二〇世紀ひみつ基地

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2005年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2006年01月

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♪ふり向かないで秋田の人

昭和四十五年(1970)、「ライオン」がエメロン・クリームリンスを発売し大ヒット。そのヒットの要因に斬新なドキュメンタリータッチのCMがあった。

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ライオン・エメロンクリームリンス「ふりむき」1971
音楽・小林亜星
歌・ハニーナイツ
インタビュアー・船山喜久弥



「♪ふり向かないで~」の歌をバックに、街頭で見つけたきれいな髪をした女性の後ろ姿をカメラが追い、最後にインタビュアーが『ちょっとすみません。エメロンクリームリンスです。ちょっとうしろを』とカメラに顔を向けさせる。その瞬間の驚きと戸惑いの表情は、それまでのタレントやモデルを起用したCMにはない新鮮なものだった。

カメラが視聴者の眼となって女を追い、声をかけてふり向かせる……、そんな疑似体験のようなリアルな映像を、思春期の自分はドキドキしながら見ていた。

素人を起用するCMのさきがけとなった、エポックメーキングな作品は、昭和46年(1971)ACC秀作賞を受賞。

東京から始まったロケは地方都市まで足を伸ばし、回を追うごとに、ロケ地の情報が口コミで広がるようになり、撮影されることを期待し、めかし込んで集まる女性もふえ、それにともない商品のファンも増加していき、シリーズは七年間続いた。

日本各地で撮影した映像には、その土地を題材にしたご当地ソングが流れるのだが、秋田編ははたしてどんな歌詞だったろうか。

ハニーナイツの唄うCMソングは、昭四十七年(1972)にレコード化されている。


1983 エメロン シャンプー&リンス 再登場篇1

こちらは10年後の再登場編。ナレーションは映画評論家の小森のおばちゃま(小森和子)。


| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 21:00 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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士魂商才の人・木内トモ



文章は、木内百貨店社内報『雪だるま』(昭和二十三年) に掲載

終戦後の物質欠乏と道徳の低下がいちじるしき時代、木内百貨店社長・木内トモが若き社員たちへ送ったメッセージ。

企業の良心とか企業倫理という言葉が、もはや死語になったかのような現代にあって、トモの厳しくも温かき言の葉は時代を越えて心に響き身にしみ入る。

明治生まれの女傑・トモの座右の銘は「士魂商才」。それは「利より義を、私より公を重んずる武士の魂で、才知ある商売を行う」ということ。武士のスピリットと商才を兼ね備え、それを実践したトモにこそふさわしい言葉である。

「人生の若さの盛り」とあるが、トモの経営のひとつの特徴は若さを重視すること。年功序列が当然だった時代、二十歳そこそこの青年に、一部門の仕入れから販売員の管理まですべてを任せた。東京の商社に商談に出かけても、全国の同業者の中でも木内の仕入れ係はあまりにも若くて驚かれたという。

経験よりも若さと意欲を重視する、トモの常識を外れた経営は、着実に実をむすび、やがては県内の所得番付トップを飾るデパートに成長していくのだが、平成の不況下、中心街の空洞化も影響し、売り場面積を縮小しはじめ、現在は一階のみで細々と営業している。

秋田の中心商店街だった広小路の衰退と、木内デパートの現状を、木内トモはどんな思いで見守っておられるのだろうか。


| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 13:00 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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木内のおばあちゃん社長



子どものころ木内デパートに行くと、あの名物おばあちゃんの姿をよく見かけたものだ。

小さな商店をさまざまな困難を乗り越えて、秋田を代表するデパートにまで育てあげ、社員からは母と慕われたおばあちゃんのスタイルは、着古した着物にすり減った草履、知らない人が見たら誰もこの人物が社長だとは気づかなかっただろう。しかし、その姿からは、なにか凛とした気品のようなものが漂っていた。

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木内トモは、明治二十年(1887)、湯沢市の士族の長女として生まれる。父は漢学教師だったため、幼いころから漢学の素養を身につけ、孔孟の教えを基にした「人の道」を自らの信念とし実践した。明治三十九年、秋田市の木内家に嫁ぐ。木内家は佐竹藩士であったが、明治維新後、商家に転じている。夫の隆一は、俳号を柳陀と称する俳人で、病弱なこともあって商売はもっぱら妻トモにまかせ、自らは俳句三昧の生活だったという。

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木内商店 大正期

昭和二十七年、敬愛高校校長・小野源蔵が病床で「こんな美談も私が死んだら永久に埋もれてしまう」と、トモの秘密を洩らしたことから、それはのちに世に知られるところとなる。

トモは昭和二年頃から二十数年間、教育者を志ざしながらも経済的に恵まれない学生たち数十人に、毎月匿名で育英資金を送り、それは大東亜戦争中、売るものもなく倒産の危機にあった期間も絶えることなく続けられたというのだ。

