二〇世紀ひみつ基地

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2007年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年10月

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土曜の午後は「ヤング広場」へ

はじめに前編「広小路に「ヤング広場」オープン・1972」をご覧ください。

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昭和47年(1972)7月、広小路「秋田プラザ」二階にオープンした「ヤング広場」で、ABS秋田放送が公開録音していたラジオ番組「POP IN」は、その年の12月で終了、翌年の1月からは、会場名を冠した新番組「LET'S GO ヤング広場」が始まる。


1972.12.30 新聞広告(部分)

秋田で活動していた、フォークを中心にしたミュージシャンたちをゲストに迎えての公開番組で、第一回の録音が12月30日におこなわれている。司会は佐藤春雄アナ、丹内百子アナの二人。

土曜の午後「ヤング広場」で公開録音が行われている同じ時間、すぐ近くの協働社ビル内「サテライトスタジオ」では、ABSラジオの公開生放送があって人気を集めていたが、「ヤング広場」のオープン以来、多くの若者が「秋田プラザ」に流れていった。


1973.01 新聞広告(部分

フラワームーブメント系のサイケデリックなイラストが時代を感じさせる。公開録音のゲストは「土崎山車曳き仲間」。「パントパ」というのは、幼児向けのリズム体操のようだが記憶にない。


1973.02 新聞広告(部分)

「LET'S GO ヤング広場」のあとに、前年の一月に新日本プロレス旗揚げしたアントニオ猪木が登場。この時期はまだ、あのビンタパフォーマンスはやっていない。


1973.03 新聞広告(部分)

この週は三階のイベント会場にて、二日間にわたる特別公開録音。この年、エレックレコードから「田吾作音頭」でデビューする、あべ十全のコミック路線フォークデュオ「田吾作」も出演している。あべ十全の最新レコーディングである「超神ネイガー 歌っこ全集」の冒頭に収録された「ネイガー音頭」の原点も70年代にある。

昭和48年(1973)9月、公開録音番組「LET'S GO ヤング広場」終了。この年の10月から「ヤング広場」にて、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称・ポプコン)秋田地区予選が行われている。

昭和49年(1974)、番組名を「ヤングのど自慢」と改め、公開録音は継続されるが、「ヤング広場」は「いこいの森」と名称を変更し、早い時期に、オーディオショップとスナックは撤退したと記憶している。


1974.01 新聞広告(部分)

華々しくスタートした「ヤング広場」であったが、徐々にトーンダウンして、約一年という短期間で終焉を迎える。それだけに、その存在を記憶にとどめるものは非常に少ない。

秋田フォーク界のカリスマ・山平和彦は名古屋に拠点を移し、「マイペース」もそのあとを追って秋田を離れていった。フォークソングのメジャー化が進行するとともに、シンガーソングライターの曲が、ニューミュージックと呼ばれるようになった、70年代中頃のことである。

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広小路に「秋田プラザ」オープン・1970

広小路に「ヤング広場」オープン・1972

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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広小路に「ヤング広場」オープン・1972

昭和47年(1972)7月、秋田市広小路「秋田プラザ」(現・キャッスルズアーケード)二階に「ヤング広場」オープン。前日の秋田魁新報朝刊に全面広告を載せるほどの力の入れようであった。


1972.07 新聞広告
フィーリング豊かなヤングのための新しい情報!!
ヤングプラザ〈ヤング広場〉

プラザ2Fにヤングナショナルテクニクスアキタと秋田で始めてのアメリカンスタイルのメニューを多彩にもったスナックをレイアウトしたユニークな広場〈ヤングプラザ〉誕生!! 君も僕も生演奏に包まれて出演者と一体となって自由に参加できる楽しい広場です。
広告文より


ステージの前に客席、その後ろにアメリカンスタイルスナックのカウンター。広場に隣接してパナソニック系テクニクスのオーディオショップが並ぶ、当時の秋田では最先端をいくスポットだった。

この人フォークシンガー 見てる人ものってるカンジで歌ってる人と一心同体なのです!
★4chステレオコンサートもあるよ!

