残した阿久悠は昨年の夏逝去。氏の一周忌にあたる8月1日、日テレ開局55年記念番組「ヒットメーカー阿久悠物語」が放映される。2008年8月1日、金曜ロードショー特別枠、夜9時3分-11時24分。



監督は新ガメラシリーズを手がけた金子修介。アイドルグループ・℃-ute (キュート)の鈴木愛理が桜田淳子を演じる。

阿久悠が企画と審査員をつとめた「スター誕生!」の立ち上げから、番組から誕生した少女たちが、アイドル黄金時代を築き上げてゆく1970年代にスポットを当て、当時の秘蔵映像を満載したドキュメンタリードラマ。秋田大会の収録を前に行われた秋田予選会のフィルム映像も流れるという。


秋田予選会

予選会の時点ですでにアイドルのオーラを放っていた彼女も今年で50歳。それにしても、よりによって……。

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関連リンク

ヒットメーカー阿久悠物語

金子修介の雑記 "Essay":『ヒットメーカー阿久悠物語』速報PART4
「出場者の中で一人だけ浮き上がって見え、淡い蛍光色に光っている少女がいた」阿久悠

桜田淳子 - Wikipedia

有田芳生の『酔醒漫録』: 桜田淳子の芸能界復帰はない

おすすめ youtube 動画(初期)

akitanosyoujyo _iza_kessenn
旧秋田駅、新屋の風景、「決勝大会」の音声など

「スタ誕!淳子物語」1972~77年トリオ解散まで
「秋田予選会」の秘蔵フイルム、「秋田大会」および「決勝大会」のスナップなど

Sakurada Junko Paper Sleeves Digest Part 1
「天使も夢みる」「わたしの青い鳥」「花物語」他
ファーストシングル「天使も夢みる」の初々しい歌声が良い

桜田淳子 私の青い鳥
プロモーションフイルム

桜田淳子 - わたしの青い鳥/ 十七の夏

レコード大賞受賞式 わたしの青い鳥
母親と朝丘めぐみにはさまれて

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ケヤキ並木のレストラン・那波家水汲み場


08.07

那波家の水汲み場を見下ろし、ケヤキ並木がこんもりと茂る、秋田市大町二丁目橋のたもと、つい最近まで「秋田コミュニティFM」のスタジオだったガラス張りの建物を改装したレストラン。

建物の一角で営業していたレストラン「和我母」(わがママ)が、「秋田コミュニティFM」の移転にともない、スペースを広げて新規オープンしたもの。


06.11 水汲み場とケヤキ並木

川反の各町にあった水汲み場を「カド」といい、今も残る那波家専用のものは船着き場も兼ねた立派なもので、米、炭などの物資が陸あげされたとのこと。

もともと湿地帯であった久保田は良質な地下水に恵まれた場所が少なく、外町(とまち)の大半の家は旭川の清流を飲料水などの生活用水として頼ることを、明治四十年代に上水道が通じるまで続けた。


06.11 水汲み場とケヤキ並木

那波家が防火用に植栽した初代のケヤキは明治元年の火災で焼失、それが再び芽生え今に至るというから、樹齢は百四十年ほどになる。

昭和三十二年(1957)、対岸にあった秋田県庁の火災のとき、防火林は火の粉と熱風を見事に防いで、駆けつけた人々に感銘を与えたという。


04.06 土手長町通りから二丁目橋

レストランおよび隣接する小公園が完成する前、この地には那波家の土蔵が建ち並んでいた。山王大通り側から酒蔵、文庫倉、建築資材を収納した木蔵の土蔵三棟。この酒蔵を利用した思われる酒屋のことが昭和初期の新聞記事にみえる。那波酒造の清酒(秋田川・後に銀鱗)を飲ませたらしい。

昭和四十年代の山王大通り拡幅にともなう、二丁目橋の架け替え工事を前にして、老朽化した土蔵は撤去され、ケヤキの大木二本も切り倒される。

取り壊された土蔵跡地の一角に建てられたのが、アキタニューグランドホテル直営レストラン「ジャルダン」。


1972 新聞広告

「ジャルダン」が撤退したあと、貸事務所などを経て、平成十年(1998)「秋田コミュニティFM」開局、そして今年(2008)の六月、寺内三千刈に移転、その建物は再びレストランとなった。


