二〇世紀ひみつ基地

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2006年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2007年02月

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明治の煉瓦商店・旧大島商会

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旧大島商会店舗

竣工・明治三十四年
煉瓦造二階建、鉄板葺
国登録有形文化財
社在地・秋田市大町六丁目(旧下肴町)

明治四十五年竣工の旧秋田銀行本店(赤れんが郷土館)を、十年以上さかのぼる歴史を有する、秋田市内に残るものでは最古の煉瓦造り建築とされる旧大島商会。現在は貸店舗で花屋が入居している。

帽子、洋品、高級雑貨、自転車など、店の外観のとおりのハイカラな商品を取扱う、県内初の百貨店形式の商店であり、その販路は県内一円におよんだ。

下肴町の本店のほかに、秋田駅と土崎駅構内にも出店、大正期には土手長町に東店をオープンし、広小路の秋田ビルヂングにも出店している。駅では酒、煙草、旅行用品のほか、土産品として、自家製「秋田蕗の砂糖漬」「秋田蕗のステッキ」などの土産品も売っていた。

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明治四十四年・広告より

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土手長町「大島商会東店」

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シンメトリーに配置されたロマネスク様式の半型アーチが特徴的な、重厚かつ華麗な建造物。出入り口の大きなアーチと左右の小さなアーチ、建物の四隅と基礎は、積み重ねられた男鹿石で美しく補強され、地震災害から建物を守る。

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明治四十二年・広告写真

明治期の写真と現状を比較して、基本構造は変わらないが、バルコニーを失い、瓦葺の屋根は鉄板葺に、鉄扉のある二階の窓はコンクリートで塗り固められた。

前面と側面の煉瓦は、煉瓦色と白色の塗料で塗られ、男鹿石のアーチも塗装されてしまい、おもむきに欠ける。しかし、建物の背後にまわると、永年の風雪を経て剥落と変色が目立つものの、枯れた味わいの煉瓦が残され、建物の永い歴史を物語っている。

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明治末期

明治四十二年の写真と、同四十四年の広告に掲載された写真を比較すると、「洋品雑貨」の大看板はバルコニーから屋根下へ移動、バルコニーの下の斜めのヒサシが水平になり、OHSHIMA&CO.などの横文字が並ぶ看板の下には、商品を展示するウインドウを設置して、そのハイカラぶりにさらなる磨きをかけている。

当時秋田銀行重役だった大嶋家へ婿養子に入り、大島商会を創設した大嶋勘六は、その豊富な資金力で他にはない重厚華麗な建物をつくり、流行の商品を取りそろえて顧客の心をつかみ、洋品雑貨の分野では県内を代表する商店となった。しかし、一時は繁栄を極めた商店も経営状態が悪化、昭和の始めのころに廃業し、店舗と裏にあった住宅を売り払ってしまう。

店舗を購入した通町の高砂堂が昭和二十四年頃、喫茶店を開業したものの長く続かず、その後は倉庫などに使われ、花屋の前は焼肉屋が入っていたが、内部は大きく改装されて往年の面影をみることはできなかった。

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アーチの要石(かなめいし)

明治三十五年竣工の秋田駅建設の際に、駅を東部に設置するか、商業地である西部にするかで誘致合戦がくり広げられており、大島商会店主の大島勘六は西部誘致運動を熱心に展開した一人だった。結局、建設費が安くすむのと、水害の心配がないことから、駅は東部の現在地に設置されることに決定。

大島氏が市の中心部から離れた場所に、場違いなほどのハイカラな建物を造ったのも、この近くに駅ができ、将来は秋田の中心街になることを想定してのことだったのだ。

もし、秋田駅が西地区にできていたら、市内の街並みは今とは全く違っていただろう。公園の外堀があるため片側にしか商店街が続かない広小路よりも、理想的な街並みができたはずで、現在の広小路界隈の過疎空洞化も、いくぶん緩和されたかもしれない。

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旧大島商会のある下肴町は将来、都市計画道「川尻広面線」のために道路が拡幅される。そのときこの建物はどうなるのだろう。建物の裏は駐車場になっているのでセットバック保存が可能だが‥‥‥。

