二〇世紀ひみつ基地

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2005年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年12月

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なつかしの「いかあられ」

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「いかあられ」は、スルメイカを伸ばして短冊に切り、塩と水飴で煮しめた佃煮の一種。秋田へは北陸方面から北前船で伝えられたものだろうか。

他県では「いかあられ」に白ゴマと唐辛子などをまぶすが、秋田では三色豆(金時豆・青えんどう・白花豆)などで、彩りを添えるのが特徴となっていて、これがあると無いとでは随分印象が変わってしまう。

秋田で育った者にとって、豆の入っていない「いかあられ」は、なにか物足りなく、魅力に乏しいものに映るのだ。

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八郎潟の干拓前、佃煮の原料が豊富で値段も手頃だったためか、子供のころは佃煮がよく食卓に上がったものだが、「いかあられ」は一般の佃煮とは違い、ご飯のおかずというよりも、お菓子感覚でおやつがわりに食べていた記憶がある。その味も駄菓子屋の甘くて紙のように薄っぺらな「のしいか」にも似た、なつかしの風味。

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明治末期の清酒店・馬口労町


穀物酒類商・伊藤商店 秋田市馬口労町
明治四十五年、顧客に送った年賀状

切妻屋根から突きだした化粧棟木、重厚な破風板、破風下の三段化粧梁が眼を惹く主屋。主屋の前面のコミセでつながる右手の建物は、瓦屋根の倉造りで、隣家との境には防火用の卯建(うだつ)が上がっている。

主屋には大日本麦酒の「サッポロビール」、右手には「銘酒イネマサムネ」の屋根看板。サッポロビールの看板の上には長方形の木彫看板らしきものが提げられている。図柄がはっきりとしないが、亀と瓢箪が描かれているように見える。瓢箪は子孫繁栄・無病息災、亀は長寿のシンボル、一家の繁栄と商売繁盛を願って掲げられたものだろう。

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摂津灘 河東本家鑑醸 銘酒イネマサムネ

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壁には「凱旋サイダー・凱旋オレンジ」「金線サイダー」などの掛看板。大八車には「白鶴」の配達箱。薦樽、味噌樽が積まれた店頭には、店主を始め、家族、使用人らが勢揃い、なかには木馬に乗った子供もいる。右手には人力車が二台、客人を乗せてポーズをとっている。

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灘の銘酒はだかりで地元の酒名が見当たらないのは、当時の秋田は、まだ酒造に関しては発展途上期であり、県産酒の地元での評価は低かっためと思われる。特に一流料亭や旅館では灘酒信仰が強かったという。

店舗の前に店主ならびに家族、使用人らが集合して撮影した写真を元に作製されたこの手の絵葉書は、絵葉書ブームのピークだった明治末から大正期を中心に、宣伝のため各商店で盛んに作成され、年賀状や暑中見舞いとして配られた。葉書の表(宛名面)には「秋田鈴木開運堂製」という絵葉書出版元が印刷されている。

戦前の地図によればこの酒店は、市指定文化財「松倉家住宅」の向かい、現在のヤマザキデイリーストアの地に位置している。コンビニになる前は「両関屋酒店」で、現在も酒をあつかっているので、経営家は明治から変わらないのかも知れない。


2004.09


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外町の南端、馬口労町(馬喰町・馬苦労町とも表記)は、佐竹氏の外町の町割にともない寺内から移した町。

羽州街道と北国街道の分岐点で、陸上交通の要、船着き場には、雄物川を経由して米が運びこまれ、馬の競り市も開かれ、商業、水陸運輸の中心地として活気あふれる場所であった。旅籠町に指定され、馬喰、船頭、百姓町人の旅行者は、もっぱらここに宿泊したため、酒の消費率も高く、造り酒屋、酒店も多く、外町の北端の通町が山の手ならば、馬口労町は下町の風情があったという。

