二〇世紀ひみつ基地

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2006年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年03月

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ぼくのえ日き じどう車のおすし

二月二五日(土よう日) 晴れ

夕がた 母さんといっしょに とおり町の せきや いったら
じどう車のもようの ふとまきずしがあったので かってもらいました。

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まどがキュウリで ライトがニンジンです。
ほかには 花のもようのもありました。

みせの中には ひなまつりの おすしが かざられていました。

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せきや・秋田市通町

| 食材・食文化 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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我家の明かりは北光ランプ

小学校の最初の社会見学は、秋田市南通宮田、大堰端沿いの「北光ランプ」だった。「北光電球株式会社」というのが正式な社名だが、みんながそう呼んでいたのは、工場正面に大きく印されていた「北光ランプ」の文字を見慣れていたせいだと思う。

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昭和四十年ころ

学校から歩いて一〇分ほどの「北光ランプ」の入口には、堰が流れ小さな橋が架かっていた。工場は子どもの目からすればとても広く、ガラス溶解炉の炎の赤さが強く記憶に刻まれている。

「北光電球株式会社」は、昭和二十一年「東京芝浦電気株式会社(東芝)秋田工場」として発足。

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昭和二十五年(1950)広告

「粗悪電球はタダで貰っても損です」というほど、ちまたに粗悪品があふれていた時代。「我國」「電氣」など旧字まじりの文面が時代を感じさせる。

電球の頭に印刷されていた「北光」マークは、外側の丸枠が「マツダランプ」(東芝製)と同じ。「北光」の文字を「マツダ」に変えると「マツダランプ」になる。秋田工場では「マツダ」ブランドの電球を作り、地元営業エリアで販売するものを「北光」ブランドとして販売していた。

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昭和二十六年(1951)広告

昭和二十六年、GHQによる過度経済力集中排除法によって、東芝から分離独立。
東北電力株式会社および、地元の資本参加を得て「北光電球株式会社」を設立、資本金は五百万円。

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昭和四十三年(1968)広告

県民にはなじみ深い「北光」ブランドのランプも、昭和四十七年、製造をやめてしまう。

昭和四十七年(1972)一般照明用電球の製造中止。
昭和四十九年(1974)株式会社東芝の関連会社となり社名を「北光電子株式会社」に変更。
昭和五十七年(1982)本社工場を天王へ移転。
昭和五十九年(1984)株式会社トーキン(現在のNECトーキン株式会社)の関連会社となる。

「北光ランプ」では、電化製品や自動車の部品に使うフェライトマグネットも製造していたため、敷地内にはリング状のものなど、さまざまな形状のマグネットが転がっていた。

小学校のころ、工場に忍び込んで、そのマグネットを集めるのがブームになった時期があった。これは集めるというよりは盗むというほうが正確だが、誰でも入れる建物の周囲にまで落ちていたので、拾い集める感覚であり、また工員から直接貰うこともあったのは、セキュリティが万全な現代では考えられないこと。同級生の兄が工場深く侵入し、顔面に大きな火傷を負うという事件もあった。

「北光ランプ」の隣りは市営宮田グランド。学童野球などの会場としても使われ、行事の無い日は自由に遊ぶことができたグランドでは、夏には大きな盆踊り大会が二日にわたって開催され賑わいをみせていた。

南北に配水用の堰が伸びていた大堰端も、今は暗渠になり、「北光ランプ」があった場所には、南中学校が建ち、宮田グランドはそのグランドとなっている。

小学校の社会見学のとき、おみやげに貰ったのは、北光マークの電球だったか、それともマグネットセットだったろうか。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

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招き猫昨夜の客をニャンとした


昭和二十四年 広告

戦後まもない時代の、川反「左の左」の小粋な広告。「左の左」と書いて「さのさ」と読む。

川柳風のコピーが可愛く、かつ艶っぽくもある。「まねぎねこ」と秋田訛りなのも良い。

うしろを向いた猫の尻尾は、歳を重ねた化け猫のように二股に割れている。さては老練な雌猫だな。招き猫、昨夜の客を・・・

ほかにはこんなのも。

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昭和二十二年 広告

これが初の広告と思われる。「左の左」と書いて「サノサ」と読ませることを、さりげなく示しているのが心憎い。

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昭和二十四年 広告

可笑しくてセンスのあるコピーが人の眼を惹きつける。

「左の左」の川柳広告シリーズに、昭和二十年代秋田新聞広告賞を贈呈したい。賞品は猫がうっとりとしてしまうマタタビにしよう。

「左の左」があったのは「第一会館 川反店」の場所、明治末、この地に市内唯一の寄席「娯楽館」開業、その後映画館となるが、大東亜戦争末期に建物疎開により取り壊される。

戦後になって、その映画館で活動弁士(無声映画の解説者)として活躍していた森昭という人が、料亭「左の左」を開業したのだという。これらの洒脱なコピーも、この人物の手によるものなのかも知れない。

| 広告・印刷物 | 12:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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キミは協働社タワーに昇ったか?


