二〇世紀ひみつ基地

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2007年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年03月

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大島商会開業・明治三十五年

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旧大島商会店舗

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書籍広告・明治三十五年

大島商会が開業して間もなく発行された書籍『秋田案内』に掲載された広告の一ページ。書籍よりも大きいため折りたたまれており、その裏表を大島商会の広告が占めている。

長方形の枠にバランスよく収まるように、縦長にデフォルメさているものの、建物の特徴をよくとらえた錦絵めいた構成のイラスト。

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実際よりも奥行があるように遠近法で描かれた店内、当初はウインドウがあったと推定していた左右のアーチは、解放された出入口のように描かれているのだが、実際はどうだったのだろう。

大島商会が開業した明治三十五年五月二十九日付の魁新報にも、これと同じイラストが掲載され、建物に関しては「秋田県内に於ける最初の煉瓦造商店にて……」とある。

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書籍広告・明治三十五年

広告の裏には以下のような広告文と自転車価格表がある。

「当商会に委託せられたる商品は委託者より指定の正価を付し……」と委託品を正札で販売することを方針とし、「当商会店舗の構造は白熱製煉瓦を用い欧米最新式の構造なるを以て安全にして火災盗難の患なく……」と、高温焼成煉瓦を用いた建物の堅牢を謳っている。

目下の委託品は、「各地の漆器、諸産物」「秋田産精製漆」「秋田産八丈織」「地織縞木綿」「亀田ぜんまい織」「各地産陶器」そして後に大島商会の主力商品となる「自転車」。

自転車以外は、秋田を中心に各地の特産物が並び、洋品雑貨店というよりも、明治期に博覧会の余り物を売ったのが始まりという勧工場(かんこうば)のような品揃えだ。

開業時に委託商という形態をとったのは、建物に過剰投資してしまったため資金難になり、商売が軌道に乗るまでのしばらくのあいだは、このように委託品を販売せざるを得なかったのかもしれない。

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日本国内での本格的自転車製造が始まるのは明治三十四年ごろ、国産車はまだ品質も悪く、米英製の輸入自転車の全盛時代だったため値段も高い。

いちばん安いペナント号で七十五円、英国製最上級車が二百七十円。教員の初任給が十円ほど、一人前の大工の手間賃が一日一円ほどだった時代、自転車は限られた者だけが所有できる贅沢品であったことがわかる。

※明治大正期の広告等の店名は「大嶋」と「大島」が混在し「大嶋」のほうが多いが、登録有形文化財の登録名は「旧大島商会店舗」であり、文献も「大島」としているものがほとんどなので、表記は「大島商会」に統一した。

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大島商会(ひみつ基地内検索)

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消えた「亀の湯」と雷風義塾の碑



秋田市亀ノ丁に戦後間もなく開湯した銭湯「亀の湯」が、南通りの道路拡幅を期に、従来の銭湯からの脱皮を図って「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルを建てたのは、今から約二十五年前。

番台に代わってフロントを置き、水温の違う三つの浴槽、サウナ、コインランドリー、二階には入浴客が気軽に食事のできる割烹を開き、隣には広い駐車場も作った。

まだ「健康ランド」的温泉施設の無かった時代、このような形式の銭湯は珍しく、オープンからしばらくの間は、斬新な銭湯として賑わったものだが、最近は客数も激減、原油価格の高騰も手伝って、赤字経営が続いていたという。

どこの銭湯でも同じ問題を抱えながら、かろうじて営業を続けている現状のなか、従来の銭湯よりも設備が充実していた「亀の湯」の場合、維持費も馬鹿にならなかったことだろう。

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一階に入居していた「ホビーショップK2」は、道路をはさんだ真向かいのビルに移転。

「コミュニティ銭湯・亀の湯」ビルは消失し更地になったが、それとともにもうひとつ消えたものがある。それは、ビルの左下に写る「雷風義塾址」の石碑。

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「雷風義塾」とは、秋田が生んだ国学者・平田篤胤(あつたね)の門人・小野崎通亮、井口糺らが始めた、平田学を中心にした学塾で、秋田勤皇派の本拠地でもあった。

