二〇世紀ひみつ基地

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2006年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年06月

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東北の南洋・常磐ハワイアンセンター

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常夏の島ハワイが、まだまだ庶民には手の届かない、夢と憧れのパラダイスだった昭和四十年代初頭、白黒テレビジョンからは毎日のように、東北は福島に誕生したバーチャル・ハワイ「常磐ハワイアンセンター」のCMが流れていた。

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激しい太鼓のリズムにのせて腰を振り、フラを踊る腰蓑姿の女性たちの姿に、目がくぎ付けになったものだが、輝く笑顔を振りまくダンサーやそこで働く人たちが、つい最近まで炭鉱労働者と、その家族だったことなど、その時点ではまだ知る由もない。

夏・冬休みが終わった新学期、クラスの誰かが「オラ、ハワイさ行ってきたでェ」と自慢げに語る。それは100%の確率で「常磐ハワイ」なのだが、それでも皆に一目置かれ、つかの間の人気者となるのである。

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新聞広告 秋田魁新報 昭和四十三年(1968)

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テキスト部分

センター付属「常磐音楽舞踊学院」の学院生を募る広告。
六~九か月の育成期間は「月収手取り10.000円」、その後は「月収最低27.500円」という給料は、当時の公務員初任給とほぼ同額で、女性にとっては高給取りに部類する。さらに海外留学のチャンスもあるとなれば、秋田からも入学して、踊子になった女性もいたのではないだろうか。

その「常磐ハワイアンセンター」の黎明期に、炭鉱の娘たちがやがて、一流のフラダンサーに成長するまでの物語が映画化され、今夏上映される。

昭和40年、閉山に追い込まれた炭鉱の町。危機的状況の中、炭鉱で働く人々はツルハシを捨て、北国の村を常夏の楽園に変えようと立ち上がった。村の少女達は腰蓑をつけ、肌も露わに、当時誰も見たことがなかったハワイアンダンス~フラダンスを踊り始めた。彼女達の人生のために、家族のために、そして村のために。

その踊りは一大ムーブメントを巻き起こしてゆく。常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の誕生を支えた人々の涙と笑いを、癒しのハワイアンミュージックと本格的なダンスで贈る感動娯楽大作。

映画『フラガール』製作発表資料より

巨額の宣伝費を投入してメディアを操っている、ハリウッド映画「ダヴィンチ・コード」なんかに躍らされるより、こちらのほうがはるかに面白そうだ。

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関連リンク

スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)

ハワイアンズポリネシアンショーのルーツ&ヒストリー
常磐ハワイアンセンターが生まれるまで

常磐音楽舞踊学院の歩み

『フラガール』オフィシャルサイト

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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戦争に行ったモノたち・旧秋田銀行本店


秋田銀行本店営業部 大正期の絵葉書より

大町三丁目に残る明治の洋館、旧秋田銀行本店(赤れんが郷土館)の、客溜まりから営業室を撮った写真であるが、現在とはだいぶその印象が異なる。

営業室のカウンターには、ご覧のような鋳鉄製のスクリーンが設けられ、吹き抜け二階部分の四方にめぐらされた回廊もまた鋳鉄製であった。しかし、戦時中の金属供出に協力して撤去され、木製のものに取り換えられてしまう。

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スクリーン・部分拡大

楕円プレートに「五 支拂」の文字。支払い窓口だ。
内装と統一されて、優美な曲線で構成されたロココ調の唐草意匠がスクリーンに施され、いかにも明治の銀行らしき重厚感を漂わせている。

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回廊・部分拡大

当時の唐草の装飾がある回廊とくらべると、現在の木製のものが、とてもみすぼらしくみえる。

同じように戦時中に供出された、千秋公園の千秋の鐘、本丸の佐竹義尭公の銅像などは、戦後に復元されたが、旧秋田銀行本店のスクリーンと回廊が、明治の設計者たちが意図した本来の姿に戻されることはなかった。

