二〇世紀ひみつ基地

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2006年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年04月

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お堀の下を歩く・秋田中央道路

約五年におよぶ「秋田中央道路」の、千秋公園「大手門堀」における水抜き掘削工事も完了し、大きく景観を損ねていた工事用桟橋も撤去されてスッキリ。まだ水の濁りがはげしいが、手形に移植されていた蓮が植えられれば、ようやくもとの姿にもどることになる。

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工事中の大手門堀 2004.10

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桟橋が撤去された大手門堀

右手の青いシートでおおわれたビルは、マルサン跡に建設中のホテル。真ん中に写るホテルハワイの東隣でもホテル建設中。かつての商業中心地の周辺には、ホテルとマンションばかりが幅を利かせている。

さる三月十九日には「大手門堀」の直下約20メートルにおいて、シールドマシン(掘削機)が一般公開された。マシンには、秋田名物「きりたんぽ」をもじった「ほりたんぽ君」という、なんとも間の抜けた脱力系の愛称がつけられている。

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仲小路側の地下道入口

道路をはさんだ右手に「キャッスルホテル(旧・第一ホテル)」、左手の白い建物は「スタジオパレットビル(旧・長崎屋)」。この工事のために「スタジオパレットビル」から西側の「モリタカバン」から「ヒラノビル」までの五棟のビルが撤去され、広小路の空洞化にさらなる拍車をかけることになってしまった。

入口を進み広小路の下を通って「大手門堀」の直下に向かうと、そこには巨大なシールドマシン。

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さらに進んだつきあたりには、秋田駅裏からシールドマシンが掘り進んできたトンネル。

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駅方面を望む

お堀の下だけがシールドマシンを使わない箱形構造になっているのだが、ここがお堀の水を抜いて掘り下げたトンネルだといわれてもなんだか実感がわかない。

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トンネル内の防火壁に記念の落書き

さきほど降りてきた入口の隣には、これからシールドマシンが山王方面へと掘り進むことになる穴が。

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山王方面を望む

平成十九年「秋田わか杉国体」までの完成を目指す工事の総事業費は約七百億円という巨額。それだけの経済効果が望めるわけもなく、土建屋が潤うだけの箱物工事には着工前は反対運動もあり、「秋田中央道路建設の賛否を問う市民の会」は、有権者の五十分の一を上回る署名を集め住民投票の実施を請求したが、当時の石川市長は「中央道路は渋滞緩和や市街地活性化に必要」との意見書を提出、住民投票請求は秋田市議会により、あえなく否決された経緯がある。

あまりにもあっけない市議会の対応と「市街地活性化に必要」などという市長のとぼけた言い草に、市民から「どうせ金を握らされたんだべ」との声があがったものだ。はたしてこの事業は、後年どのような評価を受けるのだろうか。

関連リンク
秋田中央道路オフィシャルサイト

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フラフープでふぅらふら

昭和三十年代、世界的な大ブームを巻き起こしたフラフープ。その名は、輪のなかに体を入れ、フラダンスのように腰をグラインドさせることからきている。

フラフープの起源はオーストラリア原住民が遊んでいた木製の輪だという。昭和三十三年(1958)、それにヒントを得たアメリカのおもちゃ会社が、硬質プラスチックのチューブを使い製品化したところ、発売四ヶ月で二千五百万本を売上げる大ヒット。

欧米を席巻したフラフープは、その年の秋には日本上陸を果たす。
十月十七日、フラフープ試演会が帝国ホテルで開かれ、翌十八日、都内各デパートから一斉発売。

積水化学の硬質ポリエチレン管を、アメリカの製造元が加工し、貿易会社が総販売代理店となって売りだしたもので、90cmサイズ・一本二百七十円、子ども用は二百円。ラーメン一杯四十円(都内)の時代、決して安い買い物ではなかったが、日本でも爆発的なブームとなり、デパートの前には、早朝からフラフープを求める長い行列ができた。