国登録有形文化財といっても個人の所有物件であり、役所から保存管理のための資金が出るわけではない。所有者の高砂堂は通町の拡幅工事のセットバックの際、同じく国登録有形文化財に指定された建物の曳屋工事と修理復元工事で、土地を提供した保証金がきれいに消えてしまったという。そんな話を耳にすると、簡単にはいかない問題ではあることを実感するのだが、どうにかして後世に残してほしいものだ。


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旧大島商会店舗

※明治大正期の広告等の店名は「大嶋」と「大島」が混在し「大嶋」のほうが多いが、登録有形文化財の登録名は「旧大島商会店舗」であり、文献も「大島」としているものがほとんどなので、表記は「大島商会」に統一した。

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高砂堂・大正ロマンの町家

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殺された保存樹たち・寺町定点観察


秋田市寺町「歓喜寺」前 2003.09

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秋田市寺町「歓喜寺」前 2005.02

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秋田市寺町「歓喜寺」前 2006.11

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秋田市寺町「歓喜寺」前 2007.01

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秋田市寺町「歓喜寺」前 2003.09

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秋田市寺町「歓喜寺」前 2007.01

国道7号を起点として、南通りから明田地下道を通り、横山金足線に接続する都市計画道路「川尻広面線」の用地にある「歓喜寺」の移転にともない、境内にあった、推定樹齢百五十年、樹高約30m、秋田市保存樹指定のケヤキ七本が伐採されてしまい、すっかり景観が変わってしまった。

保存樹指定解除から伐採に至る経緯が、秋田市のサイトに以下のように説明されている。

 歓喜寺の敷地が、秋田県で施行する秋田都市計画道路事業(川尻広面線)の用地となるため、現在、本堂や墓石などの物件を秋田市下北手地内に移転を進めている。
 このことから、同事業の施行に支障をきたすため、保存樹に指定しているケヤキ7本の指定解除申請書が提出された。

 7本の保存樹の下には土葬された棺があることが予想される。
 土葬された遺体は、地下2mまでは、どこにでも土葬されている可能性があることから、慎重に掘削するため、幹の直近まで根がほとんど切られることになる。

火葬の歴史は百年ほどでしかなく、それ以前は土葬があたりまえだった。古いお寺の改築や移転となると、土の下から土葬された棺が出てきて、それらは役所に書類を提出した後、火葬(改葬)に付し、また、火葬された遺骨もどこに埋もれているかも確定できず、一体たりとも供養できずに取り残されるようなことがあってはならない。

そのためやむをえず、保存樹指定を解除し伐採されることになった。これが墓地でなかったらば、移転保存も考えられたのだろうが‥‥‥。

80年代に秋田市都市景観賞を受賞したように、寺町通りは緑濃く美しい小路。とくにこの周辺は、「歓喜寺」の黒板塀とあいまって、最も往年の寺町らしさが残る、ケヤキ並木の密集した場所であった。そのため都市景観賞のプレートも間近に掲示されている。

周囲のお寺のほとんどが石かコンクリートのブロック塀になった今、「歓喜寺」の黒板塀、おもむきのある山門と門前の地藏さんがもうすぐ消えてしまうのは淋しい。

「歓喜寺」前から鉄砲町角までは、写真のように、すでに10m道路が25mに拡幅されている。この拡幅された部分の「歓喜寺」から見て左手の道端に小さな地蔵堂があった。「札打ち」の十三番札所に指定された、なかなかおもむきのあるお堂だったが、昭和四十八年の豪雪で倒壊の危険が生じたため、その年に取り壊されてしまう。

お堂が取り壊されたあと、一緒にあった観音像は二十一番札所の普傳寺に移される。お地蔵さんと石碑はそのまま残され、道路拡幅で現在の託児所の前にセットバックされた。かつてのようなお堂もなく、雨ざらしになっているのが哀れだが、子どもを守るお地藏さんにとってはふさわしい場所ではある。

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鉄砲町角にあった「城屋もちや」は、百年以上の歴史のある、すましもち、大福、なるともちなどを売る人気の店だったが、道路拡幅を機に廃業したようだ。

道路拡幅工事は五丁目橋まで完成、今後は横町から下肴町までの区間が拡げられることになる。


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歓喜寺跡

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H18年 保存樹指定の解除について(秋田市公園課)