旧営業室のカウンターには、撤去された鋳鉄製スクリーンの痕跡が、いつまでも消えぬ傷跡のように生々しく残り、遠い日の出来事を今に伝えている。

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カウンターの痕跡

終戦後、旧秋田銀行本店は米軍に接収され、第八十四軍政部が設置された。

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旧秋田銀行本店(国重要文化財)明治四十五年(1912)竣工
秋田市大町三丁目

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関連リンク

赤れんが郷土館
六月二十五日まで「写真絵葉書による懐古おもしろ写真館」開催中

| 秋田市今昔 | 19:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ライオンが殺された日・千秋公園動物園

昭和四十五年(1970)十月十九日、千秋公園の秋田市立動物園からライオンが脱走し、射殺されるという事件があった。年老いて性格も穏やかなライオンは子どもたちの人気者だった。

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秋田魁新報、朝日新聞秋田版より

十九日朝八時過ぎ、ライオンのオリを清掃した飼育係が、鍵を閉め忘れ、気がついたときには、裏手の扉からライオンが抜け出していた。

係員はすぐに秋田署と、たまたまその日は休みだった、ライオン担当の飼育員に連絡。そのころ動物園の裏、弥高神社の前で通行人がライオンのうなり声を聞き警察に通報。

ライオン係が自転車を飛ばして駆けつけたころ、ライオンは裏手の崖の上をうろつき、フェンスに体をぶつけ、ときおり吠えている。職員たちは「崖の下の住宅に行かなければいいが」と祈るばかり。

職員たちは板きれでバリケードをつくり、うしろから押すと、ライオンはフェンスづたいに歩きだし、園内の男子トイレを自分のオリと思ったのか、すんなりと入っていったため、その周囲にベンチなどでバリケードをつくる。

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園内見取り図
矢印がライオンの足取り

八時二十分頃、通報を受けた秋田署では一個小隊三十人を編成、全員帯銃、パトカー二台、大型車一台。八時三十分頃現場到着、周囲の道路を封鎖。最前線の十一人はジュラルミンの盾を手に男子トイレを囲む。

八時三十分すぎ、ニュースでライオンの脱走を知った市民に動揺が広がる。周辺の家では戸締まりを固め、郊外に脱出する人も。

八時四十分頃、千秋公園の下、今の市立図書館の場所にあった明徳小学校では、秋田署からの連絡を受け、校門を閉ざし、校庭は使用禁止、校舎内から出ないようにと児童らに厳重注意。

九時三十分頃、動物園職員、秋田市第一助役、秋田署、猟友会が集まり対策会議。どうにか生かしておきたいが、麻酔銃は凶暴化する恐れがあり使えない。トイレから飛び出し、園外に逃亡されたら、通行人や住民を襲う可能性があると判断。ライフルを使えるのはここしかないと、やむなく射殺を決定。

九時四十分頃、トイレの前、ライオンから数メートルはなれたバリケードの前に、ライフルをかまえた猟友会員四人が集まり機をうかがう。近くのオリの屋根の上では、秋田署の四人がライフルをかまえる。ライオンはときどきうなり声をあげ、顔をのぞかせている。

九時四十分頃、ライオンが顔をあげたその瞬間、ミケンをねらったライフルの弾は、その頭部にに命中。ばったりと倒れたライオンは低く最後のうなり声をあげた。つづけてとどめの銃声があたりに響く。そのとき八年間ライオンの世話をつづけてきた係員は、園内の調理室でひとり耳をふさいでいた。

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射殺直前のライオン・トイレの前で猟銃をかまえる猟友会員たち
秋田魁新報より

射殺されたライオンはアフリカ生まれの雄。昭和三十一年、夫婦で四十五万円で購入、来園後、四歳年上の雌ライオンとのあいだに、十三頭の子どもが生まれたが、そのうち八頭は購入代金の不足を補うために身売りされ、残りの五頭は秋田の冬の厳しさも影響し病死してしまう。

連れの雌ライオンは、前年の昭和四十四年、老衰のため死亡。それ以後、射殺されたライオンも衰えをみせ、秋も深まり気温が下がってきた最近は、今年の冬を無事に越せるかと職員を心配させていた矢先のできごとであった。