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昭和レトロ建築「港の銀水」


港の銀水
秋田市土崎港中央通り

昭和十年(1935)、土崎港町永覚町に銀水食堂として開業、昭和二十三年(1948)、現在地に新築移転。七十年のあいだ港っ子に愛され続け今に至る、レストラン兼割烹。

シンプルながらも、箱看板の店名ロゴの配置と配色など、建物全体が醸し出す、昭和の大衆食堂的レトロ感が良い。この通りには同じく昭和二十年代に建てられた商店が数軒あり、その店名もよく似た箱看板なのは、同じ施工業者の手によるものと思われる。

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昭和二十五年「月刊さきがけ」広告

レトロな手書き文字の「外食券食堂」が眼を惹く。

戦中戦後の配給制度の時代、配給された外食券を持参しなければ、食堂で米の食事が出来なかった。食堂側は客から受け取った食券を、役所でその分の米と引き換えるシステム。昭和二十一年、秋田駅前のバラックに誕生した、今となっては伝説の「食堂まんぷく」も、外食券食堂だった。

昭和二十二年には、外食券食堂、旅館、喫茶店を除き、全国の飲料店の営業が停止されたが、ほとんどの店ではヤミで営業を続けたのはいうまでもない。

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川反に謎の切支丹燈篭

タヌキの慰霊碑がある川反三丁目・秋葉神社境内に、武将茶人・古田織部の創案とされる、織部燈篭、別名・切支丹燈篭がある。

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ステンドグラスが施されたお堂に安置された燈篭に刻まれた子育て観音像は、キリストを抱くマリアにも見えるが……。

保戸野鉄砲町にも同形の灯籠がある。

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北鉄砲町 声体寺境内

墓地の中で場違いのように建つ燈篭には、マントを着けたキリストのようにも見える、長身の地蔵尊が彫られ、燈篭前面を取り巻くように配置された石には、正徳元年(1711)の文字が彫られている。

この燈篭は、松田重雄著『切支丹燈篭の信仰』(恒文社)に名前が載っている(声体寺を青体寺と誤って記録している)ため、その筋では有名な物件で、遠方からの見学者も多いという。

どちらの燈篭も始めからこの場所にあったとは考えにくいが、何時頃どのような経緯で持ち込まれたのか定かではない。

茶の湯の作法は、切支丹の宣教師が行うミサと類似点が多く、織部自身も切支丹だったいう説もある。幕府の弾圧から逃れるために、切支丹たちは茶会という名目で集会を開き、十字架を形どり地蔵観音像や子育て観音に偽装・仮託したキリスト像、またはマリア像を刻んだ燈籠を礼拝した。と、その筋の研究者はいうのだが、織部切支丹説も切支丹燈篭説も、想像の域を出ない仮説であり、その中に一粒の真実が含まれていたとしても、一般の茶人に親しまれた織部燈篭の全てが切支丹と関わりがあるはずもない。伝説としては面白いお話なんだけどね。

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千秋公園 茶室「宣庵」茶室庭園の織部燈篭

上の二点はどちらも棹石部分だけで傘・火袋が失われているが、元々はこんな形であったはず。

これは戦後造られた新しい燈篭。初代藩主・佐竹義宣は千利休の直門であり、古田織部とも親交があったため、ゆかりの織部燈篭を設置したのだろう。

参考リンク
切支丹燈籠について

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川反情緒・風景を読む


「秋田 川反ノ景」大正期の絵葉書

三丁目橋から四丁目橋方向を撮影したものと推定する。

右手の川反には二階建ての料理屋・芸妓置屋が並び、板と丸太の杭で土留めされた川岸には、「何をくよくよ川反柳」と唄われた、川反のシンボル・柳が枝を垂らし川面に影を落としている。

左手は旭川の堀替のときに出た土砂で造られた、松と桜が植えられた土手が続き、川岸には屋根付きの遊覧ボートらしきものが浮かんでいる。川反の酔客も芸妓を乗せて旭川に船を浮かべ川遊びをしたものだろうか。

