二〇世紀ひみつ基地

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2006年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年11月

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タダでも見たくない「相田みつを」の書

アルヴェでやっている「相田みつを展」の観覧者が一万人を超えたらしいが、自分はこの人の「書」に強い拒否反応を覚える。

相田みつをの画くコトバ自体は間違いではないだろう、しかし「人間だもの」という諦め(明らかに見る=諦観)または全肯定は、否定の連続という苦悩のプロセスの末に得られるもので、その結論よりも、そこに至る道、行程こそが貴いのだ。

プロセスを抜きにした「人間だもの」という安直で安悟りな結論は、インスタントな癒しを求める現代人にこそふさわしい、軽薄でその場限りの「気づき」でしかない。

そんな理屈を抜きにしても、その作品にただよう「あざとさ」、または「嘘臭さ」といってもいいが、言葉では表現できないイヤラシサには吐き気をもよおす。そんな自分はひねくれ者だろうか。

それを商売にしている者たち、そして、みつを風の書を画く二番せんじの、みつをモドキたちもまた同様である。

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銀座街・消えた駅前小路


左右に果物屋のある銀座街入り口

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銀座街店舗・昭和四十一年頃

平和食堂はその名のように平和通りにも入り口があり、中華の幸楽食堂もどちらの小路からも出入りすることができた。

秋田駅前に銀座街(初期名は銀座通り)が完成したのは昭和二十三年(1948)の秋。当時の魁新報に居住者を求める広告がある。

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一コマが間口二間(約3.7メートル)、奥行二間、分譲価格は十二万円。ちなみに、この年の公務員初任給は約四千円。

昭和四十年代、多くの店舗は二戸分ほどの広さがあったと記憶している。それらは商売が軌道にのってから隣接した店舗を買うなどして拡げたものだろう。

銀座街は「たけや製パン」発祥の地。その社史によれば、手付金の六万円を払って営業を始めたものの、なかなか経営が軌道にのらず、毎月払う約束の残金も払うこともできず、大家からは立退き状が届く始末。パン屋をあきらめ転職を決意し大家を訪ねると、まだ暗いうちから必至で働く社長の姿をみていた大家から、「支払いは軌道にのってからで良い」というありがたい言葉もらい、営業をつづけることができたおかげで、今日の繁栄があるのだという。

銀座街経営者の理解がなかったら、現在の「たけや製パン」は存在しなかったのだ。新社屋がほど近い久保田町の「レストラン・ニューたけや」の場所に竣工したあとも、銀座街の方は売店として営業していた。

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新聞広告・昭和二十七年

昭和の香りのする、ほのぼのとしたイラストが佳い。

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秋田駅前界隈・昭和四十年代初頭

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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あがた森魚 掌コンサート



あがた森魚 掌(たなごころ)コンサート

10月29日(日)17:00開演(16:30開場)
場所 レストラン・プラッツ 秋田市大町一丁目
前売 2.000円(税込) 当日 2.300円
あくらビール 他 ワンドリンク券付

大町AD地階とニューシティを結ぶ地下通路という、めったに通ることのない場所にこんなポスターが。

公式サイトのスケジュールに載ってないし、あやうく見逃してあとで後悔するところであった。

今年は先月に引き続いての来県。
これもPMAで縁が深まったことによって実現したライブなのだろう。

場所はかつての高堂酒店の蔵を改造したビアレストラン。このあいだのスーパーライブと違って理想的な環境のもと、あがたワールドの音の波に溺れることができる。

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地ビールの「あくら」

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秋田駅前界隈・昭和四十年代初頭


秋田駅前周辺・昭和四十一年頃

戦前は十七連隊があった駅前周辺。終戦直後には青空マーケットが自然発生し、バラックの闇市、引揚者住宅などが雑然と建ち並んでいた駅前も、昭和二十三年頃から商店街が形成されはじめ、やがて商店や飲食店、約百三十軒が密集する地帯となった。

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現在の秋田西武の場所には仙台高裁秋田支部、その隣、公営駐車場の場所は東北電力の敷地。