このステージは誰でも自由に参加できるので~す!
申込先・・・・・

★テクニクス・アキタ
音・光・メカ ヤングのハートがジーンとくるのです。
みんな勝手にどんどんタッチしてもいいので~す。
★22日23日のみパナヤングクラブ入会者にゴキゲンなカラーポスター進呈!!
★来店者に抽せんで記念品進呈!!

★ アメリカンスタイルスナック
秋田初のメニューがいっぱい 味もグンバツです!!
とにかくヤング好みのメニューがワンサカあります!!

テクニクス・アキタはパナソニック系のオーディオショップ
アメリカンスタイルスナックのメニューピザパイ、プラザカツサンド、ハンバーガーサンド、クロームムッシュ等
エクスクラメーション(!)をやたら使ったイラストの解説は、今あらためて読むと、ちょっとイタく、トホホなコピー。


1972.08 新聞広告より


1972.08 新聞広告(部分)



この日の「ヤング広場」は、友川かずき(現・友川カズキ)と昭和精吾というディープな二人が顔を合わせるレアなステージ。

まだレコードデビュー前の友川は、東京での夢破れて八竜に帰省し、「能代唄捨て社」とかいう事務所をつくり地元で唄う一方で、能代一中でバスケのコーチをしていた。このとき友川はコーチとして生涯を送ることを決意して、能代工高バスケの名監督であり恩師である加藤廣志に相談し、紹介されたのが能代一中だった。このコーチ時代の教え子が、能代工高三年時に三冠を達成し、住友金属工業に入社したあとは、オールジャパンの主力選手として活躍、現在はJBL日立サンロッカーズのヘッド・コーチである小野秀二。友川は早くから小野のバスケットセンスを見抜き、徹底して鍛え上げたという。

友川はこの時期、ヤクザになりかけていた親友のことを詩にした「○○ヤクザになんかなるなよ!!」(○○に名前が入る)とサビで叫ぶ曲を唄っていた。その友人がヤクザになったかどうかは知るよしもないが、後日に行われたライブでこの曲をリクエストされて友川は「それはちょっと‥‥」と拒否していた。決してレコード化されることのない、極めて短期間だけのまぼろしの名曲である。

昭和精吾の実家は大館市で満州生まれ、寺山修司の「天井桟敷」に出演する俳優・詩人で、秋田に「奥羽企画」をつくり、フォークの連中とも同じステージにあがり活動していた。このときすでに三十代、自作の詩をギターで弾き語るスタイルの絶唱が忘れ難い。

この二人だけは、ナウなヤングが集まる「ヤング広場」というイメージとは縁遠い、アングラ色の濃い存在だった。


1972.10 新聞広告(部分)

「新しいヤング」ってヘンな言い回しだ。「フレッシュなヤング」というような意味なのだろうが。

この年の10月から「ヤング広場」を会場に、ABSラジオの公開録音が始まる。当初は日曜日午後の収録で番組名は「POP IN」。

広告が掲載された土曜日の午後2時から、山平和彦のバックバンド「マイペース」のライブ。山平は名古屋東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」でディスクジョッキーを開始した時期にあたるが、まだ秋田を拠点にして中央と往き来していたと思う。

「マイペース」の音楽センスは当時から、他を圧倒して光るものがあった。しかし、この数年後、山平のプロデュースによる「東京」でレコードデビューを果たし、それが100万枚を越えるミリオンヒットを記録することなど誰にも予想できなかった。

60年代末から70年代初頭は、秋田フォーク界のカリスマ・山平和彦が率いた「あきたおんがくくらぶ」を筆頭に、天井桟敷・昭和精吾の「奥羽企画」、さらには八竜の鬼才・友川かずきなど、個性あふるる表現者たちが顔をそろえてミュージックシーンを創っていた、秋田のポピュラー音楽史にとって記憶すべき時代であり、広小路は「秋田プラザ」内に誕生した「ヤング広場」という存在も、これらのバッククラウンドがあってこその、ひとときの夢のステージであったのだ。