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料理屋の裏から、川に向かって階段があり、その先に浮かんだ筏に着物姿の女中らしき女性が乗っている。筏は流れないように階段と紐で結ばれているようだ。どうやらこの女性は、魚に麩のようなエサを撒いているようで、川面には波紋が広がっている。
その向こうにも川に降りるための段がいくつか見える。

その昔、旭川は清流で、明治四十年に上水道が通じるまで、その川水は飲用水だったが、水道完成後も、洗濯や洗い物など生活用水として使われたものだろう。

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現在の四丁目川反

川の流れは変わらねど、川反情緒は何処へやら

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川反にタヌキの慰霊碑


秋葉神社 川反三丁目

明治十九年の大火・俵屋火事のあと、那波家が敷地内に建立した秋葉神社(火伏せの神を祀る)に「無智大明神」という文字が刻まれた石碑がある。

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昭和十六年二月二十三日建立
無智大明神
川反三丁目
願主 成見永助
丁内有志一同

「無智大明神」という聞きなれぬ名を常々不可解に思っていたところ、昨年発行された『秋田市史叢書6「屋敷神・講・祠資料」』に、その由来が以下のように記されていた。

町内で小間物屋を営んでいた成見永助の次女キヨは、結婚して娘が生まれたが産後の肥立ちが悪く回復が長引いていた。思いあぐねた永助夫妻は、エジコ(イタコ)に伺いを立てる。エジコのお告げはつぎのような内容だった。

そのむかし、藩制時代このあたり一帯は薮原でキツネやムジナが住んでいたが、明治の御代になり少しずつ家が建ちはじめたため、キツネもムジナも住む場所がなくなり、そのうちのムジナが産後の娘に宿った。だからムジナの棲むところを作ってやれば、ムジナはそちらに移って娘の病気が治る。

両親は早速町内の人々に相談し、秋葉神社の境内に祠を建て、無智(ムジナ)大明神として碑を建立したところ、霊験あらたか、娘の病状もしだいに正常になり、生まれた孫娘も健やかに育った。エジコから教えられた通りに、頂いた御幣を縁の下に入れておいたが、ある日覗いたら御幣はなくなっていたという。

ムジナはアナグマの異名だが、東北地方ではタヌキ類全般を指す。
秋葉神社の石碑は、その昔、川反に住んでいて住み処を追われたタヌキたちを祀る慰霊碑だったのだ。

秋葉神社境内には、もうひとつ謎の遺物があるのだが、それはまたあとで。

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鍋茶屋の名物看板も消えて

川反四丁目の郷土料理店「鍋茶屋」が約四十年の歴史に幕を下ろしたのは今春のこと。


張り紙

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左手の玄関から入った奥には、閉店後間もなく新しい店が入った。カウンターと小上がり席の一階と、二階座敷席の部分はテナント募集の看板がつい最近まで掲示されていたが、ようやく入居者が決まったようで、今は内外装工事中のため、二階の壁に掲げられていた名物看板も取り外されてしまった。

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ありし日の店頭

しょっつる貝焼、やつめ貝焼、どじょう貝焼、きりたんぽ、柳川鍋・・・
暖簾に「本店」とあるが、支店の方は以前、川反三丁目の「郷土料理てのじ」の場所にあった。

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郷土料理てのじ

建物は「鍋茶屋支店」の当時と変らない。設計施工業者が同じらしく本店とよく似た造りで、壁には魚のオブジェが飛び跳ねている。

「鍋茶屋」は気軽に安価に鍋物を中心とした郷土料理を食べられる店として有名で、カウンター席には、県外からの出張サラリーマンらしき人たちが、きりたんぽやしょっつるで一人鍋を楽しむ姿がよくみられたものだ。

またひとつ川反から昭和が消えた。

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蘇る月刊『少年』の時代

光文社が創立六十周年を記念して、先ごろ月刊『少年』昭和三十七年四月号の完全復刻版を限定出版した。ずいぶん前から予約を受け付けていたらしいが、それを知ったのは発売後、もう少し遅れていたら、新品では入手できなかった可能性もある。

