二〇世紀ひみつ基地

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2007年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年12月

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便所煙突くるくると廻れ

●便所煙突のある風景

汲み取り便所が主流だった昭和の時代、あちらこちらの便槽から、便所煙突が空に向かって立ち上がる光景があった。その先端に付けられた風車が、風を受けて回転することにより、悪臭を空中に排出する仕組み。いわゆるベンチレーターの一種で、業界ではこの装置を「臭突」と呼ぶのだそうだ。



風が吹かなければ換気能力がいちじるしく低下するため、後に電動式の換気扇を仕込んだものが登場する。今もわずかに残る便所煙突は、風車の無いこのタイプが主力。上の物件は一見すると昔から見慣れた風車の形状に近いが、よく見ると煙突部分にコードが伸びていて、風力と電力の兼用タイプであることがわかる。


●便所煙突はいつ誰が造ったか

以前、便所煙突のことが気になって調べてみたことがある。しかし、その成り立ちについて記述する文献に巡りあうことはできず、そんなことも忘れていたある日、図書館で戦前の新聞を閲覧していると、こんな広告が目に飛び込んできた。


新聞広告 昭和三年

「昼夜無休」「便所ノ悪臭及蚊蠅ヲ完全ニ排除ス」というあたりは、昔の広告にありがちな誇大表現だが、この「啓正式除風器」こそが便所煙突の起源だったのだ。

広告に掲載されている特許番号で、特許庁にストックされている実用新案公告を検索すると、大正十三年七月十日、鈴木啓正という人物が「煙突除風器」という名称で出願、大正十四年三月二十日に公告されている。

発明者である鈴木啓正は、「啓正式除風器」のほかに、「啓正式パイプハウス」、鉄道で使われた「啓正式標識灯」など、自らの発明品を製造する「啓正式特許器製作所」を個人経営していた。主な納入先は鉄道省、逓信省、陸海軍など。

養蚕農家では「啓正式除風器」が解舒(かいじょ)用として使われたという。解舒というのは、繭を煮沸して生糸をほぐすことを言うが、それの換気のために利用されたと思われる。

昭和の始めころ、便所に除風器を取り付けたのは、一般庶民の家庭ではなく、当時、文化住宅と呼ばれた高級住宅であったことだろう。


●オブジェとしての便所煙突



現存する便所煙突の風車のほとんどが合成樹脂製のものに変わったが、それ以前のものは金属製だった。今でもまれに存在する、錆び付いて味わい深い風情の鉄製風車に遭遇すると、昭和の遺産を見つけたようで嬉しくなってしまう。それに比べて、派手な青色に彩られた樹脂製の風車は、風情も面白みもない。

シンプルな風車のメカニズムの、頭頂部から曲線を描いて直線に交わる羽根により構成された、ロシア正教の丸屋根を連想させるノスタルヂックで優美な造型は、昭和の日常風景のなかに存在した、風の力で動くムービング・オブジェである。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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「メトロポリス」がやってきた・活動写真


秋田劇場・秋田市柳町

昭和四年(1929)四月、松竹座で日本初上映された、SF映画黎明期の傑作「メトロポリス」が、同年の九月、秋田市柳町の秋田劇場に於て封切られ、弁士(べんし・無声映画の解説者)として、かの高名な泉天嶺が来秋し名調子を聞かせた。


新聞広告 昭和四年

「新秋を彩る世界的大名画上映百年後の世界」など横書きの文章が、戦前の慣行だった右横書き表記なのに対して、カタカナの「メトロポリス」だけが珍しく左横書きなのがアンバランスで、一瞬頭が混乱する。このような混在は珍しい。

同時上映は、大河内伝次郎主演の「血煙荒神山」と、ハリウッド無声映画期の俳優・阿部豊が監督を務める「母いづこ」。当時は和物と洋物の組みあわせが普通だったが、最先端映画の「メトロポリス」と、コテコテの古典「血煙荒神山」とではあまりにもギャップがありすぎ。


