二〇世紀ひみつ基地

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2007年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年11月

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国民新聞遊覧団来秋す・明治四十二年

鉄道網が本州に整備され、田山花袋ら文筆家による旅行書が数多く出版された明治末、富裕層のあいだに第一期旅行ブームが起こる。そのさなかの明治四十二年(1909)九月十九日、東京の国民新聞が主催した東北大遊覧会の一行、二百三十名が秋田市に到着した。


千秋公園・中土橋

遊覧団一行が停車場から広小路を通って千秋公園の入口、中土橋にさしかかったところを、土手の上から撮影した写真。

一行は当日の午前十一時三十分、湯沢に到着、郡長、町長以下数十名の出迎えのなか、歓迎の煙火(はなび)が打上げられ、有志より銘酒二百本、林檎等の寄贈あり。横手町では、郡長代理、町長以下数百名が列をなして送迎、ビール、葡萄、林檎などを一同に配り、芸妓が総出で酌の接待。大曲町でも煙火(はなび)打上げ、絵葉書等の贈呈があった。

午後二時二十分、秋田駅到着、楽隊の演奏のなか、森知事、小山事務官、井上県会議長、辻兵吉商業頭取、その他官民の主なる人々数百人が万歳を唱え、川反芸妓が一人ひとりに自らの名刺付き花束を贈り歓迎の意を表す。

停車場前の接待所に小憩、茶菓を喫したあと、大槻助役を先頭に千秋公園と水道施設、物産陳列場を見学、午後六時三十分、公会堂で歓迎会を開く。会場内に金銀細工、樺細工等を陳列し、記念絵葉書を投函する特設ポストを設け、余興として竿燈と秋田音頭が披露された。

彼らは秋田に入った近代団体旅行のさきがけだったのか、観光誘致という思惑があったにせよ、遊覧団一行は各地で熱烈な歓迎を受けている。

明治四十二年といえば、この年の七月から八月にかけて、「秋田魁新報」「東北公論」「秋田時事」の新聞三社が県の賛同を得て、秋田県をPRするため、在京の新聞雑誌記者十数名を招待した、秋田観光元年といえる年であった。

新渡戸稲造、中里介山、中野正剛など、そうそうたるジャーナリストたちが参加した「秋田観光記者団」が各誌に掲載したルポルタージュは、同年『知られたる秋田』というタイトルで書籍化された。『知られたる秋田』は昭和六十年、秋田の無明舎出版により復刻されている。

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写真の細部を見てみよう。



お堀と道路の境にあるのは柵ではなく土盛。「国民新聞・遊覧会」の文字が染められた手旗を手にする人々。「国民新聞」の幟旗(のぼりばた)に囲まれて、数人の楽隊が行進している。

近代興行史に詳しい方ならば、この光景を見て「町廻り」を連想するに違いない。「町廻り」とは、広告メディアが新聞ぐらいしかなかった時代、活動写真、演芸、曲馬(サーカス)などが興行を打つ際に、幟旗を持ち、楽隊などの鳴り物をともない、チラシを配りながら町々を宣伝して歩くことで、形態としてはチンドン屋に似ている。というより「町廻り」はチンドン屋のルーツのひとつなのだ。

実は遊覧団には吉沢商会の活動写真班が同行し、この日の夜、おそらくは国民新聞の宣伝を兼ねたものだろう、旧八幡神社境内で活動写真を上演しているのだ。このことから、写真に写っている楽隊も、吉沢商会の専属楽隊の可能性が高い。

吉沢商会は日本に於ける映画の黎明期から活動し、日本初の映画常設館「電気館」を浅草にオープンさせたことでも知られる興行会社。後の日本活動写真株式会社(日活)の前身の一社である。



広小路を渡った突き当たり、現在の日本生命ビルおよび、駐車場(セントラルデパート跡地)の敷地に建つ旧八幡神社は、明治四十年、八幡神社が千秋公園本丸の秋田神社に合併されたあと、建物だけが残っていたもので、このあと間もなく弥高神社が入る。弥高神社が千秋公園二の丸の現在地に遷され、大正七年、その跡地に県立図書館がオープン。