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西銀座デパートでのフラフープコンテスト 

発売当初の日産は二万数千本で、生産が需要に追いつかない。製品が手に入らない小売店では、ポリエチレホースをつないで輪にしたり、水道管に使う塩化ビニールの管を利用して売ったという。

やがて、おそらくは大概が不正規製品と思われるが、国内メーカーでも生産を開始。硬質ポリエチレンのチューブを輪にして色を塗るだけ、原料費九十円、小売り二百七十円前後だから笑いが止まらない。メーカーには現金を持った問屋が日参し、出来た尻から運びだす。

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フラフープが秋田市に入ってきたのが十一月八日ころ、数日前からから予約しないと買えず、デパートには一日百件におよぶ問い合わせ電話が鳴り、市内だけで一日二、三千本は売れたという。職場単位でのまとめ買いも多く、昼休みにはフラフープを回すサラリーマンやOLの姿がみられた。

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なんと秋田市茨島にも製造工場があった

老若男女がフラフープに興じて腰をゆらし、ストリッパーはステージ上でフラフープを披露。はてには歌舞伎役者がフラフープを回しながら花道を退場し、文楽人形にミニチュアのフラフープを回させたりと、まさに国民的なフィーバー状態。

そんな中、都内でフラフープに熱中していた十五歳の少年が、突然胃の激痛を訴えて病院に運ばれ、緊急手術。少年はもともと胃潰瘍を患っており、フラフープで遊んでいるうちに、腹圧で患部(胃)が破れてしまったという。

その後も同様な健康被害があいつぎ、秋田市でも、十二月一日、上米町のM君(七歳)が自宅付近でフラフープ遊びをしているうちに急に苦しみだし、病院に運ばれ一時間後に死亡。

診察した医師によれば、「死因は心臓マヒだが、顔にむくみがあり、腹部が張っていたので腎臓も悪かったと思う。フラフープと直接結びつけることはできないが、過労から隠れていた病気が出てくることは十分考えられる」とのこと。

さらにはフラフープに夢中になっているうちに、車にはねられる事故、フラフープの継ぎ目がはずれて眼を突く事故などがかさなり、警察庁保安局は、路上のフラフープを禁止したいとの勧告、各教育委員会では学校に警告を出し指導に乗りだした。ちなみに秋田県教育委員会でも、十一月下旬「学校への持ち込み禁止」令をだしている。

このような事故や健康被害はフラフープの普及率の高さを物語るものであり、フラフープそのものには罪はないのだが、「フラフープをやり過ぎると腸捻転になる」という根も葉もないデマも流され、全国を席巻したフラフープブームは急速に沈静化し、メーカーと問屋には在庫の山が残されることになった。

単純な遊びのためにあきられるのが早かったのも原因だが、東京方面では、約五週間、秋田では約四週間という異例の短さのフラフープブームだった。短く熱狂的なブームのあとの急速な沈静化というパターンは海外においても変わらない。

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フラフープに穴を開け水を通して噴水にする、在庫の山をかかえたメーカーはこんな商品を売り出した。自宅で死蔵されているフラフープも別売りのフープチーズを買って加工すれば、たちまちフープシャワーに。こんなもん売れるわけがない。

ブーム最盛期のはっきりとした記憶は無いのだが、家には数本のフラフープがあって、たまに姉たちが遊んでいた。児童公園のかたすみの花壇には、切り離されてカラフルなフラフープが、柵として再利用されて余生を送っていたのを思いだす。

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検便の朝の憂うつ

小学校低学年のころの「検便」容器は、自宅で使ったマッチの空き箱だった。

検便につかうウンコは、その朝生まれたての新鮮なものでなくてはならない。
提出日の朝は新聞紙と割りばしを手に、汲取り便所に向い、しゃがんだ尻の下に新聞紙を両手で持ってりきむ。ウンコを少し受け取とると両手に重さが伝わってくる。それを脇に置き、残りのウンコをひねりだしたあと、新聞紙に乗ったウンコから割りばしで親指ほどの大きさをつまみだしマッチ箱に収納する。