十月二十日、動物園のかたすみに、職員の手によりライオンの墓がつくられた。杉板に「ライオンの墓」と墨書し、その根元には白い石がひとつ置かれ、職員たちの知らぬまにライオンのオリの前に置かれていたロウソクと花が供えられた。

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旧児童動物園・ライオンのオリ付近

オリの裏口を抜けたライオンは、右手にフェンスがある崖の上をうろつき、写真の正面にあったトイレに追い込まれた。

ライオンが射殺された旧トイレの付近に、由来不明の石組みが残されている。

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これはライオンの墓の名残、もしくは、その後につくられた動物の慰霊碑の跡なのだろうか。その地下には今も、ライオンの遺骨が眠りつづけているのかもしれない。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:30 | comments:11 | trackbacks:0 | TOP↑

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樅の木は残った・千秋公園


「千秋公園舊馬場ノ景」と題された大正初期の絵葉書より

季節は夏だろうか、大正から昭和初期にかけて流行した、麦藁のカンカン帽をかぶった着流しの男たちが、旧馬場の並木道を歩いている。

場所は千秋公園二の丸、旧児童動物園から弥高神社のあたり。並木はモミの木。

藩政時代、この一帯には、厩(うまや)役所、厩、馬場(馬術訓練コース)があり、馬場の両側にはモミの木が植えられていた。

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秋田市千秋公園鳥瞰図より(発行・昭和十年頃)

馬場のモミ並木は、旧児童動物園の一部を通って、えびや食堂、弥高神社社務所から、レストラン裏の竹林のあたりまで伸びているのが、この鳥瞰図からみてとれる。図では「梅園」となっている馬場の東側には厩があったという。

ちなみに、弥高神社はもともと広小路のカワイ楽器の地にあったが、そこに新たに県立図書館が建設されることになり、大正五年、現在地に遷されている。

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突当りに土手がある旧馬場は、弓場に最適な環境だった。

昭和二十五年(1950)、旧馬場跡に児童動物園が開園。
そのころまでは、モミ並木の一部も保存されていたようだが、次第に立ち枯れが進み、現在は旧動物園のなかに、たった一本だけ生き残り、市の保存樹に指定されている。

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保存樹・馬場のモミ

寒冷地のモミは、成育が早く寿命が短いが、馬場のモミが特にその傾向が顕著な理由として、蒸気機関車の煤煙、動物園になってからは人通りが激しく、根土が踏み固められ、樹木の生長が阻害されたためではないかといわれている。

| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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昭和色のネオン・タクシーあさひ


2003.07

駅からポポロードを進み、かつては金座街があった買い物広場を横切り、アーケードを抜けると、右手に昭和レトロ建築「タクシーあさひ」。会社が創立された昭和二十七年ころの建築と思われる。

周囲の景観はいちじるしく変化しても、部分的に改装されてこそいるが、ここだけは昔と変わらぬ姿をみせていた、なじみ深き建物も、とうとう取り壊されて新築となった。

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2006.5

二階が「あさひタクシー本社」、一階のテナントには、稲庭饂飩の「無限堂」が入っている。上肴町の大町店と同じく、白壁土蔵風の外装だ。

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2004.02 仲小路から駅方向を望む

一階に噴水があったレストラン「ニューたけや」も、築四十年以上の古い建物だが、内外装のリフォームと、アーケードに隠れているためもあって、あまり時代を感じさせない。

「ニューたけや」が開業する以前、この場所には「たけや製パン」の二代目社屋があり、間近の銀座街にあった初代社屋兼店舗の方は「たけや製パン洋菓子部」の売店となっていた。

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二〇世紀ひみつ基地 銀座街・消えた駅前小路


| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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川反五丁目小路・定点観察


2004.03

川反に残された小路で、もっとも奥行きがある「五丁目小路」。
その入口を飾っていた、昭和の香り漂う看板が外されたのは昨年末のこと。

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2005.11

最近になって小路の北側の長屋が取り壊された。

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2006.05

その跡地にはビルが建つのだという。
南側はすでにビルになっており、古きよき小路の面影もしだいに薄れてゆく。

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2004.03
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2004.03
看板の裏側

| 散歩写真・路上観察 | 20:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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千秋公園・秋田招魂社