弥高神社(旧八幡神社)右手の道路が広小路



着物に学帽、麦わら帽子の子どもたち。手前の四人は土手の上のカメラに眼差しを向けている。



広小路を進む行列の後ろ、看板が掲げられた商店は、現在の加賀谷ビルの場所。角を曲がれば東根小屋町。



現在の中土橋と広小路 2007.10

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千秋公園外濠ノ景

こちらは神田の古書店で入手した「国民新聞主催東北遊覧会歓迎記念 明治四十二年九月十九日 秋田市」の記念スタンプがある絵葉書。遊覧会の参加者が購入、または進呈され、当日の十九日、千葉県宛に投函したもの。拡大画像、詳細などは以下関連記事に。

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関連記事

大正期の中土橋・千秋公園入口
公園外濠ノ景・風景を読む
県立秋田図書館・広小路

関連リンク

國民新聞 ウィキペディア(Wikipedia)

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秋田プラザにレインボーフロア誕生・1972


1972.12 新聞広告(部分)

レインボウフロアは流れるメロディによって豪華なシャンデリアが、美しい七色の虹をつくり楽しいムードでいっぱいです。
この無駄に豪華なレインボウフロアというのは記憶に無いが、イラストに自動車が描かれていることから、現在はホテルが増設された、露天駐車場に隣接した部分と思われる。

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広小路に「秋田プラザ」オープン・1970
広小路空中散歩・1975・2007

秋田プラザ(ひみつ基地内検索)

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幸福の神「ビリケンさん」大流行

●ビリケンさん米国に誕生

明治四十一年(1908)、米国はカンザスの女性美術教師、フローレンス・プリッツは美術展に出品する作品の構想に頭を悩ませていた。ある夜、フローレンスの夢枕に、とんがり頭につり目の奇妙な像が現れこう告げる「足の裏を掻けば私は満足し、世界の人々に幸福を与えるであろう。私を彫刻して出展するとよい」。夢のお告げ通りの像をつくり出展したシカゴの美術展で、彼女の作品はグランプリを獲得。フローレンスは早速、この像の特許登録を行い、置物や貯金箱をつくり細々と売りはじめた。

明治四十二年(1909)、ニューヨークのホースマン社が版権を購入。体重150kgの巨漢、第二十七代米国大統領、ウィリアム・H・タフトのニックネーム「ビリー」にあやかり「ビリケン」と命名され、アメリカとカナダで売り出された石膏製人形は、ラッキーゴッド、幸福をもたらすマスコットとして人気をあつめ、六ヶ月間で二十万体を超えるヒット商品となり、やがてその人気は世界中広がってゆく。


大黒様と握手するビリケンさん・明治期の絵葉書

大黒様とビリケンさん、日米を代表する福の神が揃う、目出度き意匠の日本製絵葉書。ビリケン人形の台座に刻まれた "THINGS AS THEY" の全文は、 "THE GOD OF THINGS AS THEY OUGHT TO BE." 、これはフローレンスが作成したオリジナルに刻印されていたもの。

●ビリケンさん日本に来る

アメリカで発売された年に日本に上陸したビリケンは、はじめは商家や花街の芸妓たちを中心に縁起物として流行。人気に目をつけた大阪の繊維商「神田屋田村商店」(現・田村駒kk)では、ビリケンに七福神を加えた「八福神」を商標として登録、ラベルや販促用品を彩るキャラクターとして使用され各地に広まってゆく。

明治四十五年(1912)、大阪新世界の第五回内国勧業博覧会跡地に、エッフェル塔をモデルにした通天閣をシンボルタワーとする遊園地・ルナパークが開園する。ルナパーク内に建立された、ビリケン像(石膏製)を祀るビリケン堂は、新世界名物として話題を呼び、ビリケン人形やビリケン饅頭などの関連グッズは飛ぶように売れた。


新世界ルナパークの初代通天閣


●新聞広告に見るビリケンさん

明治末から大正の初期、秋田でもビリケンの置物のほかに、お菓子や漬物など、その人気にあやかった商品が売りだされている。


明治四十四年・新聞広告

時流にのった奇抜な商品を開発していた榮太楼では、ビリケンをかたどったお菓子を発売。ビリケンさんを持ってるだけで「否が応でも」福が来る。


明治四十五年・新聞広告

こちらは千秋公園観桜会の榮太楼特設売店に於けるビリケン大売出し広告。お菓子を買えば、金属製ビリケン人形か絵葉書が貰えるというもの。


明治四十五年・新聞広告

広小路の木内ではビリケンの名を冠した漬物を販売。ビリケン漬というのは、「ビリケン=福の神」で福神漬けのことか。


明治四十四年・新聞広告(部分)