ウンコがでかすぎ

自分の分身であるウンコを、これほど間近でをじっくりと眺める機会はめったにない。一般家庭には洋式便所などなく、足下にブラックホールのごとき暗闇が広がる汲取り便所があたりまえの時代だったからなおさらのこと。

ウンコを柿の葉などの厚めの木の葉のせてから、マッチ箱に入れる場合もあるらしく、さらに時代をさかのぼると、ハマグリの容器が使われたという。

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マッチ箱の検便容器

くだんのマッチ箱はビニール袋に入れ、しっかりと口を結わえてランドセルに忍ばせ学校に向かう。いくらしっかりと密閉したつもりでも、所詮は気密性のないマッチ箱のこと、その朝の教室には、約五十人のウンコがブレンドされて微妙なフレーバーを醸しだしていた。

三年生になるころには、マッチ箱からブリキの容器に変わった。直径三センチほどのそれは、缶詰かなにかのリサイクル品で、蓋を開けると鮮やかな模様や文字が刷りこまれていた。ブリキ製の容器はその後、より気密性を高めた、オロナイン軟膏の携帯容器のようなプラスチック製に変わった。

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ブリキのリサイクル検便容器

高度経済成長のさ中、農業は糞尿肥料から化学肥料への転換が進み、寄生虫の保有率は低下し、中学生になるころには検便は廃止され、肛門に貼るシール式のぎょう虫検査にとって代わる。

生活水準の向上による寄生虫保有率の低下とともに、花粉症やアトピーなどのアレルギー疾患が増加していく。体内に寄生虫が居るとアレルギーになる確率が低下するという研究があるが、もしそれが真実ならばなんとも皮肉なお話である。

検便の朝に、いくらがんばってもウンコが出ないため、家族から借りたとか、飼い犬のポチのモノを入れたのが発覚して叱られたとか、大きな徳用マッチ箱いっぱいに詰めこんで持ってきたヤツがいたとか、検便にまつわるうわさ話は、同時代の子どもたちには共通の話題だった。

検便で寄生虫の卵が発見されると、虫下しの薬を飲まされる。
いつだったか、それを飲んだ翌朝から緑色のウンコが出たことがあった。これには驚いて、「自分は死ぬんだ」という、わけのわからぬ妄想にとりつかれた間抜けな少年は、しばらくのあいだ絶望の日々を送ったのだ。

今思えば、微妙な年頃の女子にとって、検便提出日ほど気恥ずかしく憂うつな朝はなかったのではなかろうか。

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我家のマッチは「ひよこ」のラベル

マッチは日常生活の必需品だった。
食事の支度もストーブに火を付けるのも、煙草を吸うのもマッチがなくては始まらない。製造メーカーも多く、販売店が新聞広告を打つほどの主力商品だった。


昭和二十六年 新聞広告

経木と紙で出来ていたマッチ箱が、昭和二十九年ころから引きだし(中箱)が紙製の小箱に、昭和三十一ころには外箱も紙製に切り替えが始まったというが、昭和三十年代にはまだ経木のマッチ箱が流通していた。

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昭和二十七 新聞広告

マッチの商標(ラベル)には「カモメ」「馬蹄に馬」「御所車」などがあったが、我家ではもっぱら「ひよこ」のマッチを使っていた。

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物心がつかぬうちから身近にあって、毎日目にしていた「ひよこ」のマッチ。そのラベルは、黒地に黄色の「ひよこ」が目をひく、シンプルでありながらインパクトのあるグッドデザイン。なによりも「ひよこ」が愛らしく、かつ暖かみを感じさせるものに仕上がっている。そんな「ひよこ」のラベルが好きだ。