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ペコちゃんのつぶらな瞳に涙哉

「不二家」の今回の不祥事について、消費期限とか賞味期限の少しぐらいは切れたものでも平気で食べられるほうなので、始めは大げさに騒ぎすぎと感じていた。しかし責任をパート従業員におしつけたあげく、ほかの工場からも次から次へとボロがでて、もはや自主再建は困難との声もあるほどの取り返しのつかない事態におちいり、永年築き上げてきたブランドの信頼はもろくも崩壊してしまった。

「愛と誠心(まごころ)と感謝を込めて、お客様に愛される不二家になりましょう」という社是が、今となっては虚しい。

●不二家の歴史

「不二家」の歴史は、明治四十三年、横浜元町に藤井林右衛門が二十五歳で洋菓子店を開いたことに始まる。「不二家」の屋号は、藤井家の「藤」と万葉集に登場する「不二嶽」(富士山)にヒントを得て命名された。

林右衛門は洋菓子の最新技術視察のため渡米、帰国後、日本初の「天然果汁入りソーダ水」を目玉にした喫茶室をオープンさせ、大正十一年、日本初のショートケーキの販売を開始。

日本のどこにでもみられる、スポンジ生地で生クリームをはさみ、イチゴをトッピングしたショートケーキは、「不二家」が発明した日本独自の洋菓子。対して欧米でショートケーキといえば、「ショート(short)」という言葉が「さくさくする、ぼろぼろする」という意味合いであるように、パイやクッキー・ビスケットのような乾燥したお菓子なのである。

●ミルキーはママの味

子どものころは、 パラソルチョコや ルックチョコが好きだったが、「不二家」といえば、ママの味「ミルキー」の存在が大きい。

「母親を思わせるやさしく、どこか懐かしい、母親が安心して子供に与えられる味」。戦後の荒廃が残るなか、初代社長・藤井林右衛門は、そんな「ママの味」をキャッチフレーズにした新製品を模索していた。戦災で焼け残った一つのボイラーを使い、試行錯誤の末に完成したそれは、練乳をたっぷり使用したやさしくやわらかな味の贅沢なお菓子。

始め「ジョッキー」と命名されたものの、牛乳のイメージを生かすために「ミルキー」と変更し、昭和二十六年、不二家銀座店で一箱十円で発売を開始。栄養豊富で美味しく手頃な値段の「ミルキー」は、銀座店の大人気商品となり、翌年には全国の小売店に卸売りを始める。

「ミルキー」の販促キャラクターとして誕生し、「不二家」のシンボルとして愛されつづけた「ペコちゃん」は、戦前から社内に原案があり「ミルキー」が発売される前年には、すでに銀座店の店頭人形として登場したという。

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撮影・田沼武能

ボロボロの服に裸足の少年が羨望のまなざしを送るのは、人形の手にぶら下げられた「ミルキー」のパッケージ。高度成長以前の東京に暮らす子どもたちを撮影しつづけた田沼の傑作である。

どう見ても「ペコちゃん」とは思えない、むしろ「クレヨンしんちゃん」のような面影の店頭人形は、紙の張り子で風が吹くとゆれ動き、荒天の日は店内に入れられた。

張り子の人形が作られたきっかけは、昭和二十五年に日劇ダンシングチームが公演した「真夏の夜の夢」のなかに、張り子の動物が登場するシーンがあり、それにヒントを得て「ペコちゃん」人形を日劇の大道具さん作ってもらったのが始まりという。三十五年には軟質プラスチックの素材で店頭人形が作られ、細かなデザインの変遷を経て現在に至る。

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初期パッケージと現在の「ペコちゃん」

樹脂製のカバーに入った黒目が動くパッケージがなつかしい。

昭和三十六年、「F」をデザインしたロゴマーク誕生。時代を経ても色褪せない秀逸なデザインを手がけたのは、米国タバコ 「ラッキーストライク」のパッケージや、シェル石油のマーク、日本では専売公社の「ピース」で有名な、伝説的な商業デザイナー、レイモンド・ローウィ(1893-1986)。

「F」には「不二家」のFのほかに、ファミリア、フラワー、ファンタジー、フレッシュ、ファンシーの五つの意味が含まれているのだが、ファミリア(家庭的=同族経営)とフレッシュ(ノンフレッシュ)というキーワードが今、皮肉に響く。

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昭和二十七年・新聞広告

●ペコちゃん・ポコちゃんは東北人?