秋田市 千秋公園内 招魂社(大正期)

千秋公園お隅櫓の下、本丸の北側にあった招魂社。

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勝平得之「招魂社」(千秋公園八景)昭和八年

明治二年(1869)、戊辰戦争の官軍戦没者をまつるため、秋田市寺内・高清水の丘に建立される。

明治二十六年(1893)、火災により焼失し、翌二十七年仮殿を建てる。
明治三十二年(1899)、千秋公園に再建される。

昭和十四年(1939)、招魂杜は内務大臣指定「秋田県護国神杜」と改称され、翌十五年、再び元の高清水に遷された。
大東亜戦争における郷土戦没者の霊(みたま)、三万八千余柱を合祀。

平成二年(1990)、即位の礼に反対する過激派による、放火という暴挙により全焼。
平成四年(1992)、現在の社殿を再建する。

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現在の同地点

突当りの杉林の中央(元招魂社の裏)には、戦後、人工の滝が造られた。


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「秋田招魂社」跡




| 秋田市今昔 | 21:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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川反四丁目夜景


昭和三十年頃の絵葉書から

右手に「都鳥」、左手の店には「若葉」の行灯看板。
昭和三十年度版『商工名鑑』によれば、「都鳥」は川反四丁目となっているが、四丁目のどこにあたるのかは分からない。

カラー写真が印刷物に使われるのは昭和三十八年ころから。
それまで行われていた、モノクロ写真を元に色分解した着色印刷は、絵画のようなレトロな味わいがあるのが特徴である。

この写真の原版には、雲も月も、二人の芸妓も写ってない。芸妓は合成、雲と月、それに放射される車のライトは、製版段階において職人が描いたもの。

月の下に光るのは、安兵衛旅館が経営した寿司屋「安兵衛」のネオン。

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川反五丁目雪景
川反情緒・風景を読む
川反に土手があったころ


| 秋田市今昔 | 23:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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子供の日、金魚貰いに木内へ

子供の日といえば、デパートや商店では金魚やヒヨコを用意して、子どもたちにプレゼントするのが恒例だった時代、その日を心待ちにしていた子どもたちは、朝早く起きて開店前から行列をつくった。

昭和二十九年の秋田魁新報には、子供の日の数日前から「木内」が子どもの心をときめかせる広告をだしている。

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新聞広告 昭和二十九年(1954)

牧歌的なイラストが、のどかな時代の雰囲気をよく伝えている。

この秀逸なイラストの作者は、昭和二十年代の末から三十年代の初めにかけて、魁誌上の広告で活躍しているのだが、他の広告や、それ以後の広告が色褪せてみえるほどの力量はただ者ではない。

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新聞広告 昭和二十九年(1954)

「今晩7時30分より広小路堀端に於て当店の仕掛花火を行います(雨天中止)」の文字がある。

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新聞広告 昭和二十九年(1954)

待ちに待った五日の朝、木内の広告にハサミを入れて握りしめ、木内デパートへと走る。「父さんが読んでからにしなさい」と叱られた子どももいたに違いない。

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金魚のぼり

当日の様子を伝える秋田魁新報によれば、木内デパートのほかに三店が、金魚一万匹を用意し、早朝から約五千名の子どもが長蛇の列をつくる賑わいぶり。早い子は五時に並んだ。五千匹の金魚を用意した木内デパートでは、行列が1000メートルにもおよび、整理の店員は大忙し。応援の警察官がでる騒ぎであったという。

他の店にも並び、数匹のかわいい金魚を手にして、水をこぼさぬようにと気をつけながら家路を急ぐ、子供らの姿が眼に浮かぶ。

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貰ひ来る茶碗の中の金魚かな 内藤鳴雪

午後からは、みんなで千秋公園の児童動物園に行こう。今日は小学生以下は無料だから。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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