銀行や飲食店が無料で配る広告マッチの需要が大きく、戦後日本のマッチ生産量は昭和四十八年(1973)に八十万マッチトン*となるも、百円ライターが出現した昭和五十年(1975)以降は激減し、現在の生産量は最盛期の二十分の一という。

*マッチトン
並型マッチ(56×36×17mm)7.200個を1マッチトンとするマッチの計量単位。

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川反検番と「あげや」の跡



すずらん通りの「さんや食堂」と郷土料理「芝良久」にはさまれた「秋田市料亭会館」一階にあった「あげや」は、1960年代末に開業した市内では珍しい揚物専門店だったが、昨年の六月で店を閉じてしまった。

「あげや」の主人が「レストラン朝日亭」でコックをしていたときに習得したというカツ丼は、醤油ベースの味付けは甘めのカツに、タケノコのスライスとグリーンピースが添えられた、他ではお目にかかれない一品。

「レストラン朝日亭」といえば、かつて川反にその名を轟かせた、あの朝日興産グループが経営していた食堂。「あげや」のカツ丼は、朝日亭の味をそのまま今に伝えた、あの時代を知るものにとってはなつかしき味だったのだ。

三階建ての「秋田市料亭会館」の一室には「検番」があった。
「検番」は芸妓(芸者)と料亭とを取り次ぎ、送迎、花代の精算などをする場所。

昭和二十八年、川反芸妓による花代値上げ騒動が勃発。「秋田検番」に所属していた二十人が、料亭組合に対して花代の値上げを求めるも交渉は決裂に終わる。

花代値上げを要求した芸妓たちは、従来の置屋制度では中間搾取され、働きやすい職場にはならないと「新検番」創設して「秋田検番」から独立した。

昭和三十年代から四十年代には五十人を越え、年間三十億円もの水揚があった川反芸妓も、料亭の消滅、コンパニオンと称する芸の無い素人の登場など、時代の波に押されて減少し、「秋田検番」と「新検番」は、諸経費の節約のために平成四年に合併。事務所は「秋田市料亭会館」の一室があてられた。川反の最盛期であった大正期には三百人近くも居た川反芸妓も、平成四年には十一人になっていた。

川反花柳界の歴史の最後の一コマだった「秋田市料亭会館」の看板も姿を消し、その跡には仙台の風俗情報提供会社が経営する「情報館あきた店」が入居している。

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復刻版「羊羹あんぱん」たけや製パン

たけや製パンから、こし餡のあんパンに、羊羹の生地がコーティングされた、なつかしの「羊羹あんぱん」が復刻された。



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その風情が以前に掲載した、子供のころの「記憶の中の羊羹パン」のイラストによく似ていて、パンが並ぶ棚の前で思わず微笑んでしまった。

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復刻版「エンゼル」たけや製パン

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「金萬」から「銀萬」新発売!

昭和三十五年(1960)の春三月、秋田駅前の金萬から、開店五周年を記念して「金萬」の姉妹菓子「銀萬」が発売された。ここでいう「開店五周年」とは、店名を「金萬」と改めてから五年目という意味だろう。



「金萬」の初期の商品名は「金万」であったが、この時代は両方の名称が混在している。

美と健康の元・ローヤルゼリーを練り込んで、価格は一個十円。
「金萬」のほうは十五円か二十円だろうか。

三十年代の半ばといえば、ラーメン一杯が四十五円(東京都内)、「金萬」よりも大きくて食べごたえのある大判焼きが十円、秋田駅前、鎌田の「酒まんじゅう」も十円の時代。「銀萬」の登場は、庶民派の大判焼きや「酒まんじゅう」に対抗する意味合いもあったのではないだろうか。

この広告は、昭和天皇の第五皇女・清宮(すがのみや)御成婚記念の集合広告の一部だが、それを記念して発売されたのではなく、たまたまタイミングが合っただけだろう。

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写真は当時の実演販売の様子。しかし、その製造機器は「金萬」のものではなく、大判焼きの機械のようにみえる。これが「銀萬」の製造風景だとしたら、それは大判焼きのような大きなものだった可能性もある。だとすれば、広告にもその大きさをアピールするコピーがあってしかるべきだが‥‥‥。