「ペコちゃん」と、そのボーイフレンドとして昭和二十六年に誕生した「ポコちゃん」。二人の名前の由来は「ペコちゃん」が、方言として東北地方に多く分布する「ベコ」=「子牛」。「ポコちゃん」は室町時代の古語で「幼児」を表し、方言として残る「ボコ」を、それぞれ西洋風にアレンジしたもの。

「ペコちゃん、ポコちゃん」を秋田方言でいうと「ベゴちゃん、ボッコちゃん」。呼び名を変えただけで、都会の子どもが、一気に田舎のワラシ(童)に変身する。

「ベコ」=「牛」の語源は、その「ベー」という鳴声に基づくもので、「ベー」に指小辞(可憐・親愛の情をこめた接尾詞)の「コ」が付けられて「ベーコ」→「ベコ」と変化したものらしい。

東北地方では「ベコ」にさらに指小辞を加えた「ベゴッコ」という表現もあり「牛」を表すが、西日本に分布する「ベコ」は「子牛」に限定した言葉で、こちらは「べー」と鳴く「子」という意味で、その地方で成牛を意味する方言は「ベー」。

猫の「コッコ」、犬の「コッコ」などと、動物の子どもにも指小辞を付ける秋田方言の場合、「子牛」は「ベゴのコッコ」となる。「コッコ」は、小さき存在に対する情のこもった、なんとも可愛らしい方言である。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 18:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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タグリストの順番はランダムに表示され、記事が多い項目のほど文字が大きくなり、マウスをのせると件数が表示されます(ブラウザにより表示されない場合も)。件数の多いタグは複数ページにわたりますので、最下部のnextをクリックしてお読み下さい。

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梵天奉納祭・平成十九年度

梵天(ぼんでん)奉納祭
秋田市広面字赤沼 太平山三吉神社里宮
平成十九年一月十七日


鳥居をくぐる村梵天

例年ならば蛇野の蛇のようにくねる三吉神社への参道は雪におおわれ歩くのも難儀するのだが、今年の祭は雪もなく春のような天候で、いまひとつ気分が盛りあがらない。それでも法螺の音(ね)や、村札をぶつけ合う音、三吉節の歌声が聞こえ、あの極彩色の梵天を前にすると気分が昂揚し、心はすぐにハレの日モードへとシフトするのだ。

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もみ合う村梵天

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三吉節

法螺貝とジョヤサの掛け声とともに道中で唄われ奉納される三吉節。大蛇が横たわったような形から大蛇峰(おろちね)と呼ばれた太平山のゆるやかな稜線のように、なめらかに唄うのがコツという。これを聞くのもまた祭の楽しみ。

太平山が古くは「おいだら山」「おえだら山」と呼ばれたのは、中世の太平の領主で、平家の血筋である大江氏が、他の平家と区別するために「大江平」を名乗ったことからといわれる。「おおえたいら」→「おえだら」→「おいだら」。

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奉納棚

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| 祭り・民俗・歳時記 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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闇夜に響く札打ちの音

一月十六日の深夜、寺町周辺のお寺の山門には提灯の火が灯り、鉦(かね)を叩く音、札を打つ音、ふだらく(御詠歌)を唱える声が闇夜に吸い込まれるようにかすかに響く。札所には炭火が置かれ、なかには甘酒なども用意して参拝者を迎える寺も。

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十五番・妙覚寺山門

通称「札打ち」、正式名称「久保田三十三番札所巡礼」は、約三百年の歴史がある行事。当時、西国三十三番札所巡礼が大ブームになったが、一般民衆にとって遠方への旅行は高嶺の花。そこで、久保田近郊の寺院を西国三十三番札所に見立てて巡礼する風習ができた。

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十五番・妙覚寺

亡くなった近親者の戒名を記した木札を三十三枚用意し、十六日未明(正式には十二時出発)、家族や親類がそろって御詠歌を唱えながら、一番札所である泉三嶽根の熊野神社(明治の神仏分離以前は真言宗の寺院)から、三十三番札所・八橋の帰命寺まで巡礼し、寺院の壁に木札を打ちつけ故人の成仏を祈る。亡くなってから三年間つづけて参加するのがきまりという。

壁に直接打ちつけるのは建物が痛むため、今は建物の前に専用の板が設置され、木札が少なくなり、大半が紙の札になった。時代を経て廃寺または廃堂となって消えた札所もあるが、その場合は近隣のお寺が代行している。