後編につづく

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広小路に「秋田プラザ」オープン・1970

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皇室御用達の宿・アキタニューグランドホテル

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1965 書籍広告

秋田市における皇族のご宿泊先といえば、長町(中通り五丁目)の「アキタニューグランドホテル」が定番だった。このホテルは昭和36年(1961)の秋田国体に両陛下をお迎えするために、各界の要望で老舗料亭「あきたくらぶ」の敷地内に建てられた、秋田県内初の鉄筋コンクリート仕様の近代的ホテルだった。

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1981 書籍広告

かつては一般庶民の近づきがたいオーラを放つ高級ホテルであり、そこに宿泊することがステータスとなった「アキタニューグランドホテル」であったが、やがて経営不振がつづくようになり、平成15年(2003)、「あきたくらぶ」とともに倒産。

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2004.04 閉鎖されたホテル

左の五階建て部分が創業時からのもので、手前が露天駐車場になる前は、レストラン「グリル・アキタクラブ」があった。

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2004.08 旧館解体中

平成17年(2005)、「アキタニューグランドホテル」および「あきたくらぶ」跡地に、ルートインジャパン経営の「ホテル グランティア」と、温浴施設「華の湯」がオープンする。

十一階建てのニューグランドホテル新館は改装して新ホテルに活用された。ここは終戦後、進駐軍のための慰安所が置かれた場所でもある。


大きな地図で見る
旧「あきたくらぶ」旧「アキタニューグランドホテル」周辺

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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:30 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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広小路に銀色の封印



広小路のキャッスルホテル周辺道路のマンホールに、なにやら光るものが貼られている。

近づいてみるとそれは、「AP」と印刷された銀色のシール。

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丸いマンホールだけではなく、融雪設備の角形のものや、小さいハンドホールも同様に封印されている。

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「AP」は「Akita Police」の頭文字にちがいない。要人の警護にあたる警察では、宿泊先近辺に設置されたマンホールの内部を点検後、シールで封印して爆弾テロなど万一の事態に備える。

今月末に開幕する「秋田わか杉国体」には、天皇皇后両陛下の行幸啓がある。

| 散歩写真・路上観察 | 21:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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広小路に「秋田プラザ」オープン・1970


昭和51年(1976)書籍広告

木内デパートの東隣にあった秋田地方裁判所が山王に移転した跡地に、「秋田プラザ」と「秋田第一ホテル」が入居するビルが竣工したのは昭和45年(1970)。現在の「キャッスルズアーケード」「キャッスルホテル」である。

建物を管理する「秋田ビル株式会社」の社長には、秋田市長・川口大助が就任。当初は商工会議所が運営にあたる予定だったが、出店する業者間で話し合いがまとまらず、やむなく打開策として第三者の市長に就任を依頼した経緯があり、川口氏は無給の社長職であった。

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上空から俯瞰すると、Y字型のホテルの周囲を、変形ペンタゴンのショッピングモールが取り囲むように設計された、今まで見たこともないユニークな構造と、他にはないおしゃれなテナントが県民の話題になり、オープンの日は約五万人もの客が押し寄せた。

三階までの「秋田プラザ」のテナントは、衣料品、食料品、飲食店など、市内の有名店を中心に七十店以上が、一番街から八番街まで区画されていた。

回廊になっているショッピングモール部分は当初はつながっておらず、途中で行き止まりだったが、人の流れを無視した設計は利用者の評判も悪く、間もなく壁を撤去して貫通させている。後年に木内デパート側の出入口付近壁面に、シースルー構造のエスカレーターが新設された。ホテル部分は、建物の裏手にあった露天駐車場をつぶして大幅に増築され、その部分にホテルのフロントがある。