駅前から西へ向かう仲小路通りは、この時点では金座街で突き当たりになっていて、まだ開通していない。

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平和通り、日通周辺

平和通りのアーケードの屋根が白く光っている。その南隣、銀座街の入り口には清酒メーカーのネオン看板。

道路を隔てた北側、日通秋田支店の回りにトラックが止まっている。隣接して秋田会館(パチンコ)、金万(金萬)、山甚ビル(やまじんビル→緑屋)、全音(レコード)、浅利旅館(女優・浅利加津代の生家)などが、アーケードでつながれている。

終戦後の復興期から、高度経済成長期を通して、県民に親しまれた駅前商店街界隈。一般庶民にはマイカーなど、まだ夢の夢の時代、夕方ともなれば、バス・汽車通勤のサラリーマンたちが、暗く薄汚れた小路の飲屋・食堂にたむろし、パチンコに興じ、休日は家族連れで賑わい、いつも活気に満ちていた。

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撮影・昭和50年(1975)
国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)

それから十年後、駅前再開発計画により、仙台高裁秋田支部と東北電力の建物は取り壊され空地になっているが、金座街から東側の建物にはまだ手がつけられていない。

銀座街、平和通り、末広町とその界隈の建物が取り壊された跡地に、昭和五十五年(1980)、イトーヨーカドーを核テナントにした、秋田ショッピングセンターがオープン、東北電力跡地には公営駐車場が営業開始。

昭和五十九年(1984)、高裁跡地に本金西武がオープン、金座街はアゴラ広場へと変貌をとげるのだが、その後のモータリゼーションの進展により、駅前からは徐々に往年の賑わいが消えはじめる。

雑然としていながらも、人のぬくもりがあふれていた駅前商店街界隈は、庶民が明日への夢を信じ、つつましくもいきいきと日々の生活を営んでいた、あの時代を象徴する場であり、そして、疲れたときに「帰りたくなる」心の故郷のような、都市計画という人為では決して造ることのできない魅力的な場所であったのだと、今になって思う。

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昭和色のネオン・タクシーあさひ
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歩兵第十七連隊・秋田駅前

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:30 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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「付木小路」に響く音(ね)は‥‥

秋田市・歴史の小路(四)


付木小路・秋田市大町六丁目

かつて映画館「銀映座」があった十人衆町から、本町六丁目に抜ける小路を「付木小路」という。小路を抜けた左手は樹木の茂る児童公園(旧感恩講)、右手に新政酒造の酒蔵がある。

昭和初期までこの小路に「付木屋」があったことから、「付木小路」と呼ばれたが、今ではその名を知る人も少ない。

「付木・つけぎ」とは、杉や檜(ひのき)の薄く削られた木片の先端に硫黄を塗ったもの。火打石と火打金で切りだした火花を、火口(ほくち)に移し火種とし、これに「付木」の硫黄の部分を近づけると青紫色の炎をあげて燃えあがる。この炎をさらに薪に移して竃の火をおこし、またロウソクや行灯(あんどん)に点灯するために用いた。

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付木

束にして売られた「付木」。経年変化により硫黄は変色し剥離もめだつ。
使うときは木目に沿って1~2cm幅に割って火を付ける。

「付木」が発明されるまで、小さく低温な火種から竃の火をおこすことは、頭から灰をかぶりながら、火吹き竹で「ふうふう」と空気を送る、主婦にとっては難儀な仕事であったが、「付木」の登場により容易に大きな炎を得ることができるようになる。

「付木」の記録がある最も古い文献とされる『源平盛衰記』(十三世紀頃)の中の「円満院大輔登山の事」に、「付木」は「付茸硫黄・つけたけいわう」の名で登場する。「つけたけ」というのは、その初期において材料に竹が多く用いられたためらしい。

時代は下って、江戸および太平洋側では「硫黄付木」を略した「付木」、京阪地方においては「硫黄・いわう」、九州から奥羽地方までの日本海側ではおもに「つけだけ」と呼ばれていた。