明治四十三年、国産第一号の蓄音器および、レコード盤を製造販売した日本蓄音器商会の広告。「ニッポノホン」は蓄音機の名称であり、レーベル名でもある。

ビクターの商標では犬が蓄音機に耳を傾けているが、さすがに日本のメーカーだけあって、大仏さんが聞き耳をたてている。

日本蓄音器商会の商号は、日蓄工業を経て、昭和二十一年、日本コロンビアに変更された。


大正四年・新聞広告

母性と豊穣多産を象徴するザクロと花に囲まれた女性の隣に、満面の笑みを浮かべたビリケンさんを配した、花柳病予防薬「外用・平和剤」の広告。花柳病というのは、いわゆる性病のことで、当時は秋田でも「花柳病」の看板を掲げる専門医院が存在した。外用とあるから塗薬であろう。「紳士粋客の大福音」なのだそうだ。明治大正期はこの手の広告がやたらに多い。

●ビリケンさん通天閣に復活

ルナパークの閉園にともない行方不明になったビリケン像だったが、昭和五十四年(1979)、通天閣の中に「通天閣ふれあい広場」を設けることになったとき、かつての新世界名物であったビリケン像を復活させようとの声があがり、往年のビリケンさんが木彫で復元された。


通天閣のビリケンさん

以来、通天閣名物として来場者の人気者となり、足の裏を掻いてあげると願いが叶うとの言い伝えから、その足はすり減って大きく凹んでいる。ビリケンさんは足が痒くても、手が短くて自分ではうまく掻けないのだ。

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関連リンク

通天閣公認 ビリケン 公式サイト
明治期に商標登録し、現在も日本に於ける版権を所有する「田村駒」のサイト
ビリケンの作者をE・I・ホースマンとしているのは版権を取得したホースマン社と混同した勘違い

Billiken Gallery
木製、鋳鉄、象牙、クジラの骨、クリスタルなど、様々な素材で造られたビリケンさん

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広小路空中散歩・1975・2007


国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
撮影・昭和50年(1975)



ペンタゴン型の「秋田第一ホテル」の裏に露天駐車場。「木内」屋上は「お子様遊技場」。木内の露天駐車場の裏は五階建ての立体駐車場で、その四階部分と店舗三階を結ぶ連絡橋が渡されている。増築を重ねて完成した「協働社ビル」。天井にミラーボールが輝く音楽ホールのある「秋田産業会館」‥‥。

中土橋の突き当りに位置するセントラルデパートから西には、長崎屋、モリタカバン、イワマ靴店、モードササキ、オノ時計店、ヒラノビルが並ぶ。


2007



あれから三十余年、中央街区の再開発計画のための空地も未だに手が付けられず放置されたまま。セントラルデパートは駐車場。古沢ビル(旧長崎屋)の西側のビル五棟+数棟は解体され、秋田中央道路(地下道)の出口となった。秋田中央道路の目的のひとつに「中央街区の活性化」があげられていたが、結果は「中央街区の空洞化」を促進したとしか思えない。

「秋田第一ホテル」は「キャッスルホテル」と名を変え、露天駐車場をつぶして増築。今は一階のみで営業する「木内」の屋上から「お子様遊技場」が消え、立体駐車場は老朽化のため、平成16年(2004)解体。「協働社ビル」の跡地には、見上げれば目もくらむばかりの、最上階に温泉がある高層マンション。「産業会館」の跡地に、BMX、スケボー、ローラースケートの練習場「産館スケートパーク」。

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広小路に「秋田プラザ」オープン・1970
産館ホールへ行こう

広小路(ひみつ基地内検索)

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「常磐ハワイ」と「あやたん」が上位・アクセス解析


サーチワードランキング・ベスト20[07.10.1-10.15]

以上は10月1日から15日までの間、どのようなキーワード検索で訪問者が「二〇世紀ひみつ基地」にアクセスしたかを解析したグラフの一部である。

「常磐ハワイ」関連のサーチワードが圧倒的に上位を占めるのは、CX系で10月6日(土)夜9時から放送された、福島の炭坑町を舞台に、炭坑の娘たちがプロのフラダンサーになるまでの実話を映画化した『フラガール』(地上波初登場)の影響で、放送開始とともにアクセス数が上昇しはじめ、放送終了後にピークに達して、この日は1000を越えるアクセス数を記録、当ブログの最高記録を更新している。