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07.09 県民会館の土手より

左手の色の濃い部分が増築されたホテルと、後ろに立体駐車場。

三階にはレストランや、「カシワヤ楽器」のほかに催事スペースがあった。記憶に残っている催し物は、「横井庄一さんグアム生活展」(1972)、「山下清絵画展」(1973)、「ホログラムの幻想展・レザー光線が開く三次元の世界」(1976)など。

当時は市内のほかのデパートでもさまざまな催し物で客を集めていたが、なかでも「秋田プラザ」は熱心で、特に人気を集めたのが、72年にグアム島から帰還した元日本兵・横井庄一氏をテーマにした「横井さんグアム生活展」。三階の催事場だけではスペースが足らず、二階の一部を特設会場にして開催され、グアム島から持ち帰った生活用品や、自らの考案よる手製の編み機、穴居生活を再現した実物大の模型などが展示された。

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昭和47年(1972)新聞広告(部分)

グアム島から帰還して間もない横井さんフィーバー冷めやらぬなか、連休中の「秋田プラザ」には、県内から多くの観覧客が訪れる大盛況。広小路に面して設けられた専用入口の前には長い行列がつづき、ようやく会場に入っても係員にせかされて、人込みをかいくぐりつつ展示物を観た記憶がある。

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07.09

最近になって、東側二階にチャペルがオープンした。

「秋田プラザ」の名称は「キャッスルプラザ」と「キャッスルズアーケード」となり、テナントの数も減少し、入居する業種も大きく変わっている。

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07.09 広小路夜景

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秋田キャッスルホテル 館内施設

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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レトロ映画ポスター観賞会 in 川反


居酒屋「半兵ヱ」川反店

ドリームリンク(本社・秋田市)が全国展開する昭和レトロ居酒屋「半兵ヱ」川反店の、外装ディスプレイが最近リニューアルされて、以前の短冊形ホーロー看板から、昭和20~30年代の映画ポスターのレプリカに変更された。

映画界が活況を呈したこの時代のポスターは、レトロな魅力あふれる名作が多い。日活の「狂った果実」、東宝の「青い山脈」などもみられるが、そのほとんどは東宝から分裂した新東宝のポスターというマニアックなチョイスが泣かせる。

全部で十三枚のボスターから気になった四枚を掲載。

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「ハワイの夜」新東宝 昭和28年 白黒
主演・鶴田浩二 岸恵子

「月が出た出た」新東宝 昭和26年 白黒
主演・小林桂樹

カラーフィルムが普及していなかった時代の、人着(人工着色)による印刷物からは、現代のデジタルテクニックを駆使しても再現することが困難な、ぬくもりと色気のようなものが漂う。

カラー印刷物を作成するためには、シアン、マゼンタ、イエローの三原色にブラックを加えた四種(四色)の刷版をつくり、四色のインクを重ねて印刷するのだが、それぞれの版自体はモノクロ(単色)である。

レタッチマンと呼ばれる熟練の職人たちは、一枚のモノクロ写真から作成されたポジフイルム(当時はガラス湿板)に、経験と勘をたよりにレタッチを加え、四枚の版を作成する。その技術は、師匠と弟子という師弟関係のうえで長い時間をかけて習得される職人技だった。

下手にレタッチすると写真の諧調が失われ、立体感が失われたベタな印刷物になってしまう。昭和二十年代に作成された上のポスターは、どちらも絵画的な風合いの人着印刷であるが、「ハワイの夜」のほうは、もうほとんど絵画だ。

レタッチマンの仕事は、想像力と創造力を必要とする、芸術的センスを問われるものであり、その作品はアートと言っても過言ではない。イマジネーションを駆使した手仕事による人着印刷物という結果には、おのずとレタッチマンの個性が宿る。

以上のような人着製版方法のほかに、モノクロ写真に直接彩色する職人も存在した。この場合、製版カメラのレンズに三原色のフィルターをつけて着色写真を撮影、現像した四枚のフイルムから四色版を製版してカラー印刷物をつくった。