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二十一番・普傳寺

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二十一番・普傳寺

普傳寺は消失した十三番・地蔵堂、二十番・東正寺、二十二番・中央院、二十五番・薬師寺を併合。

コースは、泉→手形→楢山→牛島→川口境→旭南→旭北寺町→旭北栄町→保戸野鉄砲町→八橋。

今でこそ自家用車で順番も関係なく巡る例が多いが、二十年ほど前までは、一番から三十三番まで徒歩での巡礼で、先々で長い行列が見られた。

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十七番・善長寺山門

札打ちの参拝者数を魁新報の見出しから拾ってみると、「昭和二十七年・札打ちにザッと六千人 」「昭和二十八年・善男善女約一万」「昭和五十八年・二千人が巡拝」。昭和三十八年には「暴風雪の中を札打ち、善男善女も例年の半数」とあるように天候に大きく左右されたようだ。

最盛期は数万人、戦後になっても多いときは一万人もの巡礼者が、真冬の夜中、そぞろ歩きながら参拝し、それぞれの門前には酒や食べ物の出店も出たというから、その道筋、特に寺町周辺のにぎわいは想像を絶するものがある。

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ロウソクが灯された、十七番・善長寺の六地蔵

行程は天候に左右されるものの約六時間、年配者は十時間もかけて歩き、八橋にたどり着くころにはすっかり夜も明けていたという。厳寒期の苦行にこそ意味があるのだろうが、それは修業であるとともに、楽しいレジャーでもあった。

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二十六番・當福寺

この時期に参加できなかった人、足腰の弱った老人らは、六月ころ、金照寺山の七ツ森周辺に設けられた三十三番観音像を巡って霊をとむらう。

金照寺山のあちこちに点在する石の観音さんが、夏が近づくころ真っ白なお札で埋め尽くされる不思議な光景が、遠い記憶のなかに鮮明に残っている。今は七ツ森周辺は荒れ果てて、三十三番観音を巡る人も少ないのではないだろうか。

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二十七番・鱗勝院

手書きの木札からパソコンで印刷したとおぼしき紙札まで様々。お札の数からして今年の参拝者は五百人ほどか。昨年とうって変わった雪もなくおだやかな札打ちの夜であった。

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なまはげ兄弟・勝手に観光協会

サブカルの申し子・みうらじゅんと、空耳アワーでおなじみ安斎肇、二人のアーティストによる「勝手に観光協会」略してKKK。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に日本各地を視察し、観光ポスターやご当地マスコットを作り、ご当地ソングを作詞作曲し自らが演奏する、大きなお世話なユニットである。

川反のFM局・ 秋田コミュニティ放送でにJ-WAVEをネットしていたころは、『TR2』という深夜番組で、視察先の旅館で録音した出来たばかりのご当地ソングを流していたが、現在のおもな発表の場は、スカパー275chの『みうらじゅん&安齋肇のなまはげ兄弟』。

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秋田のご当地ソング「なまはげ兄弟」を聴く

2006勝手に観光協会年間ランキング一位を獲得した、秋田のご当地ソング「なまはげ兄弟」。いつもの通り、その土地に関するキーワードを並べてつなげた薄っぺらな歌詞ではあるが、なにか心に染み入り郷愁を誘うものがある、一度聴いたら耳から離れない名曲(迷曲というべきか)となっている。みうらの歌と安齋のオカリナのヘタウマさかげんがゆるくて良い。

「なまはげ」と「かまくら」が合体した、ネーミングが秀逸な秋田県マスコット「なまくらちゃん」は、ネイガーショーにでも登場しそうなゆるキャラである。

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関連リンク

YouTube - なまはげ兄弟

みうらじゅん&安齋肇の勝手に観光協会
「勝手に観光協会」秋田県編
勝手に観光協会・秋田県ポスター
勝手に観光協会・秋田県マスコット「なまくらちゃん」

サブカル王 みうらじゅんに聞く(前編)
サブカル王 みうらじゅんに聞く(後編)