08.07 二丁目橋及びケヤキ並木


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人徳の商家・那波家

川反情緒・風景を読む

共用栓のある風景・大町三丁目通り

皇室御用達の宿・アキタニューグランドホテル



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平成二十年度「土崎湊祭り」曳山の風流

平成二十年七月二十・二十一日
土崎港祭り
土崎神明社例祭

三十台の曳山の一部


幕洗川一区・外題「天に舞う 白光一閃 源家の基」


将軍野二区・外題「北信の雄 砥石の勝閧」


幕洗川三区・外題「天下無双 九鬼の鉄船」


加賀町・外題「悲豪の先駆け 弭槍十一段抜き」



相染町・外題「豪将教経 威信をかけた 孤高の勇姿」


旭町一区・外題「豪勇一閃 白狒狒貫く 岩見の大太刀」

岩見重太郎の狒狒(ヒヒ)退治の場面、銀色の爪の面妖な狒狒の迫力。


愛宕町・外題「剛胆無比 独眼竜の黄金磔柱」

今年の曳山の中で最もインパクトがあった黄金十字架。構図も良い。

大崎一揆煽動の疑惑をかけられた独眼竜・伊達政宗が、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭したという、いかにも伊達男らしいエピソードから。


●見返し


旭町二区「綱を曳く 揃い浴衣に 偽装なし」


若松町「原油高 ワッパ(山車)の軋みは 悲鳴かな」
将軍野三区「曳山車に 使ってみたい この油(メタボ)」


壱騎町一区「支持アップ? パンダは愚ッ怒 対民ぐ~」


幕洗川三区「焼き魚 お色直しで 次の客」

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土崎湊祭り・見返しを楽しむ 平成十八年度

平成二十年度「土崎湊祭り・宵祭」点描
平成二十年度「土崎湊祭り」点描

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土崎神明社公式サイト

土崎港曳山まつり実行委員会

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平成二十年度「土崎湊祭り」点描

平成二十年七月二十一日
土崎港祭り
土崎神明社・例祭


穀保町御旅所祭



猿田彦(さるたひこ)の神は、天津神(あまつかみ)の天孫降臨のとき、天の八衢(あめのやちまた)に居て、高天原(たかまのはら)から葦原中国(あしはらのなかつくに)までの道のりを照らし、先頭に立って道案内をしたという国津神(くにつかみ)。鼻の高く赤顔の天狗は猿田彦が原型とされている。





穀保町の御旅所から相染町の御旅所へと渡る御神輿渡御(おみこしとぎょ)の行列を先導する猿田彦は、神明社の御霊代(みたましろ)が乗る御神輿と、神霊の依代(よりしろ)である曳山が通る道の露払い(道を開く)役をつとめる。


●御幸曳山(みゆきやま)














壱騎町一区・外題「斗星の北天 湊の智将怒涛の挟撃」






























●しばしの休息








新柳町・外題「智将藤堂 剛腕轟く勇者の戦功」


●戻り曳山(もどりやま)







ドンドコドッケ(盆踊り)





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平成二十年度「土崎湊祭り・宵祭」点描

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土崎港曳山まつり実行委員会

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平成二十年度「土崎湊祭り・宵祭」点描

平成二十年七月二十日
土崎港祭り
土崎神明社・宵祭

珍しく両日共に休日となった今年の祭り。梅雨明けの夏らしい暑さの中、「寄せ太鼓」の躍動的なお囃子に誘われて土崎の町を歩く。

わっぱ(車輪)のギリギリと軋む音と軽油の香りが夏本番を実感させ、勇壮な曳山、多彩なお囃子、各町内で意匠を凝らした揃いの浴衣等で披露される演芸が風流を極める。


高天乃原仁神留利座須(たかまのはらにかむづまります…)




























祭りの常連になったケバブ(中東地域の焼肉料理、パン等にはさんで食べる)の出店
エチオピア伝統家庭料理「ブルーナイル」は土崎南小学校近く

















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「竿燈」をパクリ続けた「がいな万灯」の新デザイン

「日本海新聞」に「竿燈」をパクリ続けた「がいな万灯」の新デザインについての記事が掲載された。


日本海新聞web 版より(画像クリックで本文へ)

 新しい万灯のデザインは「米子」にちなんで「米」の形をイメージし、中段のちょうちんを増やして全体をひし形にする▽吹き流しを取り付ける▽最上段と最下段のちょうちんを六角形とする-などの改善を加えた。

