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2008年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年07月

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ひだりみぎ茅の輪の軌跡 [∞] 無限大

六月三十日は「夏越の祓」(なごしのはらえ)。

千秋公園二の丸に鎮座する弥高神社でも、二十日頃から境内に「茅の輪」(ちのわ)がつくられ、三十日には「大祓式」(おおはらえのしき)がとりおこなわれた。


弥高神社

六月と十二月の晦日(つごもり)に行われる「大祓」のうち、六月に行われるのが「夏越の祓」。年二回の「大祓」の日、平安朝の頃には、京都朱雀門前の広場で、親王以下百官男女をあつめ、国家・万民の罪穢(つみけがれ)を祓う神事がとりおこなわれた。「大祓」はその時代、国家的な祭祀、いわゆる政(まつりごと)であり、今も宮中をはじめ各地の神社でおこなわれている。


●上代の「罪」の概念

神道では、「清浄」「清明心」(清き明(あか)き心)を重視し、人が積み重ねた罪穢れ(つみけがれ)を祓い清め、浄化することを神事祭典の基本としている。

「罪」の語源は「つつみ」で、「障」「恙」の漢字があてられた「病気などの災厄、障害」を意味する言葉。

「…事幸(ことさき)く真幸(まさき)くませと恙(つつみ)なく…」(万葉集)、「恙(つつが)なく」、毒虫の「恙虫(つつがむし)」というように使われる「つつみ」が「罪」の語源とされているように、上代の「災厄、障害」なども含まれる「罪」の概念は現代よりもはるかに広範囲にわたっていた。また、「つつみ」は「心の中に包む」ことに通じ、心に包み隠した(秘めた)「邪念」なども「罪」とみなされた。



「罪」とは「想念・思い」が「積み」重なった状態、「穢(けが)れ」を「気枯(きが)れ」=「気(生命エネルギー)の枯渇」と解釈する説もある。つまり「罪穢れ」とは、さまざまな「思い」が重く蓄積され、生命エネルギーが衰えた状態であり、それを浄化し解放するのが「祓い清め」だと。


● [∞] (無限大)に「茅の輪」をくぐる



夏越の祓之図『諸国図会年中行事大成』より

「茅の輪」に使われる植物は端午の節句の「ちまき」を包んだ稲科の「茅萱」(ちがや)。その起源は『備後風土記』に掲載された、スサノオノミコト伝来の「茅の輪の護符」(詳細は関連リンクに)。

「茅の輪くぐり」が終わると参拝者が茅萱を抜き取って持ち帰り、家の戸口に飾って無病息災を願う地方もある。弥高神社のものは「茅萱」の代用に、同じく神聖な稲科の植物で、「鹿嶋祭り」の山車に用いられる「ガツギ(まこも)」をたばねたもの。

「茅の輪」のくぐりかたは、正面から入って左廻り・右廻り・左廻りと「∞・無限大」を描いてくぐるもので(神社によって若干の差異がある)、その軌跡は神官がお祓いの際に手に持って振る「祓串」(はらえぐし)の動きをなぞらえたものといわれている。「茅の輪」をくぐることにより「罪穢れ」を祓い清める。



くぐるとき詠まれる歌が、「水無月(みなつき)の夏越の祓(はらえ)する人は千歳(ちとせ)の命延ぶといふなり」(拾遺和歌集)、「思ふこと皆つきねとて麻の葉を切りに切りても祓へつるかな」(後拾遺和歌集)。

現代語訳「私の思い(悩み)が皆尽き(水無月(みなつき)の掛詞)てしまえと、麻の葉を細かく切りに切って御祓いをしたことだ」



麻の葉は魔除けのパワーがある植物とされ、「夏越の祓」に、たばねた麻の葉を川に流して身を清めたり、切った葉を撒き散らして場や人を清める祓具としたが、現在では麻の葉の代用として、半紙を細かく切った「切幣」(きりぬさ)が多く使われている。


●大祓の人形流しと、呪いの藁人形

「大祓式」では紙の「人形」(ひとがた)に息を三度吹きかけ、体をなでるなどして「罪穢れ」を移したものを、解体した「茅の輪」とともに川に流し、または焚上げて祓い清める。