『フラガール』放送日の時間毎アクセス数

『フラガール』はそれだけのインパクトのある感動的な映画だったが、なかでもこの作品で主要映画祭の助演賞、新人賞を独占した、蒼井優の熱演が印象的であった。

「常磐ハワイ」についでアクセスが多かったのは、あやたん(伊藤綾子)関連サーチワード。一日のリアルタイム初登場から数日は、放送時間帯のアクセスが多く、都道府県別のアクセス解析では、エンタメが視聴できる関東地方からのアクセスが過半数を占めている。

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東北の南洋・常磐ハワイアンセンター

東京さ行ったあやたん(T_T)

サーチワード公開・06.08月分(2006)
11月前半サーチワード・「東京タワー」急上昇(2006)

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三吉神社里宮から太平山を望む


勝平得之『太平山遠望』昭和十四年

薄紫に染まった空色は、朝焼けだろうか、得之は赤沼の三吉神社里宮の高台に立ち、東方にそびえる、たおやかな稜線の太平山を眺めている。

勝平得之と親交のあった相場信太郎が、『勝平得之物語』(秋田文化出版社・昭和52年)に、「この絵は千秋公園の高台より写生したもの」と注釈し、さらに、没後20周年記念製作『勝平得之全作品集』(秋田文化出版社・平成4年)にも、同様に誤った記述が受け継がれているのはいただけない。

当時の千秋公園東側直下に、このような広大な田圃は存在せず、太平山の前方にあるはずの鉱山専門学校が描かれていないことなど、いくつかの矛盾点があることから、この「千秋公園説」は推定に過ぎない誤解と断言してもよい。


三吉神社里宮から太平山を望む 07.10

得之が描いた戦前の風景と比べると、周囲の樹木はいちじるしく生長し、柵はつくり替えられ、太平山を遥拝するためのステンレス製ミニ鳥居が新たに置かれている。





上記画像は昭和初期の撮影と推定される写真。得之の版画にあるような柵、右手には杉の木がある。しかし、灯籠の形状は石灯籠ではなく、鉄製の誰也(たそや)灯籠で、その手前には金属製の手水鉢が置かれている。



現在、三吉神社里宮の石段を上った両側に、得之の版画に描かれたものと同様な石灯籠がすえられているのだが、得之がスケッチした時点で、この石灯籠が拝殿の前に置かれていたのだろうか。日中戦争の金属資源不足で、鉄製の灯籠が供出され、その変わりに石灯籠を拝殿前に移動した可能性もある。



こちらは前掲画像よりも古い、大正末頃の撮影と思われる写真。拝殿前の誰也灯籠は、鉄ではなく木製で、金属製の手水鉢もまだない。


07.10

現在の社殿は昭和五十二年(1977)に改築されたもの。正面向拝は太平山の山容を写しとった造りになっている。戦前の写真と比較すると、改築の際に周囲の樹木を伐採して建物を拡張したことが見てとれる。

天明元年(1781)、秋田蘭画の作者・曙山として知られる八代藩主・佐竹義敦が、赤沼の高台、現在の三吉神社里宮の地に、太平山を遥拝する雪見御殿を建てる。

当時、秋田駅周辺から広面の一帯は、長沼、手潟(手形の地名起源とされる)、赤沼、鍋沼、蓮沼など、広大な湖沼、潟と葦原が広がる地帯であり、赤沼周辺は、夏は湖水に太平山の影を映し、冬は雪見を楽しむ絶景の地であった。赤沼は赤土の沼の意で、沼の所々から赤色がにじみ出ていたという。

ある日、義敦が沼に船を浮かべて盃を傾けていると、その杯に太平山が映った。杯を飲み干した義敦は雪見御殿に飲山亭と名付け揮毫した。その扁額が里宮に残されている。

雪見御殿は、わずか四年で廃止、後にこの地には藩主の祈願所・太平山遥拝所が設けられ、これが今の里宮の始まりとなった。

広大な湖沼地は江戸初期には埋立てが始まり、完全に消滅したのは幕末のころとされている。

湖沼を干拓して造成された田圃も、戦後になって高度経済成長期となるころから宅地化が進み、昭和四十七年(1972 )、かつて赤沼とよばれた沼の中心点のあたりに、秋田大学医学部の建物が竣工すると、そのテンポにさらに拍車がかかり、今ではわずかな田圃が残るのみとなっている。