 今夏のがいな祭で新しい万灯一基を披露し、来年度から全基モデルチェンジする方向だ。日韓交流おまつりには竿燈も出場し、新デザインの万灯と競演することになる。

‥‥中略‥‥

 万灯振興会の鶴田会長は「秋田の竿燈は親であり、師匠。敬わないといけない。交流に向けてスタート地点にようやく立てた」と話している。

日本海新聞web 版「がいな万灯 分家騒動決着 「米」形にチェンジ」より

外町の職人を中心とする先人たちが、情熱と苦労を積み重ねて現在に至る「竿燈」の技術と伝統を盗み、ながいあいだ念書で交わした約束を反故にしておきながら、いまさら親だの師匠だのといわれても、その言葉がむなしく響くだけ。簡単に「決着」という言葉を使わないでほしい。

ただし、竿燈の心までは盗むことはできない。どんなに形を真似てみても、伝統に支えられた竿燈に対する心意気は、そう単純に真似ることはできない。よく似ていても、それは本物の紙幣をコピーした偽札。同じステージに立っても、そんな心意気をみせてほしいものだ。

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「竿燈」をバクッた「がいな万灯」の顛末

竿燈(ひみつ基地内検索)

関連リンク

秋田竿燈まつり - 国重要無形民俗文化財


がいな万灯 分家騒動決着 「米」形にチェンジ-日本海新聞

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なつかしき夏祭りの夜・ 牛島の祭り

平成二十年度 三皇熊野神社例大祭・本祭
七月十三日

牛島商店街という郷愁の街並を背景にくりひろげられる夏祭りのたそがれ時は、タイムトラベルへのスタートライン。車両が止められた通りの闇が深まるにつれ、遠いあの日へと、タイムマシーンは加速してゆく。

最近まで夏祭りの夜を彩っていた、ノスタルジックワールドの舞台装置「牛島のババの店」に明かりの灯ることもなく夜も更けて、祭りのあとの淋しさと一緒に、いつもの日常への帰路につく。















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牛島の祭り・三皇熊野神社例大祭 平成十八年度

郷愁のかき氷屋・牛島商店街

郷愁の駄菓子屋・牛島商店街

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三皇熊野神社オフィシャルサイト

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「竿燈」をバクッた「がいな万灯」の顛末

昭和六十一年、陸上自衛隊米子駐屯地の隊員が秋田の自衛隊員に「竿燈」を習ったことをきっかけに、鳥取県米子市に「竿燈」をそのままパクッた「がいな万灯」が誕生、徐々に規模を大きくして、今では米子の名物と呼ばれるまでなった。

米子がいな祭り2 がいな万灯 普通シーン

「がいな万灯」が行われる「がいな祭り」は、「竿燈もどき」のほかに「YOSAKOI」と「花火」がミックスされたオリジナリティーのかけらもない「米子の夏を彩る最大のイベント」。

最初は図々しくも「米子竿燈」を名乗っていたが、それを知った秋田市竿燈会は、「竿燈」の名称を使わないこと、形を変えること、県外に持ちださないこと、の三点を申し入れ、米子と念書を交わす。しかし、御覧のように二十年以上のあいだ、その形態はなにも変わらず、関係者のメンタリティーを疑わざるを得ない状態が永く続いていた。

ところが今年になって、過去に「竿燈」も参加したことのある、韓国・ソウルで九月に開催される文化交流イベント「日韓交流おまつり」から、「がいな万灯」に対して出演依頼が舞い込む。パクリを知っていながら依頼するあたりは、さすがにパクリ大国・韓国のメンタリティー。

秋田と交わした念書の一件があるため、米子側は五月中旬秋田を訪れ韓国行きを報告。秋田市竿燈会はこのとき、前々から言い渡していたように、万灯のデザインを変えるようにと釘を刺す。

その後、デザインの変更を伝えてきたことから「がいな万灯」の参加を認め、今回も参加する「竿燈」と同じステージに上がることになったという、「今更かよっ!!」と言いたくなる事の顛末であった。

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さきがけonTheWeb - 竿燈に酷似のがいな万灯、ソウル公演容認 分家騒動で市竿燈会