これは木製の「人形・ひとがた」で体をなでて穢れを移し祓い清める「撫物」(なでもの)が起源で、もともととは陰陽道の呪術であった。平安期の遺跡から呪術に使われたと推定される板状の木製人形が出土することも少なくはない。



身代わりであることから「形代」(かたしろ)とも呼ばれる「人形・ひとがた」が「人形・にんぎょう」の語源であり、それが後世、三月三日の「雛流し」、秋田の「鹿嶋送り」で穢れとともに流される「鹿嶋人形」へと伝えられてゆく。また、呪殺の手段として「人形・ひとがた」に釘を打つ、焼く、切る、埋めるなど、「呪いの藁人形」として知られる、本来の目的を外れた穢れた例もみられるようになる。

「夏越の祓」は本来、旧暦の六月晦日、梅雨が明けた頃の行事、そのため月後れの七月晦日に行う神社もある。秋田市牛島の「三皇熊野神社」でもその日、「人っこまつり」と称して、古式にのっとった「大祓式」がとりおこなわれる。

神事のあと、祓戸大神(はらえどのおおかみ)の人形に、参拝者の「罪穢れを」託した「人形・ひとがた」を背負わせ、「茅の輪」でつくった船に乗せて雄物川河口に流す。どこか「鹿嶋流し」にも似た夏の祭事である。

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福島県神社庁 | おもしろ神話講座 | 「蘇民将来」(備後国風土記より) 「茅の輪」の起源

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梅雨入りに落ちる花の名栗の花


08.06.28

梅雨の頃、黄白色でコップを洗うブラシのような穂状の花から、あの青臭い匂いを放つ栗の花。この穂状の花は雄花で、その穂の下に小さく咲き、やがて栗のイガに成長する雌花はまだ目立たない。

道ばたに重なって落ちた栗の花は、今にも動きだしそうな大きな毛虫のようで気味が悪い。夜道を歩いていて、足下にこいつが落ちていると、一瞬ドキッとする。



「栗花落」という珍しい名字が兵庫県あたりに分布している。「栗花落」と書いて「ついり」または「つゆり」と読ませる、その名の由来は「梅雨入りの時期に栗の花が落ちる」ことからで、「つゆいり」が「ついり」や「つゆり」と変化したという。

非常に風流な名字ではあるが、梅雨時に特有の匂いを放つ栗の花には、どんよりと重く陰鬱なイメージがつきまとう。


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川尻の鹿嶋祭り

秋田市祭事記・初夏(三)

秋田市川尻地区の鹿嶋祭りは旧暦の五月十五日が祭日だったが、現在は三町内で六月の第三日曜日に行われている。


鹿嶋船 毘沙門町

左が飾り付け前、木組みに竹を編んだ簾、ガツギ(マコモ)で船をつくり、赤布を結んだ「下がり」をつけた舳先に、弁慶が碇をかかげる人形を置き、各家庭から持ち寄った鹿嶋人形を乗せる。



船尾(見返し)に「へのへのもへじ」の顔をした案山子。



船尾には熊笹の竹で編んだ「めっけぇ」と呼ばれる「舵」が取りつけられている。「めっけぇ」は、竹や柳で目を粗く編んだ「箕・み」に似た民具で、土砂などを入れて運んだ「目掻・めかき」が訛った言葉。


毘沙門町

以前は鹿嶋船の後ろに山車が連なり、武者などに扮した子どもの仮装行列もみられたという。


毘沙門町

秋田市内の鹿嶋祭りでは鬼が登場する例が多い。鬼の面をかぶった鬼役は、柳持ちと御札配りを従え、町内の家々を訪れ「悪魔祓い」をしながら歩き廻る。

西表町は鬼ではなく、中国古来の悪魔祓いの神で、端午の節句の鯉のぼりとセットになって、のぼり旗に描かれる「鍾馗」の面をかぶり、また、肝煎町の鬼役の少年は早足で町内を駆けるように廻る。