文章は当時の新聞広告より

「メトロポリス」(Metropolis)
製作 1926 ドイツ
監督 フリッツ・ラング

製作時から100年後の世界、2026年の未来都市メトロポリス。地上では高層ビルが建ち並び、市民は物質文明を享受しているが、メトロポリスの心臓部である地下世界では、労働者階級が機械のように働かされている。地上の天国と地下の地獄の対比。

地下世界をアンドロイドに統治させようと企むメトロポリスの支配者。それに反発する支配者の息子が恋するマリアは、メトロポリスを聖書の「バベルの塔」にたとえて、地下の労働者に説き聞かせる先導者的存在の女性だった。

マリアの存在が目障りな支配者はマリアを捕らえ、完成していたアンドロイドを彼女に瓜二つの姿に造りなおして地下世界に送り込む。しかし、アンドロイドは支配者の意に反して、労働者に革命を説く扇動者となる。労働者たちの暴動により地下世界は崩壊、メトロポリスはその機能を全面停止するのだった。その後・・・・。


右上から時計回りに、捕われのマリア、メトロポリス、初代アンドロイドと博士、マリア型アンドロイド

当時の資本主義と共産主義の対立を基調にしたストーリーはともかく、その斬新な特殊撮影による、ドイツ表現主義の深い陰影をともなう、映像と造型の美しさにシビれてしまう。とくにアンドロイドの造型は「映画史上最も美しいロボット」と評されるほど。製作から八十年以上も経っているのに、今観ても古臭さを感じさせない。

フリッツ・ラングによる金字塔「メトロポリス」が、その後のSF映画に与えた影響は大きく、未だに多くのアーティストたちのインスピレーションの源となっている。

電子音楽の大家にしてディスコ音楽の父・ジョルジオ・モロダーは、オリジナルフイルムを収集し、新たにサウンドトラックを追加、一部をカラー化した「メトロポリス新版」を製作、昭和五十九年(1984)に公開した。

YouTube に「メトロポリス」の映像が多数アッブされている。お薦め動画のリンクは下記に。

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「秋田劇場」昭和七年正月映画

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YouTube お勧め動画

Metropolis (1927) - Dark Side Of The Sun
バックに流れるのはトリー・エイモスのDark Side Of The Sun

METROPOLIS meets SHOSTAKOVICH
ショスタコーヴィチの交響楽をバックに

Metropolis
マリア型アンドロイドの誕生

Metropolis - 10 MINUTE Promo - Fritz Lang
ジョルジオ・モロダー版

| 興行・見世物・映画 | 22:30 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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久保田城の裏門を訪ねる

千秋公園の二の丸、胡月池を望む鯉茶屋前から本丸に至る石段を、裏御門坂、略して裏門坂という。かつては石段を登り、さらに左折して登りきった場所に久保田城の裏門が存在し、今は礎石だけが残っている。


千秋公園 裏門跡

千秋公園から消えた裏門は、秋田市寺町の曹洞宗寺院・鱗勝院の山門として生まれ変わった。


鱗勝院 山門

明治十九年四月三十日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲い、外町を中心とした約三千五百戸が全焼、寺町の寺院のほとんども貴重な文化財とともに焼失してしまう。

その後、焼失した伽藍を再興するに際して、佐竹家から拝領したのが現在の山門である。鱗勝院はもともと、佐竹家の転封により常陸から移ってきた、佐竹東家六代義直の夫人、保徳院が創建した佐竹家ゆかりの寺院。

この元裏門は、安永七年(1778)久保田城大火の際に焼失し、その後再建したもの。もともとは千秋公園に復元された表門のような二層楼(二階建て)だったが、鱗勝院への移築にともない現在の形になった。



裏門の原型は失われ、瓦葺きの屋根は後年、銅板葺きになったものの、二百余年前の築材はそのままで、永年の風雪に耐えた歴史と風格を感じさせる、堂々たる山門となっている。

