二〇世紀ひみつ基地

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2005年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年02月

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楢山の裏町という小路


楢山裏町

旧楢山本新町、通称・楢山裏町、現在の地名は南通築地。

楢山本町(通称・表町)と、その北側の楢山本新町(通称・裏町)は、藩政時代は徒士衆(かちしゅう・徒歩で従事する下級武士)の屋敷町であり、本町を表御徒行(おかち)町、本新町を裏御徒行(おかち)町とよんだ。それを略した表町・裏町という呼び方が、通称として後世まで残った。

下級武士の町も、幕末には中堅クラスの武士が住むようにる。江畑家もそのひとつ。

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江畑家・薬医門

佐竹武士であった江畑家の朱塗りの薬医門。
明治二十六年に建てられた邸宅は、総秋田杉の釘を使わない名建築。戦後の一時期は「ならやま荘」という名で貸席を営んでいたが、最近は門が閉じたままで内部を見ることができない。

江畑家の広大な日本庭園の一部をつぶして、秋田ボウリングセンターがオープンしたのが昭和四十一年(1966)。ボウリングブームが去って廃業したあと、建物を改造してト一屋が入った。

もともとこの辺りに住んでいた身分の低い徒士衆の家では門を造ることは許されず、七〇石以上でなければ板塀も建てることができなかったため、家のまわりは、ウコギやユキヤナギ(コゴメバナ)などの生垣で囲った。下級武士が住んだ楢山方面には、今も生垣のある古い家が残っているのはそのため。

そんな裏町も、最近は空地も目だち、だいぶ様子がかわってしまったが、それでも屋敷町のおもむきを今に残し、どこかなつかしさをおぼえる小路である。

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江畑家の黒塀を右手に、東に進んだ角地に、石川達三旧家の標柱(地図上の水色ポイント)がある。

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2009.02 追記

石川達三旧家の標柱は撤去された。

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石川達三と冬の落とし穴

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石川達三と冬の落とし穴

ドシアナ(落とし穴)つくりは、子どもの遊びの定番だった。

原っぱに数人が集まり、子どもがすっぽり入るくらいの深さに穴を掘り、そこに枝を渡し、その上に新聞紙をのせ、さらに土をかぶせ草を散らしてカモフラージュする。積雪期はカモフラージュもしやすく、つくった自分たちでさえ、その場所が分からなくなるほど。

そしてターゲットとなる誰かを呼びだし、仕掛けた穴までうまく誘導して落とすのだが、ともすれば落とし穴をつくった仲間の誰かが、あやまって落ちてしまうという間抜けな事態も発生する。

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いつも遊んでいた原っぱは、埋立地だったせいか、深く掘ると水がしみ出してくる、落とし穴には最適な場所で、さらに穴のなかにションベ(小便)のオマケを加えたりもした。そんなふうにしてできあがった落とし穴に、自ら落ちるというみじめな失態を、幼いころに秋田市楢山裏町に暮らした石川達三*も体験している。

 雪が深くなると、人の通る道はようやく三尺くらいの幅になって、その両側は四五尺にも及ぶ雪の土手であった。この土手の上が子供たちの遊び場である。さいかちという植物に生る豆のさやが、どこの家の台所にも置いてあった。物を洗うのに使う。そのさやを持ち出して、私たちは雪の中で叩く。すると雪が真紅に染まるのだった。また、新しく降った雪にサッカリンをまぜて食べたこともあった。
 或るとき私は近所の子と二人で、この雪の中に陥し穽をつくった。大きい子供たちは学校へ行ったあとで、このはるかな雪道で遊んでいるのは私たちだけであった。陥し穿をつくる方法や、その面白さは、大きい子供たちの仕事を見て知っていた。二人は雪の中に二尺ばかりの穴を掘りあげ、それから穴の中に小便をした。これも大きい子供の真似であった。うっかりして穴に落ちた人は、そこに小便をしであるのを見て、一層くやしがるに違いない。そういう悪智恵だった。
 それから私たちは生垣の卯の花やうつぎなどの小枝を折って穴の上にならべ、さらにその上に静かに雪をのせた。するともはや穴がどこにあるのか完全に解らなくなった。きっと誰かが落ちるに違いない。‥‥‥そして、それから一分も経たないうちに、いきなり私の足もとが崩れ、自分の造った穴の、自分の小便の上に、私自身が落ちた。この時の、歯噛みするような口惜しさを私はいまだに忘れ得ない。原因は自分にある。誰に抗議することも出来ない。それが教訓だった。他人にかけた呪いが、私自身の上におちて来たのだ。(人を呪わば穴二つ‥‥‥)という諺を聞くたびに、私は必ずあの時の失敗を思い出す。胸が煮えるような口惜しさのやり場がなかった。‥‥後略‥‥