この広告以降「銀萬」の文字は見られないことから、きわめて短期間の販売だったと思われる。

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| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 18:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秋田名物「猿貝焼」のお話

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秋田では猿を貝焼(鍋物)にして食べる習慣が古くからあり、市民市場や魚屋に行けば新鮮な猿肉をいつでも買い求めることができる。

脂の乗った厳冬期から木の芽を主食とする春先の猿の味は格別だ。フォアグラのような脳味噌の濃厚でありながら、サッパリとした味も食通をうならせる。猿肉は体が温まり、子どもの夜尿症にも効果があると伝えられている。

‥‥などというホラ話はさておき、南秋田、秋田、仙北周辺に分布する「さるかやぎ」というユニークな方言は、「ばか者め!」とか「畜生!この野郎め!」というニュアンスの罵倒語であり、また、軽はずみなお調子者に対しても「この、さるかやぎ!」と使われる言葉である。

この方言には元々「猿を貝焼にして食べるような人で無し」というような意味合いがあるのではと考えていたが、『語源探求 秋田方言辞典』(編著・中山建)によれば、その語源は江戸語の「猿返・さるっかえり」という、玩具の飛人形に猿を用いたものにあり、それが転じて、軽佻浮薄な人をののしって言う語になったものとし、「サルッカエリ→サルカヤリ→サルカヤキ」と変遷したと考察している。

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「飛人形」という玩具は「とんだりはねたり」などの別名をもつ江戸玩具で、浅草名物として江戸中でもてはやされた人気の玩具だったという。

今も浅草では復活された「飛人形」が売られているが、その構造は、張り子のつくりものをのせた割竹の下部に仕掛けた竹片をうしろに回し、ニカワ(粘着剤)で止め、下に置き、しばらくすると仕掛がはじけて、突然飛び上がり宙返りするというもの。

張り子のつくりものは、猿や兎などの動物もののほか、人物をかたどった役者ものがあり、その人形にかぶりものをかぶせた「亀山のお化け」と呼ばれる「飛人形」は、仕掛がはじけて飛びあがったとき、かぶりものがはずれて、いろいろな動物などの姿が現れるという趣向をこらしたものであった。

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猿の「飛人形」想像図

猿を題材にした「飛人形」は見たことがない。この想像図は古い役者ものの「飛人形」の写真を参考にし、人間の顔を猿に変えて描いたもので、うしろにあるのがかぶりもの。

もうひとつ、これは自説だが、秋田・青森方面には「けやぐ」という方言があって、実際に聞くと「かやぎ」に限りなく近い発音である。

「けやぐ」は「契約」が語源で、親友とか仲間を意味する言葉。だから、「さるかやぎ」は「猿契約」が語源で、「猿の仲間」=「猿と同類」=「畜生」と、人を卑下する言葉だった可能性はないものだろうか。

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土崎出身の劇作家・金子洋文は『牝鶏』のなかで、「畜生ッ、畜生ッ、手前のやうなごろつき出て行きゃがれ、一刻も早く出て行きやがれ、この猿鍋(さるかやき)」と故郷の方言を使っている。さすが「さるかやぎ」の本場、土崎の湊っ子・洋文先生はその使い方も的確である。

最近マスコミを賑わせた、民主党の永田とかいう若造と、その取り巻き連中も「さるかやぎ!」と呼ぶにふさわしい。

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立体音楽堂・カーネギーホール

かつて名曲喫茶の時代があった。

東京の繁華街に名曲喫茶が雨後の筍のように誕生したのは、長時間連続演奏が可能なLPレコードが流通しはじめた終戦間もないころ。荒廃の傷跡が残る街の片隅で、名曲喫茶は音楽に飢えた人々に、音と香りによる安らぎの時空間を提供した。