やがて、カラーフイルムの普及と低価格化が進み、人着によるカラー印刷技術はすたれてしまう。カラープリントまたはカラーポジを元に作成されたカラー印刷は、人着よりも原色に忠実で自然なものであったが、昭和30年代末頃までの人着カラー印刷物にみられた、濃厚な質感をともなった色気は失われ、画一化された魅力に乏しいものになってしまう。そこには職人の個性など宿るべくもない。

人着印刷のことを「イミテーション」とも称した。ノンフィクションの世界を描出する映画を宣伝するための広告メディアであるところのポスターには、物語の虚構性を象徴するかのような偽色(イミテーションカラー)に彩られた人着印刷こそがふさわしい。

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「鋼鉄の巨人 地球滅亡寸前」新東宝 昭和32年 白黒
主演・宇津井健

「まぼろし探偵 幽霊搭の大魔術団」新東宝 昭和35年 カラー
原作・桑田次郎

30年代に入ると、より自然な色彩表現の人着印刷になって、それ以前のものと比較すると魅力は薄れる。

「まぼろし探偵」は、昭和32年から月刊『少年画報』に連載された、少年探偵が活躍する桑田次郎の漫画が原作。昭和34年からテレビドラマ版も放映され、ヒロイン役に吉永小百合が出演している。

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原作漫画とテレビ版の吉永小百合

「鋼鉄の巨人 地球滅亡寸前」は、日本初の特撮ヒーロー物「スーパージャイアンツ」シリーズの第四弾。今に続く特撮スーパーヒーロー物の原点といえる記念すべき作品群だ。

昭和32年7月、第一作目「鋼鉄の巨人」が公開されたのを皮切りに、翌年の1月までは、ほぼ一カ月に1本のペースで製作されるほどの人気作品だった。6作目まではカルトな作品を撮りつづける石井輝男が監督を務める。

昭和30年代初頭の少年たちを熱狂させ、今も特撮マニアのあいだで熱狂的な支持を受け、最近、シリーズ全9作を収めたDVDボックスが発売された。

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スーパージャイアンツ

エメラルド彗星から地球を守るために派遣された、股間モッコリ全身タイツ姿のヒーロー、スーパージャイアンツを演じるのは宇津井健である。

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居酒屋・半兵ヱ
株式会社ドリームリンク

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日本一奈良丸・秋田見参・明治四十二年

明治末期から大正にかけて活躍した浪曲師・吉田奈良丸(二世)の、明治四十四年、三十二歳のときに発売したレコードの売り上げが、この年のレコード盤総生産枚数六十七万枚のうち、五十万枚を占めたというから驚く。超贅沢品だった当時の蓄音機の普及台数をかんがみると、驚異的な数字であり、浪花節の人気が日本のレコード産業の基盤を作ったといわれるのもうなずける。

奈良丸のレコードが飛ぶように売れたわけは、その節回しが上品で優美でありながら平易で、誰にでも簡単に真似ができたからという。レコードの普及によって、奈良丸の名も各地に広まり、全国津々浦々にファンを獲得していく。それにともない奈良丸ならぬ「奈良九」などという手の偽物も多く現れた。

浪花節の全盛時代であったが、ラジオもなく、生の声をきくことも難しい、レコードだけがその声に接することができる随一のメディアだった時代に、奈良丸は桃中軒雲右衛門とともに芸能界のスーパースターであった。

浪花節は当時の流行歌にも大きな影響を与える。大正三年、奈良丸の浪花節を歌謡曲調にした「奈良丸くずし」(別名・笹や節)がレコード化されて花柳界を中心に大流行。

「くずし」とは「替歌」というニュアンスの言葉だが、「奈良丸くずし」の作者については、大和郡山(奈良県)の芸妓がお座敷で即興で唄ったのが始めという説と、演歌師・添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の作とする文献もみられ定かではない。ちなみに唖蝉坊の「奈良丸くずし」には「月が出た出た月がでた セメント会社(アサノセメント)の上に出た 東京にゃ煙突が多いから さぞやお月さん煙たかろ」という歌詞もあり、これが盆踊りで有名な「炭坑節」のルーツとされている。