石川達三『私ひとりの私』 昭和四十年 文藝春秋社 より

>>雪が深くなると、人の通る道はようやく三尺くらいの幅になって‥‥‥
一尺は約30cm、自動車の無い時代だから、馬ソリの通らない小路は箱ゾリが通れるほどの巾があれば十分だったのだろう。道の両側には寄せられた雪が1.5メートルほどになったというから、この時代は今年のような豪雪が、さして珍しいものではなかったのだ。

>>新雪にサッカリンをまぜて食べる‥‥‥
というのはやったことがないが、新雪をコップに入れて、渡辺のジュースの素(粉末ジュース)をふりかけ、まぜて食べたことがあった。

>>生垣の卯の花やうつぎなどの小枝を折って‥‥‥
正確にいえば、ウノハナはウツギの別名、達三がいうウノハナは、ユキヤナギのことだと思う。自分の生家にもユキヤナギがあって、それを皆がウノハナと呼んでいた。生垣のある家は今も楢山に多い。

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楢山裏町・石川達三の旧家近く

*石川達三
明治三十八年、横手市に生まれる。父が秋田中学校(現・秋田高校)の教頭に転じたことから、三歳から七歳までのあいだ秋田市楢山に暮らす。ブラジルへ移住する秋田の小作農の一家を主人公にした小説「蒼氓(そうぼう)」で昭和十年に芥川賞を受賞。昭和六十年、七十九歳で死去。


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「ナタ漬け」のシャリシャリッ!

冬は保存食である漬物が食卓に上がることが多かったが、なかでも、ナタでザックリと乱切りにした大根を麹で漬けた「ナタ漬け」の味は忘れがたい。



数十年前の家は気密性も低く、暖房もない台所などに置かれた漬物樽の上澄みには、シガ(氷)が張るほど。

薪ストーブで暖まった居間でちゃぶ台を囲んで食べた「ナタ漬け」は、表面が凍ったシャーベット状で、かじるとシャリッとした歯触り。大根の甘みが口に広がり、添えられた菊花の香りがわずかに後にのこる。

家には「ナタ漬け」専用のナタがあった。それは、すこし歯の欠けた使い古しのナタで、あまり切れ味の良いものよりも、切り口がランダムになり、味がしみ込みやすく、さらに、氷が張るくらいの環境でなければ発酵が進みすぎてうまく漬からないのだという。

最近市販されている「ナタ漬け」には、ナタではなく包丁で切ったような、切り口が滑らかで小ぶりのものがあるが、これでは「ナタ漬け」とは言えない。あのゴツゴツした断面から生まれる食感こそが「ナタ漬け」の魅力なのだから。

シャーベット状のなつかしき「ナタ漬け」を食べたいときは、冷凍庫で凍らせたのを室温で半解凍して、かじりつく。「シャリシャリッ」とした食感は、遠い日の記憶の中のおふくろの味だ。

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梵天は神の依代

一月十七日。
赤沼の三吉神社までの参道は祭りのために念入りに除雪され、さらにここ数日の暖気でアスファルトが露出。これでは冬らしくなく拍子抜けだ。

参拝客も例年より少なめ。酔っぱらいオヤジが、祭りの活気のなさを嘆き、警備の警官に「バガケ!オメェがだが居るがら祭りもつまらねぐなるなだ、コノ税金泥棒!」などと、大声で罵声を飛ばし八つ当たり。これには警官たちも苦笑い。