「硫黄・いわう」は「祝う」に通じ縁起がよいことから、隣近所からのもらい物の返礼として「付木」が使われた地方では、マッチの時代になってもその風習がのこり、頂いた重箱などの容器にマッチを入れ、「付木のかわりに」と言ってお返しにするのだという。

「付木」をつくる職人は「付木突き」「付木師」と呼ばれた。

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付木師『今様職人尽百人一首』(享保)より

切り揃えた角材を長い鉋で削り(突き)、火鉢で温めて硫黄を塗る工程が描かれ、会話として「皆精を出しましょう。明日は休みでござるぞ」「おまつ、そこのあいろうをくりゃ」「此硫黄はよい花じゃの」と記されている。

添えられた歌は「鳴かせつつ つけ木屋 猿の真似をつく 硫黄付けつつ 藁束ねおく」。

「猿の真似」とは、付木を鉋で削るときに鳴る音が、猿のキーキーという声に似ていることから。その音は鳥のさえずりなどにもたとえられて、多くの俳句・川柳に残されている。

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「五月闇水鶏ではなし人の家」五月の闇夜、どこかでクイナが鳴いているようだと耳をそばだててみると、なんのことはない、音の主は付木屋の家の付木を削る音だった。

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付木売り『江戸職人歌合』(明応四年・1495)より

天秤棒を担ぎ「付木」を売り歩く老人。 添え歌は「灯火(あんどん)もけち(消し)て月をや眺むらん今日は付木を買う人もなし」「忘られば忘れん事も安付木きえて物おもふ我や何なる」。

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団扇絵『闇の夜の蛍』絵師・玉蘭貞秀(天保十三年)

行灯に「付木」で火を灯さんとする女。

江戸末期に渡来したマッチは、オランダ付木、早付木、西洋付木、摺り付木などと呼ばれ、明治初期には国産化されるが、当時はまだ値の張る贅沢品であり、広く一般に普及するのは大正に入ってからのようだ。

瞬時に火をおこせるマッチの普及により、「付木」は過去の遺物となったが、今もわずかに製造され、神に捧げる灯明を点火する道具として、神棚・神具を扱う店で販売されている。

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周辺地図

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火打ち石屋・吉井本家
火打道具・付木製造元

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伝説の大イチョウ・座頭小路

| 秋田市今昔 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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歩兵第十七連隊・秋田駅前


歩兵第十七連隊衛門・広小路

仙台の歩兵第十七連隊が秋田市に移されたのは明治三十一年のこと。海路、土崎に上陸した先発の第一大隊一千人は、行進ラッパに合わせて靴音高く市中を行進し、通行する町内は、日の丸国旗に紅白の幕を張り入営を祝った。

そのときの町の様子が、通町の招福稲荷神社に奉納された絵馬に描かれている。

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奉納絵馬「連隊入営上通町歓迎図」
秋田市保戸野通町・招福稲荷神社 

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連隊の敷地は約十四万平方メートル、現在の地図と重ねてみれば、その広さを実感できる。

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モノクロ部分が旧連隊のおおよその敷地

終戦後の一時期は米軍に接収され、そのあと、久保田中学校と秋田高校が建物および敷地を校舎とグランドとして使用、その後、都市計画による区画整理が進み、昭和三十九年ころには、市場、電話局、商店などが建ちならぶ駅前中心街に変貌した。

それでも旧連隊の面影は、敷地を取り囲む石垣の残骸など、探せば随所に残されていた。アトリオンの裏にあったポプラ並木もそのひとつ。

六月頃になると、白い雪のような綿毛(種子)が舞うポプラ並木が、アトリオンの建設のため伐採されることになったその年、異常な量の綿毛が舞い、まるでポプラたちが最後を覚悟しているかのようだと話題になった。

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旧連隊の中心地、中通四丁目、NTT秋田支局裏手に歩兵十七第連隊跡の碑が建てら、その向いの児童公園敷地には平田篤胤誕生地の碑がある。

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現在の衛門付近

| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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竿燈マン現る・超神ネイガーショー