藩政時代から現存する久保田城の建造物は、表門前の御者頭御番所と、この元裏門だけとなった。


木組の美

鱗勝院は「秋田音頭」発祥の地としても知られる。寛文三年(1663)七月、踊り手らが寺に集まって数日間にわたり協議、町踊りとしての原型があった「秋田音頭」を、柔術の型をヒントに現在のものに近い振り付けがされたという。

千秋公園・裏門跡と鱗勝院・山門の画像を合成して、久保田城の裏門を復元してみた。二層楼であったことを考慮し、高さを若干延ばしている。




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久保田城・裏門跡


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鱗勝院

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人徳の商家・那波家(俵屋火事についての記述)

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自転車百哩大競走・大島商会主催

秋田市下肴町に大島商会が創業して間もない明治三十五年(1902)の秋、大嶋勘六氏の企画により、自転車の普及宣伝を兼ねた「自転車百哩大競走」なるイベントが開催された。


新聞広告 明治三十五年

秋田市を早朝に出発、本荘、浅舞、横手、六郷、大曲を経て秋田市に帰着する、延長百二十哩(マイル)約193.1 kmの走行コース。

賞品として、一着・金側懐中時計、二着・銀側懐中時計、三着・秋田八丈一反、四着から十着・木綿反物一反が用意され、参加できる自転車として、英米製の舶来自転車主要メーカーの名前が並ぶ。まだ国産自転車は性能が低く、輸入車が主流だった。

当時、自転車を所有することができるのは、資産家か地元の名士など一部の富裕層のみ。自転車がステータスシンボルであり、また贅沢な娯楽・スポーツであった時代である。

九月二十一日の大会当日、あいにくの雨模様の中、集まった参加者は九名、午前五時三十五分スタートの号砲が鳴る。

結果およびタイムは以下の通り。

一着・三森定治氏、午後三時四分着
二着・鈴木忠治氏、午後四時二十五分着
三着・小野周八氏、午後四時二十七分着
四着・伊藤徳松氏、午後五時三十五分着

その他の出場者は午後六時までの制限時間をオーバーするため、大曲で中止したという。当時の自転車の性能と乗り心地、未舗装の道路などの条件を考えると、出場したアマチュア選手にとって、相当過酷なレースだったことが想像できる。

日本で最初の自転車競走が開催されたのが明治三十年前後、これは短距離レースだったようだが、それから五年後に大島商会が開催した百哩競走は、秋田県に於けるロードレースの嚆矢であり、全国的にみても早い時期に開催された長距離レースだったのではないだろうか。

明治期に県内初の煉瓦商店を建て、列車を利用したサイクリング大会、ロードレース、さらにはミステリートレインなどの、当時としては画期的かつ独創的なイベントを企画開催した、大島商会店主、大嶋勘六氏の先進性と行動力には目を見はるものがある。

※明治大正期の広告等の店名は「大嶋」と「大島」が混在し「大嶋」のほうが多いが、登録有形文化財の登録名は「旧大島商会店舗」であり、文献も「大島」としているものがほとんどなので、表記は「大島商会」に統一した。

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二〇世紀ひみつ基地 自転車遠乗会・大島商会主催
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県民会館の土手から広小路を望む・大正期


秋田地裁付近・大正期の絵葉書より

県民会館の土手から、広小路を見下ろす。西根小屋町の広小路に面した角に建つのは、赤レンガ建築の秋田地方裁判所。その右隣に白壁の木内雑貨店、さらに西側に秋田県庁および議事堂など関連施設が並ぶ。


木内と後方に県庁

昭和四十三年(1968)、秋田地裁は山王に移転、その跡地に昭和四十五年(1970)、秋田第一ホテル、現在の秋田キャッスルホテルが竣工する。


2007.10

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1973 県民会館の土手から
県民会館の土手から広小路を望む・1971