「雷風義塾址」は、篤胤の終焉の地と同じ南通りにあることから、全国から訪れる篤胤ファンが立ち寄る遺蹟のひとつであったが、銭湯の経営者が個人で建立したものであったため、残念なことに銭湯とともに姿を消してしまったのである。


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亀の湯跡

「亀の湯」が存在した町を旧町名で亀ノ丁新町という。この通りは明治三十年代に開通した新道で、その際に「雷風義塾」のあった屋敷は分断されたため、実際の塾跡地は道路をはさんだ南側ということらしい。

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消える昭和・飲屋長屋・保戸野鉄砲町


06.03

新国道沿い、秋田中央郵便局近くの、数人で満員になるほどの小さな飲屋が並ぶ長屋。

官公庁が山王に移った昭和四十年代から営業していると思われる五軒の飲屋も、数年前から徐々に灯が消えはじめ、遅かれ早かれ消える運命ではあった。

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07.02

取り壊された跡地をみると、猫のひたいのような、ほんとうに狭い敷地だったことを実感する。

向い側(西側)の商店や飲屋は、長崎屋前から秋田中央郵便局前までの四車線化拡幅工事により消滅している。長崎屋前交差点から山王十字路間は東側を拡幅、山王十字路から秋田中央郵便局間は西側を拡幅する計画だが、飲屋長屋があった東側も若干削られるため、取り壊されることになったようだ。



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八橋名物「留り木」売店


秋田駅前「留り木」

ネイガープロジェクトのヒロイン・ネイガーマイを演ずる、秋田市出身の元女子プロレスラー・宮本晶(旧姓福岡)の嫁ぎ先として知られる、秋田駅前の焼肉屋「留り木」。

「留り木」といえば、八橋運動公園の県立体育館の下、今は砂場と遊具があるあたりにかつて存在した「留り木」売店のことをなつかしく思いだされる方も多いと思う。


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留り木売店があった場所

夏休み中は八橋市民プールで泳いだあとの定番コース、スポーツ大会など催物があるたびに、おにぎり、弁当、おでん、お菓子などを買い求める客でごった返した売店のかたわらには、店主が作ったミニ動物園めいた大きな鳥小屋があって、飼われているさまざまな鳥たちを眺めるのも楽しみのひとつだった。鳥の止まる横木「止まり木」が「留り木」という店名の由来だろう。

常設の売店ができる前は、高校野球などスポーツ大会があるたびに、仮設のリヤカー屋台を出していて、安くて旨いザッパ汁が人気メニューだった屋台には、いつも行列ができていたという。

八橋名物となっていた売店も、県立体育館が落成した昭和四十三年頃、市から立退き命令が下されるが抵抗して居座りつづけ、それから約五年後、惜しまれつつ閉店する。

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一番町「留り木」本店

一番町(南通り)で深夜まで営業する「おにぎりの店」として有名な食事処だった「留り木」本店は、川反帰りの酔客や、仕事上がりのホステスたちがよく立ち寄る店で、その欄間には、高額紙幣を並べて入れた額がいくつか飾られていた。それらは川反が景気が良かったキャバレー全盛のころ、ホステスたちが自分の源氏名をしたためて、縁起をかついでこの店に奉納するのがブームになったときの名残だったという。

この店常連だったころ、八橋の売店でも見かけたオヤジさんはまだ健在で、帰りがけに呼び止められ「これ持っていげ」と、折り詰めの「鶏めし弁当」をよく頂いたものだ。あのとき小学生だった男の子が、今の店主だろうか。

弁当や経木で包まれたおにぎりの包装紙には、さるかに合戦の絵が印刷されていたと記憶していたが、あるとき思いがけずその包装紙に再会する。「秋田市一番町通り 秋田おにぎり本舗 留り木」の文字もそのままに、当時の包装紙を拡大して看板に仕立てたものが、駅前の店舗にいつのまにか掲げられていたのだ。

