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二〇世紀ひみつ基地

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2005年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年01月

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木内デパートのおばあちゃん社長



子どものころ木内デパートに行くと、あの名物おばあちゃんの姿をよく見かけたものだ。

小さな商店をさまざまな困難を乗り越えて、秋田を代表するデパートにまで育てあげ、社員からは母と慕われたおばあちゃんのスタイルは、着古した着物にすり減った草履、知らない人が見たら誰もこの人物が社長だとは気づかなかっただろう。しかし、その姿からは、なにか凛とした気品のようなものが漂っていた。

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木内トモは、明治二十年(1887)、湯沢市の士族の長女として生まれる。父は漢学教師だったため、幼いころから漢学の素養を身につけ、孔孟の教えを基にした「人の道」を自らの信念とし実践した。明治三十九年、秋田市の木内家に嫁ぐ。木内家は佐竹藩士であったが、明治維新後、商家に転じている。夫の隆一は、俳号を柳陀と称する俳人で、病弱なこともあって商売はもっぱら妻トモにまかせ、自らは俳句三昧の生活だったという。

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木内商店 大正期

昭和二十七年、敬愛高校校長・小野源蔵が病床で「こんな美談も私が死んだら永久に埋もれてしまう」と、トモの秘密を洩らしたことから、それはのちに世に知られるところとなる。

トモは昭和二年頃から二十数年間、教育者を志ざしながらも経済的に恵まれない学生たち数十人に、毎月匿名で育英資金を送り、それは大東亜戦争中、売るものもなく倒産の危機にあった期間も絶えることなく続けられたというのだ。

学費を送る条件は「政治家や実業家に転身せずに、一生教育者として清廉な生活を送ること」。育英資金を受けた多くの学生たちは、トモの経済的援助によって、のちには大学教授や学者となって教育界で活躍することになる。

トモはその貢献により昭和三十年に県教育功労者を始めとして、三十八年藍綬褒章、三十九年秋田市文化功労章を受けているのだが、受賞時の写真を見てもあまり嬉しそうな顔を見せてはいない。

昭和二十八年魁新報社の取材に対して、トモは次のように語っている。

どこから聞いてきたのですか。
これは私の一生の秘密、死ぬまで誰にも言わずにこのままの気持ちで死んでいきたかったのに……。
死んでからなら幾ら書かれても結構ですからそれ迄は一生の願いだから勘弁して下さい。
……後略……

これは決して謙遜ではなく本心からの発言と思う。
トモは陰徳を積んでいたのであり、人からの称賛や勲章など欲しくはなかった。公表されたことにより、陰徳はもはや陰徳でなくなってしまった。それが残念でならなかったのではないだろうか。

秘密を守ろうとしたものと、善かれと思い秘密を明かしたもののあいだには、大きな意識(思想)の溝があったのだ。

中国古代の哲学書「淮南子」には、「陰徳あれば陽報あり」とある。陰徳とは、人に知られぬように施す善行、陽報とは、如実に表れる報いをいうが、その陰徳は天に積むものであり、報いも天からのお返し。天を神仏と表現してもかまわない。報いを目当てに徳を積むことを偽善という。

禅家(禅宗)では、陰徳を積むことが修行の一環とされ、それは幸福や名誉などの目に見える報いを期待することなく、ただ一途に、生けとし生けるもののため、坦々と功徳を積むことを教えとしたが、トモの行いもこれに近いありかただったのだと思う。

昭和四十二年の年末商戦のさなか、風邪をひきながらも出社し、社員の陣頭指揮にあたっていた木内トモは、大晦日に昏睡におちいり、昭和四十三年一月三日、八十歳の生涯に幕をおろした。

木内トモの美談は、のちに小学校の道徳教科書にもとりあげられた。「学生の母」と題された文章の最期は次のように結ばれている。

トモさんがなくなられたあと、わたしは一まいの着物を見せてもらった。トモさんのふだん着である。わたしの目は、その着物のうら地にはりついて、動かなくなった。何十まいもの、どこの家にでもありそうな小さいぬのきれが、ていねいにぬい合わされていたのである。トモさんが、自分の手でぬったものだということだった。わたしは、むねのおくがじいんと熱くなるのを、かくすことができなかった。

『みんなのどうとく5年』
学研小学校道徳編集委員会/編
学習研究社



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