西表町



鹿嶋祭りの日、毘沙門町で配られる御札。

災厄を託した鹿嶋人形と旗の一部を旭川に流して祭りは終わる。

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初夏の風物詩・鹿嶋流し

秋田市祭事記・初夏(二)


勝平得之『鹿嶋流し』昭和十三年

六月から七月はじめにかけて、「鹿嶋流し」、または「鹿嶋送り」と呼ばれる祭りが、秋田県内の各地で行われる。

●新屋の鹿嶋祭り

秋田市新屋地区に伝わる「鹿嶋祭り」はもともと、田植えを終えて田の神を送る「さなぶり」の時期に行われた、五穀豊穣と無病息災を願う行事だったというが、のちに月遅れの「端午の節句」六月五日となり、近年は参加しやすいように、六月の第二日曜日が祭日となった。

祭の前日「宵節句」の夜、子どもらは菖蒲湯で身を清め、自作の鹿嶋人形に笹巻きを供えて祈る。当日の早朝、朝露にぬれた草を裸足で踏み無病息災を願う「露踏み」を行い、朝食のあと、笹巻きを二つ背負わせた鹿嶋人形に、息を三度吹きかけてケガレ(邪気・災厄)を移し、町内の鹿嶋船(舟形の山車)に届ける。ちなみに「露踏み」の行事は、環境の変化もあり現在はすたれている。



鹿嶋人形に笹巻きを背負わせるのが、新屋の鹿嶋祭りの特徴で「笹巻き祭り」ともいわれ、見返しに当世流行のアニメキャラを乗せたりと、現在は子ども中心のお祭り。鹿嶋船のガツギ(マコモ)に挿した五色の流れ旗に書かれた文字は「家内安全」「町内安全」「交通安全」「無病息災」など。



子どもらに曳かれて町内を練り歩いた十九町内の鹿嶋船は、日吉神社でお祓いをうけた後、雄物川にケガレを託した人形を流し、一年の無病息災を願う。昔はガツギ(マコモ)で作った船もろとも流していて、千葉県の「国立歴史民俗博物館」に、湯沢市岩崎地区の鹿嶋様(大型の藁人形)とともに展示されているが、今は人形だけを小型の船や板にのせて流している。人形の一部を流す町内、また一体も流さない町内もある。




●地震除けとしての鹿嶋流し

秋田市内で今も鹿嶋祭りが行われているのは、新屋、川尻、登町(旧御船町)など。古くは大町、本町、上肴町、四十間堀町、八日町、豊嶋町、八橋、明田、牛島、川口、四ツ小屋、仁井田大野など、多くの地域で盛大に行われた秋田の初夏の風物詩であった。

延宝四年(1676)の上肴町の記録によれば、祭りの三、四日前から屋根の上に立てておいた武者人形を舟(山車)に乗せ、その他の練り物(祭礼の山車)とともに、鼓や太鼓を打ち囃しながら土崎湊まで練り歩き、人形を乗せた舟を沖に流す。帰りに寺内で赤飯や酒で祝い町内に帰る。とある。

「地震」などの天災もまた鹿嶋船に乗せて流す災厄のひとつ。菅江真澄の文化八年(1811)の紀行文『軒の山吹』にはつぎのような記述がある。
二十八日 あすは、鹿嶋流しといって、家ごとに餅をつき、例のように、篠の葉に玉のように小餅つけて軒にさしている。家々では人形をつくって、ここかしこに持って行き、御饌を供える。そしてその人形の腰に銭をいくらかつけて、ほかの家に送ってやる。どこでも同じようなことを行っている。こうしてその日になると大船を造り、それに思い思いにつくった武者姿をはじめとして、楫取り・水夫までつくって、船いくさのまねごとをする。だいたい、それを年ごとに流す行事は陸奥にもあるが、きちんと行われるわけではない。これを地震がゆらないための祭というが、考えてみるに、国の守(くにのかみ・佐竹藩主)はむかし、常陸の国からこの出羽の国にこられたので、祖先の国の風俗をまねておこなわれたものであろうか。去年の地震を恐れて、男鹿の浦々はいうまでもなく、どこの村でも「鹿嶋船ながし」といって、笛・太鼓ではやし、神酒に酔って、たいそう賑やかであるが、これが豊かな世の姿であろう。
菅江真澄『軒の山吹』より
「去年の地震」とは文化七年(1810)八月の男鹿大地震のこと、真澄自身、男鹿にいてそれを体験している。このような大地震や天災を期に「鹿嶋流し」が県内に流行し、既存の祭りではその規模が盛大になったようだ。