広小路(ひみつ基地内検索)

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日曜朝の定番ソング・服地はミユキ

ミユキ ミユキ ミーユキ ミユキ 服地はミユキ
ミユキ ミユキ ミーユキ ミユキ 服地はミユキ
紳士だったら知っている 服地はミユキと知っている
ミユキ ミユキテックス ミユキ ファンシィテックス
ミユキ ミユキ 服地はミユキ
随一の民放局だったABS秋田放送では、日曜日の朝、9:30になるとこのCMソングと、大草原に遊ぶ羊の群れのモノクロ映像が流れた。番組名は「ミユキ野球教室」、提供は御幸毛織(現・御幸ホールディングス)。



広告代理店のコピーライターが作詞し、山本直純が作曲、ボニー・ジャックスが唄った曲は、「ミユキ野球教室」が放送開始された昭和32年3月から、平成2年3月に最終回を迎えるまでの33年間の永きにわたり流れていたという。

番組の冒頭に流れるCM、いわゆるオープニングキャッチといえば、「タケダ タケダ タケダー」の武田製薬、松下電器の「明るーいナショナル」など印象深い曲が多い。「服地はミユキ」もまた、それらと並ぶ、広い世代の耳と記憶に刻まれた、昭和CMソングの名作といえよう。

日テレ系「ミユキ野球教室」は、当初はそのタイトル通りに野球の技術面に焦点をあてた番組だったが、次第に読売ジャイアンツの選手を中心とした情報番組となり、30分番組は後年15分に短縮されている。

なつかしの「服地はミユキ」のテレビCMは、御幸ホールディングスのオフィシャルサイトで配信されている。

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関連リンク

「ミユキ野球教室」TV.CM 御幸ホールディングス

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CM(ひみつ基地内タグ検索)

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県民会館の土手から広小路を望む・1971


1971

広小路が歩行者天国になった休日、県民会館の土手に上り、広小路を見下ろす。貸ボートが遊ぶ穴門堀の向こう、左から、「長崎屋」「盛田カバン」「イワマ靴店」「モードササキ」「オノ時計店(工事中)」「ヒラノビル」、道をはさんで「秋田プラザ・第一ホテル」。「長崎屋」屋上のネオンサインがアンバランスで、今にも崩れ落ちそうだ。

「ヒラノビル」の裏には、「桃園ビル(飲食ビル)」「小澤歯科」とつづき、「小澤歯科」の裏、細道を進んだ奥まったところに「江戸や質店」があった。



大正12年岩手に創業した「盛田鞄店」が秋田に店を開いたのは昭和42年(1967)。現在は東北を中心に全国145店舗、県内12店舗。本社が仙台にある「イワマ靴店」の上階には「喫茶ブルボン」の公園前店が入居していた時代もある。女子高生制服オーダーの「モードササキ」。カビと劣化がはげしいリバーサルフイルムをスキャンして、無理なレタッチを加えたもなので画質が悪い。


2007.10

古沢ビルから西側のビルは解体され、秋田中央道路(地下道)の出口となり、キャッスルホテル(旧第一ホテル)は、裏側の露天駐車場敷地に新館が増築された。



並べて比較すると、屋上に八階部分(バー・ロータス)が増設されたのが確認できる。

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1973 県民会館の土手から
広小路空中散歩

広小路(ひみつ基地内検索)

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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東海林太郎・台所町の生家


東海林太郎・明治31年-昭和47年

明治三十一年(1898)十二月十一日、秋田市台所町二番地に生まれ、保戸野尋常小学校、秋田中学校(現・秋田高校)、早稲田大学を経て、大正十一年、満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社。七年間勤務の後、音楽への夢捨てきれず帰国して声楽を学び、昭和八年(1933)にレコードデビュー。約四十年の歌手生活で録音した曲は約千三百曲におよぶ。

