二〇世紀ひみつ基地

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2007年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年09月

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醤油の「田中屋」とライブハウス「田中屋」のこと


大町三丁目「田中屋」大正期か?

秋田市大町三丁目にあった「田中屋」は、元禄五年(1692)創業という歴史のある老舗の醤油醸造販売店で、醤油のほかに味噌、酢、漬物なども製造し、戦前は県内を始め東京、青森、北海道、朝鮮までも販路を広げていた。

創業時の建物は明治十九年の俵屋大火で焼失したが、じきに旧状に復元。秋田の町家の特徴である切妻屋根をかけた妻入の町家は、今ならば間違いなく文化財クラスの保存対象建築である。

玄関の暖簾にみえる「○に太の商号」は、代々襲名された田中太吉の名前から。立派な屋根付きの「志やうゆ・醤油」の看板は天保五年(1834)製。当時秋田に住み寺社の彫刻で名人として知られた池長の作で、揮毫は秋田の豪商・長谷川勘兵衛。ブルーノータウトが絶賛したという名物看板で、現在は県立博物館に収蔵。切妻の屋根には防火用の天水桶(てんすいおけ)がある。


「田中屋」看板


明治三十五年・書籍広告


明治四十二年・新聞広告

「田中屋」の建物が解体されたのが昭和四十五年頃、その跡地に、昭和四十七年(1972)、協働社の浅利社長が協働社大町ビル(現・協働大町ビル)をオープンさせる。


協働大町ビル 2007

オープン当時、一階の突き当たりには、暴力団の経営と噂されていたディスコ「夜光虫」が怪しい光を放っていた。一階で覚えているのは「夜光虫」のほかに、「喫茶エルザ」「藤原書店」、そして、旧「田中屋」の経営する、ライブハウス「田中屋」。「田中屋」は秋田に於けるライブハウスの草分け的存在であった。

昭和五十四年(1979)三月、二日間にわたり、友川かずき(現・友川カズキ)がライブを行い、その音源を元に、初のライブ盤「犬 友川かずき秋田コンサートライブ」が制作され、七月にキングレコード(ベルウッドレーベル)からリリースされた。生々しく濃厚なライブ感をともなったこのレコードをベスト盤と評価するファンが多い。

盲目のシンガーソングライター・長谷川きよしが全国のライブハウスで録音した音をまとめて、昭和五十五年(1980)リリースした二枚組アルバム「風織るまちを過ぎて」の冒頭にも、「田中屋」でのライブ音源が使われている。



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「田中屋」跡

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AKITAカジュアルア-ツフェスタ2007・美術部門

AKITAカジュアルア-ツフェスタ2007
ストリートライブアーツ
秋田市仲小路通り
07年8月14日~8月15日












ハン・カクサイ

水曜はABSラジオの中継車に乗って、レポーターとして県内をまわるハン様、マスクは暑くて大変だなぁ。えっ、これが素顔だって?







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那波呉服店という升屋の看板

川反三丁目のギャラリー・ココラボラトリー(旧中央印刷)の隣、秋葉神社の斜め向かいに、なにやら和風の建物が新築されていて、てっきり新しい飲み屋ができるものと踏んでいたら、最近になって入り口に木製の看板が掲げられた。



その店名は「呉服太物商・那波呉服店」。「太物」とは、綿織物・麻織物など、太い糸の織物の総称で、主に絹織物に対していう。

現在、山王大通り(竿燈大通り)東端の、「升屋」(那波商店呉服衣料品部)が解体工事中で、その近くのビルに貼られた案内によれば、例の看板のある場所が「升屋」の新店舗として今月末のオープンを予定しているとのこと。

建築案内板をみると、旧「升屋」の跡地は、どうやら三階建ての貸ビルになるようだ。

さて、例の看板であるが、まず、鮮やかな緑色の顔料は緑青(ろくしょう)。緑青は孔雀石(くじゃくいし・マラカイト)から採れる緑色の顔料で、銅の表面にできる緑色の錆も同様な成分。



風格を感じさせる書は玉木愛石の揮毫。明治から大正にかけて書道の手本類を多く著し、政府に依頼されて、書道の国定教科書を揮毫したことでも知られる高名な書家である。



左『行書千字文』タイトル・明治十七年出版
右『小学習字範帖』表紙・明治二十一年出版

愛石の没年が昭和三年であることから、呉服店が創業した大正期に制作され、店内で大切に扱われていた看板と推察する。だとしたら、野外で雨風にさらされるのは勿体ない。


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あゝ十二時のサイレンだ

物心がついてからずっと、正午のサイレンが鳴り響くのを聞いで育った。

その音の発信源は消防署のほかに、茨島や臨海の工場地帯だったのだと思うが、複数のサイレンが少しずれて始まり、かさなり、うねるように共振して、やがて天空に吸いこまれるかのように消えてゆくのだった。