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五千五百円という値段は高く感じられるかも知れないが、この時代の月刊少年誌の古書相場は状態にもよるが総じて高く、もしも附録も全て揃ったデットストック品(以前は希にみられたが…)が出たら、とんでもない値段がついてしまうことを考えると決して高価とはいえず、この復刻版もいずれはプレミアムがつく可能性もある。

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約四十数年ぶりに校庭に埋めたタイムカプセルを開けて、小学校低学年の自分と再会するような不思議な感覚と興奮をおぼえながら、歴代の表紙が小さく印刷されボックスを開くと、そこには昭和三十年代が真空保存されていた。

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表紙は長嶋茂雄

まだカラー写真が割高だった時代、印刷会社では製版職人が白黒写真を元に、長年培った勘を頼りに色分解し、カラー写真印刷を作製していた。だからこの当時の印刷物には、職人の手仕事による特有のノスタルジックな味わいがある。

主な連載は以下の通り

鉄人28号 横山光輝
サスケ 白土三平
ストップにいちゃん 関谷ひさし
シルバークロス 藤子不二夫
鉄腕アトム 手塚治虫
少年台風 小沢さとる
ポテト大将 板井れんたろう
ロボット一家 前谷惟光
銀河R3 桑田次郎
ガンキング 堀江卓
代打者 寺田ヒロオ
少年同盟 石森章太郎

少年探偵団/超人ニコラ 江戸川乱歩

この豪華メンバーをみれば、昭和三十七年が『少年』の絶頂期であったこと、復刻版としてこの号が選ばれた理由がわかる。

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別冊附録

昭和三十年代のこと、隣家のお兄さんが高校受験を控え、勉強に集中させるためという口実で、それまで愛読していた漫画雑誌を処分することになり、我家に数年分の月刊『少年』がやってきた日の歓喜は忘れがたい。しかし、その影で、大切にしていた雑誌を取りあげられてしまった隣りのお兄さんの心持ちは、果たしていかほどのものだったかと、今思う。

そのころ、月刊誌を毎月かかさず買ってもらえるのは、一部の裕福な家の子供だけ、フツーの家の子供たちは、貸本屋か友達から借りて回し読みするものだった。ただし一年に一度、正月号だけは毎年買って貰えたのだが、当時は『少年』のほかに『少年画報』『ぼくら』『冒険王』などの月刊漫画誌が、正月号ともなれば、豪華な附録を満載して発行部数を競っていたため、店先にたたずみ、しばらくのあいだ「どれを買おうか……」と悩んだものだ。

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別冊附録と組立て附録がはさまれた状態で、タコ糸で十字に縛られて分厚くふくれ上がり、平積みされた月刊誌は、子供たちの羨望の的として、本屋の店頭で宝物のように光り輝いていた。

月刊『少年』完全復刻版は、そんな時代を生きた世代にとって、三十年代のあの日に帰ることができるタイムトンネルであり、スペシャルなタイムカプセルなのだ。

関連リンク
光文社商品ページ

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金萬のルーツはどこに


「金萬」広告 昭和四十三年

かつては秋田駅前の金萬本舗店頭に、赤地に黒く、このイラストが入った看板が設置されていた。

今こうして見るとなんともインパクトあるキャラだったんだねえ。ロゴを入れるスペースの関係で、金萬が小判形をしているが、もしかして初期はこんな形だったなんてことは無いよね。

「金萬」=「都まんじゅう系」の菓子に、「唐饅頭」(とうまんじゅう)というものがある。前回取りあげた、札幌名物「とうまん」も「唐饅頭」のこと。

東京都港区西麻布、創業明治二十四年の老舗・和泉家の「名代・唐饅頭」は、小麦粉、和三盆糖、蜂蜜、卵黄などを味醂でこね、銅版の上に置いた銅製の丸型に生地を流し込みカステラ風に焼き上げる和洋折衷の饅頭。