東海林太郎の好んで使った「一唱民楽」(一つの歌で民を楽しませる)ということばがある。これは彼が深く傾倒した宮本武蔵の「一剣護民」(一振りの剣で民を護る)に触発されて生まれたことばであるが、その歌に対する情熱は並々ならぬものがある。

新曲が出来あがるとまず、東海林はその歌詞を毛筆で書き写し、解らないことば、納得できない部分があれば、文献をあさり徹底的に調べあげ、矛盾点があれば作詞家に意見することもあった。レコーディングに際しては「勝負は一回しかない」と一発録りにこだわった。

ステージに上がるときは「一尺四方のステージは真剣勝負の道場」との信念のもと、たとえそれが場末のキャバレーであっても燕尾服で正装し、クラシックコンサートでシューベルトを唄う心で、あの直立不動の姿勢でのぞんだ。


東海林太郎の生家

東海林太郎が生まれ育ち、旧制秋田中学校(現・秋田高校)を卒業して上京するまで生活した、千秋公園の麓に位置する台所町の生家。


台所町(現・千秋矢留町)

台所町は、久保田城の厨房を担当した台所衆が住んだ侍町。

鷹匠橋から千秋トンネルに向かい、トンネル手前の信号を左折、台所町の狭い小路を進むと右手に生家跡、そこを通り過ぎて少し歩いた右手に、千秋公園へと向かう八幡坂。


八幡坂

八幡坂は八幡山(後の水道山、今の明徳小学校用地)に通じる坂、少年の日の東海林太郎も、この坂を毎日のように上り、千秋公園に遊んだことだろう。

 郷土に寄する言葉 東海林太郎

 私の故郷の家は、佐竹侯のお城跡の、山のすぐ下にありました。私は子供の時から、よく裏の山へ駆けのぼり高い松の木にのぼっては、脈々として続く奥羽山脈を仰いだり、遙かに男鹿半島を望み、はてしなくひろがる日本海を眺めながら、いつも、聲を限りに歌をうたったものでした。かうして私は殆ど誰からも教わることなく、故郷の四季折々の姿を心に写しては、歌をうたってきました。この懐かしい故郷こそ、私の最初の、そして最大の音楽の先生であったと考えて居ります。
 先年、十幾年ぶりで郷土を訪問して演奏会を開いた時、私は真先にその山に駆けのぼりました。そして今もなほある、あの時の松の木に寄りかかった時、私は幾十年もの間、その松の木と一緒に、そこに立って居った様な氣が致しました。
「故郷は一種のインスピレーションなり。琴線ひとたび之に触るならば無限の妙音を発す」と語った詩人の感慨が、ひしひしと胸に迫ります。
 私の夢を、私の歌を、私のいのちを育んでくれた故郷!

 おばこ唄ふて 寝かされた
 ふるさと恋し 母恋し
 雪の夜更の 子守唄
 おくになまりが なつかしや
  
 胸もさけよと 聲かぎり  
 われは唄はん たからかに
 唄うことこそ わがつとめ
 わが望みなり わが命

昭和十五年「東海林太郎後援会機関誌」より


東海林太郎生家跡


生誕地記念碑

平成三年(1991)、生家は取り壊され駐車場となり、隣地のアパート敷地内に道路に面して銅板の記念碑が建てられている。


生家玄関・復元展示(東海林太郎音楽館)

大町二丁目、榮太楼菓子舗二階「東海林太郎音楽館」に復元展示されている、生家玄関の一部。藩政期の建築という、特徴のある屋根の形状は、往事は中級武家の町だった楢山・築地方面に今もわずかに残る、天に曲線を描く「起(むく)り屋根」。


東海林家の石灯籠

中央図書館・明徳館(明徳小学校跡)の前に、生家の庭にすえられていた石灯籠とケヤキの木が移された。小振りながらも茶人好みの、風情ある灯籠である。


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東海林太郎・生誕地記念碑・周辺

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関連リンク

東海林太郎 ウィキペディア(Wikipedia)

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