安齋 肇ロング インタビュー

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石川書店のレトロ看板・大町二丁目


石川書店・大正期

秋田市大町二丁目に明治三十七年に開店した「石川書店」。元々は「石五」(石川五右衛門)の名で代々呉服店を営んでいたという。

「石川書店」の斜め向い、日銀支店の隣には、大正五年開業の「三光堂書店」があった。

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書籍広告・大正期

昭和四十五年(1970)、今の山王大通り(竿燈大通り)の道路が拡幅され、取り壊された「三光堂書店」は中央通りに移転したが、その後廃業。

「石川書店」のあった場所は、山王大通りに面したスカイビル(スカイホテル)となり、一階で営業を続ける書店の店頭には、旧店舗に掲げられていた看板が飾られ、老舗書店の歴史を今に伝えている。

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旧店舗看板

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大理石に刻まれた風雅なおもむきの書は、秋田を代表する書家であった赤星藍城(らんじょう)の揮毫。

赤星藍城(安政四年~昭和十二年)
宮城県生まれ。明治二十年。友人の横手市の伊藤直純(政治家で文人)の招きで、大曲市に医院を開き、森吉町米内沢病院を経て、三十七年、秋田市土手長町末町(旧秋田ニューグランドホテルの地)に病院を開業。
昭和九年に来秋した、近代書道の父・比田井天来に、藍城は岐阜の百練、高知の横雲と並ぶ、地方三筆と称賛された。

かつて赤星医院と書斎「十声楼」があった、ホテル「グランティア」の前庭には、昭和四十九年に建立された藍城の書碑がある。

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川反にサーキット場があった時代



英国で生まれ、米国で爆発的大ブームをおこした、コースに刻まれた溝=スロットに沿って、モーター動力のモデルカーを走行させる、スロットレーシングが日本でブームとなったのは、昭和四十年(1965)。

玩具・模型メーカーがこぞってスロットカーを販売しはじめ、全国のゲームセンターやボウリング場などの娯楽施設に、次々に専用サーキット場がオープン、四十年の末には秋田市にもコースが開設された。

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マルサンプラモデル
昭和四十年(1965)「週間少年マガジン」

こちらは自宅で遊ぶサーキットセットで価格は一万五千円弱。当時一番売れたのはニチモのホームサーキットセットで九千九百円というが、公務員の初任給が二万円ほどの時代、よほど裕福な家の子どもでなければ手にすることのできない夢の高級玩具であった。

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明治製菓

昭和四十年(1965)「週間少年マガジン」

スロットレーシングは、製菓メーカーや雑誌の景品に高額玩具が使われるきっかけとなった商品。コントローラを握っているのは、明治マーブルチョコレートのCMで人気を得、子どもたちのアイドルだった上原ゆかりちゃん。

プラモデルの小型モーターで有名なマブチの創業者・馬渕健一は、電通PRと組んでスロットレーシングの普及をはかり、東京小岩にサーキット場を作るが、日本で始めてサーキット場を後楽園にオープンさせたのは、当時、米国のプラモデル会社レベルと提携していた郡是産業(のちのグンゼ産業)。

コースとレンタルカーをそろえて五~六百万円ほどかかるのだが、郡是の営業マンたちは「三カ月で元が取れる」と説いて回り、最盛期には一週間で十コースも作ったというから驚く。

秋田初のサーキット場「朝日グランプリサーキットコーナー」は、川反五丁目のキャバレー朝日があった建物(現・ソワレドビルの場所)の一階にオープン、経営は昭和の川反で一世を風靡した朝日興産。コースは全長38mを二台設置し、レンタル用のスロットカーは「世界中の有名スポーツカー300種類常備」。

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昭和四十年(1965)新聞広告

昭和四十一年、広小路のセントラルデパート三階に「グランプリセントラルサーキット」がオープンするも、そのころからブームは急激に衰退していく。

その原因は車持ち込みで十五分間で大人百円、子供五十円が相場という、高額なレース場の料金があげられる。もうひとつは、ただでさえゲーム場は不良の温床といわれていた時代、年少者が盛り場に出入りするのは風紀上問題があり、経済的に仲間に入ることができない子どもが出現するのは好ましくないとの声が上がり、全国の小中学校で立入り禁止とされるにおよび、ブームは一挙に下火となった。

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謹賀新年

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秋田市広小路・協働社前を通過する市電 1960s

昨年中は「二〇世紀ひみつ基地」をご覧いただきありがとうございました。
おかげさまでブログを開設して三回目の新年を迎えることができました。
本年もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

平成十九年一月一日

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