鳥居前で順番を待つ村梵天

梵天(ぼんでん)の原型は神の依代(よりしろ)である御幣(ごへい)または、神官がお祓いのさいに手にする大幣(おおぬさ)であったという。

それはもともと、山王さんの秋祭りに登場する「御差鉾(おさしぼ)」のような姿ではなかったろうか。


山王さんの御差鉾

御差鉾は神社から外町に向い、町々を祓い清めて練り歩くが、梵天では逆に、各町内、企業から神社へと参道を祓をい清めながら神社へ向かう。

御差鉾から千切った御幣(和紙)は、無病息災と火伏せに霊験あらたかなお守りとされるが、梵天に縫い付けられた、太平山をかたどった三角形のお守りは、三吉さんの強力な霊力が籠るとされ、これを目当てに参拝客が殺到し奪いあうほどの人気がある縁起物だ。

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梵天に縫いつけられるお守り

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古い形式の稲穂梵天

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架設櫓に奉納

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祭りのあと



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梵天売り・今昔
山王さんの秋祭り

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山王に屋内スケートリンクがあった

向浜に県立スケート場がオープンしたのは、昭和四十六年(1971)十一月のこと。しかし、それよりも早く、60年代後半には山王大通りに民営の屋内スケート場「秋田アイススケートリンク」が営業していた。


昭和四十六年(1971)正月広告

それまで、厳冬期の千秋公園のお堀や、河川でスケートをしていたのだから、屋内の安定した環境で、天候に左右されずに滑りを楽しめる施設は人気を集め、おおいに賑わったようだ。

初期はバスの便がなかったためか、秋田駅前からリンクまで無料送迎バスを三十分おきに運行している。そのころのキャッチフレーズは、「東北一を誇る近代的マンモス屋内リンク」。

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1971年版住宅地図を参考

場所は、現在の生涯学習センターと児童会館のあたり。

建物の回りにある点線部分は、シーズンオフに営業されたゴーカートのコースと思われる。スケートリンクは夏には室内プールになった。

現在、秋田県立図書館の建つ場所には、ドライブインとトヨタの営業所、その東の三軒は旅館。あたりは水田が広がり、児童会館前から南に延びる道路が完成するのは数年後のこと。

広くて充実した設備の県立スケート場がオープンして間もなく、「秋田アイススケートリンク」は閉場となった。

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国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省(C)
撮影・昭和五十年(1975)

すでにスケートリンクの影もない。
県立体育館の西にある三色屋根の建物は、昭和四十六(1971)年十二月、ボウリングブームの波にのってオープンした「東北グランドボウリング」。そのキャッチフレーズは「東北一の規模を誇るボウリング場」。

「秋田アイススケートリンク」にしろ、「東北一を誇る」うんぬんというフレーズは、当時の広告の常套句だったようで、それが真実であるかは疑わしい面もあるが、このボウリング場は確かに広かった。

ボウリング場の北が秋田商業高校のグラウンド、校舎とつづく。商業高校は、昭和五十三年(1978)割山の新校舎に移転する。

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「やちよ」のトルコライス


秋田駅前 喫茶「やちよ本店」のトルコライス

チキンライス風にケチャップで味付けされたライスに豚カツをのせ、デミグラスソースをかけたトルコライス。

トルコライスといっても各地、各店ですこしずつ違いがあり、とても同じ料理とは言えないのだが、発祥の地という長崎では、ピラフまたはドライカレーに豚カツをのせ、デミグラスソースをかけ、ナポリタンスパゲッティを添える、というお子様ランチ的にぎやかさがある庶民的な洋食。

1970年代後半、新国道沿い市立病院入口に「キッチンよつば」という洋食屋があった。メニューにある聞きなれぬものを好奇心半分で注文すると、ケチャップライスに豚カツとカレールーがのったものが出てきて、その取りあわせとボリュームに驚きながらも恐る恐る口にすると、酸味のあるライスとカレールーが渾然ととけあって、えも言えぬ濃厚な風味。その味が忘れられずしばらくのあいだ、週に一度はトルコライス目当てに通ったものだ。