第35回 米子がいな祭

がいな祭り がいな万灯フォトギャラリー
竿燈大通り?とみまがう光景

JTふれあい北から南 - がいな万灯
3ページにわたって…

日韓交流おまつり 2008
トップページに前回の竿燈画像

がいな万灯 - Google イメージ検索

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画伯は鹿嶋神社の生き神様・楢山御船町

●はじめに鬼面ありき



鹿嶋祭りが行われる御船町(現・楢山登町)の鹿嶋神社境内に、弘化二年(1845)に建立された「倉稲魂神碑」(うかのみたまのかみひ)があり、市指定文化財に指定されている。地名を御船町というように、当時この付近に旭川の船着き場があり、米俵の積み降ろしの際にこぼれ落ちた籾米を供養するために建てられたもの。地名はその後、追廻(おいまわし)と変わり、現在は登町の一部となっている。

鹿嶋神社の創建は明治十年頃と比較的新しい。町内の家に古くから伝わる鬼面が「社を建てて祀るように」との夢のお告げをされたことから、町内で相談のうえ、手形から稲荷の社殿を貰い受け、天照皇大神、鹿嶋大神、稲荷大神の三神を勧進して創建したと伝えられている。後の世に、この鬼面がひとりの男の人生を変えることになる。


神社正面の神池


●鬼面に魅せられた青年

明治の末、町内の大工の頭領の家に生まれた舟山三朗氏は生まれつき体が弱く、十代に入ってからは腎臓を患い医者も見放すほど。熱にうなされたある夜、青年は鹿嶋神社の鬼面とともに空を飛ぶ夢を見て、目が覚めると熱は下がり病状も快方に向かっていた。これをきっかけとして青年は鬼面への信仰を深めてゆく。



鬼面には龍神の神霊がのり移っていると言い伝えられ、祭りのときも気味悪がってあまりかぶり手がいなかった。そこで舟山氏は「ひとつこの面をかぶって龍神の力で立派な体になろう」と思いたち、十九歳になった昭和二年(昭和元年説もあり)の鹿嶋祭りのとき、はじめて鬼面をかぶり町内の災厄を祓って廻るようになる。はじめの頃は氏が鬼面をかぶると、龍神が憑依するのか、突然暴れだして若い衆四、五人で押さえながら歩いたという。

鹿嶋祭りの鬼の役を務めるようになってからというもの、体調も回復し、好きな絵を描くときもインスピレーションがわくようになった舟山氏は、昭和二年、絵画の道に専念するため上京、平福百穂(ひゃくすい・角館出身・日本画家)の門を叩き、その最後の内弟子となる。東京に居ても鬼面は夢に現れ、秋田市川口の大火も夢のお告げで知らされたと語っている。

初夏の鹿嶋祭りには毎年帰省し、鬼面をかぶり町内を祓って歩く。それは亡くなる前年の平成二年まで、六十三年間休むことなくつづけられた。他の町内では祭りを休止した戦中も、戦後の混乱期も継続できたのは、ひとえに舟山氏の情熱があってこそのこと、祭り自体もとうの昔に途絶えた可能性も高い。


●生き神様になった画伯

祭りの前日、宵宮から舟山氏は神社に籠もり、高清水酒造から届けられた水だけを飲む断食で身を清める。当日は麻の衣を身につけ、神社前の池の中央に植えられた、鬼面の霊が宿るという柳に祈りを捧げて神霊を降ろしたあと、柳持ちと御札配りを従えて、町内周辺の行く先々で頭をたれて待つ人々のあいだを駆けるように祓い清めて廻った。

実際に舟山氏の御祓いを受けて病気が治ったという人は数知れず、鹿嶋祭りの日は市内はもとより県内外から多くの参詣者が訪れるほどの人気で、その姿はまるで「生き神様」の風情。氏のあとを追って東京からも信奉者が団体で訪れたという。


柳の御神木

子どもの頃、舟山氏が扮した鬼を「カシマさん」と呼んでいた。「カシマさん」は心底恐ろしい存在で、それは鬼面の怖さもさることながら、神懸かりになった人間に対する、えもいわれぬ畏怖のような感情だったと思う。そして、子どもらが言うことを聞かなかったり、暗くなるまで遊んでいると「カシマさん来るど」と脅かされる「ナマハゲ的」存在でもあった。

当時、舟山氏は四十代、追廻(旧・御船町)周辺だけではなく、人気のゆえか牛島の近くまで足を伸ばしていたと記憶している。



舟山氏が霊感によって名付けた鬼面の名は「三吉祥天妙音十羅刹大白龍王女面」(さんきちじょうてんみょうおんじゅうらせつだいはくりゅうおうじょめん)。十羅刹女(じゅうらせつにょ)は、仏教の天部における女性の鬼神で、鬼子母神(きしもじん)と共に法華経の諸天善神。独学で法華経を学んだという舟山氏は、鬼面をかぶり法華経の一節を唱えながら町内を廻った。