「地中の大鯰が暴れると地震が起こる」との江戸時代の俗説があり、常陸の国(茨城県)の一の宮・鹿島神宮には「要石」(かなめいし) が大鯰の頭を動かないように抑えているため、この地方には大きな災害がないと伝えられている。古くは鯰ではなく龍が地震を起こすとされ、鹿島大神は地震除けの神としても信仰を集めてきた。


『地震錦絵』より

安政二年(1855)の江戸大地震の直後、地震鯰をモチーフとした「鯰絵」といわれるユーモラスな錦絵が大量に出版される。

この世の災厄(ケガレ)を一身に受け、船に乗せて流される「鹿嶋さん」(鹿島神)という存在について、民俗学者の宮田登はつぎのように考察している。
……人形は災厄がこめられた悪神であり、この悪神を現世の周縁部にあたる鹿島の地へ送りこむという神送りの形式を示している。災厄を送り出す代わりに幸福をもたらしてくれる、そうした境の両義的性格が鹿島信仰の特徴といえる。
『平凡社大百科事典』より
鹿嶋祭りは鹿島信仰を中核に、夏越(なごし)の人形(ひとがた)流し、道祖神・サエの神(村の境に立ち邪気を防ぐ)信仰、端午節句の邪気祓い、さなぶりの神送り、虫送り(作物に付く害虫を村はずれまで送る行事)など、さまざまな風俗・庶民信仰が重層的に習合された興味の尽きない祭事である。

画伯は鹿嶋神社の生き神様・楢山御船町


楢山御船町の鹿嶋祭り


川尻の鹿嶋祭り


旧暦五月は「サの神」の月


諏訪愛宕神社の端午祭


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諏訪愛宕神社の端午祭

秋田市祭事記・初夏(一)

旧暦(陰暦)の五月、田植えから「さなぶり」の時期に行われる秋田の祭りは、人為のおよばない自然現象に左右される農耕に関わる五穀豊穣祈願と、季節の変わり目で病気・災厄が多かったこの時期に行った厄祓いを起源としたものが多い。諏訪愛宕神社の祭礼もそのひとつ。



秋田市保戸野すわ町(旧町名・諏訪町)に鎮座する、その町名の由来となった諏訪愛宕神社。

慶長十五年(1610)、佐竹義宣公が武家の守護神として信州から諏訪大神を勧請(かんじん)、祈願所とした「諏訪神社」は、地区内にあって大正期に焼失した「愛宕神社」と合祀され「諏訪愛宕神社」と改称する。お諏訪さんは、城下の町民から、魔よけ・安産の神として信仰された。


●薙鎌の神符

旧暦の五月五日(今年は六月八日)におこなわれる「端午祭」が近づくと、境内に鯉のぼり・のぼり旗が立てられ、前日の「宵節供」には、神前に笹巻き、邪気を祓う薬草・菖蒲の根をひたした薫り高い菖蒲酒を供え、子どもの立身出世を願う小型の「鯉のぼり」、疫病災難を薙ぎ刈りとるとされる「御鎌」の御守りが頒布される。




勝平得之『民俗版画集・弐』より
ありがたや このかまで
やまいさいなん ねッからかりとる
五月せっくの よいまつりに はんぷされる
保戸野地区はかつて田園が一面に広がる稲作地帯、農家では農具の「鎌」を「薙鎌」として神社に奉納し五穀の豊穣を祈願した。


奉納された鎌

「武家の守護神」とされる以前の諏訪大神の原型は、水や風を司る「農耕の守護神」といわれ、そのシンボルである「薙鎌」の「薙・なぎ」は「凪・なぎ」に通じる。「凪」とは「風が止んで穏やかになる」こと、つまり「薙鎌」には農耕にとって大敵の風害を防ぐ、風鎮めの意味もこめられているようだ。