八月はサイレンを耳にすることが多い。六日の広島・九日の長崎の両原爆記念日、ならびに十五日の終戦記念日の黙祷のサイレンの音。それからテレビから流れる甲子園の試合開始のサイレン。

ことに、終戦記念日の十五日の正午に鳴り響く、黙祷のサイレンに瞑目して耳を傾けていると、少年時代の夏休みの日々の情景が脳裏によみがえってくる。

それは戦中派にとって、空襲警報の記憶につながる、いまわしい音かもしれない。けれど、自分たちの世代にとってのサイレン音は、子どもの頃の記憶につながる、今は失われた原風景のひとつなのだ。

消防署が毎日定時にサイレンを鳴らすのには、拡声機器のメンテナンスの意味があったのだという。地方によっては今も継続されている正午のサイレン音が、秋田市内から消えて久しい。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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盂蘭盆会の風物詩


盆提灯のある店・馬口労町草市にて

線香にロウソク、のし袋に蚊取り線香などを置いている店だが、雑貨店というわけでもない、草市の日にだけ目にとまる不思議な店。

右手の盆提灯の正式名称は「岐阜提灯」。極薄で丈夫な美濃紙を貼り、繊細な筆先で秋の草花などを描く。

手の込んだ手書きのものは結構な値段がするが、昔は非常に高価な贅沢品で、庶民が手にできるものではなかった。その当時は盆の時期だけではなく、日常の装飾照明器具として使われていた。

幕末から明治期には海外にも多く輸出され、オリエンタルなインテリアとして好評を博した。

左に並ぶ盆提灯は「変形すだれ提灯」というのだそうだ。


お地蔵さんの供え物

それぞれの家で少しずつお供えした赤飯の、それぞれの色の違いの面白さ。

茶飯のような薄い色から、濃い紫のものまで様々だが、やはり秋田産「てんこ小豆」(黒ささげ)を使った濃い紫の赤飯でなければ、なにか物足りない。

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戻り竿燈の風流・川反五丁目

竿燈を出すには多くの経費が必要となるため、ほとんどの町内には特定のスポンサーが付き、提灯に広告を入れて出竿する。企業から差し手や、囃子方が参加する場合もある。

もちろんスポンサー竿燈のほかに、町紋と町名だけの竿燈もあり、妙技会に出場する場合もそれを使うのだが、純粋に町内の資金だけで運営する町内竿燈は、今では非常に稀な存在になってしまった。

川反五丁目は今年、大若三本、小若・幼若各一本を出竿しているが、スポンサー竿燈は一本もない純粋な町内竿燈。コマーシャルレスな竿燈が並ぶ光景は見ていて気持ちがいい。



「川波に日の出扇」の町紋に、裏は「川五」の墨文字。竿燈初参加が昭和三十六年と、その歴史からすれば新しい町内である。

さびれた商店街を抱えた他の町内などと違い、今でもあれだけ多くの飲食店が営業しているのだから、資金も比較的集めやすく、企業に頼るまでもないのだろうと想像できる。不況の波にさらされて衰退したといえども、「腐っても鯛」ならぬ「腐っても川反」である。


夜本番の川五・垂れ幕仕掛け
07.08.06

最終日、夜の本番の川反五丁目の竿燈は、最下部の横竹に垂れ幕を仕掛け、竿燈が高く上がった瞬間、それが開くいう余興で大きな喝采を浴びていた。垂れ幕の内容は、「祝竿燈」とか「国体でお逢いしましょう」など。

夜の本番が終わり、哀愁をふくむ「流し」のお囃子にのせて竿燈が町内に帰ると、それぞれの会社や地元町内で竿燈をお披露目する。

これを「戻り竿燈」といい、交通止めにした狭い小路で電線をかいくぐって行われるもの、広い空地で演技する町内など様々で、スポンサーへのお礼の意味を込めて、その会社やホテルの前で演技する場合もある。


川反通り

竿燈が終わってから川反に繰り出したことのある方なら御存知のように、川反五丁目の戻り竿燈は、人力の舟形囃し屋台とともに、川反通りを竿燈を披露しながらゆっくりと進み。五丁目の稲荷神社に仮設した竿燈事務所に帰着する。


川五・戻り竿燈
07.08.06

戻り竿燈の仕掛けは、本番で使用したものに代えて、今度は「川反商売繁盛」と、特別スポンサーになった店名を入れた垂れ幕を流し、その店の前で披露する。店内から浴衣姿のホステスや、キャバ譲らが出てきて歓声をあげる華やかさ。


川五・戻り竿燈
07.08.06

犬を抱きながら腰で竿燈を支えている。父親が幼い子どもを片手に抱えて、腰で竿燈を上げる「子抱き」は、本番の竿燈でもたまにみられるが、「犬抱き」というのは始めて見た。