鬼面の保存状態を考慮し、晩年は新調した鬼面をかぶったようだが、舟山氏の亡きあと、鬼役を務める人が途絶えてしまう。しかし、現在は鬼役も復活、鬼面の神霊が宿るという御神木の周囲を周回したあと、町内を廻り、鹿嶋神社の御神体「三吉祥天妙音十羅刹大白龍王女面」は、鹿嶋祭りの日に限り参拝者に御開帳されている。


御神木を周回する鬼役


鹿嶋神社神符・新旧比較

右が舟山氏が柳木でつくった筆で描いたものを木版にして刷った以前の御札(モノクロコピー)。左が現在の御札。

現在の御札は戦後まで使われていた古い形式のものを参考にしてつくられたようだが、手刷り版画から味気ないオフセット印刷となり、神気もありがたみも薄められてしまったのは、舟山氏というカリスマの時代が終わりを告げた今、致し方ないことなのだろう。

かつてこの地には、鬼面信仰を基に、一人の霊能力を具えたアーティストを中心に繰り広げられた、たぐいまれな鹿嶋祭りが存在したのだ。


船山三朗画伯顕彰碑

平成九年、鹿嶋神社境内に「船山三朗画伯顕彰碑」を建立。文は平福百穂の御子息・平福一郎氏(故人・元自衛隊中央病院長・河北病院長)。
船山三朗画伯顕彰碑
船山三朗画伯ハ明治四十二年一月十五日秋田市御舟町ニ生マル.宗教心篤キ一家ノ第四子トシテ精神的素質豊カニ成長ス.小学校卒後家業大工職ノ技術習得ニ励ミ 傍ラ被面求道ヲ修業ソノ完遂ニ勉ム.昭和二年十九才生来ノ天分ヲ活カシ絵画ノ道ニ専念スルコトヲ決意シ 縁ヲ得テ郷国ノ先人画家先考百穂ノ内弟子トナル. 爾来師ノ急逝マデ滿五年日夜研鑽百穂ノ秘義ニ参入ス.師ノ没後ハ遺訓ヲ守リ独立画家トシテ一家ヲ成シ名声ヲ挙グ.コノ間引続キ被面求道ニ精進シ大方ノ驚嘆ヲ博ス.カクテ多数苦悩者ノ復興ニ力ヲ致シソノ功績極メテ顕著ナリ.コゝニ記念碑ノ建立ニ当タリ画伯顕彰ノ一文ヲ撰ス
平成九年四月吉日 平福一郎款識


●カシマさんは変身ヒーロー(蛇足)


「仮面」は太古から「変身」の道具としてあった。シャーマンは神霊を降ろすために「仮面」をつけ、ときに踊りながらトランス(神懸かり)情態に没入する。我が国でも縄文の昔から呪術的に用いられた「仮面」は、神懸かり的要素を残す神楽や能へと受けつがれた。『仮面ライダー』に代表される、現代の変身ヒーロー達もまた、その流れを汲むモノガタリの主人公である。

等身大変身ヒーローの元祖『月光仮面』、そして『愛の戦士レインボーマン』の原作者・川内康範氏は日蓮宗の寺院に生まれ、「月光菩薩」から「月光仮面」を、「観音経」をヒントに「レインボーマン」を創作する。日本人を憎む秘密結社「死ね死ね団」と戦う「レインボーマン」は「アノクタラサンミャクサンボウダイ」と「般若心経」の一節を唱えて変身するのだった。

これはもともと舟山氏の口から出た言葉かもしれないが、鹿嶋祭りで鬼面をかぶり別人格に「変身」し、悪魔を祓った舟山氏の姿を「被面勧懲」と表現した人がいる。「被面」は面をかぶること、「勧懲」は「勧善懲悪」=「善事をすすめ、悪事をこらしめる」こと。そのありかたはあたかも、仮面をつけることで別人格に「変身」し、悪者と戦う変身ヒーローの姿。ただし舟山氏が相対する敵は、目には見えない形而上的なモノであった。
舟山三朗
日本画家。秋田県秋田市生。十九歳で上京、平福百穂に師事する。帝展、文展、日展など中央展十六回入選。平成三年(1991)歿、八十二歳。年齢が近く、両者とも職人の息子ということもあり、郷土の版画家・勝平得之とも親交が深かった。