三十年以上前からトルコライスを出していた、秋田市泉の食堂「田んぼ」は、残念なことに昨年末に閉店してしまったため、市内でトルコライスを食べることができるのは、現在(2006)「やちよ本店」だけではないだろうか。

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やちよ本店

駅前再開発前、「やちよ」は金座街近く、まんぷく食堂の通りにあった。


大きな地図で見る
やちよ本店


閉店した秋田市泉「田んぼ」のトルコライス
味はともかく、大きな豚カツを使ったボリュームたっぷりのメニューだった




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二〇世紀ひみつ基地 さようなら「やちよ本店」秋田駅前喫茶店
2013年6月「やちよ本店」閉店

関連リンク

トルコライス マニアックス

@nifty:デイリーポータルZ:トルコライスのすべて

トルコライス - Wikipedia



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川反五丁目雪景


「川反通りの雪景」と題された昭和始めころの絵葉書

絵葉書には川反何丁目かは記されていないが、右奥のビルディングは、その特徴のある屋上の造りから、五丁目角にあった「開運堂菓子舖※」と思われ、位置関係から推察すると、この写真は川反五丁目の風景に違いない。

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開運堂と思われるビル

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勝平得之『四丁目橋夕景』昭和初期

橋のたもとには客待ちの人力車、土手を削って造られ建物から伸びるデフォルメされた影が幻想的な勝平の初期作品。四丁目橋を渡った左手に「開運堂菓子舖」の洋風建築が見える。

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芸妓置屋と料理屋の並ぶ通りでカメラに目を向ける女性たち。三人連れのうち幼さの残る女の子二人は半玉さんだろうか、角巻※(かくまき)姿で口元を隠すしぐさが可愛らしい。寒くてかじかんだ手を息で暖めているのかもしれない。その後ろには少年がこちらを見ている。電柱広告の文字は「クラブ白粉」。

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現在の川反五丁目通り



※開運堂菓子舖
天保十年(1839)川反に創業した老舗菓子店。開運堂のサイトによれば洋風店舗(写真あり)は、大正十四年の竣工という。現在、店舗は登町に移転、経営者が変り「株式会社かおる堂」のブランドグループとなった。川反の跡地には「八番館ビル」が建っている。

四丁目橋に夜のとばりが落ちる頃
戦前の「開運堂」レトロ建築


翁屋開運堂
http://www.okinaya-kaiundo.com/index.html

※角巻
北海道・東北の女性が使用した防寒着、木綿などで作った「かぶり」と呼ばれる頭巾をかぶり、その上または肩から、羊毛や綿を用いた厚い正方形の角巻を二つ折りにして前で合わせて着るが、写真では「かぶり」はつけていない。

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雪道には馬橇が走り

昭和三十年一月一日発行の『広報あきた』に、児童生徒に対する冬休みの注意事項が載っている。

「冬休みをむかえて」
(1)学習励行のため毎日きめられた時間前には友だちをさそわない。
(2)道路上の遊びはさけ、自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする。
(3)スキー遊びは安全な場所でやる。手形山には市営の山小屋が設けられ毎日十時より十七時まで管理人がつとめている。記念館前の坂は雪遊びの場所として車馬の交通止が予定されている。
(4)スケートは広小路ほりに例年通り市営リンクが開設され自由に利用できる。危険な時は赤旗が示される。
(5)映画は学校ですすめたもの以外は見ないように、父兄同伴の場合でもこのましくない。
(6)用事もないのに店頭をぶらついたり大人の遊技場に立寄らない。
(7)空気銃や、ゴムの石弓など禁止の方向に指導されたい。
(8)火の用心が夜遊びのもとになったり、悪い遊びにならないよう。
(9)それぞれ学校の帽章や、バッチ着用は是非励行されたい。

昭和三十年(1955)『広報あきた』より

(3)手形山の市営スキー場は学校のスキー授業の場所でもあった。「記念館前の坂」とは現在の県民会館への坂道だが、そこで子供たちを橇やスキーで遊ばせるために、中土橋通りを車馬禁止にしたのだろうか。
(4)厳冬期には広小路に面したお堀が無料の市営スケートリンクになったが、開設時期はその年の天候に大きく左右された。