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横長看板を二段に分割合成

一番町の「留り木」が南通りの道路拡張により閉店して、かなりの年月を経て駅前店がオープンしたと思う。


「留り木」

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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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お色気大作戦・超神ネイガーショー

ネイガーショーで唯一マイクを手に生声で演ずる(司会のトレビお姉さんを除いて)狂言回し役として、だじゃぐ組合班長のハン・カクサイ様の変わりに、同じく班長クラスの都会派・ゴンボホリー君が登場する機会が最近多い。

ホリー君の「東京帰りのキザな田舎者」という設定は面白く、その標準語による語りも以前よりは随分こなれてきたが、ハン様による秋田弁の達者なマイクパフォーマンスにくらべると、やはり歴然の差があり不満が残る。ネイガーではなく、ハン様の語り(騙り)を楽しみにしているハン様ファンは同じ思いでいるはず。

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超神ネイガー ネイガーマイ ゴンボホリー
02.12 アルヴェ「国体プラザ」にて

右がカミキリムシをモデルにしたゴンボホリー。真ん中が今年からネイガーの仲間に加わったネイガーマイ(米)で、中の人は、秋田市出身の元女子プロレスラー・宮本晶(旧姓福岡)。晶と書いて「ひかり」と読む。

ゴンボホリーのネーミングは秋田方言で「酒に酔って管を巻く者。だだをこねる子供」を意味する「ごんぼほり」=「牛蒡掘り」から。細くて長い牛蒡を折らぬように掘るのは、手間がかかる厄介な仕事。管を巻いたり、黙々をこねるさまを、始末がおえず厄介で面倒な「牛蒡掘り」にたとえた方言。

どちらかといえば、ハン・カクサイ様のほうが「ごんぼほり」な性格で、ゴンボホリー君は「はんかくさい・半可臭い」=「中途半端」な感じ。そういえば、ネイガーのモデルである「ナマハゲ」が酔っぱらって管を巻く姿は「ごんぼほり」そのものだ。

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こちらも最近登場した、だじゃぐ組合女性幹部・エラシグネ。イメージはツツガムシ。
「えらしぐね」は「憎たらしい」とか「癪に障る」というような意味合いの方言。

ネイガーは女に暴力は振るえないというポリシーから、もっぱらネイガーマイと闘うエラシグネ姐さんは、あきらかにオヤジ層の観客をターゲットとした女王様系キャラ。ツツガムシの胴体のようなヘアスタイル、黒いナイスバディに白ビキニがまぶしく、手足に抱きついている白いツツガムシが可愛らしい。

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秋田一の高層楼・竹村呉服店


昭和二年・書籍広告

嘉永六年(1853)の創業という大館の老舗呉服店「竹村呉服店」、のちの百貨店「正札竹村」が、ハイカラな高層店舗をオープンさせたのは、大正九年十月のこと。

前年の大館大火で消失した街並に出現したルネッサンス様式の建物は、当時秋田県内では一番の高層建築で、開店するや近郷近在からは大勢の見物客が押し寄せた。

木内の屋上展望棟、本金タワー、そしてまぼろしに終わった協働社タワーと、昭和三十年代から秋田市のデパートでは高層からの展望を競い合ったが、それをさかのぼること四十年以上前に誕生した高層楼「竹村呉服店」は、秋田における近代商業ビルのさきがけと言えよう。

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大館市大町通り・大正末頃の絵葉書から

「竹村呉服店」の後ろに「小野呉服店(丸小)」。竹村と競って高層楼を建てたが、無理な木骨建築が露呈し危険になったため、四、五階部分を解体して改装後銀行が入居したという。

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部分拡大・竹村呉服店と小野呉服店

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部分拡大・写真の左手前の商店

「つるや」の看板が掲げられた手前の商店は、今は御成町にある「ソーイングセンターつるや」だろうか。隣の小間物屋らしき店舗には「アルボース(石鹸)」「キレー水(化粧水)」の看板、その奥には「北秋名物 大館風景 絵はがき」と墨書された立て看板もみえる。