明治四十二年の桜花の季節、全盛期の奈良丸が秋田市に巡業に来た。

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新聞広告

小屋は柳町の凱旋座。大正初期に秋田劇場、戦後は秋田松竹映画劇場、その後秋田ピカデリーとなり、現在は駐車場になっている、すずらん通りの突き当りの地である。

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凱旋座

演目は十八番(おはこ)の赤穂浪士「義士伝」から。本題に先だって秋田初見参の口上が述べられた。

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和田、築地、旭川、雄物川、長町、土手長町、大町、柳町の凱旋座、新町、中谷地、梅の町(茶町)、川反、田中、赤沼、川口、楢山、扇の町(茶町)、千秋園(後の千秋公園)、亀の町など、御当地の風光と地名、町名、劇場名と自らの名を折り込んで、七五調の心地よいリズム感をともなった、奈良丸の朗々たる名調子が聞こえてきそうな美文である。

マイクロフォンという文明の利器が登場する以前の劇場で、奈良丸の口上に聞き耳を立てていた、凱旋座を埋めつくした一千を越える観客たちの、万雷の拍手喝采が聞こえるようだ。

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関連リンク

なにわ人物伝 吉田奈良丸(二代)(上)
なにわ人物伝 吉田奈良丸(二代)(下)

「笹や節」(奈良丸くずし)試聴
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「秋田劇場」昭和七年正月映画

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昭和アイドル歌謡オンパレードの宵

トワイライトリレーコンサート
07.09.08
サンパティオ大町、中庭

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六月から九月までの土曜の宵に、サンパティオ大町の中庭で開催される、トワイライトリレーコンサートもこの日が最終日。

出演希望者がふえたこともあり、来年からは期間を延長して、暖かいうちは夜間に、それ以外の時期は昼から開催する計画があるのだという。しかし、このパティオ空間は黄昏時から夜にかけての時間帯がもっとも魅力的だ。

最終日のトリをつとめるのは「バニーヒップスwithワンダーランド」で、今宵のテーマは昭和アイドル歌謡。

いつもはライブハウスを舞台に、アフロへアーで70~80年代のディスコチューンを唄う「バニー・ヒップス」の三人は、「往年のスクールメイツがタンスから衣装をひっぱりだして着たイメージ」というお揃いの衣装。

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実力派「ワンダーランド」の演奏をバックにコーラスがからみあい、高田みづえ、石川ひとみ、松田聖子、松本伊代、桜田淳子ら、70~80年代の輝ける女性アイドルたちのヒット曲が展開されるという、一年を締めくくるにふさわしい楽しいステージであった。

「バニー・ヒップス」の次回ライブは、ヤマハ秋田店の主催する「おどばん ~其の二~」(9月23日)で、対バンに「LENNY」「ダースコちんどん隊」も出演する。会場は駅前の LIVESPOT2000 。詳細は下記リンクで。

「おどばん ~其の二~」
LIVESPOT2000

この数年間、パティオでたくさんのバンドや、音楽たちにであうことができ、なかには、この場所がなければ、耳にすることが叶わなかったものも少なからずあった。それもこれも、パティオと、リレーコンサートがあってこそのことで、企画運営する関係者の方々に感謝しなければならない。

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秋田初のミスドは鎌田会館一階に

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秋田市大町の「秋田ニューシティ」裏の一角で営業していたミスタードーナッツ/秋田大町ショップが8月一杯で店を閉じた。張り紙のあいさつには「店舗老朽化のため・・・」うんぬんとあり、開業24年目だったことが記されている。ダイエーを核テナントとする「秋田ニューシティ」が華々しくオープンして数年後のことだ。

○〆(マルシメ)鎌田(現・鎌田会館)がミスドのフランチャイズを獲得して、秋田第一号店をオープンさせたのは昭和47年(1972)10月。日本上陸第23号店で、東北・北海道地区で始めてのミスドであった。ちなみに現在は県内に11店舗を展開している。