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名代・唐饅頭

工程は機械化されおらず、大きさは「都まんじゅう」よりも大きく、中身は黒餡なのだが、その風情は「都まんじゅう系」の菓子と良く似ている。創業当時からあるものだが、現在の「唐饅頭」は三代目が改良したものという。

この「唐饅頭」が「都まんじゅう系」のルーツではないだろうか。それが昭和二十年代後半に小型用の製造機が発明されて全国に広がっていったのかもしれない。

「唐饅頭」という名称から「中国」を連想するが、直接の関係はないらしい。「唐」には目新しい舶来モノという意味があるので、明治の時代に作られた、ちょっと洋風の風味を漂わすハイカラな焼饅頭に「唐饅頭」と名付けたと考えられる。

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関連リンク

森八オリジナル「唐饅頭」
東京都墨田区業平、森八本舗の「唐饅頭」は、小判形で中はミルク餡(白餡と思われる)が入ったもので、形は小判形でお城の焼印がある。

東京浅草「晴月」の唐まんじゅう
こちらも「名代・唐饅頭」と同系統の焼菓子。

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背を伸ばす機械あり升

近現代日本における通販広告の歴史は、コンプレックスの歴史といっても過言ではないほど、人間の劣等感に訴えかける、いわゆるコンプレックス系広告は数多い。

その代表的なものが「伸長器」という背を伸ばす器具。昭和三十年代から四十年代の少年雑誌には、毎号かかさず掲載されていたので見覚えのある方も多いと思う。

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TK式身長機 昭和三十年代

首と足首をベルトで固定して、自力で牽引するイタイタしい姿が悲哀を感じさせる。
他の方法で失敗した岐阜の山田義男君(20才工員)は、これで「5ケ月間に12センチも伸び、しかも座高1センチ脚11センチの割で伸び、スタイルもよくなり悩みも解消して人生に希望が持てるようになった」のだという。そりゃよかったねぇ山田君。

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MM式身長機 昭和四十年 少年サンデー

キャッチコピーと、一寸法師のイラストが効果的な、切実な少年の悩みに対するQ&A形式の広告。

昭和三十七年、医学的に効果のない牽引式の身長機は、不当表示に当たると判断されたこともあってか、広告表現は上記のものから変わっているが、「骨端軟骨の圧縮変形を取り除いて……カイロプラクテック療法をとり入れてあなたの背がグングン伸びる」うんぬんとあるから、上の器具と同じく牽引式に違いない。

背が伸びるばかりではなく、「胃腸病神経衰弱を治し頭脳明快にするように研究された」器具なんだそうだ。なんてスバラシイ発明なんでしょうねぇ。

身長機の歴史を遡るとこんな広告がある。

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昭和三年 朝日新聞

こちらは縦型のようで、バネとハンドルらしき構造がある牽引式の器具。「社会局より有功証を受け出張使用にも応ずる」という。着物の女性は大きくなった男に驚き口を開けて見上げているのだろうか。「大男になる」の見出し活字が眼を惹く。

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大正十一年 文芸春秋

これはひょっとして牽引式身長機の元祖か?
マッチョな大男と、みすぼらしき小男の比較、これぞまさしく誇大広告なり。

「国家的実益の大発明」「公益普及の為、希望者に背の伸びる迄、無料で貸与」と自信満々なのは、売るほうもまだ、その効果を信じて疑わなかった為かも知れない。

少年雑誌の通販広告には「背の高くなるクスリ」なる商品もあったが、その説明書には「毎日牛乳と一緒に服用して下さい」という、悩み多き青少年にとっては非常に残念な注意事項が記されていたという。

体を固定して上下から牽引する身長機は、関節にダメージを与え炎症を起こすとして発売禁止となり、また「背が伸びる」という表現も法規制により禁止され、この手の広告は誌上から姿を消してしまうのだった。

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