この街並も昭和三十一年、再びの大火で消失する。

平成十三年七月、老舗百貨店「正札竹村」倒産。

二月十七日まで東京において、大館市出身のクリエーターが結成したアートユニット「0/DATE」(ゼロダテ)による、「正札竹村」をテーマにしたインスタレーション作品を中心とした展覧会が開催されている。

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秋田生まれで神田の育ち・龍角散

「ゴホン!と言えば龍角散」のキャッチコピーでおなじみの、咳止め和漢薬「龍角散」。この薬、久保田藩の御典医・藤井玄淵により、文政年間に藩薬として創製されたと伝えられている。


江戸末期、長崎に渡り蘭学を修めた、三代目・藤井正亭治が、藩主・佐竹義堯(よしたか)侯の喘息の持病を治すために、蘭医学の知識を加味して処方を改良。当時の処方成分が、化石動物の骨「竜骨」、インドネシア原産の植物・龍脳樹の樹脂が結晶化したもので御香の原料にもなる「龍脳」、鹿の角を原料とする「鹿角霜」であったことから「龍角散」と命名された。

明治二十七年、正亭治の長男・得三郎がさらなる改良を加え、微粉末状を特徴とする現在の処方を完成させた。

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明治三十四年・秋田魁新報

秋田と大曲に藤井得三郎商店直営の支店が置かれている。大曲(現・大仙市)の支店は現在も漢方薬を主に扱う「藤井薬局」として営業を続けているが、その外観は、藤井家の「下がり藤」家紋と龍角散の名前が大きく描かれて、まるで「龍角散」のパッケージのようだ。(2013 追記・現在は改装され、小さな家紋が表示されている)

「藤井薬局」は江戸末期、藤井正亭治の代に創業した由緒ある店、そのため新聞広告でも秋田支店より大曲支店の方が先に記述されているのだ。「龍角散」創始者・玄淵の墓は大仙市の安養寺にある。

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大正四年・書籍広告

茶町菊ノ丁、現在の大町二丁目、ニューシティービル裏の小路に、戦前まであった東京藤井支店。

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明治四十年・福島民報

掛け軸の上に徳川家の「三ツ葉葵」を龍が取り巻く商標は、藩政時代「龍角散」を将軍家に献上した史実にちなんでのことか。この登録商標、海外では現在も使われている。

「ぜんそく根治薬」「必ず根治全快」「百発百中、立ち所に」など、今の薬事法下では禁止されている誇大表現が、露店に店を構えるテキ屋の口上のようで面白い。「龍角散」で「ぜんそく」の症状が和らぐことがあっても、それが根治するわけがない。

もっとも、テキ屋の起源であるところの「香具師(ヤシ)」は元々、「ガマの油売」のように薬を売る露天商で、テキ屋が祖先と仰ぎ祀る「神農黄帝」は、野山に自生する百草を舐めて医薬を作ったという神。その神と同一の「炎帝神農」を製薬会社が医薬の祖として祀っているのだから、戦前の薬品会社の広告がテキ屋の口上によく似ているのも、至極ごもっともなことではある。

秋田で生まれて東京は神田で育った「龍角散」も、今では日本で消費される四倍の量が海外で流通しているという。

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関連リンク

龍角散:日本ののどを守って200年。
台湾龍角散・日本語サイト

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オバQと不二家の蜜月時代

「週間少年サンデー」で連載されていた、藤子不二雄の漫画「オバケのQ太郎」がアニメ化されたのは昭和四十年(1965)の夏。TBS系、毎週日曜日夜七時半からの放送、東京ムービーによるモノクロ作品、提供は不二家だった。

当時、秋田には民放はまだABS秋田放送(日テレ系)の一社のみであったが、TBS系の番組も多く、「オバケのQ太郎」も、TBSの本放送からまもなく放送が開始されている。