神社で「御鎌」を頒布する以前は、勝平得之の版画(上記画像)にみられるように、自作の木製の鎌に「奉納 家内安全」と書いた二丁を神社に奉納し、一丁は御札を付けて返してもらい、戸口にまつって厄祓いとした。「宵節供」の夜、五丁目橋から保戸野新橋までの七つの橋を渡って神社に参拝する「七橋渡り」の風習もかつてあった。


●真夜中の神事と笹巻きの説話

旧暦の五月五日の未明、ひそかにとりおこなわれる「端午祭」は、暗闇のなか、本殿鳥居前の仮宮(かりみや)と本殿の間を、神官が御神体を護持して移動させる遷座(せんざ)の神事。これは諏訪大社に伝わる「春の遷座祭」を倣った、山の神を田の神として迎えまつる、豊作祈願に由来する神事と解釈されているという。

諏訪愛宕神社の本殿と仮宮(冒頭画像、手前の建物)の関係は、諏訪大社における上社(男神を祀る)と下社(女神を祀る)に相当するものだ。



神社にこんな伝説がある。……その昔、「笹巻き」が巻けないため離縁された女性が、十日間保戸野諏訪神社に籠(こ)もって巻き方を覚え、ついに復縁することができた。この女性が仮宮の御祭神と伝えられている。

今でこそ、この時期になると市販される「笹巻き」だが、昔はどこの家でもつくったもので、秋田ではそれが巻けないと嫁に行けないといわれ、女の子は幼いころからつくりかたを仕込まれたという。

この「笹巻き伝説」は女子教育の一環として語られた創作であろうが、「女が神社に籠もる」という部分に、田植前の女が身を慎み清めて家に籠もり、早乙女となる準備をする「五月忌み」(さつきいみ) の故事が反映されているように感じられる。


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夏至り黄昏時に咲く花よ





ようやく梅雨入りし紫陽花の花が色づきはじめたとはいえ、空には入道雲がわきあがり、気温30度ちかくまで上昇する夏日となった今日は夏至。

音合せ始まる夏至の広場かな 坂本宮尾

昼の長い午後、夕刻からはじまる野外コンサートを前に、音合わせをする楽器の音が遠くから、かすかに聞こえてくる、そんな夏至のゆったりとした光景を詠んだ俳句。

サンパティオ大町の中庭で開かれるトワイライトリレーコンサートも今日が初日。



チアーズの紡ぐ音楽には、黄昏時のパティオがよく似合う。まだ明るさの残るとき、黄昏れる時間の移ろいを、季節と心の移ろいに重ねあわせた「晩夏」、夜のとばりが落ち星のまたたく頃に聞く「星のかけらを……」など、自然の情景が織りこまれた選曲が心に染みる。


チアーズ

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サン・パティオホームページ
2008トワイライトリレーコンサートのお知らせ日程と出演予定ミュージシャン

チアーズ オフィシャルサイト

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今年もリレーコンサートの季節



もう年の半ばも過ぎて、ようやく梅雨入りしたこの時期は、土曜日の黄昏時「サンパティオ大町」中庭で開かれる、トワイライトリレーコンサートの季節。

初夏から晩夏にかけて、黄昏時のよく似合う心地よい中庭で、ひとときの音楽の贈り物に心うるおす、風情ある夏の風物詩。

リレーコンサートの初日は梅雨のまっただ中にあたるが、ここ数年間、好天に恵まれている。オープニングの出演は三年連続だったと思う、アコースティックユニット・チアーズの演奏が今年も楽しみ。

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進む再建・秋田八幡神社


08.06

平成十七年一月、放火のために焼失した、千秋公園本丸の秋田八幡神社の再建も進み、現在工事中の拝殿の後ろで、先に着工していた本殿が白木もまぶしい外観をみせ、あとは拝殿の完工を待つのみとなった。