10.07
ABSラジオまつりin秋田ニューシティー


クサレタマグラvsネイガー

草刈り鎌をデザインしたマスクの、「ボッコレタマグラ」のマイナーチェンジっぽい新怪人「クサレタマグラ」の手には、「Dajax」(ダジャックス)のロゴマークがあるダジャグ組合ブランドのチェーンソー。これは人から「ホジ」を切り離してホジナシにしてしまうという恐ろしい武器。ネイガーの武器キリタン・ソードもあえなく真っ二つに切り落とされてしまう。

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そこに竿燈囃子にのせて新キャラ「カントウ(竿燈)マン」登場。

祭装束に竿燈マスク、日の丸をあしらった黄金色の後頭部は竿燈提灯を思わせ、バックルは佐竹家(久保田藩)の「月丸扇紋」。手にはカントウ・シールドを持つ。

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クサレタマグラvsカントウマン

「クサレタマグラ」に立ち向かうものの、心優しき祭男である「カントウマン」は、自分は技の美しさで競うのだから敵を傷つけるなどという下品なことはできないとの、戦闘には不向きなポリシーから、カントウ・シールドで防禦するばかり。

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敵にあっけなく倒されるカントウマンであったが、その実体が竿燈本体であるため、一度倒されたら自力では立つことができず、観客の「ドッコイショ、ドッコイショ」の掛け声に力を得て、ようやく立ち上がる。

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ネイガーにカントウ・シールドを「町内さ帰ればまだいっぺあるがら」とを手渡し、カントウマンは町に帰っていくのであった。

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秋田駅前に丸ビルがあったころ



昭和四十年代、秋田駅前中央通り、現在の有明ビルの場所ににあった「丸ビル」。

三十年代から四十年代にかけて流行した円形校舎と同様な構造の飲食ビルは、四十一年ころ「駅前に川反の味を」のキャッチフレーズで誕生、正式名称は「ニューあきた」。

円形校舎といえば、市内には楢山の南中学校、茨島の秋田短大にそれがあった。南中が大堰端に移転したあと、円形校舎は婦人会館に転用されて余命を保っていたが、しばらく前に取り壊されてしまった。採光の面では理想的だった円形校舎も、扇状の教室は使いづらく、特殊な形状の窓ガラスがある教室は、冬になればすきま風が吹き込んで寒々としていたことを思いだす。

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昭和四十二年(1967)・新聞広告

一階が札幌ラーメン、洋食、甘党コーナー、二階は少人数の宴会もできる辛党コーナー。

ラーメンコーナーは、北海道「札幌ラーメン時計台」からノレン分けした人気の店、とくに味噌ラーメンのとろりとして濃厚でありながらも、さっぱりとした味が忘れられない。安くて旨い洋食・喫茶コーナーも、若者を中心にいつもにぎわっていた。

当初、喫茶コーナーでは、秋田で評判の洋菓子店だった「ランカシャ」のケーキを安く食べることができたという。

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昭和四十年(1965)・新聞広告

昭和四十六年(1971)ころには、一階が「スナックレストラン・ニューボン」、二階は「嶋和」の名称で営業している。

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周辺地図・昭和四十五年(1970)頃

「あさひタクシー」の隣には、「秋田で二番目に安い」がキャッチコピーだった旅館「ナイキ会館」、今と同じところに「加賀屋書店」、その向い、現秋田西武の一角には「喫茶エルザ」があり、加賀屋で買った本をここで読むのが定番だった。「加賀屋書店」の裏側は、格安の邦画二番館「テアトル秋田」。

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丸ビルの跡地に「有明ビル」が竣工したのは昭和四十九年(1974)。

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ハン・カクサイの電波ダジャック!