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関連リンク

舟山三朗「株上がる」 アルバートホテル秋田 - 館内展示美術品コレクション

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楢山御船町の鹿嶋祭り

秋田市祭事記・初夏(四)

厄祓いと子どもの成長を願う、御船町(現・楢山登町)鹿嶋神社の本来の祭日は旧歴五月二十三日、現在は七月の第一日曜日に行われている。

悪魔祓いの鬼が町内の家々を廻り、碇をかかげる弁慶人形を鹿嶋船の舳先に置き、船尾(見返し)に案山子を乗せ、舵をつけるなど、内容は川尻地区の鹿嶋祭りとほぼ同じだが、船体にガツギ(マコモ)は使わず、鹿嶋人形の顔も新屋および川尻のものとは異なる。

船の中心に作られた「屋形」に、あらかじめ神前に供え、湯立神事で清められた御幣が納められ、家々から届けられた鹿嶋人形は鹿嶋船に乗せられて町内周辺を巡回し、おしまいに人形は災厄とともに雄物川に流される。















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70s「朋ひろこ」という秋田生まれの歌手がいた


昭和46年 新聞広告

秋田出身の新人歌手・朋ひろこが秋田市有楽町にかつて存在したクラブ「キングスター」に出演した、昭和46年(1971)6月の新聞広告。

彼女のことを覚えているだろうか。

本名・杉原優子、昭和24年(1949)秋田市生まれ。南中卒業後、敬愛高校(現・国学館高校)に進み、卒業後上京。在学中に通っていた歌謡教室の紹介で、演歌の大御所・大沢浄二(作曲家)のもとでレッスンを積みながら、本名で女優・モデル活動を始め、昭和45年秋、抜群の歌唱力が認められ、東芝レコードのオーディションに合格。大沢は彼女を「演歌を歌うために生まれてきたような大型新人」と評した。

確認できた出演映画は、大阪万博・電力館のマルチスクリーンで上映された『太陽の狩人』(1970・監督:恩地日出夫)と、スチュワーデス役で出演した、特撮ファンに人気がある『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(東宝・1970・監督:本多猪四郎)の二本。

読売テレビが制作し日テレ系で昭和46年(1971)1月から放送された連続ドラマ『涙の河をふり返れ~艶歌より』(原作:五木寛之、脚本:倉本聰)に、芦田伸介が演じる伝説のディレクター「艶歌の竜」がその歌声に惚れて、東北の田舎町から連れてきた新人歌手・眉京子役で出演、五木寛之作詞の劇中歌「涙の河」を歌う。

京子役として五木寛之が当初候補にあげたのは演歌歌手・藤圭子(宇多田ひかるの母親)。しかし、人気絶頂で寝る間もない過密スケジュールをこなしていた藤圭子サイドはそのオファーを断る。五木はどうしても出てほしいと再度アタック、出番の少ない別の役を演じることで、どうにか了解を得る。そして京子役に抜擢されたのが新人歌手・朋ひろこだった。

まだ若く未知数の朋ひろこを起用することに不安があったが、そのハスキーで安定した歌声を耳にした五木寛之は、「“涙の河”は、捨てられた女の怨念の歌で、若い人には気の毒かなと思っていたが、そうした心配も吹き飛ばすおとなぽっい声なので安心した」と語っている。

「芦田伸介劇場」と銘打たれた『涙の河をふり返れ~艶歌より』は日曜日の夜9:30からの30分番組。当時のドラマは30分が多かった。放送当時、秋田出身の新人歌手、それも南中の先輩が、新人歌手役でドラマに出演することが大きな話題になったものだ。



昭和46年(1971)2月、「女のなみだ」(東芝)でレコードデビュー。インタビューに答えた彼女は「藤圭子さんが演歌、それも“恨歌”で勝負していますが、私は“哀歌”を唄いたい」と抱負を語り、五木寛之は「“哀歌”が唄える歌手として、その将来が楽しみだ」とエールを送った。同年9月「朝の別れ」(東芝)リリース。

デビュー当時、地元放送局のイベントなどにゲストで呼ばれて帰省することも少なくはなかったので、どこかで生歌を聴いているはずなのだがはっきりとした記憶がないが、ジュンク堂で立ち読みした、彼女についての記述がある数少ない資料『歌謡曲名曲名盤ガイド 続・歌謡曲番外地』によれば、「ハスキーヴォイスを生かした絶唱型演歌でのデビューであった…」とのこと。