(2)の「自動車、馬そりなどの後には絶対つかないようにする」という項目は、その時代を生きた年配者にしかわからない。

昭和三十年代の中ごろまでの、まだ荷物を運ぶ馬車や橇が残っていた時代、道行く馬車に駆け寄って後ろにしがみついて乗ったり、積雪期には小型のスキーやスケートを履いて、馬橇の後ろにつかまり、雪道を滑って遊ぶのが冬の楽しみであった。

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昭和三十一年 角館

車の通行が少ないため、道に轍ができることもなく、橇と徒歩で平らにふみ固められた雪道は、最適な遊び場で、大人たちも下駄にスケートの刃がついた「ドッコ」などを履いて遊んでいた。

家の前を通る馬車は仁井田方面から駅前方面へ農作物を載せて往復するものだったと思う。子どもたちが数人取りつくと、馬車も重くなり、馬方のおじさんに気づかれるとゴシャガレル(叱られる)のだが、荷物の少ない帰り道は、子供たちに寛容な場合が多かったようだ。

そんなのんきな遊びも、馬車がトラックに変り、自動車が増えるに連れ消滅するのだが、馬車の変りに自動車の後ろに取りつく子どもも多かったことが、同じく『広報あきた』の記事からうかがえる。

……前略……
冬季は交通事故の発生が多く、市民の方達の一層の協力が望まれている。特に土崎地区に多く見受ける学童のスケートでバスに取付くことなどは急停車の場合バスの下敷はもとより思わぬ災害を招くことになるので父兄の方達の一段の注意をのぞんでいる。

昭和二十八年(1953)『広報あきた』「白魔悪路と戦う市営バス」より

馬橇に曳かれて滑る快感忘れがたき少年たちが、さらなるスピードを求めて、バスやトラックに取りついたのだろうが、車の台数が少ない時代とはいえ、確かにこれは危険な遊び。しかし、遊びは危険がともなうほど面白く、禁じられた遊びほどエキサイティングなものはない。公報に載ったような大人の決めた注意事項などは忘れて、ただひたすら遊びまくるのが子どもの本分なのだ。

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「秋田劇場」昭和七年正月映画


「秋田劇場」正月映画ポスター 昭和七年(1932)

映画が娯楽の王様だった時代の、日活直営館「秋田劇場」の正月映画。この年の一月に上映予定の作品群で、これ以外のものも含めた三本立てで公開されている。

昭和七年正月上映名画
大日活超大作のみ新劇の勇躍!
日活直営秋田劇場

入江たか子主演『心の日月」
片岡千恵蔵主演『一本刀土俵入』
澤田清主演『源太時雨』
梅村蓉子主演『恋の長銃』
淡岡信夫主演『輝やく吾等が行くて』
河部五郎主演『肥後の駒下駄』
夏川静枝主演『白い姉』
澤田清・山本嘉一主演『弁天小僧』
夏川静枝主演『ゴールイン』
大河内傳次郎主演『仇討選手』

上映作品は昭和六年秋から年末にかけて東京で上映されたばかりの日活太秦時代の無声映画。昭和六年には日本初のトーキー映画『マダムと女房』が公開されているが、まだサイレント映画全盛の時代、劇場専属の弁士が語り、数人の楽士が音楽を奏でていた。

それぞれのタイトルごとにバリエーションに富んだ、モダンなアールデコ調の図案文字が素晴らしい。これは大正末から昭和初期に流行したデザインで、映画文字とかキネマ文字と呼ばれた。

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秋田劇場

「秋田劇場」は、すずらん通りの突当り、秋田市柳町(のちにピカデリー劇場が建った場所)にあり、映画のほかに、新派の演劇、歌舞伎、浪曲なども上演された、当時県内一の設備を誇るハイカラな劇場だった。

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謹賀新年


秋田駅前停留所 1960s

昨年中は当ブログをご覧いただきありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。

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