三吉神社里宮から太平山を遥拝する 07.10

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10.17 追記

勝平の『太平山遠望』と同じ光景の写真があったので掲載する。



確かに石灯籠は勝平の版画と同じ場所に存在していた。金属製の手水鉢も石製に変わっているのは、やはり金属の供出があったためか?。杉の木の茂り具合をみると、昭和初期と推定した前掲の写真よりも、こちらのほうが古く感じられるは、枝を剪定したためと思われるが、時代の前後についてはまだ結論できない。

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千秋公園より手形方面を望む

南木佳士『医学生』・秋大医学部

勝平得之(ひみつ基地内検索)

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一日店長はミスヤング・秋田プラザ

広小路「秋田プラザ」二階にあった「ヤング広場」の写真が残っていないか、ネガフィルムを探していたら、こんなのが出てきた。

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昭和47年(1972)12月3日(日)に開催された「72 ミスヤング インターナショナル モデル撮影会」の一コマ。この二人、前日から「秋田プラザ」に来店し、一日店長などのイベントをこなしている。

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1972.12 新聞広告(部分)

さらに夜には川反五丁目のソワレドビル(現・第一ソワレドNKビル)二階にあったサントリーパブ「ラストツーダラー」でまた営業という、まるで新人演歌歌手の、どさ回りのような生活。こうして各地を巡業していたんだろうね。

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1972.12 新聞広告

宇崎竜童がデビュー前、しばらくのあいだ秋田市に滞在し、オープンして間もないソワレドビルの飲屋で弾き語りをしていたと自ら語っていたその店は、バンドが入っていて生演奏も楽しめた「ラストツーダラー」でなかったろうか。

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第一ソワレドNKビル

昭和47年(1972)にオープンした「秋田ソワレドビル」のオーナーは、昭和2年に創業し川反で一世を風靡した朝日興産。

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1974 書籍広告

最盛期はホステス100人を擁した「クラブ朝日」をはじめとして、「レストラン朝日亭」、秋田初の「ゴーゴークラブ・コパ」、サーキット場「朝日グランプリサーキットコーナー」、「クラブ・ラセーヌ」、サントリーパブ「ラストツーダラー」、「クラブ雅」、和風レストラン「加千喜」、メンバーズクラブ「フリーメーソン」など、多くの飲食店を経営した朝日興産は、昭和の終わりとともにその歴史に幕を下ろし、平成元年(1989)4月、川反五丁目「第一ソワレドビル」「第二ソワレドビル」は東京の業者に売却された。

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川反にサーキット場があった時代

広小路に「秋田プラザ」オープン・1970
広小路に「ヤング広場」オープン・1972
土曜の午後は「ヤング広場」へ

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千秋公園に謎の銅像・明治三十四年

明治三十四年(1901)九月、佐竹家が秋田に遷封されて三百年を迎えるのを記念して、東京から佐竹家当主を招いて、佐竹家遷封三百年祭が盛大に敢行された。祭式が執り行われた会場は、平成十七年(2005)一月、放火により惜しくも焼失した、千秋公園本丸の八幡秋田神社。

まだ秋田神社(藩祖・佐竹義宣を祀る)と八幡神社(佐竹家の氏神)が合祀される前なので、正確にいえば、秋田神社ということになるのだろう。


佐竹家遷封三百年祭式場・明治三十四年

これがそのときに撮影された写真。周囲の樹木はまだ背が低く、後に建立される石碑などもないため、現在とはだいぶ印象が違う。注目すべきは社殿の右手にそびえる銅像のようなもの。かなりの高さの台に、佐竹氏とおぼしき武将が馬に乗った像がすえられている。

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明治期の同神社の写真を複数見ているが、このような像が写ったものは一枚もなく、今まで読んだ文献にも現れていない。となれば当時の新聞を当たるよりなく、図書館に出向きマイクロフイルムを閲覧すると、そのなかに「神社境内には高さ二丈五尺義宣公の銅像形の飾物あり」との記述があった。

二丈五尺をメートルにすると約7.5メートル。「飾物」とあるから、竹や紙などを用いて造られて、祭典が終われば撤去されるハリボテということになる。道理でほかの写真には写っていないわけだ。