秋田音頭・組音頭(出刃に番傘)
07.08.06

竿燈を上げる前に秋田音頭の披露もある。五日には、たまたま居合わせた、秋田民謡界の重鎮・小野花子が歌を唄うというなんとも贅沢なオマケ付き。

かつての川反といえば、夜な夜な芸妓たちが秋田音頭を唄い踊り、全国へと広めた、いわば原点といえる場所。そんな川反で見る秋田音頭は感慨深いものがある。

観光化された祭りではなく、地元に密着した竿燈本来の風流が味わえる戻り竿燈を楽しむなら、竿燈大通りにもほど近い、川反通りをお薦めしたい。

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中土橋に帰ってきた・竿燈妙技会2007

竿燈妙技会(昼竿燈)が七年ぶりに通町から千秋公園中土橋に帰ってきた。と言っても、初日と二日目の予選は、天候不順のため市立体育館に会場に移して行われ、三日目の決勝ラウンドも、ときおり霧雨の舞うあいにくの天候だったが、やはり妙技会は空の下がよく似合う。


大若団体規定

昨年までの通町会場は、西風の影響をモロに受け、演技者には不評だったため、会場を南北に延びる中土橋に戻した。しかし、中土橋は通町とくらべて道幅が狭く歩道もないため、近くでは観覧しずらい環境になってしまったのが残念。

さいわい、県民会館前の坂が、適度に傾斜のついた観客席の役割をはたしているのが救いで、これがなければ会場は混雑を極めることになる。


大若団体自由

そもそも妙技会は、演技者と身内だけが参加する、観光用のイベントとは一線を画した競技会だったわけだから、観客を無視した運営は当然といえば当然のこと。



大若団体自由の演技中に木の枝に引っかかった竿燈。外すのにずいぶん難儀していた。これも中土橋ならではの状況だ。

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竿燈は勇む火消の心意気


昼竿燈風景・大正末期頃

広小路での昼竿燈風景。左手に穴門の掘、その先の中土橋の入り口には、国旗が掲揚された緑門(りょくもん・植物で造られたゲート)がみえる。カラー写真のまだ無い時代、製版段階で職人の勘を頼りに三色分解して印刷された絵葉書。



拡大してみると提灯には、本町六丁目の町紋「軍配団扇」が描かれ、竹梯子に上る火消(ひけし)をかたどった「勇み人形」が、継ぎ竹に取りつけられている。


現在の「勇み人形」・本町六丁目
06.08 竿燈妙技会


06.08 竿燈妙技会

同様な火消人形や、火消の象徴である「纏・まとい」が、藩政期の竿燈の装飾にすでに使われていたという記録が残っているが、何故に竿燈にこのような火消のシンボルが使われているのか?

本町六丁目(現・大町六丁目)は、指物師、挽物師の住んだ職人町、少し前までは家具店が並ぶ「家具の町」として名をはせた町。

竿燈は外町(とまち)の、大工、鳶職、指物師、鍛冶師など、職人たちの技によって製作・工夫されて今に至るが、なかでも、その中心にあって竿燈を支えてきたのは、火消を勤めた鳶職(とびしょく)たちだったといわれている。

昔の火消は、消火ではなく破壊消防。風下の家屋を破壊して延焼を防ぐのが主で、荒っぽいその仕事を任されていたのが、身軽に高所に登る鳶職や、建物の構造を熟知した大工などの、威勢の良い職人たちであった。

組の印が描かれた纏は火消のシンボルであり、これを見れば、消し口(けしぐち・ 延焼防止ライン)がどこにあり、どの組が担当しているのか一目瞭然であった。「 火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、火災現場でも消し口の奪い合いで、火消同士の大喧嘩が絶えなかった。

はたして、江戸時代から幕末、明治期にかけて町火消を担当した、「鳶の者」たちの仕事はどのようなものだったのだろうか。
‥‥前略‥‥
 町抱への人足が火事場に出て働くのは役目であって、火事の度に給料を貰ふという訳ではない。唯年に一度、町内の印半纏を貰ふのであるが、それでは暮らしが立たない。町火消の生活費は何処から出たというに、それは町内の頭が受け持って其の営繕工事、建築、縄いはひ等をすべて鳶の者の独占とし、他の者は断じて手を出すことを許されなかつたのである。
 大工や壁職の用に供する足場、地固め、町内の道路修繕、溝渠の掃除等鳶人足のすべき仕事はなかなか多かった。彼らはここに其の生活費を仰いで居たのである。かくの如く彼らの生活費は一切町内から出たので、彼らは其の役目として火事といえば、いずれも身命を賭して働いたのである。
‥‥中略‥‥
 さて、町火消の役目は唯、消防のことばかりであったかといふと決してそうではない。彼らは純然たる一種の市民兵であつた。いやしくも暴力を揮って都市の秩序を破壊せんとするものがあるに於いては其の浮浪人たると、武士たるとを問わない。彼らは、多くの場合裸に素手で白刃の下をかひくぐったのである。
‥‥後略‥‥
白柳秀湖『親分子分・侠客篇』東亜堂書房・明治四十五年