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昭和四十年・秋田放送タイムテーブルから

日曜夜六時から「オバケのQ太郎」、そして、牛乳石鹸提供の「シャボン玉ホリデー」、熱血青春学園ドラマ「青春とは何だ」、九時からは、毎週ドキドキハラハラの連続の海外ドラマ「逃亡者」が始まる。これがまた次回が待ち遠しくなるほど、いいところで終わるんだよ。

この時代はほんどが一社提供で、もっと前の時代のことだ思うが、画面の下に提供テロップが常に流れていた。吹き替えの海外ドラマでは、音声と映像がズレまくってわけのわからない状態になることや、放送障害で「しばらくお待ち下さい」のテロップが延々と流れることも良くあった。

約二年間放映された「オバケのQ太郎」終了後は「パーマン」、そのあとが「怪物くん」と、藤子不二雄作品がつづき、不二家からはそれぞれのキャラクターを起用したお菓子が発売され、様々な懸賞キャンペーンが展開されていく。

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昭和四十一年(1966)「週間少年サンデー」

お菓子のパッケージ百五十円分を一口で、毎週五百名にオバQ賞「オバQラジコン」。P子賞は毎週一万名に「オバQマーチ」ソノシート。

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昭和四十一年(1966)「週間少年マガジン」

多忙な漫画家にかわって広告会社の社員が代筆したとおぼしきオバQには、オリジナルにはないまゆ毛が書き込まれていて、なんとなくおまぬけ。

こちらは葉書にオバQの絵を描いて応募する、商品を買わなくても参加できるオープン懸賞。一人で何枚送ってもよい。

特賞が家族づれ十名様(二人一組を五組)をケニア自然動物園ご招待。一等「オバQパンチミー」(大型起き上がり人形)一万名、二等「オバQエハガキセット」一万名。

ケニアへはオバQの代理として藤子不二雄(安孫子、藤本両氏)が同行、みんなで一緒に「オバQ音頭」を踊ったという。この年の同じオープン懸賞に「Qちゃんといっしょにおとぎの国デンマークへ行こう」というキャンペーンもある。海外旅行なんてまだ夢の夢の時代の豪華懸賞である。

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明治マーブルチョコのパクリのようなこのチョコレート。食べ終わったら駄菓子屋にあった「浮き玉」のようにして遊べる、おまけ付きアイデア商品だったが、遊んでいるうちに空気もれが発生して、いくら吹いても玉が浮かばず、すぐに捨ててしまった記憶がある。

夏が近づくと「オバケのQ太郎」のエンディングが、櫓の下で盆踊りを踊るオバQたちのアニメに変わり、バックになんとも能天気な歌詞の「オバQ音頭」が流れた。

♪キュッキュキュのキュ(アソレ!)
♪キュッキュキュのキュ(コレマタ!)
♪オバQ音頭で キュッキュッキュッ
♪空は晴れたし ホイ オバQ 悩みはないし ホイ オバQ‥‥‥

不二家のハイカップ(カルピスに似た甘い濃縮飲料)の王冠に切手二十円分を同封して送ると、もれなく「オバQ音頭」のソノシートが貰えるキャンペーンがあった。

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ペコちゃんの振り付けイラストの入ったソノシートは、不二家が幼稚園などに無料配布したこともあって、たちまちのうちに全国に浸透。四十年以上たった今でも八月になればどこからか聞こえてくる、盆踊りの定番ソングになった。

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昭和四十一年(1966)新聞広告

秋田市産業会館ホールで開催された「オバQこども大会」。プログラムは「オバQ主題歌」「オバQ音頭・竹部バレー団」「腹話術・南三郎」「映画・オバケのQ太郎〈2本〉」。その他「藤子不二雄先生のオバQ書き方指導もあります。」

昭和四十六年(1971)オバQがカラーアニメ「新オバケのQ太郎」となって、日テレ系毎週水曜七時半に帰ってきた。オバQの声優が変わり、提供は不二家とプリマハムの二社になっていた。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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