鎌田会館

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昭和47年(1972) 新聞広告

秋田第一号店の場所は秋田駅前「鎌田会館」一階。このビルは昭和30年代に「駅前ショッピングセンター」として、「鎌田」と「協働社」「なかよし」が協同で建てたもので、「鎌田会館」の西隣りが、靴と傘の「協働社」、そのとなりに「なかよし」のおもちゃ部門が入っていた。「鎌田会館」部分はミスドのオープンに合わせて全面改装している。

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平成14年(2002)「鎌田会館」の入っていた「駅前ショッピングセンター」は解体され、その跡地に「ホテルα-1秋田」がオープン。

あたりまえのように、そこにあったものが、ある日消えてなくなってしまうと、その存在の大きさをあらためて気づくことがある。ミスド大町ショップの明かりが消えた夜の交差点周辺は、文字通り「街の灯が消えた」ように暗く、つい先日までの同じ場所とは思えないほど。たった一軒の店舗が街の表情を創っていたことをあらためて認識した。


大きな地図で見る
「ミスタードーナッツ/秋田大町ショップ」跡









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2007 PMA・ゆく夏に名残る暑さは

The Power of Music from AKITA 3nd
ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ
07.09.02

時間軸に沿って

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山王中学校吹奏楽部・パーク大町24

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ウクレッツ・あくら

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C's Club・ニューシティ

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オチャノマチックス・せきや

今年は「ダースコちんどん隊」の出演がなく、あのめくるめく大道芸的パフォーマンスがみられないのが淋しい。というわけで、ほかのバンドのなかでいちばん「ダースコちんどん隊」のコンセプトに近いと想像される「オチャノマチックス」を鑑賞。前々から気になっていたものの、タイミングが合わずに見逃していたバンドで、ジャンルは「スカ、昭和歌謡」。

かねての予想にたがわず、独自の世界観のあるパフォーマンスをくりひろげる、また聞きたくなる楽しいバンドであった。

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ライブ中に珍客の乱入あり。「赤い鳥」が唄った70年代の名曲「白い花赤い花」を演りはじめたら、音楽に導かれるかのようにドブネズミのミッキーちゃんが下手から現れ、アスファルトに膝をついて鉄琴を叩いている女の子のかたわらに立ち止まり、その場にじっとしている。それにも動じず演奏をつづける彼女のプロ根性ならぬアマ根性が立派。

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誰かに飼われていたかのように、人に動じないミッキーちゃんは、曲が終わったあと、スタッフに追われて動きだし客席の方へ。観客の悲鳴のなか、すっかり主役を奪ってネズミーランドへ消えていったミッキーちゃんであった。

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LENNY・竹半駐車場

午前中は薄曇りの合間から青空ものぞかせていたが、午後から雨がぱらつき始める。「LENNY」の演奏途中で雨足が強くなり用意していたテントを移動させて続行。

天候に左右される野外のライブで、特に電気に頼らざるをえないロック系のバンドにとって、雨ほどやっかいで危険なものはない。

「LENNY」の次回ライブは、ヤマハ秋田店の主催する「おどばん ~其の二~」で、対バンに「ダースコちんどん隊」も出演とのこと。会場は駅前の LIVESPOT2000 。詳細は下記リンクで。

「おどばん ~其の二~」
LIVESPOT2000

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サンパティオ大町

小降りになった雨も、三時過ぎ頃から再び強まり、観客は屋根のある後方に退避。

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チアーズ・サンパティオ大町

雨も上がったポップス系の会場、サンパティオ大町のトリ「チアーズ」。

冒頭にユーミンの荒井由実時代の「晩夏(ひとりの季節)」。夏の終わりの季節ににふさわしい選曲が心憎い。70年代にNHKドラマの主題歌として流れていたこの曲を聴くと、あのころの記憶が時代の空気とともによみがえってくる。