その当時、レコードは非常に高価で数も少なく、それを再生する音響装置は庶民に手の届くものではなかったが、名曲喫茶に行けば一杯のコーヒーで何時間でもクラシック音楽に身を委ねることができたのだから音楽好きにはたまらない。リクエストで自分の好きなレコードを聴くこともできる。定期的に解説つきのレコードコンサートを開く店もあった。

昭和三十六(1961)年十一月、秋田市に本格的な名曲喫茶が誕生した。その名も「立体音楽堂*・カーネギーホール」。場所は映画街が賑わいをみせていた有楽町通りの東。

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昭和三十六(1961)

斬新な外観と都会的ムードが漂う「カーネギーホール」は、たちまちのうちに話題になり、クラシックファンだけではなく、多くの若者が集う人気のスポットになる。

翌三十七年(1962)には大町の名店街二階に支店を開設。

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昭和三十七(1962)

名曲喫茶の全盛時代は、昭和二十年代後半から三十年代にかけてのこと、三十年代も後半になると、ステレを装置が一般家庭に普及しはじめ、名曲喫茶に足を運ばなくとも自宅でレコードを聴くことができるようになった。さらにはジャズブームなど音楽ジャンルの多様化も影響し、昭和四十年後半には名曲喫茶の時代は終焉を迎える。

有楽町の「カーネギーホール」は現在、スペイン料理「道化の館」になっている。

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道化の館
昭和レトロ建築・旧カーネギーホール
地上三階、地下一階

この店が開店したのは、80年代のはじめ。
入口のテントとレンガ装飾が加わったほかは、建物はそのままだ。

有楽町の「カーネギーホール」のことを、常連だった兄が「雰囲気の良い隠れ家のような場所」と熱く語っていたのは、60年代の後半だった。まだ中学生の自分にとっては、いつかは行ってみたいあこがれの存在だったが、なにか若造を拒むような雰囲気もあって、とうとう入ることもなく、伝説の名曲喫茶は閉店してしまう。名店街支店には70年代末に何度か入ったことがあるが、すでにふつうの喫茶店になっていた。

「カーネギーホール」の通りには、「ムーラン劇場」というストリップ劇場があった。小屋の入口に置かれた、裸体が描かれた大きな看板や、外で一服するストリップ嬢(若めのお姉さんもいたが中年以上のおばさんが多かった)の姿は中学生のガキには眼の毒であったが、ここもまた、大人になったら入ってみたい、あこがれの場所だった。

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*「立体音楽堂」とは

昭和二十年代後半、NHKではラジオ第一・第二放送による立体放送の実験を始める。たとえば、第一放送が左チャンネルの音声、第二放送は右チャンネルの音声をそれぞれ放送し、聴取者は二つのラジオを並べて立体放送を楽しむというものだった。

昭和二十九年(1954)NHK第一・第二放送で、世界初の立体放送による、日曜昼の定時番組放送開始。その番組名が「立体音楽堂」。放送は1960年代半ばまで続けられた。

立体ラジオ放送「立体音楽堂」の冒頭は、「この放送を立体放送としてお聞きになる場合は、二台の受信機をご用意ください。一台を第一放送、二台目を第二放送の周波数に合わせ、それぞれの受信機を結ぶ線の、ちょうど三角形の頂点の位置でお聞きになり、私の声が真中から聞こえるように調節してください」というアナウンスではじまり、バランス調節のために蒸気機関車が走り去る音などが流されたという。クラシックのほかに放送劇なども放送している。

ステレオということばが、まだ市民権を得ていない時代から始まった「立体音楽堂」は、オーディオマニアやクラシックファンにとっては特別な存在であり、そのタイトルは立体音響を象徴するものであったのだ。

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名曲喫茶・ライオン
昭和元年創業の老舗

東京遺産・名曲喫茶・ライオン

名曲喫茶スカラ座・最終日前日
新宿にあった名曲喫茶の在りし日

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