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旧暦五月は「サの神」の月

旧暦(陰暦)でいえば今は五月。「つき」とも読む「五月」は、「早苗」(なえ) 、「早乙女」(をとめ) 、「五月雨」(みだれ) 、「早苗饗」(なぶり) 「笹巻き」(ささまき) など、稲作に関連した「」の「音霊・おとたま」ではじまる言葉・季語に満ちあふれている。



」とは神霊を意味し、特に田の神(稲穂の穀霊)を指す言葉。山の神は田植え時期になると里に降りて田の神となる。田の神(の神)を迎え「早苗」(なえ) を植えはじめる祝い・ 祭りを「の神」が降臨することから「早降り」(おり) または「早開き」(びらき)  といい、「の神」に稲からつくった酒(け)や酒菜(かな)を捧()げる。

田植えが終り、田の神がひとまず山に帰られる(上る)ことを「早上り」(のぼり) というのは、「早苗饗」(なぶり) の語源で、この日は「早苗」(なえ) を植える「早乙女」(をとめ) を上座にすえて、「の神」を送る饗宴をひらき、秋の実りを祈願しつつ田植えの労をねぎらう。

「笹巻き」(ささまき)はもともと「なぶり」の行事食。「の神」への捧(ささ)げものである「笹巻き」(ささまき)を包む、稲科の笹(ささ)の葉は、古来から神聖で魔除けのパワーがある植物とされ、祓い清めの神事に用いられてきた。


勝平得之『植乙女』昭和二十五年

旧暦五月(つき)に神聖なる「早苗」(なえ) を植えるのは、生命を生みだす女性「早乙女」(をとめ) の役目。田植えに先立って「早乙女」(をとめ) は、田の神に仕える巫女(みこ)となるため、身を慎み清める「忌み篭もり」(いみごもり) する。これを「五月忌み」(つきいみ) ともいい、女だけで、軒に菖蒲とヨモギを挿した家に籠もることから「女の家」ともいわれ、この日だけは、女が威張ってもいい日とされた。

「早乙女」(をとめ) たちは、この日のための晴着に着飾って田植に望む。


田植姿 南秋田・金足
柳田国男、三木茂 共著『雪国の民俗』養徳社(昭和19年刊)より

田植えに先立つ「五月忌み」と、中国から伝来した邪気払いの行事が結合したのが日本の「端午の節句」。この日にかかせない薬草「菖蒲」が「尚武」(しょうぶ・武事を尊ぶ気風) に通じることから、武士階級の行事にとりいれられ、女子の祭日に定着していた三月三日「桃の節句」と対をなすように、やがて「端午の節句」は男子の祝祭日として定着するが、もともとは、稲作に関連した豊穣を願う、女の祭りであった。

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戦争と石油危機と厚生車

戦争が生んだ厚生車の時代

昭和四十年代初頭まで、人力車に似た車体に自転車を結合させた「厚生車」、いわゆる「輪タク」(自転車タクシー)が街を走り、秋田駅前で客待ちをする光景がみられた。


秋田駅前 昭和30年頃

「厚生車」のような人力三輪自転車が実用化され、全国的に普及しはじめるのは昭和十五年頃からである。

昭和十二年の日中戦争勃発後、自動車に対するガソリン消費規制は徐々に厳しさを増し、交通事業者は木炭など代用燃料への切換え、企業の整理統合を余儀なくされた。現在の「秋田合同タクシー」は、もともとは市内のタクシー業各社が、昭和十五年に整理統合された会社である。

昭和十六年に入ると米国の対日石油輸出禁止により,バス・ハイヤー・タクシーへのガソリンの割当てが全面停止された。

そんな世相のなか、大正中期から自動車の増加によって減少しつづけていた人力車の台数が増加、それの改良車である「厚生車」とともに、ふたたび脚光を浴びることになる。

「厚生車」の運転手は人力車夫からの転向や、失業したタクシー運転手が主であった。当時の「キングタクシー」の社長はタクシー会社を企業統合で手放し「厚生車」へ転向、「キング厚生車」の名で自ら運転したのが成功し、手放した営業権を買い戻して、再び会社を起ちあげたという。