ネイガー好きのガキどもが寝静まった、金曜深夜に放送される「超神ネイガー ラジオ ハン・カクサイの電波ダジャック!」は、「秋田の明日をダメにする」をモットーに暗躍する、だじゃく組合班長・ハン・カクサイ様をメインパーソナリティーに迎えて送る「秋田の明日をダメにするラジオ」番組。

この日を待ちわびていた全県のハン様ファンが、ラジオの前で歓喜の涙を流すに違いない。

超神ネイガーショーにおいて、大切な狂言回しをつとめ、大人の圧倒的な人気を集める、悪役のハン・カクサイが裏の主役であることは、察しの良い方ならば先刻承知のことだろう。

ネイガーショーは実は、偽悪のヒーロー・ハン・カクサイショーなのだ。達者な秋田弁で展開する、アイロニーに満ちたその言説、アドリブの効いた客いぢり‥‥。その魅力に比べると、偽善的ヒーロー・ネイガーはまだまだ青臭く、大人にとってはちっとも面白味がない。

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超神ネイガー ラジオ ハン・カクサイの電波ダジャック!
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ツクバネの不思議のカタチ


ツクバネ

つくばね【衝羽根】
(1)羽子板遊びのはね。羽子(ハゴ)。
(2)ビャクダン科の落葉低木。山地に生え、根は他の木に半ば寄生する。高さ約一メートル。披針形の葉を対生。雌雄異株。花は淡緑色で初夏、開花し、雄花は散房状につき、雌花は単生する。果実は卵状楕円形で、頂に四個の萼片が残存し、衝羽根に似ている。ハゴノキ。[季]秋。(大辞林)

山野に自生する植物たちが子孫を残すために工夫された種子には、さまざまなバリエーションがあり興味がつきないが、なかでも「ツクバネ」の種子(果実)の造型は美しくも面白い。

ツクバネの種子は四枚の苞をつかって、竹とんぼのようクルクルと高速回転して宙を舞い、フワリと優しく着地する。

羽子板の羽根に似たカタチの実を結ぶその樹は、ツクバネ(突羽根・衝羽根)と呼ばれ、ハゴノキ(羽子の木)、コギノコ(胡鬼の子)の別名がある。

また、秋田の郷土史家の武藤鉄城は「羽子豆」「ハンコ豆」「山マメ」の方言を挙げ、「ハンコ豆というのは幹が印材になるからだという」とし、角館郊外にこの木が多い山があり、ハンコ豆山と呼ばれていると著している。

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古くは、羽子板は「胡鬼板・コギイタ」突羽根は「胡鬼の子・コギノコ」と呼ばれていた。「胡鬼・コギ」とは「唐土(とうど)の鬼」=「エビス(異郷)からやってくる邪気(邪鬼)」をいう。つまり羽子板とは邪気をはらう、厄除け・厄払いの儀礼に使われた「呪具・じゅぐ」(まじないの道具)であったのだ。

現在も一部の神社では、羽子板を「厄を羽根返す、羽根のける」縁起物として、新しい年の無病息災を願い頒布している。

室町時代末の『世諺問答』では、羽根つきは子供が蚊に食われないためのおまじないとしている。ムクロジの玉に鳥の羽をつけた胡鬼の子(羽根)を、蚊を食うトンボの姿に見立て、これを空につきあげてトンボの飛翔になぞらえ、蚊除けのまじないとするというのだが、正月に早春から夏の蚊のためのまじないというのはおかしいとの指摘もある。

常陸の国(茨城県)筑波山の伝説に、「伊邪那岐尊・イザナギノミコト」と「伊耶那美尊・イザナミノミコト」の夫婦神は、「日神」と「月神」の二人の子供のために、筑波山に自生する「ツクバネ」の実を採り、これを掌で打ち上げて遊ぶことを教えたとあり、これが羽根つきの起源ともいう。いずれにしろ「ツクバネ」は古代から子供らの玩具として遊ばれたに違いない。

羽子に似た「ツクバネ」は正月の茶花として用いられ、その若葉はおひたし、あえもの、若い実は煎ったり天ぷらなどで食され、地方によっては葉のついた姿のまま塩漬けにして、お節料理の添えものにする。

俳諧では「衝羽根」「つくばね」「 胡鬼の子」「羽子の木」は秋の季語。

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晩秋の陽に照らされて、てるてる坊主のようなツクバネの実がひとつだけ、落ちることなく、とり残されていたのだろうか。

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ツクバネ(いしかわ 樹木図鑑)
ツクバネ(金剛山・樹木図鑑)

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