学費を送る条件は「政治家や実業家に転身せずに、一生教育者として清廉な生活を送ること」。育英資金を受けた多くの学生たちは、トモの経済的援助によって、のちには大学教授や学者となって教育界で活躍することになる。

トモはその貢献により昭和三十年に県教育功労者を始めとして、三十八年藍綬褒章、三十九年秋田市文化功労章を受けているのだが、受賞時の写真を見てもあまり嬉しそうな顔を見せてはいない。

昭和二十八年魁新報社の取材に対して、トモは次のように語っている。

どこから聞いてきたのですか。
これは私の一生の秘密、死ぬまで誰にも言わずにこのままの気持ちで死んでいきたかったのに……。
死んでからなら幾ら書かれても結構ですからそれ迄は一生の願いだから勘弁して下さい。
……後略……

これは決して謙遜ではなく本心からの発言と思う。
トモは陰徳を積んでいたのであり、人からの称賛や勲章など欲しくはなかった。公表されたことにより、陰徳はもはや陰徳でなくなってしまった。それが残念でならなかったのではないだろうか。

秘密を守ろうとしたものと、善かれと思い秘密を明かしたもののあいだには、大きな意識(思想)の溝があったのだ。

中国古代の哲学書「淮南子」には、「陰徳あれば陽報あり」とある。陰徳とは、人に知られぬように施す善行、陽報とは、如実に表れる報いをいうが、その陰徳は天に積むものであり、報いも天からのお返し。天を神仏と表現してもかまわない。報いを目当てに徳を積むことを偽善という。

禅家(禅宗)では、陰徳を積むことが修行の一環とされ、それは幸福や名誉などの目に見える報いを期待することなく、ただ一途に、生けとし生けるもののため、坦々と功徳を積むことを教えとしたが、トモの行いもこれに近いありかただったのだと思う。

昭和四十二年の年末商戦のさなか、風邪をひきながらも出社し、社員の陣頭指揮にあたっていた木内トモは、大晦日に昏睡におちいり、昭和四十三年一月三日、八十歳の生涯に幕をおろした。

木内トモの美談は、のちに小学校の道徳教科書にもとりあげられた。「学生の母」と題された文章の最期は次のように結ばれている。

トモさんがなくなられたあと、わたしは一まいの着物を見せてもらった。トモさんのふだん着である。わたしの目は、その着物のうら地にはりついて、動かなくなった。何十まいもの、どこの家にでもありそうな小さいぬのきれが、ていねいにぬい合わされていたのである。トモさんが、自分の手でぬったものだということだった。わたしは、むねのおくがじいんと熱くなるのを、かくすことができなかった。

『みんなのどうとく5年』
学研小学校道徳編集委員会/編
学習研究社



| 昭和ノスタルヂア・秋田 | 16:30 | comments:4 | trackbacks:1 | TOP↑

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街に電燈が灯った日

秋田市に初めて電燈が灯ったのは、明治三十四年十一月、電線が引かれたのは当初、土崎湊新柳町(花柳界新地)、旧秋田市内の通町、茶町通り、大町通り、川反通りとその周辺で、点灯数はわずか七十灯であったという。

千秋公園には米国マンハッタン社製アークランプが三本設置された。アークランプは千二百燭光(約1200ワット)という高輝度で、それは、あたかも北斗七星が落ちてきたかのようだ、と当時の新聞は伝えている。

秋田の電燈で千秋園のは千二百燭光と聞いたから無論明るいが、秋田市全体より見え北斗の垂下した如き観がある。民間で大きいのは佐野薬種店の三十燭光と倶楽部本館の二十燭光である。佐野醤油店の飾り電燈は美観にて、ヤガテ田中醤油店や大島衛生堂にても之に似たものをしつらふべしとの事である。