このように、江戸・東京の鳶職たちは、建設業と町火消しのほか、道路の修繕からドブさらいのような雑用までこなし、町内に入ってくるならず者に対して命をかけて闘う自警団でもあり、その粋でいなせな姿は子どもたちにとって憧れの対象であった。

祭りの奉納金を集め、取り仕切るのも鳶の役目であった。祭日に露店を張るテキ屋の例を持ちだすまでもなく、日本の祭りと侠客の縁は深く、彼らが祭りを支えてきた歴史を否定できない。


火消装束役者絵・豊原国周


横浜写真・明治初期

書き割り富士の前で、火消弓張提灯と鳶口(とびぐち)を手にした火消若衆。鳶口は旧安田火災の社章にも描かれた鳶職の必須アイテムで、消火作業にも使われたもの。背中には「水滸伝」らしき見事な刺青(いれずみ)が彫られている。町火消たちが体に墨を入れるのは、自らの侠気と士気を高めるためだ。


旧「安田火災」社章
※横浜写真とは、主に欧米への土産として、幕末から明治期に横浜で制作された写真、職人がモノクロ写真の上に精緻な彩色を施している。


秋田の町火消組で名が残っているのは、鍛冶町の鍛冶職人・鋳物師らで組織した「鍛冶組」、興業師で組織した、上亀ノ丁の「蔦屋組」、目明(めあかし=岡っ引き)が結成した寺町の万平組、増屋組など。

仕事柄、火を恐れず勇猛果敢、城下にその名をとどろかせた、鍛冶町の「鍛冶組」。大工や左官、石工などの職人町で芝居小屋もあった上亀ノ丁の「蔦屋組」は、八橋全良寺炎上の際に、土崎の「いさみ組」と先陣を争って大喧嘩をくりひろげたという。

江戸の町火消「いろは四十八組」のほとんどは鳶職であったが、秋田においてはそれ以外の職人が多く参加していたようだ。


かつて町火消「蔦屋組」が存在した上亀ノ丁の纏飾り
06.08 竿燈妙技会

江戸の消防組織には、町方の「町火消」の他に、武家の「大名火消」、幕府の運営する「定火消」の三組織が存在した。天和二年(1682)、久保田藩が江戸の火消し役を命じられる。この佐竹家の大名火消組は主に浅草界隈で活躍した。


出動する大名火消(部分)・歌川広重「江戸乃華」より

組印を入れた左右対の高提灯を先頭に出動する大名火消の姿に、町紋を入れた高提灯を先頭に行進する町内竿燈の姿がダブってみえる。火消しの高提灯は竿燈の原型のひとつといえるのかもしれない。

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エスカレーターガールの時代・木内デパート

昭和三十二年(1957)十月、三十年から始まった「木内」の増築工事完成。新館の目玉が秋田県内で始めて設置されたエスカレータだった。


新聞広告 1957

手前角が戦前に建てられた建物、その東と南に三階建ての店舗が増設されている。増改築工事は昭和三十三年(1958)全面完成、屋上に「お子様遊技場」と「展望台」が新設された。70年代初めにさらに南側に店舗拡張、現在の姿になる。


新聞広告 1957


新聞広告 1957

乗降口には、若いエスカレーターガールが立ち、笑顔と深々としたお辞儀でお客様をお迎えする。

客の安全を守り、誘導するのもエスカレーターガールの大切な仕事。設置当初はエスカレーターに不慣れな客が多く、乗るタイミングが計れずに立ち尽くす老人や、降り際につまずく人が続出し、エスカレーターガールは大忙しだったという。なにしろ当時は一日平均一万人もの客が押し寄せたのだから。

秋田のデパートからエスカレーターガールの姿が消えたのは、70年代後半だったろうか。


木内店内 1957

エスカレーターが新設されて間もないころの二階の様子。おもちゃ売場のあった三階に向かう小学生が写っている。子どもたちにとってエスカレーターはタダで遊べる楽しい遊具であり、一日に何度も乗降をくり返し、エスカレーターガールのお姉さんに叱られることもあったのだろう。

昭和三十八年(1963)八月、「協働社」広小路店(本店)オープン。その店舗には、県内初の上りと下りがあるダブルエントリー・エスカレーターが設置されていた。これに刺激された「木内」も、翌三十九年(1964)下りエスカレーターを新設する。

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