協働社ビルの屋上にそびえるタワー
昭和四十三年(1968)広告より

「いやぁー、180度パノラマの協働社タワーは見晴らしが良かったなぁ」と言いたいところだが、この時代、毎日のように広小路で遊んでいたのに、こんなものを見た記憶もなく、その存在を知る人もいない。

浅利社長の計画は「地上80mの塔の最上部には戦死者を弔うために観音さまを安置し、完成したら秋田市の名物がひとつ増える」というものだった。80mといえば、本金タワーよりも高く、1970年に完成する県内一の高層ビルであった山王の秋田銀行本店をはるかに越える高さ。

当時の協働社は東北一円に支店を拡げつづけていた、資金には事欠かなかった時期であり、協働社タワーがまぼろしに終わったのは、構造上に無理があったためではなかろうか。

このイラストは、60年代末、約二年間にわたって使用されている。角地にある建物は第一生命ビル。後にこの場所も協働社が買い、平屋の売り場を増築した。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 23:00 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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土曜の午後はサテライトスタジオで

広小路が放課後の遊び場だった中高生のころ、半ドンの土曜の午後は、協働社へ行ってサテライトスタジオを見物するのが定番のコースだった。

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協働社ビルの二階への階段を上ってすぐ、天井にぶらさがるように設置された、ガラス張りのサテライトスタジオ、そこからは秋田放送のラジオ番組が生中継されていた。

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昭和四十二年(1967)広告

秋田にただひとつの“音のショーウインドー”
<秋田放送・協働社サテライトスタジオ>
音楽・クイズ・リクエストでつづる楽しい30分番組
毎週 日曜・火曜・木曜・土曜日 2:00PM~2:30PM

写真/大映スター 姿美千子・倉石功
を招いてのサテライトアワー(昭和39年1月)1964

姿美千子は1960年代の女優。現役俳優の倉石功との共演は、昭和三十八年、舟木一夫主演「高校三年生」がある。映画スターがゲストということで、店内は鈴なりの見物客でごったがえしている。

時はアイビーファッションの全盛期。石津謙介の「VAN」と、女性版アイビールックの「エフエル」、どちらも、この時点では協働社が県内随一の特約店。

昭和三十八(1963)年八月、協働社・広小路本店オープン。その年の十二月二十四日、サテライトスタジオが開局し、第一回目の「サテライトアワー」が放送された。当初は日曜と水曜の午後二時からの一時間番組で、司会は、神永光と柏木椒子。

ラジオの新しい魅力
サテライト・アワー

【秋田放送二・〇〇】新鮮なアイデアに富む番組が生まれ、聴取者を引き寄せ、リアルなコマーシャルができる画期的なラジオのスタジオ「サテライト・スタジオ」が開設する。このサテライト・スタジオは、秋田市広小路にある協働社ビル内に設置したもので、ガラス張りで常時いろいろな照明でいろどられるウインドー形式のスタジオ。いわば音と光りのショーウインドーである。放送形式は、これまでの放送局のスタジオをそのまま局外に出したもので、アナウンサー、プロデューサー、ミキサーがスタジオにはいり、サテライトの最大の魅力“通行人が番組に参加する”。

開設を記念して第一回のサテライト・アワーの放送は、こけら落としの意味も含めて、落語家・三遊亭三笑をゲストに迎え「サテライト・アワーあなたもあなたもリクエストをどうぞ」で処女電波を発する。

番組内容は、音楽、クイズ、ゲスト・コーナーなどで構成されるが、音楽は全曲リクエストで、カードとインタビューによって場内のお客さんからリクエスト曲をうかがう。クイズは“ずばり買いましょう”“ピョン・ピョン・クイズ”などで、商品に関係あるプライス・クイズである。

初放送当日のラテ欄より

「ずばり買いましょう」のネーミングは、当時の人気ТV番組「ナショナルプライスクイズ・ズバリ!当てましょう」のパクリ。「ピョン・ピョン・クイズ」は協働社のうさぎのマークにちなんだもの。

のちに番組名は「サテライトタイム」となり、丹内百子、藤尾隆造などが単独で司会を務めている。竿燈の会場内アナウンスを永くつとめていた藤尾隆造の美声は忘れがたい。祭りの前日、この人のマイクテストの声が界隈に響くと、祭りの季節がやってきたことを身にしみて実感したものだ。

サテライトスタジオからの中継が終われば、上階のゲームコーナーで、ピンボールなどで遊び、ジュークボックスで音楽を聴き、フトコロに余裕があれば、食堂街で飲み物を飲みながら、たわいもない話をする。あとは広小路のデパートを巡り、天気が良い日はお堀のボートに乗ったり、楽しい土曜の午後はまたたく間に過ぎてゆくのであった。

| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 22:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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達三少年のスケート遊び