明治三十四年十二月十八日 秋田魁新報「うめ草」より

佐野薬種店は、現在の佐野薬局。倶楽部本館は「あきたくらぶ」のこと。

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千秋公園に設置されたアークランプ

電燈が登場した当時の街の様子を、明治生まれの文化人・鷲尾よし子が書き残している。

「魔ものの電気」
……前略……
 まだ小学校前の数え年七ツ位であったと思う。通町の小松鳥屋に電気がついたというので、私は十代の叔母に連れられて見に行った。上肴町角の藤林の筋向い(現在金物屋)で、大きな鳥屋の店の雨戸が全部締まっていたが、小さい潜り戸が開いていて、戸口に人が沢山立ちはだかり、のぞいては、「まんつ、大変だもんだ」と驚嘆し乍ら帰って行く。店の中は昼のように明るく、天井に吊されている鶏が、生きて飛んで来るように私には感じられた。丸い笠の下に裸電球が大変美しく、光りがとても強くまぶしくて、とにかく大変だった。
「これだばいつまでも見ていると、まなぐ(眼)おかしくなるでば」
と、眼を押えて帰って行く女ご衆もいた。
「つけ木も早つけ木(マッチ)もいらねど。ねじコねじれば、ひとりでポッとつくなんだど」
と、その不思議さが何とも合点がゆかなかった。電気をつければ、ランプのほや磨きがなくなるという事が、大きな魅力であったらしいが、何やら魔ものめいて、うす気味悪いとて、すぐ電気に移る家はなかったらしい。…が、間もなく電気は嵐の如く普及して、四十年には電話も通じたし、市民の文化は電光石火、向上した。この電気導入は、時の代議士近江谷栄次氏の尽力というが、後に近江谷氏は政治に凝って身代をつぶし、自家の電燈代を払えなかったという、近江谷栄次一代記の特筆記事もある。

鷲尾よし子主筆・月刊『秋田』昭和四十二年五月号より

鳥類の肉と鶏卵を扱う「小松鳥屋」に引かれた電気に驚く町民の姿が、柔らかき秋田なまりの語りとともに、いきいきと再現され、当時の光景が眼に浮かぶようだ。

照明といえば、行燈やローソク、ランプしかない時代に、初めて眼の当たりにした電気=電燈への驚愕と戸惑い、それはあたかも摩訶不思議な魔法を見るが如き心持ちだったようだ。

秋田市に電気をもたらした土崎湊町の近江谷栄次は、明治三十年、弱冠二十三歳にして発電事業の認可を受け、土崎将軍野に60キロワットの汽力発電所を建設。明治三十四年四月、需要者の募集開始、十一月の試運転を経て、十二月一日に正式に点灯を開始している。

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明治三十四年四月「近江谷発電所」新聞広告

しかし市民の電気に対する理解不足もあって、その事業は順調にはいかず、資金離から近江谷は電力事業から手を引くことになる。その後、電力事業は四十八銀行の手に渡り、明治四十年六月、一般から株式を募集して秋田電気株式会社となった。

| 秋田市今昔 | 23:30 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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金萬は浅草から…

調べ物のため、昭和五十九年の魁新報マイクロフイルムを閲覧していたら、「金萬」の企業紹介記事が目にとまった。

それによれば、昭和五十五年に逝去した創業者が、東京浅草で繁盛するまんじゅう店にヒントを得て、その機械を購入、当時としては珍しいガラス越しに製造工程を見せて即売する商法がヒットし、現在(昭和五十九年)は一日に二~三万個を生産しているという。

浅草のまんじゅう店といえば、新仲見世通りアーケード街、中村屋の「都まんじゅう」に違いない。

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焼印比較

中村屋では今もガラス越しの実演販売を続けており、全国の都まんじゅう系の店でも製造工程を見せている例が多い。

あの半自動の製造機械がカチャカチャと動いて、まんじゅうが完成する工程を見せることこそが、「金萬」のヒット要因だったのだから、是非とも初心に帰って本店での実演販売を復活してもらいたいものだ。

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2015.10 追記

その後の調査で「金萬」創業者・大内正見氏が東京で見たまんじゅうの実演販売は、浅草のデパート「松屋」の「都まんじゅう」であったことが判明。

浅草・中村屋の「都まんじゅう」はすでに廃業している。

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関連リンク

浅草 中村屋・都まんじゅう

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鎌田の酒まんじゅう

駅に降り立ち改札を抜けると、どこからか「酒(さか)まんじゅう」の甘い香りが漂い、秋田に帰ってきたことを実感させた、かつてそんな時代があった。


昭和三十五年(1960)新聞広告

○〆(マルシメ)鎌田の「酒まんじゅう」は、駅の売店、駅前の鎌田会館、さかのぼると金座街でも販売され、漂う湯気と、ほのかな酒の香りは秋田駅前の風物詩であり、「金萬」と並ぶ手土産の定番だった。

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たけや製パンの「酒まんじゅう」

「酒まんじゅう」は店頭で蒸し上がった温かいやつを買って、冷めないうちに食べるのがベスト。その香りは、嗅覚に訴える香りの看板。

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昭和三十九年(1964)新聞広告

金萬よりも食べごたえがあり、価格も庶民的だった鎌田の「酒まんじゅう」が、嗜好の変化により売り上げが減ったためか、いつの間にか姿を消したのは、昭和五十年代後半のことだったろうか。

木枯らしの吹く夕べ、父さんがホカホカの「酒まんじゅう」をぶらさげて帰ってきた。それは遠い日の想い出の一コマ。

| 食材・食文化 | 20:30 | comments:7 | trackbacks:1 | TOP↑

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