式典以外のイベントをみると、手踊り、竿燈、花火、古物展覧会、大弓、柔術、銃剣術、槍術、ベースボール、競馬、自転車競争など、文化芸術から武術、スポーツと多彩なプログラムが組まれている。

それから約百年後、秋田市の建都四百年記念行事が、平成十六年(2004)に行われているが、こちらは、遷封された佐竹義宣公が、土崎の秋田湊城から神明山(千秋公園)に築いた久保田城に移り、都市計画を手がけてから四百年目を記念したもの。

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2004.07.31
建都四百年記念・土崎湊祭曳山
建都四百年記念前夜祭・千秋公園

電線を気にする必要もないため、通常よりもずいぶん高く立派な曳山の登場人物は、佐竹義宣公をはじめとして、船木靱負、沖口屋(船木)助左衛門、中村三左衛門など、土崎に関わりがあり佐竹氏を支えた豪商などの実力者たち。外題は「源氏の嫡流 湊城で正夢 築城建都 祝千秋の杜」。

子供曳山から戻り曳山まで、二日間の祭りを凝縮した構成で、各町内からの参加者がひとつの山車を曳く姿は、通常の祭ではみられないもの。そのほか、北家(角館城主)二十一代当主・佐竹敬久秋田市長の出身地である角舘からは「飾山囃子(おやまばやし)」なども参加、千秋公園は夜までに約七万人の人出でにぎわった。

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八幡秋田神社焼失す
再建の槌音・ 八幡秋田神社

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東京さ行ったあやたん(T_T)

ABS秋田放送を退社した、あやたん(伊藤綾子アナ)。最後の生放送となった8月末の「NEWS リアルタイムあきた」の天気予報では、途中から何度も声を詰まらせながらのアナウンスであった。

お天気お姉さん時代は、夕方ABS前を通ると、雨の日も吹雪きの日も野外で天気予報をつたえる生あやたんがいた。最後に見かけたのは、千秋公園中土橋で竿燈妙技会取材中の姿。遠くからでもすぐわかるほどのオーラを放って輝いていた。

フリーとなった今の所属事務所は、小林麻央、大石恵など、多くの女性キャスターをかかえるセント・フォース。この10月から日テレ系「NEWS リアルタイム」エンタメコーナーのキャスターとして、月曜から金曜までレギュラー出演中。リアルタイムのブログで、インタビューに応える、あやたんの動画が配信されている。

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エンタメの時間帯、ABSではローカル番組を放送中なので、今のところ秋田でその姿と、いやし系の声に接することはできない。

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リアルタイム-生放送終了後の生キャスター(2007.10.01)
伊藤綾子キャスター プチ・インタビュー

リアルタイム-生放送終了後の生キャスター・メインページ
こちらにも動画あり

セント・フォース(cent. Force CO.,LTD)伊藤綾子プロフィール
セント・フォース(cent. Force CO.,LTD)トップページ

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乗物図鑑・秋田わか杉国体偏


機動隊・大型人員輸送車・秋田駅東口にて

天皇皇后両陛下を警護する、警視庁警備部警衛課の人員を輸送するために使われた、大型バスをベースに造られた特殊車両。投石等から窓ガラスを守る金網が張られている。練馬ナンバー。

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皇室御料車・両陛下行幸啓・通町にて

トヨタ・センチュリー
V型12気筒DOHCエンジン
5000cc・280ps

直列6気筒エンジンをベースに二重化されており、どちらかのエンジンにトラブルが起きても、残りの6気筒が機能して走行を可能にするほか、燃料ポンプなど、各所にバックアップのための二重系統が施され、安定走行の信頼性を確保している。

目立つことを嫌い匿名性を重視したデザインの、漆黒に塗装されたクラシカルなボディが美しい。

通常、ナンバープレートがある場所には菊の御紋が輝き、フロントグリルの右下部分に、皇室専用の円形ナンバープレートが取付けられている。印字は「皇」と「数字」の組み合せ。

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ベロタクシー・広小路にて

ドイツ製人力自転車タクシー。「VELO」はラテン語で「自転車」。

市内の団体が「ベロタクシー仙台」からレンタルし、国体期間中の9月30日~10月1日運行。

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関連リンク

SiNG|シング|秋田(ベロタクシー関連)

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