:晩夏(ひとりの季節)歌詞

ユーミンは荒井由実時代がもっとも良い曲をつくっている。ことにこの美しい日本語がちりばめられた楽曲は、グラディーションを描くように、空色が紅く染まり、やがてしじまにとけ込むまでの時間の経過を、晩夏から初秋にかけての季節と、思春期のセンチメンタルな心情になぞらえて描きだす、晩夏の夕暮れの情景が目前に浮かぶような名作だ。

時間と季節の移ろい、人の心の移ろいが重層的に表現された詩の世界は、日本人の諸行無常観に通じるものがある。

「チアーズ」のつむぎだす音楽が流れると、「チアーズマジック」とでもいおうか、一瞬にして場の空気が和むように感じる。「癒し」という言葉は使いたくないが、それと同様な雰囲気と幸福感。そこには人に快適感を与える「1/f(エフぶんのいち)ゆらぎ」のような現象が関与している可能性もあるが、ただ単に自分の感性に合っているだけかも知れない。その人が好きな曲が、その人にとっていちばん心地よい音楽なのだから。

それは「愛してるよ!!」という、聞いているほうがちよっと気恥ずかしくなる決めゼリフに集約されているようにも思える。音楽に対する「愛」も含めた、「愛」のエッセンスが音霊(おとたま)と言霊(ことたま)にのって聴衆にとどけられる。それが「チアーズマジック」の秘密なのではないか、などと妄想してみる。

楽しい時間はまたたくまに過ぎ去ってしまう。タイムスケジュールに追い立てられ、アンコールの余裕もないのは、この手の音楽祭にありがちなことだが、しめくくりに「チアーズ」を聴けたことで良しとしよう。

秋田わか杉国体の期間中、アトリオンで開催される「ふるさと文化ライブハウス」というイベントに「チアーズ」も参加するとのこと。

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チアーズ オフィシャルサイト

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仲小路 Jazz とPMA前夜祭

第1回 仲小路Jazz Festival
07.09.01 日赤跡地


キャットウォークバンド

2001年8月に十日間にわたって開催された国際的スポーツイベント「ワールドゲームズ2001」の際、日赤病院の跡地に砕石が敷きつめられ、イベント会場として整備された。

「WGプラザ」と名付けられた特設会場には、記念グッズの販売コーナーや食べ物の屋台のほかにステージが設けられ、会期中は連日、夜まで音楽が流れて、各国の選手と市民が集まりにぎわいをみせものだが、この「WGプラザ」のありかたは、空洞化した中心街区を活性化させる、ひとつのモデルとなりうるものだった。



今回の「仲小路Jazz Festival」の目玉企画である、小沼ようすけトリオの出番が近づくと、客席はうまり、立ち見の観客も増える。写真撮影は禁止とのアナウンスが流れたあと、予定時間を三十分ほど押してようやく演奏が始まる。

秋田でのロックバンド時代は、天才ギタリストとしてならしたという、小沼のフィンガーピッキングによる繊細かつ華麗なギターテクニックに鳥肌が立つ。最近はスガシカオのツアーに同行している坂本竜太のベースもまた良かった。


大阪ロイヤルハウスにて

アンコールも含めて二時間弱、まさか無料のライブでこれほど演ってくれるとは思わず、最後はスタンディングオベーション状態。

今回のイベントは「小沼ようすけ」ありきのもので、毎年継続してこれだけの観客をあつめるのは大変なことだと思う。

良いものを聞かせてもらったお礼に出口で募金箱に少し多めに小銭を入れて、日赤跡地からPMA前夜祭が開催されるサンパティオ大町へ、同じコースをとる物好きがちらほら。到着すると TAKASE'Band の終盤であった。







芳純な香りの高級ワインのあとに、ブルーハワイやら、ビールやらをチャンポンにしたような酩酊感をともないつつ、土曜の夜は更けてゆく。

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小沼ようすけオフィシャルサイト

ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ

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