昭和47年(1972)、艶歌からのイメージチェンジを図り、芸名も田代麻紀と改名、昭和歌謡のゴールデンコンビ・橋本淳(作詞)筒美京平(作曲)による楽曲で、東芝エクスプレスから、「潮風の季節」('72)、「昼下がり」('72)、「お熱い娘たち」('73)の3枚をリリース。


お熱い娘たち/田代麻紀

「お熱い娘たち」はフジテレビ系月9(ゲツク)ドラマ『ボクのしあわせ』の主題歌。演歌のコブシを残すコケティッシュな甘え声が印象的。

その後、体調を崩して一時帰省、再度上京した昭和50年(1975)、キャニオンに移籍、原ゆう子と改名し、TBS 系ドラマ『ばあちゃんの星』('76)のフォーク歌謡調主題歌「風物語」をリリース。このドラマに着物姿で登場し、哀愁を漂わせながらセリフもなく去ってゆくチョイ役で出演すると、テレビ局に「あの女性の名は?」と、問い合わせが殺到したという。この時期、週刊誌のグラビアでも活躍した。


原ゆう子:風物語

昭和51年(1976)、TBS 系ドラマ・愛の劇場『幻の殺意』の主題歌、「愛の罪人」(作詞:なかにし礼、作曲:藤家虹二)をリリース。



恵まれたスタートを切り、度重なるテレビ局とのタイアップにもかかわらず、ヒットに恵まれることもなく彼女は、原ゆう子の名前を最後に芸能界から姿を消したようだが、その芸名の多さが芸能活動の多難さを、いみじくも物語っている。

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関連リンク

Variety Japan | FILM SEARCH - わが命の唄 艶歌
五木寛之の原作小説『艶歌』を1968年日活が映画化。
朋ひろこが演じた眉京子を映画では水前寺清子が演じた。あらすじはほぼ同じ。

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彼女についての記述がある数少ない資料

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河骨は真昼の闇に灯りけり


船形手水鉢・千秋公園

伝説の船形手水鉢(ちょうずばち)がすえられた、千秋公園の茶室・宣庵の池(霊泉)に、六月になるとスイレン科の水草・コウホネが黄金色の花をつけはじめる。茶花として千利休が好んで用いた花だ。



白く露出する根茎が骨のように見えることから、「河骨」と書いてコウホネと読ませる。漢方では根茎を「川骨」(せんこつ)と呼び、強壮薬・止血剤・婦人薬として用いる。澱粉を多く含むこの時期の根茎は食用にも使われた。

八橋の山王さん(日吉八幡神社)の春祭りで、統人はコウホネの根を餅に搗合わせた「河骨餅」をつくり神前に供え、祭りが終わると同じものを藩主に献上したという。



花弁のように見える外側の五枚は萼片で、次第に緑色を帯び、まるで噴水の水圧が増すかのように、中心の柱頭は徐々に突起してゆく、その造形の面白さ。厚手の葉は濃緑色で艶があり大きい。



水中から茎を伸ばして咲く、「河骨」という不気味な名が似合わない可憐で鮮やかな花を、俳諧の世界では、「闇に灯る」「金のマチ針」「金の鈴」「鈴を振るわす星」……とロマンチックに表現している。

全開した花よりも、つぼみが少し開いたあいだから、花芯をかいまみせる頃の花が、つつましやかで美しく、その造形的な姿は「家紋」の意匠に多く採用されている。


左上から時計回りに、割り河骨・中輪に五つ裏河骨・河骨枝丸・丸に三つ河骨

コウホネが咲く池(霊泉)を見下ろす、八幡秋田神社に近い台地が「霊泉台」、「お出し」とも呼ばれる藩主の展望台があった場所である。

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伝説の手水鉢・千秋公園

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ヤートセ秋田祭 2008・点描

第11回 ヤートセ秋田祭
2008年6月28日-29日
秋田市大町・通町

























このイベントがなぜ、ヤンキー集団的色彩が濃く、「歌舞伎の隈取り」をシンボルとしているのかについては、「かぶく者たち・YOSAKOIソーラン系の不良性」で。

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関連リンク

ヤートセ秋田祭公式サイト

第11回ヤートセ秋田祭 旗の競演(1) youtube 動画
第11回ヤートセ秋田祭 旗の競演(2) youtube 動画

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