石川達三が秋田市楢山裏町時代を回想した随筆には、冬の暮らしに関する記述が多い。物心のつき始める三歳から七歳まで秋田市で暮らし、その後は雪の積もらない東京に出ているため、幼いころの雪国での生活はとくに印象深く心に刻まれたのではないだろうか。

達三少年たちは、雪道に「氷の道」(スケートリンク)をつくって遊んでいる。

 雪道を踏みかためて、私たちは毎日すべっていた。小学校の五年ぐらいになるとスケートをはき、もっと小さい子は(まくりがね)という、もっと安全な道具。そして私たちは(どう)と言って極く安全な、女の子でもはけるような物ですべっていた。
 自分たちのいつも遊ぶ場所を、五十メートルばかり踏み固め、夕方水をまいて夜のうちに凍らせておくと、翌日は水盤のようになっていて、いくらでも滑れる。この氷の道はほとんど融けることがなかった。新しい雪が降ると、また子供たちが整備作業にはたらく。そういう時はみんな気がそろって、せっせと労働をしたものだった。通りがかりの大人たちが足を滑らせて、(こんなにして、危ないじやないか)といって怒った。怒られても、だからと言って吾々の遊び場を失うわけには行かない。‥‥後略‥‥

大正初期の秋田市、道路が子どもらが心置きなく遊べる場所だった、幸福な時代の一コマ。

「スケート」は、下駄にスケートの刃を取り付けた「軍艦」などと呼ばれた「下駄スケート」のことだろう。そのほか、下駄に太めの鉄板を埋めこんだもの、さらに二本の鉄板を埋めこんで安定感を増したものなどがあった。

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下駄スケート

さて、裏町と同様に表町(ト一屋楢山店の通り)にも、その町内の子どもらが「氷の道」をつくっていたのだが、ある日、裏町の少年たちが相談して、表町の「氷の道を壊す」という計画を実行する。

 計画は極秘だった。夕飯のあと、日が暮れてから町角に集れ。誰にも言うな。金槌を持って来い。‥‥というのだった。囲炉裏のそばで鍋をかこんで、父と母と兄たちと、あたたかい食事をすませてから、私はそっと家を出た。二人の兄が一緒であったかどうか、記憶にはない。集ったのは七八人だった。声を忍んで、私たちは路地をぬけて行った。表町の商店街も冬の夜ははやく大戸をおろして、人通りもなく、灯影もすくなかった。
 私たちは適当な間隔をおいて氷の道の上にうずくまり、持ってきた金槌で氷に穴をあげた。早く、早く、人に見つからないように。‥‥‥金槌のうしろの釘抜きが尖っているので、氷を割るにはその方が都合がよかった。そのとき私は罪を意識した。自分がいま悪事をはたらいているのだということを、はっきりと意識した。おそらく私の生涯に於て、自分の罪を意識したのはこの時が最初であった。‥‥後略‥‥

石川達三「私ひとりの私」文藝春秋社 より


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楢山裏町・石川達三の旧家近く

似たようなことがあった。
自分の生まれた楢山の町内は学区の境界にあって、となりの町内の子どもたちは違う小学校に通っていた。そのせいか対抗意識のようなものがあり、何かある度にいがみ合い、喧嘩に発展することはなくとも非常に険悪な仲だった。

町内の境界にあった原っぱ(児童公園)は、どちらの町内の子どもたちも遊ぶ共有の場だった。冬休みの天気のよい日、大人たちも加わって、そこに巨大なトンネル形カマクラをつくった。最初はカマクラをつくるつもりが、調子に乗ってでき上がったら、迷路のような長いトンネルになったのだ。

日の暮れるころには完成し、「明日ゆっくり遊ぶべ」と家に帰り、翌朝、公園に行ってみると、一日がかりでつくった雪のトンネルが、めちゃくちゃにされていた。「やられだ!」「昨日、遠くから、となりのヤヅらがずっと見でだべ。あれがだの仕業だ‥‥」。となりの町内の子どもたちが、夜のうちに壊したのだ。

目には目を、歯には歯を、隣りの町内の連中が、公園に大きな「雪の迷路」をつくったときは、夜になって壊してやったのだが、そのとき公園には一人の見張りがついていた。そいつが仲間を呼びに行こうと走りだしたところを捕まえ、無事に作戦を成功させる。

達三の住んだ裏町と表町は、どちらも築山小学校の学区であり、そんなに険悪な仲だったとは考えにくい。ただ「表町」「裏町」という町名が気になるところで、表町の子どもたちは、裏町のことを見下していて、それが確執になっていたのかもしれない。


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| 秋田市今昔 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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