●新聞広告に見る厚生車


昭和15.11 新聞広告

土崎港加賀町の「旭更生舎」は、車の販売と運転業務を兼業していたのだろうか。「人力タクシー車出現!!」というコピーからして、ここが秋田初の「厚生車」取扱店だった可能性もある。

「厚生車」という言葉について前々から疑問に思っていたが、「更生車」がその語源だろう。はじめに「更生車」のネーミングで車を販売、もしくは営業していた業者を手本に、後発の「厚生車」が誕生したと想像できる。

旧時代の人力車を「再びよみがえさせる」=「更生」させたのが「更生車」であり、戦時中は「厚生車」「国民車」「国策車」などと名付けられた、さまざまなタイプの車両が製造された。ちなみに、戦後になって戦時中に改造された「木炭車」を、再びガソリン車に再生させたバスも「更生車」と呼ばれた。


昭和16.04 新聞広告

こちらは「優先車」とネーミングされた客席が後部に付くタイプで、茶町の「遠藤自転車店」が代理店になっている。


昭和17.01 新聞広告

流線型の堅牢なカバーで客席が覆われた、サイドカータイプのちよっとカッコイイ「国民車」。


昭和17.04 新聞広告

価格は百五十円から三百五十円まで。「医師用」とあるが、戦後も診療鞄を抱えた医者が「厚生車」に乗って往診に出かける姿がみられた。社名が「旭更生舎」から「旭更生車」と変わっているのは誤植かも知れない。


●厚生車の戦後

終戦後の物資不足の時代も人力車と「厚生車」が活躍し、昭和二十三年の時点で全国で約一万三千台が営業しているものの、復興が進む昭和二十五年頃からは徐々に「三輪自動車タクシー」が「厚生車」に取って代わりはじめる。

昭和三十九年、秋田市内における「厚生車」の台数は六台。六十歳過ぎの高齢運転手ばかりで、料金は旧市内で七十円から百円。テレビを「厚生車」の客席に乗せて運んでいるのを見た記憶があるが、この時代、荷物の運搬が約八割を占め、あとの二割が主に高齢の常連客。運賃が安いことから、若い客が「自分の父親に難儀をさせているようで心苦しい」と、チップをはずむ場合も多かったという。

それから数年後、街から「厚生車」の姿が消えた。

アジア圏では今でも広く「厚生車」に似た自転車タクシーが利用されており、日本が明治初期に輸出した「人力車」を語源に、インド圏では「リクシャー」とも呼ばれている。また、先進国においても近年、エコロジーを考慮した新時代の交通手段として、自転車タクシーが見直されはじめている。


平成19.09 広小路にて

「秋田わか杉国体」期間中に市内を運行した、ドイツ製電動アシスト付き自転車タクシー「ベロタクシー」。主にボディのラッピング広告の収益によって運営されるため、運賃が比較的に低く抑えられている。

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世界の自転車タクシー(PDFファイル) 製作:東京工業大学 屋井研究室

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アオサギは青くない・千秋公園


千秋公園二の丸・湖月池にて

鶴に似て優美なアオサギが千秋公園の水辺に姿を見せるようになったのは五年ほど前からだろうか。旧雄物川河口の向浜コロニーから飛来すると想像されるアオサギはいつも単独である。


千秋公園二の丸・湖月池にて

「アオサギ・青鷺」という名前なのに、どう見ても青くはい。『大辞林』で「青」を引くと項目のなかに〔古くは、白と黒との中間の色を広くさし、「青馬」「青雲」など灰色をも意味した〕とある。

淡い灰色に近い「白毛」、もしくは白毛に黒色や濃褐色などの差し毛がある「葦毛」の馬を「白馬」と書いて「アオウマ」とよませている。「白馬」も「アオサギ」も、光の加減で微妙に青みがかった灰色に感じることもある。

また、古代の「アオ・青・蒼・碧」の概念は、「青」や「淡い灰色」だけではなく、「アカ・赤」と「クロ・黒」の中間に位置する幅広い色を指したともいう。緑色の野菜を「アオモノ」と呼ぶのもその名残なのだろう。


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